世界史と妹
生兵法は大怪我の基。
生半可な気持ちで物事に首を突っ込むと、痛い目を見る。そんな意味の諺だ。
しかし「生兵法」というと、生きた戦法、セオリーにとらわれない戦術、そういう印象を受けてしまう俺がいる。現場の声を「生の声」と言ったりする感覚なのだろうけれど。
仮にそうなるとむしろ、生兵法の方がいいのではないかとさえ思える。現場の声や新鮮なアイデアを積極的に取り入れる戦略は、昨今、あらゆる業界で選択肢のひとつに挙げられていると言ってもよいだろう。
なのだが、意味としては生半可の「生」であり、中途半端であることを意味するものである。そこを未完成、未成熟、未経験と言い換えたとして、それらの持つ「新しさ」は成功すればこそ得るものは大きいが、失敗した時の損失も得てして大きい。
生兵法は大怪我の基でもあるが、大成功の素にもなりうる。
この問題の意味するところはつまり、確率の問題ではないだろうか。生兵法を使った際の成功確率と、そうでない場合の成功確率と、どちらが高いか。また判断材料としては、成功確率と同じくらい「失敗する確率」の大きさも重要だろう。
……なんて。
俺はこの時、勘違いをしていた。問題は成功するかどうかではなかった。
その諺には「生兵法は知らぬに劣る」という読み替えがあることを、俺は知らなかったのだ。
◇ ◆ ◇
「お? なに、勉強?」
「邪魔しないで」
てもうと(妹の手元)を覗き込んでみたところ、世界史の宿題のようだ。
今は夏休み。課題が出ている。俺たち兄妹は夏休みの課題は早めに終わらせるか、或いは卒業するまで終ぞ出さないか、極端なタイプなのだ。今年はふたりともやる方に針は傾いている。
ここはひとつ兄として、かっこよく勉強を教えてやろうかなどと考えつつ、横から勝手に読み上げてみる。
「なになに、『以下の文章の間違っている箇所に下線を引き、正しい記述に直せ』か」
「うん」
問題文は以下のようなものだった。
『(1)ローマの元老院がカエサルにアウグストゥスの称号を贈り、元首制が開始された』
『(2)カール=マルクスの子ピピンがローマ教皇の支持を得て、フランク嘔吐なりカロリング朝が成立した』
この設問の問いは五つあるが、今は以下省略。
時代はバラバラだが、この設問は西洋史からピックアップしたものらしい。答案と回答は用紙が分かれておらず、問題文にそのまま線を引くなり答えをかくなりする仕様らしい。
「答え書いてないじゃん」
「わかんないもん」
「(1)はともかく、(2)は分かるだろ。何だよ『フランク嘔吐なり』って」
実際には変換ミスなのだろうが、思い切って線を引いちゃうものありだろう。俺なら確実にそうする。しかし妹は違った。
「でもでも、吐いたかもしれないじゃん。フランクさんが『カールが教皇の援助を取り付けたぞ! こうなりゃ俺も一発芸やるか! フランク嘔吐なり、おえっ』ってやったかもしれないじゃない」
「興醒めするだろそんなの。芸ではない」
「フランク嘔吐なり☆おえっ!」
「可愛くしてもダメだから」
「お酒の席って怖い」
「酒のせいというより、フランク本人が怖いよ」
そういうのはトイレでやらないと嫌われるぞ、フランクさん。
「変換ミスはともかく、それ『カール=マルクス』は違うだろう」
「そうなの?」
確かマルクスは経済学者だったはず。
「マルちゃんじゃないなら、誰なの?」
「勝手に愛称つけるな。カップラーメンみたいになってるじゃねーか」
そして食べたくなっちゃったじゃねーか。
後でスーパーに行こうと軽く決心しつつ、俺は思い当たる人物を消去法で考えてみた。カールは合ってそうだが、その後だ。カール=ルイス? カレーライス?
そうだ、カレーうどんにしよう。そんな空腹気味な俺の思考を遮ったのは妹だった。
「じゃあもう、『ピピンのお父さん』でいっか」
「おい、それじゃあこの文章は『ピピンのお父さんの子、ピピンがローマ教皇の支持を得て』ってことになるのか? お父さん要らなくないか?」
「お父さんが主人公なのにタイトルは息子の名前、と考えれば或いは」
「天才バ○ボンかよ」
「ローマ教皇からの支持も、きっとお父さんの暗躍ゆえだよ。『わしがピピンのパパなのだ』とか言って」
しかし、敢えて父親の名前を出す理由がわからないのは事実だ。それこそカール=マルクスやバ○ボンのパパくらいの、よほど有名な人物ならまだわかるが。
「だからここの答えはこうだよ。『これでいいのだ』ってね」
マルクスじゃないって言ってんじゃん。
後で調べたのだが、この問題の解答としては『カール=マルテルの子ピピンがローマ教皇の支持を得て、フランク王となりカロリング朝が成立した』となるそうだ。
もう少し説明すると、カール=マルテルはフランク王国の宮宰で、トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム教徒の侵攻を食い止め、国中から絶大な支持を受けた人物である。以降、ピピンはじめこの一家は、みんなしてローマ教皇からよくしてもらっていたらしい。
「(2)はこんなもんかな。兄ちゃん、(1)はわかる?」
その解答に思うところはあるが、わかるかと訊かれてその問題を読んでみる。
『(1)ローマの元老院がカエサルにアウグストゥスの称号を贈り、元首制が開始された』
わかりっこない。
教科書で調べればいいのだろうけれど、それでは見せ場もない。どうにか推理で乗り切るか。
「よくあるパターンとしては、ここんとこ、この『カエサル』ってのが、『カエサル』ではなく他の誰か、っていうやつだよな」
「うん。カエサルに成りすましていたのは誰か、ってことだね」
「そういうことじゃないけども」
「ローマの元老院をも騙すくらいだから、きっと変装の天才なんだよ」
「ル○ンかよ」
「ル○ンだね」
妹は本当に『ローマの元老院がル○ンにアウグストゥスの称号を贈り、元首制が開始された』と書き直している。マイナス何世だよ。
三世さんは、メガネをかけた小さな探偵とたまに対決しているが、一世さんは世界的に有名なあの探偵と邂逅したことがあるらしい。昔からある組み合わせなのだろうか、怪盗と刑事、ときどき探偵。
「ところでカエサルと言えばあれだよね、『ブルータス、お前もか』ってね」
「あれか」
「私てっきり、コーヒーの話かと思ってたよ。『俺、カプチーノ。ブルータス、お前モカ?』って」
「大学生か」
もしくはスタバか。
「ブルータス、銭形か」
「とっつあん!?」
こちらも後で調べたのだが、正答は『ローマの元老院がオクタヴィアヌスにアウグストゥスの称号を贈り、元首制が開始された』ということらしい。
その後も彼女の暴走は続いた。
『(3)ウェストファリア条約により七年戦争は終結し、ヨーロッパの国際社会が形成された』
「これはたぶん、条約か年数かのどっちかが間違ってるはずだ」
「ふーん。ところでその条約とやらで戦争は終わるの?」
「は?」
「まるで条約が戦争を終わらせて、条約が社会を作ったみたいになってるじゃない。条約ってなに? 正義のヒーローか何か? 本当にヒーローなら、戦争が起きる前に止めるべきだよ。なにが条約だ、なにが正義だ!」
「……」
憤慨した様子の妹の解答は『そうなる前に戦争を止めるべきだった』となった。その通りかもしれないが、身も蓋もない。中身オンリーだ。ちなみに正答は「七年戦争」→「三〇年戦争」である。
続いての問題はこちら。
『(4)パリ民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が勃発』
「これは間違ってないんじゃないかな。確かこの通りだったと思う」
「なんで? 兄ちゃんはバスティーユ牢獄が襲撃されて、フランス革命が起こる瞬間をその目で見たの?」
「は?」
「メディアリテラシーっていうの、こういうの。目の前の情報を鵜呑みにしちゃいけないんだよ?」
「……」
自分ってすごい天才って顔の妹の解答は『パリ民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が勃発したの本当に?』となった。
いや、いい心掛けだとは思うけど。しかし正答は「修正なし」だろう。
『(5)ドイツで国民ファシスト党党首ヒトラーが首相となる』
「あ、この人知ってる。ナチスの人でしょ」
「これは知ってるか」
知っていると言ったが、妹は『ドイツで国民ファシスト党党首ヒトラーがナチスとなる』と書いちゃっている。どうやら内容は理解していなかったらしい。お分かりかと思うが、正答は「国民ファシスト党」→「ナチス」である。ちゃんと修正させた。
二〇世紀の戦争についてはナチス含め、現代に禍根を残しているだけに、しっかり知っておいてほしいものである。真珠湾に「観光」に行くのは如何なものか。
ともかく、そんなこんなでこの設問の正答率は二割となった。バッターとしてのレギュラー入りは厳しい感じである。この日はそんなことを延々と続け、結局は世界史の宿題がすべて埋まった。
……遊んだだけじゃないか。
◇ ◆ ◇
後日。
夏休み明けから一週間が過ぎた頃、俺は社会科の先生から呼び出しを受けた。それも自分のクラスの担当ではない北河内先生から。
「椎名。お前、あんまりテキトーなこと言うんじゃないよ」
先生は俺が来るなりそう言った。
はて何の話だろう。
この時、俺は既に妹の世界史の宿題のことなど忘れていた。思い当たることはないかと記憶を探ってみてようやく、もしかしてあれのことかなと思った。
いや……本当にあの答案を出したわけがあるまい。いくらなんでも。そんなまさか。まさかそんな。
「さ、さぁ? なんのことだか」
「あんな答え書かれるくらいなら、白紙の方がマシだ」
どうやらそのまさかのようだった。
「この答案はどういうことかと本人に訊いてみたら、『兄ちゃんと一緒にやったの』って、自慢げな顔で言われたよ。お前、信頼されてるんだな」
「あいつ……」
俺のいないところではそんなこと言ってるのか。なんか照れるなぁ。今日からもうちょっと優しくしてやろうかなぁ。
「ただな椎名。厄介なことに、妹さんはふざけているんじゃなく、本気であれが正解だと思っているらしい」
「…………は」
信じられない。開いた口が塞がらないとはこの事だ。慈しみが憐れみに変わった気がした。
「白紙の方がマシだと言ったが、間違って教えられるくらいなら教えてくれない方が、教師としてはありがたいよ」
「……」
そうですよねー。俺もそう思うのだが、言えるわけがなかった。
「だから、お前にこの宿題を出してやる。しっかり解け。いいな? そして今度からは妹さんに正しく教えてやれ。いいな?」
「…………は!?」
それからというもの、俺は泣くような思いで宿題に追われた。
妹の宿題も解けないくせに、地の文の俺がやたらと詳しかったのはそういうことだ。先にも言ったが、後で調べたのである。
◇ ◆ ◇
生兵法は知らぬに劣る。
生半可な気持ちで物事に首を突っ込むべきではなかった。
ロクに知りもしないくせにいいとこ見せようなんて思わずに、教科書を使えばよかった。
こうして少し賢くなった俺は、もう二度と妹に勉強なぞ教えてやるものかと思った。思ったが同時に、意外と信頼されている事実がけっこう嬉しかったりして……そんなわけでこの宿題は、いつもより少しがんばれた気がする。
―― 完 ――