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Tale of Paths  作者: 橘颯
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第四百四十一話~第六百五十三話

父:

熱り立つ私兵を退かせ、刃の前に立つ。

国領に居を構える以上、事を荒立てれば没落の憂目に遭う。

然りとて、其れを案じた訳では無い。

多分、自分は疲れ始めていた。

娘の顔を持ち乍ら、月日を経ても成長せぬ姿に。

其れでも微笑まれれば手放せず。

此れは娘の幻影に縋った滑稽の罰だ。


武:

切な願いが天に届いたか、兵が引いた時には心底安堵した。

戦いは騎士の本能。

しかし、其処に悦びを見出す身が厭わしい。

そんな内心を誤魔化し、王子様と御姫様を御迎えに上がりましたっすと芝居掛かった口上を述べる。

莫迦ですかと唇だけで返して来たワズさんに、少し慰められた。


憂:

此の一刻で、領主は酷く老け込んだ様だった。

落ち窪んだ眼が先ず床上を徨い、昏く色を沈ませた布地に息を呑む。

次いで流れた視線が寝台に止まると、驚嘆が面に走った。

曇った感謝の聲にウルは頭を振る。

「彼女を愛して下さい。娘として、変わらず」

静かな述懐が四者の間を埋めた。


罰:

唐突な拉致。首の枷。痛む指。

私に纏る事ならば、責めずにおきましょう。

でも、赦しでは無いのです。

『自分』の無いクノは最早、独りでは生きられません。

ならばせめて、此れからも優しい時を。

「贖罪として他に無いと思いますが」

言葉を継いだワズさんに、領主は是を返しました。


汲:

神は其の手を伸べはしない。

信じる者が罪に喘ぐ時。

或いは今際の時。

細やかな慰めを寄越すだけだ。

最期の時には、懺悔にて救済されるのだと云う。

其れを詐術と呼ぶ者とて在るだろう。

だがしかし。

「如何か許し給え」

ウルが呟く真摯な祈り。

其れは叶えられても良いだろうと願った。


験:

生まれたての陽が照らす邸の前。

手を振る少女が居ました。

もう一方の手は『父様』と結び。

翳りなど微塵も無い、無垢な笑顔を浮かべて。

私も振り返します。

「良かったね」

同じく手を振るワズさんに、ええと応えました。

再会出来た事。生きている事。

其れは奇跡でもあるのだから。


模:

喉を一巡りする様に、薄らと乱れたウルの毛並み。

其処に在った物を思い返すと、掛けられた言葉も又甦った。

願望を先に叶えた男だからこその言葉に、自分は何と答えたか。

「大丈夫ですか」

気遣う様に隠しそびれた顳へ注がれる眼差しは、追憶の其れとは違う色。

本物以外、必要ない。


役:

『来た』時は独り。

けれども、王都へと戻るのは三人。

『騎士は大概、助けに来るもんでしょう』

ナシムさんが馬の手綱を引き乍ら、そう嘯きます。

『ま、貧乏籤とも云うんすけどね。そう云う役を振られてるんで』

誰に、でしょうか。

浅黒い顔を綻ばせたきり、答えてくれませんでした。


接:

「来て下さって有難う」

耳を掠めた淡い囁きに、隣で揺れるウルの腕へと、僅かに手を寄せる。

触れ合う甲から伝った熱に、微か柔毛が戦慄いた。

ナシムの手前故か、握り合わされる事は無い。

だが。

二つの手は触れては離れ、離れては触れを繰り返す。

戯れに交わす、幼い口付けの様に。


線:

砂丘の陰で朦朧と光る塊を見付けました。

砂上を掠めて漂う、一見すると砂塊に見える其れは、砂海月。

夜ならば星が瞬く様にも見えるそう。

しかし、張り付かれると水分を取られてしまうと、ナシムさんは云います。

「何でも、遠目で見ている内は好い」

ワズさんの聲が耳に染みました。


情:

世界は優しく易しい。

何故なら物語だからさ、と誰かが脳裏で囁く。

そう思えば、何が起ろうと受け入れられるのだと。

しかし。

行きで二晩。帰りで三晩。

当然の如く、引き払われていた宿の部屋。

其れでも荷物は放り出さずに居てくれた宿の親父さんに向かい、ウル共々深く頭を下げた。


箱:

二人だけで一杯の世界。

建付の悪い扉を閉ざした途端、頭を過ぎった其の言葉。

「窮屈でも我慢しないとね」

思わず鳴った喉を、不満と取ったのでしょう。

宥めの聲を投げるワズさんに、慌てて首を振ります。

此の宿部屋は、クノと居た彼処には及ばないけれど。

貴方とならば、丁度好い。


惟:

信じていたのかい。

投げ掛けた問いに、珍しく間が生じた。

瞬間、眸に呆けた様な色を過ぎらせたウル。

厭に緩々と瞬く態を眺め、表情が読める事に面白味を感じた。

『本』ではこうは行かない。

「考えもしませんでした」

応えは気負い無く、淡々と坦々と、地に沿い行く川の如く流れた。


癒:

背に感じるのは、しみじみとした穏かな温度と振動。

命が紡ぐ音は何処迄も優しく。

指先から蕩ける様な眠気を、ワズさんも感じているのでしょう。

「寝たかい」

其の聲も何処か温く。

もう良いかい。

未だですよ。

背中越しに重ねる遣取が間延びして行きます。

さて、先に眠ったのは何方?


麾:

其れは歌だった。

羽が空を切り。

若葉が解け。

水が地を割って。

土が押し固められ。

髭が戦ぎ。

種が弾け。

蹄が走る。

森が抱く其等全ての音を唇に乗せ、彼女は歌っていた。

腕に抱く赤子に向けて。

其れは『人』の歌では無かったけれども。

確かに紡がれた揺籃歌。

今尚止まず響いている。


定:

幼子は老婆に問うた。

『魔女』は善と悪、何方かと。

夜の枕元、昔語りに紡がれる姿。

子には其の姿が一つとして定まらぬ様に思われた。

其れは見方次第さねと、老婆は年月を形として刻む眦を緩めて笑う。

皆、生きるようにしか生きていない。

人も『魔女』も。

他人が決める物で無しと。


睡:

頬を転がり落ちる雫を乾いた指が掬う。

旅路に荒れて強[こわ]い膚に其れが染みると、後追う様に眸が開いた。

懐かしい人を見たと、眠りの名残を引き摺る聲が云う。

捉まえておいでと、涙を吸った手が瞼を撫でる。

万物に均しく伸べられし癒したる眠りの腕に、二人は再び身を投じた。


源:

行くも戻るも、心一つ。

夢とも現とも付かぬ聲が、明日を手探る。

定められし約定は、一つ所に留まらぬ事。

此儘、白布の繭に包まっていた所で、溶け混じり合う筈も無く。

眠りの浅瀬で夢の儘に旅路をなぞると、互いに脳裏に描く光景は、差異こそあれど森。

帰ろうか。

何方共に囁いた。


赴:

丈夫だけが取柄の服に腕を通し。

草臥た革靴に足を詰め込んで。

目指すは次の大陸。

其処は始まりの地でもある。

僕の。そしてウルの。

良いかと伺う眼差しの先で、金緑の双眸が聢りと頷く。

「共に行きましょうね」

其の腕に抱えられた荷から、歌えなかった歌がしゃらしゃらと聞こえた。


闇:

王都を離れると、冥闇が満ちていました。

人が作る灯りに汚される事の無い純粋な夜闇。

隊商の群れだけが、砂海に儚い光の筋を描いています。

今にも黒に飲まれそうな小さな灯。

「何故だろうね。灯りが在る方が寂しいのは」

夜に喰われるワズさんの聲を引き止めるべく、腕を伸べます。



因:

荷を整え、宿を発つ寸前。

矢張りと云うべきか、ナシムが姿を現した。

昵懇の隊商へ口添えしたと云う彼に、ウルが感謝を述べる。

手回しの良さを今更問質しもしない。

目交ぜのみで真意は秘される。

真実は知った者を幸福にするとは限らない。

だから、其の軛から逃れる事のみを願った。


遣:

四角く切り取られた白い空。

其の上を、蒼い鷹が翼を広げて悠々と飛んでいます。

「蒼い鷹は『魔女』の遣いとも云うね」

城塞に掲げられている旗を見上げ、ワズさんが諳んじました。

そう云えば。城門迄見送ってくれたナシムさん。

其の鎧にも、王旗と同じ意匠が刻まれていたのでした。


胎:

水場を繋いで蛇行する街道は、最後に海へ至る。

隣の大陸には海路を取り、中ツ海を航って行くのが常だからだ。

「お還りよと招く聲聞こえ、ですっけ」

ウルが古詩の一節を口遊む。

外ツ海では消息の絶える船が多い。

其れを母に還ると詠む詩。

だが、思う。

未だ胎の内が正しいのではと。


妄:

砂丘の稜線が遊色を帯びる日は。

『月から風が吹くのさ』

隊商の頭がそう教えてくれました。

砂が一粒でも目に入ると愛しいモノが見え、傍に往こうとして皆果ててしまうとも。

「憑きの風と、云う訳だね」

ワズさんも頭巾を深く被り、布屋に篭る人々に加わります。

ちらとも外を見ずに。


疏:

蠢く影は白光に喰われる様に欠けて行く。

隊商の流れが砂海の彼方へ消え去ると、漸く人心地付いた。

そんな自分に苦笑する。

人目が無くなった途端、姿を変えたいと云い出したウルも同じなのだろうか。

「此の姿なら飲食を必要としませんし」

心裏は知り得ぬ儘、久方の重みを腕に抱く。


耐:

冬は暫しの別れを告げようとしていました。

先触れとして、宙を漂う薄紅色の毛玉。

其れは春告げの花。

風に漂い乍ら受精すると、綿状の花は枯れて飛べなくなるのだと。

種は砂に紛れ、雨を待ちます。

幾年も。百年でも。

「人には無理な事だね」

ワズさんの聲には憧憬が滲んでいました。


濯:

砂上に伸びる二筋の影。

二本の竿に縄が掛け渡され、陽を透かした布が白砂を色付けている。

傍らには、背中に木桶を背負った男。

洗濯屋だと名乗る彼は、総ゆる洗物を請け負う旅をしていると云う。

「如何です」

密やかなウルの勧めに首を振る。

少し位汚れていた方が良い事もあるのさ。


敗:

お腹に暖かな飲み物。

そして動物の数を数えれば、其の内眠りの淵へ。

「行ける筈なのだけれど」

諦め顔のワズさんに、お役に立つ時だと姿を変えます。

抱き締める腕。子守唄代わりの鼓動。

後は枕になる様な柔らかい物。

そう、豊かな胸――を付けたら、酷く険しい顔で窘められました。


針:

此の頃、羅針儀が定まらない。

術具売りに見せると、事も無げに術が切れたのだと返された。

術核を変える位なら新しい物を買った方が好いのだが。

「良かったですね」

舗主の勧めを断り、修繕を済ませた羅針儀をウルの聲が撫でる。

此れは僕が僕である為の指針。

連れて行くのが当然だ。


便:

気儘に吹かれる布地に似て、群れを成して空を渡る風聞達。

其の端をワズさんが掴もうとした途端、綾織はばらりと解けて千散りになってしまいました。

残ったのは一匹だけ。

けれども、大切な一匹、だったようで。

「信の受取人が見付かったみたいだ」

其の一言で回り道が決まりました。


彼:

若し叶うなら『ル・コイ』で落ち合えるだろうか。

風聞が伝えた『魔女の道』への途次。

「どんな方なのでしょうね」

頁の間に挟んだ花蝶を導に、ウルが思いを馳せる。

僕等の風聞に答える辺り、少なくとも心に面影は残っているのだろう。

否。

そう思いたいのだと気付いて、眼を伏せた。


倦:

ワズさんが語るお話は大体片手で収まる位。

次をせがまれても、今宵は此処迄とやおら断ってしまいます。

「後もう少しと思う内に止めるのが好いのさ」

報酬を仕舞いがてら、そっと教えてくれました。

多過ぎるのは良く無いのだと。

「満ちれば倦む」

其の聲は何故か望んでいる様でした。


難:

普通の男。

そう感じたのは、茶卓の向かいに座す彼が纏う、此の大陸特有の装い故かも知れない。

旅人だと聞いていたが、土地の服が躯に馴染んでいる。

指摘に男は頭を振って、旅は止めたのだと語った。

物言いたげに震えるウルを他所に、信を差し出す。

僕等は遣いに過ぎないのだから。


存:

愛しげに信を胸に抱いて、元旅人さんが席を立ちます。

『彼女』の事を聞く事も無く。

ワズさんも又何も言わず、其の背を見送りました。

此れから二人は如何なるのでしょう。

「如何にでもなるさ」

両手に収まる杯に聲が滴ります。

「生きているのだから」

漣立つ水面が表情を隠しました。


唆:

莫迦な男だと、棄てられているとばかり思っていた。

所詮は閨の約束事。

一笑に付して終いだとも。

所々逡巡の後が見られる信を撫で、瞳を閉じる。

瞼の裏に宿る薄暗がりは、あの街の空に似て。

其処に浮かぶ面影に唇が緩む。

君には此処の空の方が似合うと云ったら来てくれるだろうか。


応:

届く筈の無い信が届いちまったらしい。

封を切ると、仄かに潮の匂いがする。

――男の信を額面通り受け止めるには、歳も経験も積み過ぎた。

でもまあ。

封筒から零れた砂を掻き寄せ乍ら、息を吐く。

生きるだけなら如何にでもなるさね。

素っ気無く吐いた筈の聲は、思いの外弾んでいた。


迂:

ざ、ざ、と。

繰り返される潮騒が止んだ。

固唾を飲む群衆の眼前で紺青の布に鋏を入れた様に海が割れ、砂地が底より迫り上がって来る。

海に敷かれた砂の道。

現れているのは三刻程度。

「行きますか」

ウルの囁きに、背を向けた。

駆ければ、行けない事は無い。

けれど、急ぐ旅でも無い。


郷:

旅とは、生きる場所を探す事。

元旅人さんが零した言葉が私の中で谺しています。

其れは故郷だったり、誰かに求められてだったり。

何れにせよ足を憇める場所を探して、人は旅をするのだと。

「故郷、か」

風に乗る乾いた声音。

『ゼア』のでは無く、ワズさんの故郷は何処なのでしょう。


家:

海鳥が頭上で鳴き交わしている。

昔に聞いたのと似た聲で。

皆は今、如何しているのだろう。

潮騒混じりに懐かしい聲が鼓膜の奥で塒を巻く。

家の事は兄達が居るから問題無い。

嫁いだ姉の子には兄弟が出来ただろうか。

「何か見えましたか」

ウルに昔から今へ引き戻され、曖昧に笑んだ。


塒:

澄み切った海は空と融け合い、何処からが境かを見失わせます。

群れなす波頭も、千切れた雲のよう。

船は空の上をゆらゆらと飛んで行くかに見えました。

「船の名の由来が解ったね」

ワズさんが欠伸混じりに聲を綴ります。

ハマック。

其れは釣床を示す言葉。

通りで、眠気を誘う訳です


逆:

港に着く迄は行き場の無い船上の事。

自然、他の乗客との会話が娯楽になる。

『やっと故郷に帰れますよ』

云って、相好を崩すのは商人らしき男。

相槌を返し乍ら、胸裡で零す。

又、故郷だ。

此処に来て、俄かに耳に残る言葉。

「ワズさんも」

ウルが言い淀んだ言葉の先は追わずにおいた。


眺:

とぉん、とぉんと鳴き続ける海。

心臓の音と似ている様で、其れでも重なり切らない音色。

何時もより不安定な鼓動を刻むワズさんは、水平線を見据えた儘。

「向こうに着いたら」

薄く開いた唇から、私に向けた物では無い声が溢れます。

彼方に横たわる影に、何を見ているのでしょうか。


寓:

耳を塞ぎ、此処迄来ました。

眸を逸らし、歩んで来ました。

口を噤み、拒んで来ました。

差し伸べられた手から背を向けました。

其れでも生きてゆけると嘯きました。

「其れで、其の子は如何したんです」

物語の先を促すウルに、簡単な結末を教える。

だから、風は時折悲しげに啼くのさ。


旨:

巡り、散り、再び集っては模様を描く様子は、宛ら万華鏡。

しかし。

「あそこの紅いのが一番美味しいんだ」

色鮮やかな魚達を船上から見下ろしての一声に、二の句が継げません。

「港に着いたら食べようか」

揚げても焼いても良いと聲を弾ませたワズさんに、如何にか相槌を返しました。


波:

桟橋を渡る誰も、歩みが覚束ない。

恐らく、彼らも未だ足元が揺れているのだろう。

足裏を擽る水の感触を引き摺って、如何にか船を下りた。

「波が躯に残ると、こうなるのですね」

ウルの聲も何処か揺らいでいる。

一歩を踏み出す毎に鼓膜を擽る水音。

暫くは躯から波が抜けそうも無い。


勝:

先客の男性と、堤防で肩を並べて糸を垂らす事暫し。

陽が傾く頃になって、二人は漸く竿を上げました。

釣果を尋ねる男性にワズさんが黙って首を振ると、彼は満足気に去って行きます。

しかし。

「よし勝った」

影でにんまりと笑って、小さく拳を握りました。

案外、負けず嫌いの様です。


劇:

『オデオンの船馬車が来たよ』

子供達が口々にそう囃し立てては、駆けて行く。

「オデオン?」

上がる語尾には答えずに、ウルの革鞄を胸に抱え込んだ。

語るより、観た方が早い。

幾許かの郷愁を言い訳に変えて、子供達の後を追った。

広場の方からは、もう早、人々の歓声が流れて来る。


捜:

帆船を模した舞台の上。

繰り広げられるのは良く在る恋物語。

貴方の呼声が導いたと語る役者さんに、別の姿が重なります。

私が此処に居るのも、見付けてくれたから。

「違うよ」

告げた言葉をワズさんは覆します。

「ウルが、別の誰でも無い僕を見付けてくれたんだ」

少しの躊躇も無く。


引:

陸船とも称される小劇場。

其の甲板や帆柱で繰り広げられる演劇と演奏は、眩い幻想の様。

ぽかりと口を開けて高台から見下ろす少年に、何時かの僕が重なる。

「一緒に行けたら楽しそうですね」

聲を弾ませるウルに意地悪を云い掛けて、止めた。

嘗てと同じ淋しさを与えてしまいそうで。


瞞:

広場に散った銀の星、金の星。

儚げな花々に絡む七色のリボン。

人々の足元で拉げる其等は、つい先程迄は本物だったのに。

今は只の薄紙細工へと変わってしまいました。

術、だったのでしょうか。

「人が本物にしていたのさ」

ワズさんは微笑って星を一つ拯い、頁の間に挟んでくれました。


構:

がらんと開けた広場で、オデオンが黒い影に成る。

気付けば、あの子供も帰ったらしい。

誰か迎えに来ただろうか。

其れとも独りで帰っただろうか。

誰もが無口な影になる此の時刻。

今も昔も、誰も僕を呼びに来ないけれど。

「宿に戻りましょうか」

直ぐ傍で響くウルの聲に、応と返した。


帰:

宙へと消えた楽器の音や人の聲。

後に残されたのは少し寂しい静寂。

……いえ、違いました。

足元を浸す様に、微かな音が辻々から密やかに流れて来ます。

耳を澄ましていたワズさんが呟きました。

「皆から抜けた波が、海に還っているみたいだ」

見得ない波が石畳の上を走って行きます。


夜:

一寸した山の頂辺に辿り着いた頃には、陽が地平に沈もうとしていた。

翳す腕にとろりと、黄身の様に円やかな光が絡む。

長い坂道の下は既に陰り、夜が下から満ちて来るかに見える。

「海に沈んでいるみたいですね」

ウルの聲に振り返れば街も又紺青の底。

暖かな橙星が瞬き始めている。


春:

目覚めた時、麓は純白に染まっていました。

もう随分と暖かなのに。

其れより何時雪が降ったのでしょう。

「あれは冷たくないよ」

疑問符を浮かべる私にワズさんは笑って、疎らに草の覗く坂を滑り降りました。

巻き上がる風に、舞い踊る白と甘酸っぱい香り。

成程、花の目覚めでしたか。


卜:

先ず必要なのは棒きれ一本。

旅人は何処を通って行くのも自由だ。

目的地に至る道は其れこそ無数にあって、正解等は無い。

けれど。

腕の力を抜くと、かろんと棒が倒れる。

「右と云う事は東ですね」

ウルが告げた次の道に足を向ける。

自由過ぎても心が迷ってしまう。

そんな時の運任せ。


眷:

男性の険しい目元。

女性の柔らかな顎の線。

稚い笑窪が失せても、痩せた頬には名残があります。

水鏡に映る朦朧と定まらない顔。

次々に移ろい乍ら、其れでも似通った面差し。

私の上を搖蕩うワズさんに似た彼等に、一つ頷き掛けます。

逢いに行くのも良いでしょう。

未だ心に想うのなら。


必:

叢に蠢く小さな影。

息を潜めて忍び寄ると、真ん丸い瞳が緑の合間に覗いた。

しぃと唇に当てられた指に、緩慢と其の場を退く。

「残念でしたね」

『食事』の当てが外れた僕を慰めるウル。

笑いに震える聲に肩を竦める。

まあ良いさ。

あの子は友人が探しに来るのを疑っていないのだから。


棺:

其の舗には沢山の箱が在りました。

大人が入る程の物から、掌程の物迄。

そして何れも扉の様な装飾が施されて、内側にだけノブが付けられています。

まるで『中から』開ける為みたいに。

「此れは天国への扉だからね」

ワズさんは微笑んで、小鳥が入る位の箱を一つ買い求めたのでした。


篤:

七人兄弟の末だと、兎角忘れられがちだった。

例えば、オデオン見物の帰り。

人混に埋もれた兄弟達は呆気無く僕を見失い、家に着いても気付かなかった。

そう、暫くは両親さえも。

「ワズさん?」

ふと零れた溜息にウルの聲が被さり、薄く笑う。

僕の方こそ、此の聲を長らく望んでいた。


嗟:

村の片隅で聞こえた罵声。

其の先には友人の輪から外れて、洋筆を走らせている子が居ました。

周りで冷笑う聲も気にしないで黙々と。

「何方だろう」

ワズさんは連んで去る子供達を眇目で見送り、聲を落とします。

「望んでか望まずかでは独りの重さは違う」

そう、自分の足元に向けて。


根:

雨上がりの大地に群れ成す半透明の茸達。

爪先で触れるだけでふしゅんと潰れて、形跡も無くなる。

だが、少し目を離せば元通り。

「ああ、地面の下に隠れるだけなのですね」

何処か安堵した様なウルに、一つ首肯き掛ける。

そう、本当に大切な部分は何時だって隠れて見得無い。

何でも。



栖:

静かに今日の幕が下ろされ始め、酒場の舗先に灯が燈ります。

路地に広がる、香草を浸けた燈油の甘い香り。

他の土地では無かった、夜の匂い。

「気休めの魔除けでも、悪くは無いね」

すんと鼻を鳴らすワズさんに同意を返します。

此処は故郷では無いけれど。

懐かしさが胸に満ちました。



疼:

躯の芯に蟠る鈍痛。

久方の薬で散らせない痛みに身を丸める。

「苦しいですか」

気遣わしげな口調と、痛みの源泉を撫でる熱に緩く首を降る。

此れは生きている証。

僕では無い自分の。

ぞろりと這出た感覚に呻くと、身を抱くウルの腕が強くなった。

僕を引き止める様に。



謬:

陽気が良くなった為か、風聞も良く飛んで来ます。

宛ての無い物。

迷った物。

そして、間違って届く物も。

度々届く為、見慣れてしまった名前。

「又、人違いさ」

ワズさんは頻りに纏わり付く花蝶を振り切り、歩みを続けます。

其の後を花蝶は毎度の様に追って来ました。

枯れて墜ちる迄。



周:

少しずつ、見慣れた土地へと近付いて行く。

未だ未知の大地に立ち乍ら、其の事実に肩が震えた。

既知に向かう道を外れた所で、細やかな抵抗に過ぎない。

僕達は今、過去に向かって歩いている。

「一巡りになるのですね」

沁々としたウルの述懐に、一巡の先は如何なるのかと独り言ちた。



幄:

最早必要無いと云うのに、ワズさんは砂避けの頭巾を深く被った儘。

「旅の間には、色々してきたからね」

冗談めかして語られるは、大小様々な悪行。

何れも有りそうでいて、だからこそ訝し過ぎます。

本当は何から隠れる為なのでしょう。

問いはドレープの上を滑り落ちるばかりでした。



戚:

雑踏の中、良く識った名が耳朶を掠めた。

真逆を浮かべるよりも先に、視覚が現実を知らせる。

目深に下ろした帷から覗く外界に、見間違う筈の無い懐かしい面差しが佇む。

「お知り合い、ですか」

ウルの訊ねに、口を突いて出たのは解では無く。

○○さん。

唇に乗せた聲は不様に震えた。



名:

と或る地方では、長い名を付けるのが因習なのだそうです。

悪い物に魅入られない為に。

『魔女』が避ける様に。

「無意味だったけれど」

力無い聲は、真実の一端を含んでいます。

風聞にも刻まれた其の名。

しかし、私にとってワズさんは『ワズ』であり、『貴方』に変わりは無いのです。



兄:

宿に入って幾許もしない内の呼出しに、ウルを残して室を出る。

壁に凭れて立つ男は予想通りだ。

掲げられた手も覚悟していた為、唯目を瞑る。

だが、甘んじて受ける心算の痛みは訪れなかった。

『此の莫迦が』

頭頂に置かれた手が、ゆるりと髪を混ぜる。

昔と寸分違わない兄の手だった。



羨:

扉の向こうに消える背を見送り、緩慢と数を三つ数えました。

「心配は要らないよ」

そう出際に告げられた言葉を疑う訳では無いのです。

其れでも。

そろりと隙間から伺う外。

見えた光景に、再び寝台へと戻りました。

何処か含羞んだワズさん。

今迄見た事の無い表情が脳裏を離れません。



甘:

短く切った髪に繰り返し与えられる、労りを含んだ掌。

今更如何して逃げられようか。

今迄ずっと逃げて来たのだから。

其れでも。

『帰って来い』

注がれる言葉に、帰れないと返す聲が苦い。

呪を受けているんだ、兄さん。

俯向いて、そうか、とだけ返してくれたのが嬉しくて哀しかった。



損:

言葉を交わす。

そうすれば、心も又通じるのだと思っていました。

例え姿が同じで無くとも。

人間か人間では無いかなどは些細な事だと。

長い旅の間には、そう思えたのです。

しかし。

其れは思い上がりだったのでしょうか。

微かに漏れ聞こえる、甘えを含んだワズさんの聲は針の様です。



言:

多分、兄の精一杯の譲歩なのだろう。

『暫くは俺の行商に加わらないか』

若しそうすれば、今迄の様に夜盗や獣を恐れずに済む。

妥協に頷き掛けると、影が過ぎった。

だが、僕にはウルが居る。

未だ往く場所があるんだ。

屹度一度は帰るから。

必ず。

そう約すと、漸く肩を抱く腕が緩んだ。



統:

血は水よりも濃いと云うならば。

水より生じた私は、『私達』は決して敵う事が無いのでしょう。

漣立つ胸裡で断片と化していた記憶を掬い上げ、綻びを修繕います。

未だ一つに足りないとて、水鏡ならば事足りる。

ワズさん。

貴方はもう足を止めても良い。

『其れ』は『僕』の役目です。



乖:

『何をし、如何生きても良い。他人に迷惑を掛けさえしなければ』

其れがうちの家風だ。

何でも自分で決めろと育てられた為か、兄弟達は転手に道を選んで生きている。

此の末っ子とて其れは変わらない。

責める事など出来はしないのだが。

追憶から隔たる姿に、淋しさは禁じ得なかった。



祖:

三つ合わせの鏡前にて。

立場も、歳も、居場所すら異なる者らが会して語り合うは、彼の二人の事。

案じる位ならば直截に赴けば良い物を。

誰とも無く零された小言に、鏡の一つが曇る。

『例え、うっかりでも御祖母様と呼ばれたく無い』

きっぱりと宣った麗人に、男衆は揃って嘆息した。



忘:

所で、と切り出された次の言葉。

『あの旅人は如何した』

然りげ無さを装った訊いに躯が強張る。

そうだ。

今になって思い出した事に心臟が跳ねた。

真っ先に浮かんだ姿を今更否定出来ない。

僕は今、誰と旅をしている。

胸中で呼んだ名に応える様に、がたりと扉の向こうで物音が響いた。



貪:

私は僕であり。

我であり。

そして、私。

しかし、如何に不純物が混ざっていようとも一つとして混じり合えば『元』へと統合されて行きます。

次第に内側で瞳を開きつつある『僕』。

『呪を返して』貰ったならば、目覚めるのでしょう。

願わくば、其処に僅かでも『私』が残りますように。



漣:

軋々と広がる戸の隙間。

薄灯りを背に現れ出た人影に息を呑む。

黒髪の見知らぬ人物。

だが翠緑の瞳に宿る色に疑念は融けた。

値踏みする様な兄の眼差しを受けて尚、ウルは柔和な笑みを崩さない。

「御安心を。必ずや皆様の元へ帰します」

誠実に紡がれる聲。

其れは嘘でも誠でも苦しい。



貌:

お兄さんが帰った途端、背けられる顔。

伸ばした『人』の手を寸前で止めます。

獣人姿を、いえ、矢張り『ゼア』が良かったのでしょう。

咄嗟に此の姿で出たのを悔いたとて今更の事。

吐いた溜息は、しかし半ばで消えます。

「心臓に悪い」

苦笑と共に、ワズさんは『本』を抱締めました。


稚:

呪が無ければ、忘れてしまうのではないかと思うと怖かった。

望んだものは結局手に入らず、其れを認めてしまうのが怖かった。

怖いばかりが先立って頑に成った。

成った筈だったが、如何だ。

兄に逅った途端に募る望郷と、思い出せない顔。

抱えた膝の間で、ウルがじわりと熱を帯びた。



逡:

必要なのは言葉一つ。

暖かな檻に閉じ込められて、脳裏を過る一綴りをもう一度辿り直します。

余りにも簡単な終幕の言葉。

今なら、其れを口にするだけで、ワズさんは『ワズ』で無くなるでしょう。

そうして、お兄さんと共に故郷に帰るのです。

……私は、結局何も云わずに眠りました。



嘱:

肩を突かれて振り返ると、騎獣の潤みを帯びた瞳にぶつかった。

吸込まれそうに深い漆黒は夜空の様。

其処に瞬く青い光粒が生まれ持った遠視術に拠る物だと知っていても、星を閉じ込めているかに見える。

「何をしているのですか」

感嘆の向き合う僕を、不機嫌そうにウルの掌が隔てた。



燥:

別離は思いの外、呆気無い物でした。

騎獣と戯れ乍ら二言三言。

当り障りの無い遣り取りを交わしただけで、結んだ手も易く解けてしまいます。

しかし、此れが家族故の親密なのでしょう。

「待たせたね」

ワズさんの聲に、知らず俯いていた顔を上げます。

私は巧く笑えているでしょうか。



状:

僕では無い自分が、未だ生きていた。

嘗ては許せなかった其れが、今では穏やかに胸へ満ちて来る。

――有難う。

忘れないで居てくれて。

云えなかった言葉を、柔らかな翅に書き付ける。

今は此れが精一杯。

数年振りになる返信の風聞を風に乗せる僕を、ウルは何も云わずに見詰めていた。



掩:

泣き出しそうなのは、果たして何方でしょうか。

重たげに天より下がる鈍色した雲の緞帳に、翳る様なワズさんの背中。

此方から意識が逸れているのが幸いでした。

有無を言わさず頭巾付きの外套に身を変えて、眼前の躯を包みます。

例え花腐しの雨が降ろうとも、私が隠し切りますから。



顧:

一歩を踏み出す毎に過去へ近付いている筈なのに。

記憶は僕から遠ざかる様だ。

「一途に想い続けるのは、辛い事ですから」

憂いを帯びた声音が耳元を掠めるのに、暖かな『外套』を掻き合わせて問う。

ウルも、かい。

頭巾の内に落ちた音は、何処にも行く事も出来ずに篭るばかりだった。



随:

「行きたい場所があるんだ」

そろりとワズさんが遠慮がちに口へ乗せた言葉。

私の目的地と貴方の望む場所。

両方を天秤に掛ければ、何方に傾くかなんて。

判り切っているでしょう。

寄り道や道草は楽しいですからね。

何時かの台詞を口にすれば、影に潜む面に三日月の笑みが昇りました。



巣:

冷たい雨も。

眩しい日差しも。

人の視線すら隔てる濃緑の帷。

視界を半ば迄覆う『外套』を意識すれば、ふわりと布地が浮き上がった。

「歩き難いですか」

耳の真横で響いた聲に、捲れた頭巾を下ろす振りをして撫でる。

ウルが作る薄暗がりは酷く優しい。

もう少しだけ浸って居たかった。



蠱:

「心理的には厭で無いし、ウルが良いのなら構いやしないけれどもね」

ワズさんは微りと頬を染めて、私に手を掛けました。

其の指は湿り気を帯び、吐息にも熱が混じります。

そして。

「御免、一寸暑い」

ええと、其れは、その。

ああ、今日は天気も良いですし、ね。

済みません。

色々と。



531/岐:

当然の如く本の姿へ戻るのは、僕の認識がそう有るから。

だが、そもそもはどんな姿なのだろう。

「最初は鼠さんでしたね」

返るのは少し逸らかした解。

「共に旅しませんかと誘われましたが、辞退しました」

飄々と述べたウルに息が詰まる。

逢わなかった未来は直ぐ其処に転がっていた。



単:

『唯一』である事は、『孤独』ではありません。

ましてや誰かにとっての『唯一』なら、其れは『特別』と云う事。

丸切り『自由』では無くなりますが、『不自由』でも無くなるのです。

だから、私にとっての『唯一』は。

「出逢えて良かったよ」

云い掛けた言葉をワズさんが掠いました。



双:

風景は、次第に見覚えの在る物へ変わって来た。

何時か『二人』で歩いた道。

今は其れをウルと辿り乍ら、悔いが胸をちくと刺す。

結局僕に付き合わせている。

「聢と二人で決めたでしょう」

だが、革鞄が跳ねて角で叩かれた。

「私達の、旅です」

憤慨の色濃い聲。

なのに、悦びを覚えた。



喩:

故郷に続くと云う道の手前。

ワズさんは足を止め、一度だけ頭を下げました。

「今迄も、大きな回り道だったのかも知れない」

始まりの場所に背を向けて再び歩き出す中。

不意にぽつんと置き去りにされた言葉。

其の真意が何処に在れ。

私と出逢う迄のですねと云ってのけるに止めました。



繞:

僕等が生きるのと同様に、森とて生きている。

嘗て踏み均した道は苔衣や草莱に飲まれてしまった。

細やかに構えていた家も又、森の糧に成ろうとしている。

「此処が『ワズ』さんの始まりですか」

ウルの聲に、そして終りだと呟く。

濃緑に囚えられた二脚の椅子に、掛ける者はもう無い。



匝:

小屋は死に絶えていました。

いえ、再び生まれようとしているのでしょう。

新たな命の揺籃として、腐ちる事を選んだ様にも見えました。

「『過去』を名乗れば、留まれると思った」

扉の名残に身を寄せ、ワズさんは淡く笑みます。

「でも、命は続くんだね」

小さな花が吐息に揺れました。



脱:

確かに亡骸は此所に在る。

だが、其処に宿っていた想いは故郷に送ったのだから意味は無い。

然し識りたかったのだ。

何も彼もを喪い、其れでも棄て切れなかった物を抱えて歩み続けたのは未練ばかりで無いと。

「○○○○○○○○」

後背に届く懐かしくも新しい呼掛けに、笑みで応じた。



叛:

「一つだけ」

前置きしてから告げられた願い事。

否やは無く慎重に意識の襞を掻き分けて、面影を探します。

朧な形を練り上げ、作るは似せで偽の姿。

「有難う。そして、さよなら」

最後に一度だけ顔を見て云いたかった。

擦れ聲で呟き、目元を覆って俯向く人を腕の中に閉じ込めました。



汝:

『ゼア』に抱かれても、嘗ての様に鼓動が踊る事は無い。

自分でしておいて、あたふたと此方を窺う様子が妙に胸へ迫って、思い切り抱き締め返す。

「や、止めましょう、もう」

すると狼狽を酷くした挙句に突き離そうとする物だから、其の儘引き倒した。

嗚呼。

ウルだ。

間違えはしない。



襲:

訳が判らない儘、草褥を転げる二つの躯。

屈託無い笑い聲が森中に谺し、慌てた様な羽音が後に続きます。

其れに気を取られた刹那、上に乗られました。

「もう良いよ」

片手で私の顔を覆い、ワズさんは静かに云います。

「きっと、如何したって忘れてしまう」

ならば。

私が覚えています。



解:

此れからを示す指が、僕の髪を梳る。

「如何すれば良いかは、知っているのです」

韜晦せず語る聲に、瞑目した儘に頷いた。

何を、と問う迄も無い。

僕も知っていた。

ウルが何を探していたのかを。

良いですか、とは聞かれない。

唯、絡められた指の温もりに、唇を寄せる事で答えとした。



録:

右手に握るのは錆びた釘。

其の切先を向けるのは左腕。

躊躇う事無く突き立てて、初めに二文字。

続いて八文字。

ふつふつと連なり零れる紅玉に唇を寄せて吸い取り、痛みを堪えて記憶を綴ります。

ワズさんの。

そしてゼアの。

例え私が私を失くしても。

刻んだ物語だけは消えないように。



森:

瞑森と呼ばれる其処は、文字通り閉じた森である。

絡み合う木々は誰も通さず。

垣間見る先は闇に没み、獣すら踏み入るを恐れる。

『魔女』の臥所が在るともされる其処へ、往かねばならないとウルは云う。

「『彼女』は、待っているのです」

語る横顔には畏怖で無く、追慕が滲んでいた。



親:

瞑森には待つ人が居るのです。

長く永く待ち草臥れてしまっても尚。

想いだけが其処に留まり、呼ぶのです。

帰っておいでと。

「『魔女』がかい」

訝る様な眼差しを向けるワズさんに、曖昧な笑みを返しました。

誰かが彼女を『魔女』と呼んだ事もあります。

しかし、私には『母』でした。



償:

夜半になると、『棺』から破片を取り出して広げる。

捩じくれたガラクタ。

他人はそう見るだろう。

「イサでは無くなってしまうでしょうから」

『モグラ』に戻る事も考えたが、ウルのそんな一言で止めた。

職人では無い僕には、到底元通りになど出来はしない。

けれど、せめて姿だけは。



綴:

旅の終りが近付くにつれ、風聞も頻繁に来る様になりました。

其れは冬の眠りへの感謝であり。

秋の恋人達の知らせであり。

又、夏の父娘や騎士の訊いでもあり。

そして、春の御家族からでした。

「僕等は彼方此方に残って居るんだね」

ワズさんの呟きに想います。

旅路に刻まれた足跡を。



容:

仰ぎ見るは、頭一つ高い位置。

すらと伸びた背丈。

大人びた横顔。

一度も見た事の無い顔。

想像の産物と云うには馴染んでいて。

此れが本当の姿かい。

「『本』に戻してくれませんか」

頬に添えた手を捉え、ウルは曖昧に首を傾げる。

返さぬ答と裏腹に、眸は肯定と仄かな熱を宿していた。



陽:

艶やかな黒髪の婦でした。

美しいと云うよりは稚く、何処か危うい、夜の静寂に佇む月の様な人でした。

腕に抱かれれば安寧を覚えましたが、同時に其の冷ややかさに慄き、密やかに焦がれました。

熱い血潮。

力強い鼓動。

何より眩い金色の。

――ワズさんの髪に、遠い憧憬を重ねました。



連:

呪いが消えると云う事は、旅をする理由も失うと云う事。

先ずは家へと戻って。

其れから? 一つ所に根を下ろし、生きられるとしても。

先は又、ウルと決めようか。

だが。

「迚も素敵な御誘いですね」

弾む声音では無い。

穏かと云うには硬い。

其れは指を擦り抜ける冷水の如き聲だった。



途:

未来を見る瞳。

此れからを語る口。

前に進む足。

先を示す指。

諦念故に凪いでいた面は、今や色を取り戻して眩い程です。

「今度は逆巡りも良いと思うのだけれど」

ワズさんが綴る続き。

其処には当然の様に私が居て。

だから、嗚呼。

如何したって、哀しい。

辿る事の出来ない、其の先が。



緒:

終を間近にして尚、:

呪いは何を語る事もしない。

其の由縁も。

理も。

愛を語り。

哀を騙るばかり。

飽い無く、空いを填めんとする様に。

其れは、飽く無き飢餓に似て。

「あいの果てには、かなしさだけが一等最後に残る物ですよ」

独白めいたウルの聲に、瞳を伏せる。

其れは愛か、哀か。



寿:

人は知恵を得て、楽園に住まう権利を失った。

其れ、は此の世界に在る神話です。

無垢を捨て、苦痛に塗れた世界に堕とされたのだと。

「僕は、其れこそ祝福だと思うけど」

赤い刃を手に笑うワズさん。

横たわる兎に、形ばかりの謝意を送りました。

生きる事は、如何したって醜いのです。



冗:

洋筆から溢れた洋墨が、紙面に余計な点を穿つ。

ふとふたみっつ。

彼女は数えた染みを指先で消そうとし、止めた。

綴らずとも物語は生まれ、流れて行く。

瑣細な綴り違いや書き損じとて、じきに頁の彼方へ追い遣られるだろう。

だが、代わりに『詩』を唱った。

唯の点が物語になる様に。



点:

膚を擽る風は随分と温んでいる。

もう必要無い外套を背嚢に押し込もうとして、其れに気付いた。

衣嚢の中に滑らかな感触。

取り出してみると、黒く円い塊が:

と二つばかり。

釦に似ているが、孔は無い。

「終止符でしょうかね」

冗談めかしたウルの云いに、塊を捨てた。

未だ其れは早い。



句:

其れは、まるで靴に入った小石。

或いは喉に引っ掛った魚の骨。

若しくは指に刺さった刺。

違和感に思わず躯を開くと、ワズさんは眉を顰めました。

「栞、でも無さそうだけれど」

頁の間に挟まっていたのは薄ぺらな『、』。

摘まれて陽に透かされた其れは、淡蒼い煙を上げて消えました。



中:

彼女は未だ夢を見ている。

微睡みは死より深く、生には儚い。

されど其れは、何れの岸にも辿り着けないと云う事に他ならないのだ。

生き続ける事無く。

死に絶える事無く。

水底に身を横たえた儘、彼女は夢を見続ける。

繰り返し。

繰り返し。

愛し子が呼ぶ時迄。

愛と云う名の呪を紡いで。



辯:

旅と云う物は大体が単調な物で。

だから細やかな遊びに興じたりする。

今日は倒言葉。

好きは嫌い。

綺麗は汚い。

つらつらと嘘を口にするが直ぐ飽いた。

もう止めようか。

僕の言葉に聲が返る。

「何時迄も共に在りましょう」

先程と変わらない軽やかな口調。

ウルは嘘とも誠とも云わない。



許:

古今東西の物語を紐解いてみれば。

呪とは大体口付けで解かれる物。

異形の姿を人に返し。

死の眠りに目覚めを齎すのは、たった一つの口付け。

若しそうだとしたなら、止めますか。

「ウルが望むならば、好いよ」

ワズさんは含羞の色を耳朶に滲まし乍ら、しかし寸分も迷いませんでした。



曲:

と或る平原に住まう、半人半鹿の矜り高き一族。

彼等は何人にも矜りを傷付けられるを赦さず、矜りの為に死ぬとも云う。

『此の世で最も大切なのは矜りでは無い』だが、其の青年は見事な枝角を揺らし異を唱える。

『愛の前では矜りとて棄てよう』然もありなんと、ウルが小さく呟いた。



慶:

寝物語に紡がれるのは、他愛無い思い出。

お兄さんと再会を果たしたからでしょうか。

眠る迄の一時に、昔語りをしてくれるようになりました。

今宵も話をせがむと、ふと蒼の双眼が揺れます。

「何れから話そうかなんて悩めるのは幸せな事だね」

笑い混じりにワズさんは指を折りました。



麗:

眼前で指を束[つか]ねて出来た隙間に目を遣る。

其れは、臆病な精霊の姿を見る事が出来ると云う、子供染みたまじない。

僕は勿体振って尚も目を凝らす。

金糸に擬う木漏れ陽。

透ける葉は緑柱石の細工。

「見えましたか」

稚気を含んで弾むウルの訊いに、精霊の箱庭が見えたと答えた。



充:

革鞄と云う揺籃の中。

『視界』を借りないと全ては黒に沈み、何も分かりません。

周囲も。

先の事も。

だからこそ、私は自由に想像を広げます。

そう、世界は広かったのだから。

奇跡の一つ位、拾えても良い筈。

「おや、四葉だ」

ワズさんの聲に『眼』を開けると、幸福が揺れていました。



赦:

聖なる嘘吐きの日。

其れは昔、敬虔で誠実な神父が生涯にたった一度だけ吐いた嘘で『魔女』を退けたのが由来だ。

どんな嘘を吐いても良いが、決まりが一つ。

嘘を吐く者は必ず、他の嘘を許さなければならない。

「恩寵の日でもあるのですね」

柔らかに零れたウルの聲は少し震えていた。



反:

降り注ぐ優しい嘘達を受けて尚、私が紡ぐのは唯貴方を賛美する言葉だけ。

「其れは嘘、じゃないよね」

苦笑するワズさんへ、やんわりと否定を返し、言葉を尽くして好きを伝えます。

小さな嘘は何時だって、日常に溢れているから。

嘘日の今日は、真実ばかりを話したって良いでしょう。



灰:

彼の森に至る道は容易く判る。

最初の徴しは光が沈む。

足元からひたと満ちる闇に緑も明度を下げ、次第に色を無くして影一枚になる。

木々ばかりで無い。

近付くモノ皆、人も獣も虫も、黒白の陰影となるのだと。

「だから挿絵森ですか」

風聞が伝える二つ名に、ウルが可笑しげに笑った。



平:

仮にの話。

私達が挿絵になったとして。

其の本には勇者も居らず、お姫様も王子様も居ません。

竜退治や、財宝を探す様な冒険でもありません。

其れはきっと退屈で、本棚の隅に追い遣られる類の物語。

「でも、其れが生きると云う事だよ」

さらりと云って、ワズさんは口笛を吹きました。



悦:

ずん、と肩が重くなった。

近頃になって度々起こる前兆に、躊躇い無く革鞄を下ろす。

正に間一髪、転がり出たウルに浅く息を吐いた。

「御免なさい。

自分では如何にもならないのです」

頻りに下げられる黒い頭を、緩慢と撫ぜる。

態は大きくとも、子供の様。

緩みがちな口を強く結んだ。



懊:

いっその事、此の儘で在れば良いのでしょうか。

「別に手間では無いけれどもね」

髪を通る指に、少しだけ頭を預けて夢を見ました。

遊牧の民を真似て、『元』の姿でワズさんと共に何処迄も。

「ウルの好きにすれば良いんだよ」

優しい誘いに、だからこそ首を振り、『本』に戻りました。



元:

斯く在れかし。

其れが『魔女』の刻んだ呪。

存在の通り。

理。

童話は彼の唇に語られて真実となる。

語られねば在り得ぬ事が、語る事により具現する。

事実よりも先に言葉在りき。

其れが此の世界の根底。

「其れが真実なら、彼女は全ての母なのですね」

ウルの聲に、風が笑いさざめいた。



子:

『森の魔女』には子供が居たと云います。

母と同じ黒髪の子。

大人になって人と共に森を去ったとも、未だ森に居るのだとも。

風聞は不確かな話を伝えるばかり。

「若しかしたら、二人居たのかもね」

冗談めかすワズさんは、真実を云い当てた事を知らない儘。

彼等が直ぐ其処に居る事も。



核:

『魔女』は何を望んだのだろう。

胸に手を当て問うた所で、呪いは答えを返さない。

今迄と同様に。

しかし不自然な迄に沈黙を保った儘。

もう直ぐ其処に終焉が近付いていても、尚。

「だからこそ、かも知れませんよ」

ウルも又、人事の様に嘯くものだから。

僕は真実に踏み込めないのだ。



敷:

私の知らない道を、『私達』は識っています。

渡り鳥が故郷を知る様に。

魚が海より河へ還って来る様に。

懐かしい知らない場所へと、私を引き寄せ誘う微かな引力。

くっきりと地に敷かれた標は、けれどもワズさんには見えないのです。

「此方で良いんだね」

導く様に開かれる木立も又。



参:

今迄出会ったイーディアは三人ばかり。

他を探しはないのだろうか。

「個人でなくば、案外何処にでも居ますよ」

しかし、ウルは何でも無い様な口振りで語った。

例え自分を失くしても、其の資質は世界に留まるのだと。

「私も何時か降ります」

聲は物柔らかであり乍ら、宣言めいていた。



魅:

昼尚暗き森の中。

生有る物の影無き蒼泉の畔。

佇むは、陽炎に似て頼りなく揺れる姿。

亡霊は此方に手を差し伸べ、そして――との話。

凡庸な風聞をワズさんは一笑に付します。

「特に何もしないらしいし。

其れなら人の方が怖い」

噂の分だけ安全だと、迷わず泉に向けて歩き出しました。



乞:

恐ろしい程に蒼冷めた群青色の水面。

足下に腐ちる事を忘れた倒木を見下ろし、其れは佇んで居た。

何時からかを思う心は無い。

何故かを問う口も失せた。

時折、渇きに癒しを求めて訪う獣や鳥に手を伸べど、如何してかも判らぬ。

唯、其れは待って居た。

己が何者かを答えてくれる者を。



設:

其れは児戯の如き箱森の生活。

緑の深奥に芽生えし想いは病に似て、心身を苛む。

軈て苦悩の果てに定められし心二つ。

如何な道を辿れども、未来は汝の手にこそ委ねられる。

さあ、望みを勝ち得よ。

名こそ祝福。

私がそう定めたならば。

――青玉の眸が青洋墨で綴りし名を撫で、言祝ぐ。



憾:

亡霊。

幽霊。

ゴースト。

呼び方は色々あるけれど、此の世に存在する不確かなモノ達。

彼等に共通するのは死して尚、留まっていると云う事。

「想いを遺された方だと云いますが」

ウルが云う事が事実なら。

此の先に居るモノに、確かめてみたいんだ。

留まるに足る想いとは如何な物かを。



忖:

編み込まれた枝間から射し込む一筋の光帯。

水面を貫く陽光は、沈黙を凝らせた様に深青の底を照らすばかり。

呆気無く行き着いた泉は、風聞など素知らぬ風に粛として在りました。

其れこそ、人影一つ無く。

「夜を待ってみようか」

ワズさんの言葉に快諾します。

私も逢いたいですから。



滓:

人、だったのだろう。

二本の腕。

二本の足。

躯の上に乗る首、と思しき塊。

明瞭な姿を失い、如何にか寄せ集められた躯らしき物。

月光を吸って鏡面と化す泉に浮かぶ乳白の靄には、語る口も無い。

「もう自分を失くしているのですね」

ウルの聲も届かないのか。

唯腕を伸べる様が淋しい。



片:

ワズさんが眠るのを待ち、そろり近付く泉。

依然佇む影へ、何時もの様に喰らい付きます。

其れだけで、『誰か』だった『私達』は『私』に還りました。

此れで何人目だったでしょう。

後、何人居るでしょう。

しかし、そんな事は如何でも良いのです。

お帰りなさいと、お腹に囁きました。



追:

鳥声に導かれて注ぐ糸の如き暁光。

其の先に影は翳さない。

矢張り陽の下には居られないのだろう。

別段、惜しく無いのだが。

唯。

あの影は何処か、見覚えがあった様な気がするのだけれど。

そう、視線の高さ、とか。

「気の所為、では」

未だ眠たげなウルを携え、浮かんだ思惟を消した。



餘:

夜が死者の時間なら。

此れからは私達、生者の時間。

「結局、何だったのだろうね」

身支度を整えたワズさんは泉を覗きます。

が。

沈んだ樹々の間。

僅か覗く白には気付かなかった様です。

緩く広げられた花弁にも似た、其れ。

若しかしたら。

本物の幽霊さんも、居たのかも知れませんね。



全:

道々に蜜が如く粘る黒が満ち充ち始めた。

道も又、自分の影をも飲み込む程に黒い。

ぐねぐねと曲がり乍ら、真っ直ぐに伸びている。

「色が減っているのに、鮮やかですね」

周囲を『見た』ウルが、僕と同じ感想を漏らす。

白と黒だからかも知れない。

其れは全ての色を含む色なのだから。



灯:

焦げ茶だった長靴はもう黒い塊になってしまって、道との境も判りません。

「飲み込まれそうだね」

ワズさんは苦笑して、そんな風に仰有います。

しかし其の手や髪は、すっかり乳白に変わっていて。

内側から微りと光る、透き通る様な横顔。

其処には一筋の陰りも寄り付かないのでした。



紛:

枝間を鳥がぺらりと飛んで行く。

「何だか全てが平らかですね」

ウルが云う様に、二色で作られた光景は何処も彼処も何も彼も薄くて、遠近が掴み辛い。

近付けば確かに厚みはある。

色を除けば普通の森だ。

しかし、其処此処に『何か』が居る気がしてならない。

薄紙を立てた様な何かが。



魂:

ぱしゃんと音一つ。

ぽとりと音二つ。

耳を澄ませたワズさんが怪訝そうに首を傾げます。

「此処は静か、なのに」

聞こえずとも感じるのでしょう。

其れは還り切れずに居たイーディアが漸く解ける音。

次々に解ける影と滴る水。

私だけに聞こえ、降り注ぐ雫。

ああ又『幽霊』が消えました。



瞑:

上下。

左右。

鬱るのは黒一色。

視界は暗く翳るけれども、昏いばかりでは無い。

夜の其れとも閉所の其れとも違う、柔い暗がり。

昼中に閉ざす瞼裏へ宿る闇に似た。

「だから、瞑森なのでしょう」

隣を『歩む』ウルが黒玉の眸を静かに伏せる。

其の陰りに何を見ているのか、僕は判らない。



垣:

道の程を塞ぐ様に生い茂るは野茨。

森の深奥を守る其の棘は全て外を、延いては此方を向いています。

「少しばかり千切れば行けそうだけれど」

幾重もの、しかし、か細く頼り無い抵抗。

ワズさんの云う通り、力を尽くせば容易く押し通る事が出来ましょう。

嘗て、此処を通った者の様に。



散:

踵を返し掛けた僕の手を、温かい掌が掬い取る。

「昔々のお話。

魔女には息子が居ました」

穏やかに紡がれる其れはもう、識っている話だ。

「此処から先へ往くのは、彼一人」

聲の降る先、頭一つ分高い位置を仰ぐ。

「唯今、母さん」

ウルは顔を歪めてそう云うと、僕を強く突き飛ばした。



寵:

荊棘は傷付ける事無く、私だけを通します。

貴女は此れで自由。

此れから平穏な生活を得る事が出来ましょう。

軈ては恋に落ち、子を産み、育て。

命を繋いで。

嗚呼。

其れは、何と素敵な事か。

「ウル!」

ねぇ、可愛い婦[ヒト]。

何故、泣くんですか。

もう、怖いモノは此方に在るのに。



除:

ずるり、と。

何かが這いずり出る感覚がして。

きゃら、と。

歓喜に笑う聲がして。

「此の呪いは私が負うべき物だったのです」

黒垣の向こう。

哀しく微笑む黒髪の青年が、居て。

「魔女の息子、其の写し身である我等が」

此れは一体何なのだろう。

伸ばした指に結ばれた紅玉さえ、嘘の様。



暇:

最早聲にもならない風音は、其れでも一つの言葉を形作っているのでしょう。

オカエリ。

おかえり。

御帰り、良い子。

髪を嬲る其の囁きに、雑じる擦れた聲。

「何、で」

瞠目する顔が稚くて。

抱締めたいけれど、叶わない。

『息子』が此処で健やかに在る事。

其れが『呪い』の望みだから。



淵:

踏み出せば枝は伸び。

退けば棘も引く。

「さあ、貴女は一度故郷へお戻りなさい」

何故だか軽い胸を抉る様に聲は云う。

其の唇はもう見えず、背けられた後姿は荊棘に護られ、届かない。

「私は此処で待ちますから、ウィスタリティア」

其れは多分、優しい嘘。

ウルは『私』を拒んだのだ。



毀:

土を蹴る音が遠く遠くに消えて行きます。

耳に残るのは、彼女が最後に残した言葉。

「待って居て。

僕は、『私』は必ず戻って来るから」

其の響きを閉じ込めようと耳を押さえても、指の間から零れてしまいます。

代わりに満ちる『母』の誘い。

ひめく聲は喉から滴り、水輪となるばかり。



糺:

飛ばす。

痛みの黒。

飛ばす。

傷みの白。

影絵から抜け出して、思いの限り風聞を飛ばす。

記憶の中に在る人達へと向けて。

誰でも良い。

何でも良い。

『魔女』だって、良いから。

彼[ウル]を、私の元に返す術を教えて。

物語を書き換える方法を。

だって、此れは『私達』の物語でしょう?


廃:

怯えて雑喚く荊棘は、母さんが不安がっている証拠。

早く顔を見せて、『何時もの様に』抱き締めて差し上げなければ。

宙に腕を掲げると、醜い染みが浮いている事に気付きました。

酷い鉤裂きの、傷跡の様な。

此れは一体、何時作ったのでしょう。

何か、意味があった気がするのですが。



僕:

ことこと煩い鼓動の間に小さな声がする。

『泣かないんだ』

泣いてたまるか。

『茨を破らなかった癖に』

傷付いたら、きっと悲しむ。

『どっちが』自惚れかも知れないけど、何方も。

『私は如何でも良いの』

煩い。

胸を掴んで、『私』を黙らせる。

『僕』は『ワズ』だ。

ウルのワズなんだ。



乏:

母さんの元へ走る、走る。

母さん、帰って来ましたよ。

『兄さん』と同じ様に『外』を旅して。

でも『兄さん』とは違って、ちゃんと帰って来ました。

良い子でしょう。

ねえ、そうでしょう。

……あれ、可怪しいな。

如何して、私は振り返ったりしたのでしょう。

後ろには誰も居ないのに。



謔:

彼方で俄かに立ち上った土煙。

瞬く間に近付いた其れから伸ばされた救いの腕は、意外な人の物。

いや或る意味、自然なのかも知れないが。

「妹が困っていると聞いて!」

呪具を使って、文字通りすっ飛んで来た四番目の兄。

余りにも莫迦莫迦しい登場の仕方に、背中がふっと軽くなった。



錯:

昔と今が混在する意識の隅に流れる聲。

孤独以外を識ってしまったなら、他人[ヒト]を求めずには居られない。

然し、如何したって親から産まれた以上は他人を識ってしまう。

だから。

「誰も本当に独りでは居られないってさ」

何故か慕わしい聲に伸ばした指は、何も掴まず落ちました。



累:

飛行呪具に半ば掠われての道中。

兄姉達も方々に聞いて回っていると聞かされた。

家族から当然の一言付き。

でも、助けられるのは僕じゃない、のに。

『お前の好きな奴なら、俺達の家族になるかもだろ』

臆面も無く、告げられる言葉。

ねぇ、ウル。

僕等はこんなにも簡単に許されてるよ。



躰:

碧水満ちる沼。

此処こそ、私が産まれた場所です。

元々は肉を持たなかったのですが。

私達も獣との交配を経て肉を有するに至ったのです。

兄さんがそうであった様に。

温い水面に手を浸しても、肉の器に阻まれて還れません。

其ればかりか、つきりと痛みました。

ワズ、と刻まれた腕が。



殉:

長らく家を離れていた末っ子から届いた風聞。

『魔女』の『物語』に挑もうとする其の報せに、家族が動揺しなかったと云えば嘘になる。

しかし。

諌めの信を出そうとした男達を見回して、女衆は鼻で笑った。

――仕方が無いじゃないのさ。

女は何時だって、愛に死ぬ覚悟をしてるものよ。



冽:

水鏡に落ちし色は、淡まりこそすれ消える事は無い。

異色を孕んだ水は最早無垢には戻れず、混色に甘んじる。

滲む色は一色とは限らず、様々に雑り合い鈍色に沈むばかり。

然れど今、水鏡に注がるれる一筋の水。

穢れ無き其の一筋を啜り、水鏡は色を希釈し続ける。

一縷の望みに縋って。



韻:

頬掠める花蝶の花弁に、少女は吐息を吹き掛けた。

あの子達に宛てられた言の葉より一筋、二筋。

綻びた行を少し抜いては撚り合わせ、出来上がるは青く涼やかな刃が二刃。

鋲で繋いで陽に透かせば、一層の事煌く。

世界は清[さ]やかであれと願わずとも美しい物よと、彼女は微笑んだ。



擁:

背を撫でる寒気に、怖ず怖ずと二の腕で青年は己の肩を抱く。

「自分は自分を抱き締めてはくれないよ。

自分を抱き締めてくれるのは、何時だって他人[ヒト]だからね」

そう云ったは誰だったか。

一向に遠退かぬばかりか胸に染む寒さに、青年は黒水の珠と化した眼より涙を一顆溢した。



倣:

『あんたは昔っから、良く良く淋しいを見付けるのが上手い子だわね』

開口一番、母さんはそう云った。

呆れた様な口振りだけど、暖かい聲。

其処に咎める気配は、無い。

『でもまあ、其処があんたの良い所さね』

本当に優しい子と髪を撫でる手に、母さんから産まれたからだよと呟いた。



録:

ぐるりぐるり。

幾度も巡って行き着くのは何時も荊棘の前。

もう『僕』を出してはくれないのか、伸ばした手に棘が刺さりました。

『あの子』も痛かったのでしょうか。

紅い洋墨で思い出せる限りを手当たり次第に書き付けます。

何度も脳裏でなぞる、黒く塗り潰された姿が消えない様に。



趣:

知りたいのは母親が子供に望む事。

『幸せなら良い』

だが返って来たのは明快な一言で、言葉を失った。

こうして欲しいとかは無いだろうか。

『あんたの人生はあんたの物。其処は親でも如何こう云うもんじゃないよ』

叱り飛ばされて尚判らなくなった。

『彼女』はウルに何を望んでいる?


屍:

独りは淋しいと泣く聲に、白い腕を抱締めます。

しかし腕は抱き返しもしない儘、尚も淋しいと泣きました。

冷たい指先に口付けても。

丸い頭に頬を寄せても。

一向に止まない泣き声。

本当は、母さんの望みは解っているのです。

もっと傍に来て欲しいのだと。

又、乾いた骨が泣きました。



簡:

部屋中に溢れ返る、色、彩。

日毎夜毎、時を問わず飛び込んで来る風聞達。

取留め無い其れ等を家族で仕分けては、又風聞を飛ばす。

けれども、中には返しの信を配達人に託す物もあった。

片手よりもずっと多い其れは、旅先で出会った人々からの便り。

俯向く僕の背を、父の手が撫でた。



迹:

此処には『ヒト』の聲は届きません。

花蝶は皆黒く枯れ落ちて、累々と堆積するばかり。

脆い一片摘むと指先で擦り潰し、開いた口の中に落としました。

舌先に触れる、ほろり苦い灰の味。

乾いた其れを唾液で喉奥に流すと、微かに小さな言葉が伝わりました。

ウル、とは一体何でしょう。



致:

学芸院に居る一番上の兄さんが寄越した、一通の信。

其処には、聞き覚えのある名が記されていた。

術ならば、術師に聞くのが良いと方々に聲を掛けた所、口々に挙がったと云う旧い高位術師の名。

『生きていれば』、齢百を超えると云う其の人。

三文字を口に乗せると、轟と風が唸った。



宝:

色褪せた花蝶は脆過ぎたので、お腹に収めて良しとしましょう。

細く柔らかい金色の糸は、蔓と編み込んで腕輪にしました。

後に残ったのは擦り切れた封筒が一つ。

大切な人へ、で始まる其の信は、中身を全て覚えてから樹の虚へと蔵います。

大事な物、ですので。

何故かは判らなくても。



骨:

歌う骨。

語る骨。

占う骨。

鍵となる骨。

『物語』における骨は、枚挙に遑が無い。

聖者の骨は祝福を為し、非業の死を遂げた者の骨は災禍を為す。

骨とは、唯の残滓では在り得ぬ。

其れは再生の器。

生命の残滓が宿り、時に黄泉還りの扉とも成りうる物。

だからこそ。

『彼』は待っていた。



娘:

偶さかの気紛れだった。

森に棄てられた幼子が一人。

『魔女』が命じ、憫れを知る森が救い上げた。

古き術の息衝く森に育まれた其の身は、人で有り乍ら人で無く。

戯れに与えられた生ではあるが、森と在るには事足りる。

なれども、森から出る事は決して叶わぬ。

縁を裁ち切られぬ限り。



召:

石畳に響く靴音。

『名とは存在の証明』

一定の拍子を刻み、痩せぎすの影が近付く。

『呼び掛けは承認』

朗々と響く聲が伴う笑み。

『呼んで頂けて何よりでした。

さもなくば来られぬ所』窓辺で一礼する男に、胡乱な目を向ける。

登場に今更驚きはしないけれど、玄関から来てくれないか。



会:

『其方には先客が』

プラトが示す戸口には、又見た姿。

『申し訳ないっす』恐縮するナシムの横。

何故か三番目の兄まで居た。

『此方は空腹で倒れていらしてね』

穏やかな笑みを浮かべた兄の言葉に、一層の事ナシムが身を小さくする。

変わりの無い皆の様子に、安堵を覚えたのは内緒だ。



飢:

泉で口を潤し。

木の実を食んでお腹を満たす。

何れも必要の無い事。

態々固形物を食べなくても私は生きて行けます。

必要なのは、其れ等に含まれる魂の残り。

元々其れを寄せ集めて出来た命ですから。

其れなのに。

少しも癒されない飢えに、青臭い実を噛み砕いては不味いと零すのです。



固:

水面に浮かぶのは、見知った姿。

丸い耳。

細い指。

角も無く。

牙も無い。

するりとした頬。

瞼に掛かる髪は、何色にも染れない黒。

母さんから離れれば、独りきり。

誰の意思を反映する事も無く、其れでも強張った儘の躯。

幾ら想っても、『僕』の容姿。

もう、私は誰にも為れないのです。



寛:

客人達は耳慣れぬ名で娘を呼ぶ。

戸惑い無く其れに応える横顔は、随分と大人びた。

簡素な二文字ばかりの名。

『過去』を示す其れに込めたであろう想いは何であろう。

だが、旅の間に何があったのかは今更問うまい。

雛鳥は何時迄も巣に居らぬ物。

其れでも、娘で在る事に変わりは無い。



紲:

娘達と一緒に古い歌を口遊み乍ら飾り紐を編む。

己の髪を編込んで作る細紐は、此の地方で子が出来た時の風習だ。

神様の元から来た子が、家に無事絆がれる様にとの御呪い。

二人の娘が拵えた物は其々の初子達へ。

私が作る物はウルとあの娘が呼ぶ人へ渡す物。

うちの子になれるように。



逅:

鼻腔に忍び込むのは、土と埃の冷たい香り。

素肌を撫でる、湿度の無い乾いた静謐。

壁龕で微睡む者達の虚ろな面を、洋燈の灯りが照らす。

『この人だよ』神父である三番目の兄が指差したのは、飴色した一揃いの骨。

地下墓地に葬られた数多の一人。

ウルの『兄』を、丁重に箱に納めた。



換:

『僕』が母さんに愛されていない事は知っていました。

肉を身に付けても。

姿形を摸ても。

飽く迄も代わりでしか無いのです。

今此の身に宿る『悪意』と云う名の『愛』でさえ、本当は『兄さん』の物。

『兄さん』が帰りさえすれば、『僕』は必要なくなってしまいます。

ならば其の前に。



伴:

『魔女』の『物語』ならば決まった筋道が在る。

其れがプラトの解だった。

『此の場合、『息子』が帰れば良いのです』

何の衒いも無く放たれた言葉を反芻し、腕に収まる箱を抱き直す。

存外に近くに居るものでしてと告げられた通り、兄の教会で『待って』いた人を連れて、僕も又還る。



鋏:

涼しい音色を奏でる二対の青銀の刃。

ナシムから手渡されたのは一挺の鋏。

何の飾りも無く一見有り触れた物だが、『魔女』の道具だと云う。

『下賜された物っすが、役に立つんじゃないかと』

貴重品を躊躇い無く手放して笑う顔に見蕩れた、が。

『惚れちゃ駄目っすよ』直ぐ思い直した。



争:

母さんの『詩』を取り戻し、此れで本物になれた筈だった。

『僕』に『私』は要らない癖に、『私』を『僕』が邪魔をする。

母さん以外は要らないじゃないかと云う『僕』を、『私』が尚も拒みます。

結局は何方も愛されたがりだからこそ。

そう、『私』はあの人に『 』されたいのです。



縛:

もう忘れられたさと狼が吼える。

戻っては来ないよと仔鹿が云う。

『外』はとっても広いものと梟が囀る。

あの子に君は必要無いと『僕』が嗤う。

耳を塞いでも響く聲。

本当は何れも、自分の中から聞こえているのです。

きっと其れが真実だと、『私』が思っているから。

聲は、止まない。



送:

深々と下げられた頭は微かに震えていた。

二度は見られぬかも知れぬ末娘を前に、父は何を云うべきかを惑う。

だが、脳裏を過ぎった光景にふと笑った。

今回は挨拶をして出て行くだけましだ。

送り出せぬよりは。

『行って来い』彼は最後の未練を断つと、目頭を押さえる妻を抱き寄せた。



蔑:

『さて』

とは右手。

『はて』

とは左手。

互いに空の手を掲げた儘に、顔を見合わせる。

何を云う暇も無く彼方へ駆け行く背に、ゆるゆると腕を下ろすより他無い。

せめて云わせて欲しかったっすけどねと零す騎士の肩を叩き、術師は緩く首を振る。

彼女に必要なのは唯一人。

他は要らぬと。



恵:

途上で出会った少女が訊い掛ける。

『あの森に入ったら出られないんじゃなくて』

深く蒼い眸があどけなく笑う。

『折角自由なのに、貴方は捕まりに行くの』自由の二文字は甘く胸に染みたけど。

だから、往かなければならないんだ。

すると、少女は満足気に微笑んで幸運の口付をくれた。



萌:

もうすぐ。

葉擦れが、そう囁いた様に聞こえました。

もうすぐ。

樹間を抜けた風が再び囁いて行きます。

もうすぐ。

泉より浮かび上がる泡沫も、弾ける都度に微かな聲を漏らしました。

母さんも其の四音に耳を澄ませ、呟きます。

もうすぐ。

水鏡に映る『僕』の顔が歪み、喉を掴みました。



箇:

脳裏に思い描く幾つかの姿。

獣。

鳥。

少女。

『イーディア』は認識の生物だと、当人の口から聞いた。

他者の意識に染み、変化する生物。

ならば、僕は必要だ。

ウルが『ウル』として在るには。

『イーディア』などと云うモノでは無く。

況や『イーディア』と云う見知らぬ『男』でも無く。



擬:

朱く暮れる世界。

いえ、翳り行くのは『私』の、そして『僕』の視界。

きりきりと頚元で絞る輪。

其の根本で揺れる金色を必死に目で追い掛け、篭る力を逸らします。

『僕』も足掻いているのでしょう。

本当の『イーディア』が来てしまう前に、と。

如何したって偽者でしかないのだから。



恬:

正直を云えば、未だに解らない事ばかりだ。

風聞が伝えてくれた『物語』は断片でしか無い。

けど、此の世界で人一人が知る事の出来る物なんて、どうせほんの少し。

なら良いじゃないか、解らない儘で。

知りたいのは、『彼ら』の事じゃない。

僕は決めた。

後は、ウルが如何したいかだ。



排:

彼女が戻って来るとは限らない。

『僕』が又、『私』の不安を言葉にします。

けれども、莫迦ですね。

『僕』が『私』を否定する程に、私達は乖離して行く。

解らないから待つのですよ、何時迄でも。

其れこそ母さんと同じ様に。

いっそ微笑み乍ら口にすれば、瞭然と『僕』が怯みました。



鍵:

唯、ただいま、と。

話せない『彼』の代わりに口を開く。

勿体振った古語の呪文を詠唱したりはしない。

胡散らしい儀式すら必要としない。

たった八つの音だけを口遊む。

決して英雄にはなれない僕には似合いの、在り来りな言葉。

『ただいまかあさん』平凡な挨拶で荊棘の門は開かれた。



謂:

未だ喉に絡む二の腕に刻まれた言葉達。

其の中でも幾つも連ねられている二文字。

嗚呼、ワズさん。

貴女は私の『過去』です。

『未来』は『過去』が無ければ存在し得ないのだから。

そして『現在』も二人の間にこそ在るのです。

「待たせたね、ウル」

響く過去の聲に『僕』が叫びました。



実:

届くか否か。

思うよりも先に聲を張り上げる。

例え『詩』で無くとも、此の言葉が届かない筈が無い。

密度を増し、陽光すら翳らせる濃厚な気配。

其れが僕を捉えたのを感じ、箱を掲げる。

そうだ。

貴女の『息子』は此所に居る。

乾いた骨が奏でる澄んだ音に、狂喜と狂気の聲が唱和した。



糸:

ぞるん、と。

躯の深い所で蠕く塊。

『持主』の帰還に呪が呼応しているのです。

今にも抜け出そうな呪に獅噛み付き、共に流れ行こうとする『僕』。

私も又、其れに引き擦られます。

妄執と云うには切なく。

愛と呼ぶには腥い。

此の体に絡む緋い紐。

解け切る前に、金音が一つ鳴りました。



裁:

響いた音は三度[みたび]。

崩れ落ちるモノも三つ。

其の内の一つを、躯で受け止める。

必然、放り出された『息子』は宙を舞い、決められていたかの様に『母』の腕へと降り注いだ。

「此れで、良い」

きりんころんと鐘音めいた響きの中、ウルは呟く。

其の傍ら、鋏は静かに刃を閉じた。



添:

祝いと弔い。

何方でもある調に包まれ乍ら、視界を閉ざします。

感じるのは喪失感と失調。

其れを埋める、頭頂に触れた唇と熱い吐息。

もう、ふかふかにも為れなくて済みません。

下手な冗句に、髪を柔く食まれます。

「居るだけで良いよ」

ワズさんの囁きに、硬い手で抱擁を返しました。



拠:

伏す頭を胸に寄せて緩く抱き締めると、頸を廻る赤は隠れた。

言葉を交わす間にも、生きていない者達は燐光を零し乍ら歩んで行く。

青年と少年。

其の手を取る乙女めいた婦。

三人は森の外へ。

そして此世の外側へ。

「生きて、居ますよ」

残るウルが拙く微笑む。

生きているなら、良いよ。



一:

残す糸は後一筋。

しかし、私は一人として在るには多くが欠けてしまいました。

例え此れを裁ったとて、此処から出ては行けないでしょう。

「なら、僕が此処に居れば良い」

其れだけの事と、徐に語るワズさんの眸は今にも滴りそうで。

溢れぬ様に寄せた面が、そっと一つに重なりました。



賀:

ふと。

彼女は振り返る。

視界に広がるは退色した光景。

加うるに其の奥、眩き麦穂色に抱かれし影を幻視[み]る。

『息子達』は此所に居る。

なれど『あの子』も、『血』を分けた子供には相違無かったのではないか? 『母』は最後に光粒と化し行く唇へ『詩』を刻むと、大気に融けた。



吻:

「ウルが居なければ『私』は『僕』になれない」

伸べられる乙女の掌。

「ワズさんが居なければ『僕』は『私』になれない」

青年は指を絡めて一つとする。

「『僕』は『私』で、『私』は『僕』」

額を重ねる裏返しの肖像。

異なる部分は足りない断面。

故に、口付は須要だった。

補う為に。



葬:

想いから解かれた為だろうか。

二人の骨は脆々と崩れて一つに混じり合っていた。

其の雪めいた破片を両手で掬い上げる様にして、森の一角に埋葬する。

託された『イーディア』達の欠片も、そして『イサ』も共に。

「此れなら淋しくないですよね」

自問するウルの手を、唯そっと握った。



開:

伸ばした手の先、落ちる黒一つ。

指を動かす都度、地面に降る黒は数を増し、視界は開けて行きます。

「良いの」

ワズさんが切り落とした荊棘を一輪拾い上げ、小さく問いました。

ええ、良いのです。

此れを必要とした人はもう居ない。

だから。

『魔女』の鋏で、又一枝切り落としました。



播:

支度は整った。

庭中で花蝶が一斉に雑喚く。

旅立ちだと。

十分に開いた翅で風を捉え、茎を離れる。

先を争い森に敷かれた径へ向かうのを、不安を宿す二顆の青玉が追う。

一心な女を抱く男の手首を飾る二筋の飾紐を掠めて、最後の一羽も飛び去った。

二人が此処に在る事を知らしめんと。



終:

吟遊詩人は斯く歌う。

――嘗て其処は、瞑森と称ばれていた。

しかし、影に喰われているかの如くに色無き昏がりは、今や何処にも見い出せぬ。

拓かれし森には、訪う者を歓迎するかの様に幾筋も敷かれた小径。

風聞が誘う色鮮やかな径の先には、旅人の話を待ち侘びる夫婦が住んでいる。

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