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Tale of Paths  作者: 橘颯
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第二百二十一話~第四百四十話

招:

旅を始める前には思いもしなかった事。

僕の世界は家の近所だけで、身分の高い人には近付く事も出来なかった。

けれども、今では語り部をしていると屋敷に招かれもする。

今の様に。

「凄い」

ウルの呟きは喧騒に紛れ。

僕は唯頷く。

恭しく頭を垂れる召使の、腰元に差された剣を見つつ。


待:

「呪があるから万が一でも大丈夫だろうけど。若し僕が戻らなかったら」

一度宿に戻り、 ワズさんは特別の白シャツに着替えると私を寝台の下に隠しました。

「君の好きな様に」

助けに行きますの聲には何も云わず、軽く手を振って出て行きます。

助けに来るな、とは云いませんでした。


裏:

紅角の御領主の元へと赴き、当り障りの無い旅話を語る事一齣。

『主の四肢を戒め、留め置いたならば災厄が起こせるのかえ』

領主は話を半ばで遮り、婉然と笑んだ。

『褒美を持て早よう去ね』

真っ向から見返すと、興を殺がれたか艶容は席を立つ。

『全てでは意が無い』

そう云い残して。


動:

声が一つ減り。

物音が二つ減り。

ひたひた満ち始めた夜闇と静寂。

其の底で踞る事、今暫く。

音の多くが眠りに落ちた頃、漸く私は寝台の下から這い出ました。

ワズさんの少し重たげな足音は未だ聞こえませんが、もう充分待ちました。

私は真新しい外套を羽織ると、窓から抜け出します。


凝:

掌には布袋一つ。

意の外重い。

其れに硬貨と異なる音。

確める為に口を開こうとすれば、横合いから押し留められた。

『疾く御帰り下さいませ。主の気が変わらぬ内に』

召使が丁重な仕草で、扉へと僕を誘う。

其の眸の底。

微かな悲哀の色が気になったけれど、見なかった事にして辞した。


迎:

さて如何しましょう。

御邸の門前、こっそり侵入るべきか思案しているとワズさんが出てきました。

無事な姿に胸を撫で、駆け寄ります。

「如何して此所に」

王子様はお姫様を迎えに来るものです。

茶目っ気を含ませ手を取れば、蟀谷に当たる拳。

「莫迦を云うんじゃない」

叱られました。


石:

頻りに無事で良かったと繰返すウル。

ともすれば止まりがちな背を押して、人目に付かない路地へと身を辷り込ませた。

先ずは確めなくては。

月明かりを頼りに報酬の袋を開く。

中身は何処か羽に似た形の宝石が幾らか。

「ジギ?」

咒の類で無い事に安堵する僕の耳に、小さな声が届いた。


或:

冴々と冷たい月光を吸って煌く輝石。

「『誰か』なのかい」

ワズさんの問いに解らないと首を振りつつ、触れてみます。

爪先から伝わるのは仄かな温もり。

ぞわりと獣毛が逆立ちます。

「夜が明けたら、尋ねてみよう」

毅然と告げる聲と力強い眼差しに、私は唯頷く他、有りませんでした。


疎:

表ばかりは平静を装おうと、動揺は隠しきれて居ない。

草上を風が奔る様に金茶の毛が大きくうねる。

「有難う御座います」

聲の迫間、みりりと毀れたは歯噛みの音。

今、部屋の隅で石に額を当てるウルは、祈りを捧げるが如く静かだ。

其の密やかな交感は見るに絶えず、僕は目を逸らす。


嘆:

「君に預ける」

そう云って、掌に落された宝石。

「咒の類は心配しなくていい。在れば疾うに炸けてるから」

続く言葉は耳を擦り抜けて。

私はワズさんから離れると、聲にならない聲に同調します。

心に落ちて来る想いの雫。

欠片から伝わるのは、悲しみばかり。

泣聲だけが谺しています。


堪:

視界一杯の黄と黒。

近過ぎて焦点が合わない。

上体を逸らし気味に動かすと、漸く正体が知れた。

が、同時に顔を覆いたくもなった。

獣人姿で眠るウルと、其の側らに横たわる僕。

疚しい事は何も無いが、聊か気不味い。

如何にか固く握られた拳と眉間の皺を撫でて、そっと躯を起こした。


涙:

耳を擽る衣擦れの音。

意識を揺り起こした音色に朦朧と眸を開けば、痩身が寝台を離れるのが見えます。

掌には固い感触。

柔い箇所に食い込む石に、昨夜の事を思い起こしました。

痛む鼻と熱い瞼が、其の記憶を裏付けます。

外聞無く泣きじゃくった私を、ワズさんが慰めて下さった事を。


咎:

元より御領主に会う心算は無い。

往々にして、邸の事を知るのは家令の方だ。

辞する前に掛けられた言葉が脳裏を過ったが、門番へと幾らか貨を握らせ、面会を言付た。

昨夜の名残か、くすんと鼻を啜る音にウルを鞄越しに撫でる。

すると、合わせたかの様に、肩へと温かな何かが触れた。


諫:

「貴方は」

ざりざりと靴が砂を踏み、鞄が小さく跳ねます。

『術師とは即ち、狂言回しと同義なのですよ』

ワズさんに応える聲は、何処か聞き覚えの有る響き。

『全く以て危うい。長居をしては人を殺める破目になりますよ』

誰だったかを辿るより先、聞こえた冷たい聲に躯が震えました。


知:

ウルの為にも距離を取る事もう数歩。

『よもや私をお忘れで』

瞠目した片眼鏡の男に首を振る。

知らぬ顔では無い。

名も覚えている。

プラト。

術師を名乗る道化。

『元から何方と云えばパガドの性ですし』

皮肉は軽く躱され、恭しく手を取られた。

『其れより、彼女に関るのは避けなさい』


懇:

円かな声遣と音韻は、今や誰かを明白にしました。

「何故」

警戒を緩めた私に反し、ワズさんは端的に猜疑の聲を上げます。

確かに。

其の仔細は私達が識るべき事でしょう。

殊に、今の状況では。

『先の言葉を今一度繰返さねばなりませんか』

鞄の内側にも届く声量で、囁きが落ちました。


臨:

術師が云わんとする事は、僕には良く解っていた。

ことりと、此の場を引けと云いたげに揺れたウルを掌で押さえる。

御領主が誰かの死を望んでいるのは、当人の唇が疾うに語った。

寧ろ解らないのは召使の眼。

憐憫や畏怖では無い。紛れも無く悲痛であり、僕へ向けた物ですら無かった。


遅:

如何してそうなるのか。

其れが解らなくても十分です。

脳裏から懐かしい姿を消しましょう。

胸を叩く聲に意識を閉ざしましょう。

ワズさんの身に災厄が降り掛かると云うのならば。

其れでも。

「遅かったようだね」

『そう、ですね』

怖気付く私を晒う様に、又一つ跫が近付いて来ました。


奔:

騎獣。

そう呼び馴らすには臆する威容も宜なるかな。

傍系の末席とは云え並の種とは違う。御領主に連なるならば。

及び腰で鱗上の鞍に跨ると、朱銀竜は昇り来る陽を目指し走り出す。

「良かったのでしょうか」

ウルに応える聲を僕は持たない。

唯、醒めぬ眠りを抱いた邸を背に直駆けた。


辨:

『お見限りとは哀しい事を』

そう聲を上げたプラトさんが、見る間に遠ざかって行きます。

「冗句だから」

ワズさんの云いには素直に、はい、と返しました。

が、私とて承知しております。

口調とは裏腹の表情で手を振られれば。

其れに、後は引き受けると仰って下さった。

今回の閉幕を。


択:

夜も知らず騎竜は駆ける。

大陸の端を目指し、一心に。

命令に従い、愚直にも。

いっそ快適とも云える旅路だが、仄昏い背徳さが添う。

『此れで不様を晒さずに済む』

彼の婦がそう述べたとしても。

「貴方は」

続くウルの聲を封じる様、鞄を強く抱く。

僕は選んだ。

強請された訳では無い。


歿:

全ての命は終ります。

其れは魔術的存在であろうと皆同じ。

死霊でも何れは消え失せる。長さに違いがありこそすれ、其れが此の世界の決まり。

「良くも悪くも」

ワズさんが搾り出した聲は、先を紡ぐ事無く噛み殺されます。

ええ。其の何方でも無いでしょう。

其れは彼の婦しか知らない。


忠:

ローブモンタント、長手袋、肌着に至る迄。

日の終りに全てを焼べる。

二度は纏う事が無い。

元より黒を好む方であったのは幸いだった。

他の色では紅が目立つ。

今やバスルの内は支えの骨で埋め尽くされ。

膚には白粉が絶えない。

今、臙脂の手帛を燃し乍ら願う。主の病苦が止まん事を。


疾:

辛うじて人の容を保っているとしか云い様が無い。

掌に溢れた色を握り、自嘲の笑みを肉の落ちた頬に刻んだ。

黒く爛れ膿み果てた肉を、皮一枚で塞き止めている。

其れが妾。

今ばかりは、強靱な竜族の身が呪わしい。

明暮想うは死の腕ばかり。

宛ら恋慕の様だの。

零れた聲に、又嗤った。


重:

僕の手には二枚の紙。

一つは、初めて手にした地図。

そしてもう一つは、上質な紙に認められた信[てがみ]。

ウルの知己に繋がる信。

大切だけれども、人一人の対価としては余りにも軽い。

「決して、無くさない様にしないと」

乗せられた想いの方が重い其れ等を、確と頁の間に托した。


不:

ワズさんは今宵、騎竜の御腹に凭れて眠る心算の様です。

ですので私は本の儘。

少し、いえ、とても楽しくありません。

「寒いのかい」

溜息を零すと、不意に温かな場所に閉じ込められました。

直ぐ其処で響く鼓動。

ええと此処は。

「お休み」

服の間に入れられた私……到底、眠れません。


限:

ひらと鼻先を撫ぜる白を疏み、騎竜が鼻腔より焔を漏らす。

長き冬の先触れである雪。

否応無しに、気は急いた。

「少し休んだ方が良いのでは」

僕と騎竜、双方に向けられたウルの気遣いにも首を振る。

寒いのは厭だろうとの言葉は嘘では無い。

だが、其れ以上に背後で嗤う呪が恐ろしい。


粮:

地響き一つ。土煙を上げて倒れる巨躯。

鋭い爪が一閃すると、白い湯気を立ち昇ります。

騎竜の顎より、黒土に滴る赤。

ワズさんは顔を蹙める事も無く、未だ暖かい御裾分けを受け取りました。

「御馳走だね」

嬉しげに夕餉の仕度を始める其の後方。

鹿の残骸を食む鈍い音が響いています。


騎:

ある種、贅沢な悩みだろう。

いや、確実に甘えなのだけれども、流石に辛い。

身動げば背筋が軋み、鈍痛が這い上がって来る。

酷使された腰の抗議に漏れる呻き。

「私が下になりますよ」

度重なるウルの薦めに葛藤の末、暫くはとの条件で屈した。

鞍に跨るだけなのに、此れ程大変だとは。


了:

膝上のワズさんに腕を回すと素直に寄り掛ります。

「重く無いかい」

問う顔には既に一片の憂いも見出せません。

苦痛が和らいだのもあります。

が、其れ以前に全て自分の中で片を付けたのでしょう。

今迄と同じ様に。

懊悩を丁寧に蔵い込んだ面に、私は笑み返す事しか出来ませんでした。


擽:

中ツ海に沿って進む内、世界は白を帯びて行く。

冬の老婆が雪の膝掛けを広げ始めたのだ。

今はレース編みだが、程無くケットへと変わるだろう。

僕に宿る呪に似た深い眠りを齎す為に。

と、考えた所で一つ嚏が零れた。

「風邪ですか」

不安げなウルに首を振る。

此れは君の抜毛のせいだ。


庶:

頭頂から背に掛けて。

緩く滑り落ちた腕に呼び起こされた疼きが、毛を逆立てます。

痛みを与える事の無い、飽く迄も優しい其の手付き。

「厭だったら云って」

耳に注がれたワズさんの聲に首を竦めます。

今更止めてとは云えません。

冬毛に託けて必要の無い毛梳きを頼んだのは自分です。


杖:

高峰より見下ろす先には一条の白い橋。

吹き荒ぶ風雪にも崩れ落ちる事無き凍て橋が、彼方と此方を繋いでいる。

『魔女』が造りし彼の氷海を越えて行かなくてはならない。

僕等二人きりで。

其れが元からの約定。

「私が居ます」

凛と響くウルの宣言に頷き、騎竜を駆る。

二人なら行ける。


盾:

人の耳には咆哮。

『御気を付けて』

けれど温かな言葉を掛ける朱銀の竜を後方に残し、私達は一歩を踏み出します。

決して融ける事の無い海上を。

本来、渡るには春を待つべきです。

しかし。

「呪の危険は犯せない」

毅然と言い切るワズさんに、毛を膨らませます。

ならば私が庇えば良い。


諌:

足元に垣間見える玻璃に似た青。

融けない海は、硝子代わりに使われる事もあると聞く。

又、装飾としても。

「何なら幾らか割りましょうか」

態々爪を翳しまでしたウルを押し留める。

硝子同様、鋭利な縁は容易く膚を裂く。

まして、氷の性で滑り易いのだ。

金になろうとやらせはしない。


凍:

白に滲む黒点。

其れは臥さる一羽の蒸鳥でした。

「冷めてしまったのだろう」

固く縮こまった小さな躯。

本来なら、ことことと湯の沸く様な音が聞こえるのですが。

今は唯の金属の様。

「此処を越えれば、何とかなるよ」

気落ちした私を優しく叩き、ワズさんは鳥をそっと懐に入れました。


頼:

音すら凍り付くのか、渺茫たる白銀の道は静寂に満ちている。

聞えるのは、風と吐息の音ばかり。

照り返しの光は目に鋭く刺さる。

涙の帷が掛かる眸を閉じれば、最早前後も知れない。

僕等は正しく前に進んでいるだろうか。

「御安心を。私の鼻が導きます」

背を支えるウルだけが頼りだ。


力:

見開いた眸は遥か彼方に踊る雪片の粒さえ捉えます。

聳てた耳は氷の欠ける音すら拾います。

そして鼻は微かな土の香を捉えました。

ワズさんに触れる指。

其処から伝わる想いが強ければ強い程に、五感は研ぎ澄まされます。

だから。

「信じているよ」

其の聲で、私は何でも出来るのです。


境:

海面から立ち上がる壁。

其の高さは冷気を遮る為としても高過ぎる。

「立派、と云うよりも」

ウルが怯むのも無理は無い。

城砦の其れより堅固な鋼鉄の門。

旅客である事を告げると威嚇めいて歯車が回り、辛うじて抜けられる間が開く。

軋む音に怖じる身を叱咤し、傍えの手を強く握った。


擁:

門一枚。言葉にすれば其れだけ。

しかし、分厚い壁の向こうから吹き付ける風は熱を孕み、凍えた膚が焼ける様に痛みます。

「さっきまで冬だったのに」

言葉の通り、此処は暖か過ぎました。

其れこそ繋いだ手が汗ばむ程。

しかし、解かれはせず。

ワズさんは一層深く指を絡めたのでした。


下:

差詰め巌。

門番は険しい面貌に似付かわしい声風で告げる。

『モグラへ行くといい』

指先が示すは、此の大陸に広がる広大な地下道への入口。

蒸獣らを産出す為に穿たれた坑道は今、技者の街と化しているらしい。

「其処でなら」

弾んだウルの聲に頷く。

恐らく蒸鳥を直してやれるだろう。


音:

地底は、何処も彼処も音で濫れていました。

撥条が轢む音。蒸気が噴出す音。

金槌を振るう音は鼓動より力強く。

足元を震わせて、軌道の上を貨車が走り抜けます。

轟々と耳殻で反響する鳴動に顔を蹙めると、ワズさんは溜息を一つ。

「此所に居ると良い」

物陰で私を鞄に押し込みました。


告:

壁一面に這う、長蟲に似た細い管。

管の表面に刻まれた道案内の文句やら、警告やらは助かる。

だが、街の血道だろうに、其れのみならず雑多な落書きも見て取れた。

殊に多いのは。

「御相手に云えば宜しいのに」

ふと読み上げた単語にウルが苦笑する。

全くだ。

告白は相手にすれば良い。


驚:

『何か用か』

地下に住む人だからでしょうか。

微昏い工房でぎらりと光った眸は余りにも大きく。

しかし、彼が指で目尻を弾くと、ぴんと音を立てて硝子らしき物が跳ね上がりました。「一寸驚いた」

密かに呟いたワズさんへ同意を返します。

一瞬、職人さんの目が取れたかと思いました。


265/瑕:蒸鳥に向き合う事暫し。

ふむと一声漏らし、職人は道具を手に取るでも無く腕を組んだ。『直してやれん事は無いが』

厭に歯切れの悪い物云いに首を傾げる。

問題でもと先を促せば、無骨な指が瑕疵無げな喉を示す。

『此奴の聲迄は戻せんよ』

厳然たる宣言に、ウルが息を飲む気配がした。


択:

『発声器官がこうも潰れちゃ、元通りにはならん』

苦味に満ちた職人さんの聲に、鳥があの場に居た訳を知りました。

『歌えなくても良いなら直すが』

問いに、ワズさんが二回鞄を叩きます。

答えを求める合図に、一度だけ表紙を動かしました。

其れが本当に正しい事なのか、解らない儘。


見:

時に、本の姿で如何やって見ているのか。

「御承知の通り、私は貴方の意識に影響されます」

ふと過った今更の疑問に、軽快な笑いを伴ってウルが答える。

「其の際、貴方の視界が垣間見えると云う訳で」

種明しに、も一つ加えられる。

「特に衝撃的な物は」

先刻の一幕を思い、納得した。


聲:

舗の陳列窓に設えられた止り木の上。

多彩な蒸鳥達が、犇き合っていました。

彼らは皆誇る様に胸を反らし、自慢の喉を震わせています。

其れは美しい諧調を奏で……はせず、口々に己を誇るばかり。

「僕は静かな方が好いよ」

ワズさんの独白を、私は頁に蔵います。あの子に伝える為に。


価:

硬貨数枚。

職人が示した治し賃は其れだけ。

聲が治せないとは云え、安い。

徹夜したのか、赤い眸を思わず凝視すると、態とらしく逸らされた。

『今時、直す奴も居ないんでな』

しっしと振られた手に、代金を置いて一礼する。

「有難う御座います」

ウルの聲に、彼は微か笑った様だった。


脈:

丁度背表紙に掴る様に収まった小鳥。

小さな躯が触れている所からは、軽やかな振動が伝わります。

ことこと。

生きている音。人や獣の其れとは違うけれども。

確かな命の音。

「生きているのにね」

小鳥を撫でつつ、ワズさんは繊く息を吐きます。

そう思うのは、私達だけなのでしょうか。 #twbngk


留:

鎖に繋いでもいない。

羽に細工をした訳でも無い。飼主として教え込みもしていない。

だから、此れと云って留まる理由も無いだろうに。

真鍮の小鳥は依然、大人しく鞄に留まっている。

「貴方が好きなんですよ。私と同じ様に」

止まり木にされたウルは怒りもせず、優しい聲で確言した。


掬:

細い嘴が奏でる、微かな金属の触れ合う音。

ちり、とだけ鳴るのを、ワズさんは丁寧に掬い上げます。

水を含ませてやったり。

固形燃料を与えたり。

或いは撫でてやったり。

聲にならない聲を捉えるのです。

今も。

「大丈夫かい」

拾い上げられたのは私の聲。

大丈夫。

淋しさは消えました。


個:

彼か。彼女か。

其れが問題だ。

実際の所は、何方でも無いのだろうけれども。

人の手に依る物に、其れは意味を持たない。

ましてや人の姿で無いのならば。

「イサ」

そんな僕の懊悩を容易く飛び越え、ウルは一つの名を挙げる。

「何方に決めなくても」

良いのだと笑い、鳥はイサになった。


称:

『イサ』は『今』。

其れは遠い昔の言葉。

ウルさんは成程と頷き、軽く眸を伏せました。

「過去を振り返らず。未来に托さず。今を生きる、か」

軈て歌う様にそう諳じて、小さな躯を両手に包み上げます。

「迚も良い名だね、イサ」

仮初の巣で小鳥は、名を受け取るが如く翼を広げました。


刻:

イ、と響く音。サと、震える音。

真鍮の頭に反響する二つの音。

其れが如何云う訳か首の角度を変えさせるのに、蒸鳥は戸惑う。

歌えぬ代わりに、働く機構なのか。

浮かぶ疑問は泡沫に消える。

元より、単純な命令しか理解し得ない頭なので。

唯繰り返し与えられる音を啄み、胸に刻んだ。


値:

陽の匂いがする人間に会ったのは久方だと思う。

況や其れが蒸鳥を直そうとする輩となれば、ン十年振りか。

同じ位、地上を拝んでいないのを思い出し、職人は頭を掻く。

恐らく此の目は陽に盲い、膚とて焼けるだろう。

だのに、人間様の方が上等かね、と蒸鳥の残骸に塗れて唇を歪めた。


捏:

扉の向こうに広がるは果て無き草原。

「そろそろ」

空を渡る鳥影を仰ぐと、ウルがぽつりと零した。

「お日様が恋しいです」

僕は全くそうだねと、相槌を打つ。

此所には頬を撫でる風も、芳しい花の香も無い。

何処迄も緻密で在り乍ら書割でしか無い公園を出て、地上に向かって歩き出す。


廻:

舗に並ぶ、不思議な形や色をした花達。

全て金属や鉱石で出来ているのだそう。普通のお花は一本も在りません。

術を使っても上手く育たないし、此の方が丈夫で綺麗だと舗の方は勧めます。

「僕は普通のが良いよ」

食べられるし、と小さな聲で付け足して、ワズさんは舗から離れました。


聴:

耳が変になったのかと思った。

漸く拝んだ地上は、余りにも音が無い。

ほんの数日滞在したに過ぎないのに、僕等の耳は地下の喧騒に慣らされていたらしい。

「静か、ですねえ!」

そう叫ぶウルに応える僕も似た調子で。

怯りと震えたイサに、暫くは内緒話をする様に聲を潜める事にした。


飽:

広大な麦畑を、蒸機が白い煙を吹き上げ乍ら走っています。

刈り取るのも、粉を挽くのも、全て蒸機。

地下だけで無く、地上にも蒸気は溢れていました。

其のお陰で、此の国は温かく実り豊かなのでしょう。

「結果、余裕がある。だから、だろうね」

ワズさんは何処か遠い目で云いました。


修:

夜長の閑に、イサへと芸を教え込む。

歌えぬ代わりに踊りを。

其れもある。

だが、語れぬならば身振りを。

其方に重きを置いて、繰り返し動きを覚えさせる。

僕等と別れても大丈夫な様に。

再び捨てられぬ様に。

けれど。

踊りに合わせて歌うウルが楽しそうで。其の思いは胸に押し込めた。


拙:

ぷーぺーぽー。

夜闇に谺す調子外れの音。

土笛から唇を離し、紅い頬が俯向きます。

先程から何度か試みられていますが、一向に音は調べになりません。

「二人に合わせたいのに」

もごもご口の中で呟くワズさん。

結構不器用なのは承知しております。

練習、は聞こえない事にしましょう。


誘:

広大な農地を貫く一本道。

もう羅針儀に頼る必要も無く。

門番が書き足した注釈と突き合わせる迄も無い。

黒い何かで鋪装された道を往けば、目的地に辿り着く。

だが。不意に小麦の海から伸びた手。

「おや今日和」

僕の袖を引く好奇心に満ちた子供の目とウルの挨拶に、寄り道を決めた。


溝:

宿賃代わりにお話を語るワズさんに、子供達は眠るのも忘れて聞き入っています。

『好い加減にしないと下に遣っちまうよ』

しかし奥さんの一言で、慌てて部屋に駆け込みました。

「前にも同じ言葉を聞いたね」

私もです。下では、上に追い出すぞでした。

直ぐ近くなのに、遠いのですね。


偽:

三食を取り。

清潔な褥で眠り。

洗濯された服を纏う。

最後には純朴な家族に見送られ、蒸機で近場迄送られる。

出来過ぎだ。

「皆さん親切ですね」

ウルの聲を耳に、思う。

農地と隧道が点在する牧歌的な光景。

其処に、真鍮の糸で織られた垂衣に隠されて見得ない物が在るのではないかと。


律:

農家のご主人が送ってくれた先には、鉄の蟲が横たわっていました。

『鉄道』と云うらしいです。

騎獣より、乗せて頂いた四輪の蒸機より、うんと早く走るのだそう。

此れに乗るのでしょうか。

ワズさんに尋ねると、首を横に振りました。

「歩くよ。楽をし過ぎた」

そう自分を戒める様に。


缶:

小さい乍らずしりと重い、上下がしかと塞がれた鉄の筒。

貰ったは良いけれど中身が判らない。

「危ないのでは」

筒を持ち上げた僕に、ウルが待ったの聲を掛けた。

「術が掛けられているかも」

其の一言で掲げた腕を下ろす。

結局、如何やって開けるか判らない『缶詰』は棄てる事にした。 #twbngk


警:

近付く轟音と振動。

黒石の道をも震わせて『汽車』が駆けて来たかと思うと、瞬く間に通り過ぎて彼方へと消えました。

ワズさんは其の後をのんびり追い掛けます。

「初めての場所程、緩慢と」

特に国の様子などは、直ぐに判らないからと。

「平和そうに見える所は特に」少し冷たい目で。


怪:

『疑うのは悪い事では無い』

繰り返し教えられた事を口に含み、眸を凝らす。

『目線を変える機会だからね』

もう聲としては思い出せない言葉に従い、道中で目にした物を思い返した。

地下でも。地上でも。

「そう云えば」

と、ウルが上げた事象に頷く。

そう、此所には『人』しか居ない。


契:

次第に畑が減り、道が広くなった辺りで、ワズさんは私に二つ約束をさせました。

決して獣人の姿にはならない事。

其れから、出来るだけ鞄の中に居る事。

「念の為、だけれど」

申し訳なさげな聲に、私は其の約束を快諾しました。

故無く仰る筈がありませんし。

不自由には慣れています。


余:

発火石。水筒。提燈。

今迄は術符で賄っていた物を、道具に変える。

此の大陸に渡って以来、如何にも術が上手く働かない為だ。

小さな火しか出なかったり。水が溢れ過ぎたり。逆で無かったのが幸いだが。

「不便ですね」

そうウルは云うが、僕は逆に思う。

術が無くても生きられるのだ。


抑:

亜人の方を見掛けないのは、術が使えないからなのでしょう。

魔術的生物には生き辛い土地なのです。

けれど、良い国かも知れません。

術同様、若しかしたら呪も。

ワズさんは試しても良いけどと前置きして、荷を背負い直しました。

「其の前にやる事があるし。君を此処で放り出せない」


既:

道標としては確かな、けれど固過ぎる道から少し外れ、土を踏む。

横目で見るのは、蒸機に蒸騎獣。

路上を行き過ぎる其れ等に同乗を勧められては断る度、一つの言葉を噛み砕く。

本当は急ぐべきだ。ウルの旅である以上は。

そう、僕の旅では無い。疾うに。

知らず緩めていた足を速めた。


悩:

ゆら、ゆらり。

躯が揺れる都度、イサの丸い目が不思議そうに此方を覗き込みます。

ワズさんは、物思いに沈んでいらっしゃる模様。

其れに伴い、解けて崩れる私の輪郭。

必死に食い込む細爪に、御免なさいと囁きました。

私には如何にも出来ないのです。

云って下さらない限りは、何も。


妙:

そろそろ帰夜祭の時期だ。

だのに、此の大陸では其の徴を全く覧掛けない。

悪霊を遠ざける飾りも。

祖霊を招く窓印も。

「収穫祭も無さそうですね」

楽しみだったのにと零すウルを慰めつつ、其処彼処で白煙を吐いている蒸気機関を見遣る。

此れは何方の『魔女』が成した物なのだろうか。


絶:

街から観光に来たと云う人は、ワズさんの御話を出来の良い作り話だと云いました。

全て、旅の中で見聞きした物なのに。麦が育つのは当然。

鉱石が取れるのも当然。

此所には精霊も神様も、皆居ないのです。

其れは皆、御伽噺の中。

「街では皆死んだのだね」

ちくりと聲が刺さりました。


澱:

次第に広くなる道幅。

其れにつれて、空が少しずつ濁って来た。

蒼は歩を進める度に灰へと階調を変え、行き先を翳らせる。

遠目にも判る程、街と思しき影の上を雲塊が黒々と覆っていて気持ちも沈む。

だが。

「あれでは洗濯物が乾かないですね」

長閑なウルの云い様に、肩の力が抜けた。


翳:

此処はまるで、地下の様。

其れはきっと、街の建物が皆大きいせいでしょう。

高く聳えるビルヂングと称ばれる建物は真四角の箱に似ていて。

隙間に切り取られた空は暗く、歪に歪んでいます。

「僕は矢張り此所が良いとは思わないよ」

地図を確めていたワズさんが、苦い聲で云いました。


賤:

優美な夜会服の御婦人が教えてくれた道を行くと、確かに目的地は直ぐ判った。「何とも、まあ」

そう云ったきり、ウルが二の口を利けないのも良く判る。

背の高い建物が形作る峡谷。

一際煌々と灯りの燈された邸が異物の様に浮き上がっている。

宛ら燭台の蝋燭。終も似なければ良いが。


酷:

「もう直ぐだよ」

ワズさんは私を一撫ですると、頁の間から紹介状を抜き出ました。

家令の方に御渡しして、待つ事数分。

『壁から』

聲が届きました。

『ああ、ガラクタを引き取りに来た人だね。ようこそ』

其れは朗らかな歓迎の挨拶、なのに。

一つの単語が、胸に冷たい刃を立てました。


機:

案内されたのは小部屋、と云うのも控えめな、物置然とした空間だった。

慇懃な態度で中に招かれ、装飾の施された鉄格子を閉められる。

此れも昇降機と云う蒸機、らしい。

油の匂いが鼻を突き、浮遊感も相俟って胸が悪い。

ウルは大丈夫だろうか。

問いは聲に出来ず、唯鞄を抱き締めた。


忌:

絶え間無い歯車の軋みと振動。

躯を襲う『非自然』な体感にも、努めて聲を殺しました。

格子戸越し、幾度も現れては下に吸い込まれる『床』に、イサも不安げに身を震わせます。

未だ、地下の方が良かった。

大地から切り離される感覚が恐ろしく、ワズさんの鼓動にだけ耳を澄まします。


醜:

御領主の紹介状は確かだったらしい。

穏便に迎え入れて呉れた主に深く頭を垂れた。

端々に垣間見える軽侮には目を瞑る。

だが、其の傍ら。

籠に収まる辛うじて鳥と思しき形を成す其れに、拳を握る。

煌びやかな宝石は欠片も無い。

疏らな羽毛だけが残る黒ずんだ躯。

震える鞄を押さえた。


慟:

直ぐに閉ざされた視界。

ですが、私も『見て』しまいました。

『寸前で早馬が来たから良いものの、棄てる所だった』

誰かが何かを語る聲は、怒号で掻き消されます。

私の内で谺すイルの。

そして私自身の。

二つの聲が外へと溢れ出すのを、辛うじてワズさんの意識が塞き止めていました。


蔑:

未だ息をしている事が不思議だった。

『引き取ってくれるなら差し上げるとも』

言葉の通り、無雑作に放られた籠。未だ辛うじて鳥形を保っている事に、安堵と憂愁が込上げる。

『今やゴミだ』

続く聲は礼にて遮り、早々に暇を申し出た。

此れ以上穢したく無い。

何よりも、ウルの耳を。


惹:

聲を鎖された儘、心で一つの名を呼び続けます。

ジギ。

ジギ。

『二人』の呼掛けに応える聲は在りません。

術の及ばぬ此の大地では、頼り無い導なのでしょう。

其れでも、存在が解けて仕舞わぬ様、一心に。

だから、如何か。

「此処で終わらせはしない」

宣するワズさんを、貴方も信じて。


駆:

髪を乱し、息を切らし。

形振り構わず直走る僕に、好奇と嘲笑の眼が向けられる。 整然と整えられた路。

着飾った人々。

素晴らしい楽曲も。

芳しい料理の香も。

目の前を過る全てを振り切って。

眩い光に背を向け、ひた昏い方へと走った。

呪よりも悍ましい物から、ウル達を遠ざけんと。



融:

夜より冷たい街の底。光の届かぬ隘路で、不意に振動が止みました。

何事かと思う暇も無く摘み出されるイサ。

其の代わりに固い塊が鞄へ収められます。

冷え切った

其れは、懐かしいヒト。

何も語らず、再び駆け出したワズさんの荒い呼吸を導とし、『私達』は意識をジギに融かしました。


理:

嘗て己が語った事。

生きてさえ居れば、今一度相見える事も出来よう。

己の儘で無くとも、記憶が託せたならば是としよう。

そう語った。

ああ、然し。

如何な手段を用いても、とはあの子には云わなんだ。

否、云えなんだ。

呟き、羽の輝石を毟る。

全て無くした後、邂逅出来る事を祈りて。


純:紙片に鼻を寄せようと、婦の名残は無い。

だが、手ずから記したと思しき筆跡に華人の顔を想い、唇を寄せた。

春の訪れと共に訪なおう。

横目に見るは、金無垢に宝玉を配して作り上げた至精の蒸鳥。

あの旅人に与えた屑とは比べ物にならぬ出来。

彼女は屹度、唇を綻ばせてくれるだろう。


乗:

術が使えない以上、矢張り『鉄道』を使う他無いらしい。

僅かでも早く此街を出ようと『駅』へ踏み入れる。

家畜車に追い遣られたが、其方が気楽だ。

籠で跳ね回るイサを宥めつつ、閑寂とした鞄をそっと床に置く。

ウル達は如何しているだろう。

好奇と不安を匿し、蓋を撫でるに留めた。


懸:

恰も器の水が再び泉に還る様に、注がれる記憶。

其の流れが緩やかになった頃。

『仕合せかい』

長い永い沈黙を経て、ジギが問うたのは其れだけでした。

人と在る事を咎めもせず。

柔かな聲に幾度も肯定を返します。

『ならば可い』

安堵に満ちた呟きに、留める事は叶わないと識りました。


控:

バァバァ鳴き交わす羊達から幾許か藁を失敬する。

上に外套を被せれば、即席の寝床だ。

やや考えた後、小さな鞄を胸に抱き込んて身を横たえる。

水が溢れ出る気配は、未だ無い。

若しかしたらの危惧は、勿論有る。

だが、外套が台無しになろうとも構わなかった。

此方が、早く気付ける。


取:

淋しくは有りますが。

仮令触れ合う躯が失くなろうと、三人では在れます。

然し、其の想いに否が向けられました。

『吾等は確と還るべきなのだよ』

抗うイルの聲さえ抑え、ジギは矢張り穏やかに笑みます。

『ウルは仕合せなのだろう』

言外に示すのはワズさんの事。選べと云うのですか。


響:

鼓動に似た『列車』の奏でる規則正しい震動は、眠りと云う名の網を投げ掛けて意識を沈め様とする。

「ワズさん」

だが、生温い泥濘みにウルの聲が一筋垂らされた。

「私は、必要ですか」

薄らと覗く鞄の隙間。

闇中で燃え立つ鳥の紅眼が、僕を射る。

真意を照らし、偽りを灼くかの如く。


返:

共に在れると思っていたからこそ、受け入れられたのに。

私の隙間に収まるイルが笑います。『ならば選ぶ迄も無い』

ジギが緩く首を振りました。

『なれど、其れでは吾等は何時迄も終われぬ』

そして。

「大事なのは君が僕を必要か如何かだよ」

ワズさんの云いに、誓いを思い出しました。


輩:

見交わす眸が閑やかに解ける。

其れが笑みだと知覚するより先、紅は形を無くした。

鞄より滴る雫。

止め処無く溢れる水よりウルを掬い上げ、抱き竦める。

「居るけれど、居ない。もう何処にも」

そぼ濡れた本は、慄く様に震え。

嗚呼。

其の慟哭に浅ましくも思った。

此れで僕と同じだと。


恨:

止めろ、と叫ぶ聲すら、もう遠い。

頁の間に染み込んで来る水。

仮令全て飲み干したとて、彼らは其処に居ないのです。

全てが『記憶』となり、唯欠損を埋めるだけの物に成り果てました。

元は一つで在った私達。

此れが正しい姿なのでしょう。

其れならば。

個が無ければ、良かったのに。


譎:残念だ、と。

呟く聲に、気色は混じらなかっただろうか。

「独りに、なってしまった」

か細い聲に、此所に居ると繰り返し乍ら、口元に力を込めた。

人は、驚く程に優しくなれる。

殊に同類意識を持ったならば。

自分の痛みを投影して慰撫する。

其の愚盲と甘美さに、僕は聢と酔っていた。


切:全ては誓いの為に。

しかし今、其の誓いは余りに苦く。

「残してはおけないから」

外套で、床に残る『ジギだった物」』を拭い去ろうとするワズさん。

私は其の背から、意識の糸を出来る限り遠ざけました。

私も又、失くして漸く識ったのです。

喪失の代わりに縋る、其の狂おしい想いを。


滞:

『列車』の換気口より覗く外は水面に似て。

滲み、流れる光景は何一つとして留まりはしない。

掴み取る事は出来ず。

掬う事も出来ず。

眸からも零れて消え去るばかり。

其れこそ瞬く間に。

全てを置き去りにする。

其れでも心は置いて行けない。

言葉を無くしたウルを撫で、呟く。

決して。


恣:

最早退けない。

其の言葉だけが巡っていました。

もう、戻る事は出来無いのです。

唯、敷かれた道を進むより外無い、此の『列車』の様に。

振り返る事は出来ず。

止まる事も出来はしない。

『終着駅』に着く迄。

着いた後は、贖罪に尽くしましょう。

最後の寄す処を奪われるワズさんへの。


骸:

空の鳥篭で小瓶が転がる。

硝子の内で揺れるのは、ほんの一掬いの水。

外套を絞って集められたのは其れだけ。

濁った液体は見る影も無い。

其れでも、確かな名残だ。

此の大陸を出たら埋葬しよう。

其れとも、残して置こうか。

何時迄も、君の側に。

僕の言葉に、ウルは何も答えなかった。


睨:

『埋葬』

『此の大陸を』

『其れとも』

ワズさんの聲は断片的に私の上を渉るだけ。

唯、見下ろす黒玉の眸を見詰めていました。

中空なイサの心は何も思いはしません。

今しか知らない無垢の目。

其処に映る、撓んだ表紙も憫然たる姿を睨みました。

私は、私の罪より決して目を逸らさじと。


和:

ごとりと世界が大きく揺れた。

微睡みから引き摺り出された眼に、淀んだ光が刺さる。

如何やら『駅』に着いたらしい。

軋み乍ら開かれた壁。

外の喧騒が膨らむ。

泣き叫ぶ羊の群が、黒い手の男達に連れ出される。

『街』に比べて猥雑だが馴染み易い気配に、ウルが柔かな吐息を漏らした。


臭:

『鉱山』は煤を上げる瓦斯燈の為か、『街』よりも尚濃い煙に閉されていました。

しかし、此の辺りは術が働くのでしょう。

道を行き交う多勢の獣人達。

『街でも生きられん事は無い』

生気溢れた彼等は、そう語ります。

『だが、彼方は臭過ぎる』

ワズさんは、確かに腐臭がと返しました。


抛:

路の隅で外套を広げ、道具を並べる。

手に入れたばかりではある物の、術さえ使えれば必要無い。

発火石も。水筒も。提燈も。

安値を付けて売り捌く。

一つたりとて、手元には残さない。

「他所なら、もう少し高く売れたのでは」

控えめなウルの聲には黙って首を振る。

残したく無いんだ。


棄:

『鉱山』の入口に掲げられた文句。

『『物語』にさえ成れないよりはまし』

其れは其処此処で囁かれてもいました。

事実、此の大陸では『物語』の名残を見ません。

僅かたりとも。

「彼の『街』は『蒼の魔女』ですら、見捨てたのだね」

ワズさんの聲に羨望は無く。

憐憫も欠けていました。


謬:

此処で一番安い宿を。

酒場の店先で尋ねる。

埃塗れの男が無言で指差したは、隘路の奥。

紅灯掲げる戸を一歩踏み込んだ所で、間違いだと気付いた。

待合で気怠げに烟草を吹かす、薄絹だけを纏った紅唇の婦。

「宿違いですね」

乾いたウルの呟きに、踵を返す。

だが、其れは叶わなかった。


要:

頭上で交される、違う違わないの押し問答。

寝る、の意味の取り違えを懇々と正すと、漸く解って頂けた様でした。

けれども。

『其れなら旅人さん、一つ頼まれておくれよ』

彼女は確と手を取った儘、云い募ります。

寝る場所は『タダで』貸したげると足され、ワズさんは終に折れました。


述:

去る男と見送る女。

有りがちな話と云ってしまえば其れ迄の。

だからこそ、何方一つ同一では無い話。

婦が語ったのは、そんな話だった。

旅路に在ると云う男から今も尚便りが届くのだと。

だから、何時か行き逢ったら信を渡して欲しい。

慎ましい願いに、ウルが答えを急かす様、揺れた。


等:

烟草で焼けたのでしょうか。

『戻って来やしないだろうけどさ』

低く掠れた聲で婦の人は笑います。

『覚えててくれるだけで嬉しいじゃないか』

けれど、含羞んで信を胸に押し当てる姿は娘の様。

『其れを返したいんだよ。アンタも独りじゃないって』

ワズさんは承りますと微笑みました。


慮:

所で、僕は何処で眠れば良いのか。

すると、当たり前の様に婦は自分の寝台だと云って退けた。

『独り寝よりは二人がイイでしょ』

との事だが。

私が居ます、と云いたげにウルが小さく物音を立てる。

其れとイサも。

如何したって無理だ。

断りに、婦は訳知り顔して長椅子を貸してくれた。


禁:

信を受け取った物の、遇えるとは限りません。

風聞の方が届き易いのでは。

『イイ物を見せたげる』

ワズさんが尋ねると、彼女は標本箱を取り出しました。

色褪せた花蝶達。其れは届かなかった言葉の亡骸。

此処からは出られないのだと。

『アタシと同じ』

細指が優しく硝子を撫でました。


粧:

白指が動いて髪紐を編み込む。

石細工の揺れる其れは、此処の流行りだと云う。

仕上げに練香水を擦り付けられ、漸く解放された。

鏡に映る見慣れない自分。

『此れだけで随分違うだろ』

鏡越しに婦が笑む。

ウルは如何思うだろう。

『さ、行ってらっしゃい』

出立を促す聲に雑念を払った。


懼:

地震の如く波打つ地面。

来たぞの聲と共に、巨体が畝り乍ら山腹の穴より飛び出します。

黒鋼の鱗を持つ、驚く程大きな長蟲。

見るからに鋭い牙の並ぶ口を目にして、ワズさんが顔を蹙めます。

「あれに乗るのか」

確かに少し気味が悪いかも知れません。

「酔いそうだ」

ああ、其方ですか。


流:

鋼蟲は海中回廊を突き進む。

背に据えられた客室からは、蠕動の都度鱗から火花が散るのが見えた。

一瞬の閃光に水壁へと魚影が映し出されるのも。宙を舞う無数の銀色。

滑らかな腹を束の間晒し、濃紺に溶けて行く。

「流れ星の様」

ウルの囁きに再び光を追う。

掛ける願いは持たない儘。


鐘:

『客室』の一番奥。

灯りの乏しい隅の席は影に充ち、誰の姿も包み隠します。

「本当に良いのかい」

念を押すワズさん。

私は肯定を返します。

此処なら何をしようと見咎められないでしょう。

がらんがらんと響く鱗の音は鐘音に似て。弔いの鐘に相応しいから。

ジギは海へと還しましょう。


露:

何の音もしなかった。

いや、鋼の音に掻き消されただけかも知れないが。

小瓶は無音で水洞の壁を破り、水底へと落ちた様に思う。

確め様にも既に遠ざかり、顧みる事は出来無い。二度と。

其れでも、僕は後方を見続ける。ウルの代わりに。

「有難う御座います」

胸に抱く本が仄か湿った。


費:

そう云えば、と。

ワズさんが取り出したのは、起点となった宝石でした。

「此方は埋めようか」

本当は、そうした方が良いのかも知れません。

ですが、断りました。

せめて路銀にして下さい。

死者の弔いはもう十分でしょう。其れに。

私達は未だ生きています。

生きて行かねばなりません。


亦:

紺青より青藍、紺碧を経て天色。

近付き来る光環に、海廊は其の色を透かす。

移ろう色相は、まるで夜明けの様。

或いは。

「ラサヤナ、とは此の事ですか」

ウルが囁いたは、『出口』である街の名。

其れは『再生』を意味する古き言葉。

全ての母たる海の胎より、僕等は再び産み直される。


眩:

時は夕刻。

世界は金色。

青を抜けた先に広がっていたのは、広大な砂原。

細砂は黄昏を照り返して、辺り一面を煌かせていました。

街も人も、全てを眩く。

「世界は」

異国の寺院から流れる祈りの聲を聞き乍ら、ワズさんは双眸を細めます。

「淋しい位に美しいね」

そうですね。

世界、は。


狩:

『たり・ほー』

蕾にも紛う唇が謡う。

其れは養父が教えてくれた歌。

少女を膝に抱き、此れは狩りの歌なのだと。

『捕まえて、閉じ込めてしまうよ』

耳奥で谺す嘆きの聲を歌で掻き消し、少女は満面の笑みを浮べた。

『そして絶対逃すもんか』

誓う様に歌い上げ、見えぬ誰かを抱き締める。


報:

離宮の池が又水嵩を増した。

代わりに居た筈の魚が姿を消している。

恰も水に融けたが如く。

純銀の鱗を持つ美しい魚だったのだが。

致し方無しと、男は甘受する。

元より解っていた事だと。

『次を探して、とうさま』

舌足らずの懇願にも鷹揚に頷いてみせた。

お前が其れで微笑むのなら。


強:

眼差しの先。

本の形が緩やかに解けて、脳裏に浮べた姿へと変貌する。

ゆるりと僕を見上げるは、赤金に染まった眸。

底に揺らめくは哀傷の色。

「見ないで、下さい」

そう云って俯向くウルを抱き寄せ、肩に顔を埋めさせた。

未だ癒えないのか。

いや、癒える筈が無い。

癒えなくて、良い。


跡:

歩む度、砂地に刻まれる足跡。

ふと、大きさの違いに気付いて、足を重ねました。

其の儘で後を追います。

振り返れば、残る足跡は一つきり。

まるで、此所に居るのは独りだけの様。

「ほら、行くよ」

見入る私の手を、ワズさんが強く引きました。

そして再び足跡二つ。

二人で在るのです。


識:

風笛の音と共に、砂丘から一つ影が沸く。

象牙色の布を幾重にも層ねて纏うは水師の風体だ。

此れも縁だと近隣の水場を教えて貰う。

其の間、水師の衣から引切り無しに羽蛇が顔を覗かせる。

如何やら此方に近付きたいらしい。

水符に惹かれるのか。

「敏いですね」

ウルが苦笑を漏らした。


塗:

遮る物が無い、広漠とした砂原。

空と地と、そして影と。

三色で作られる光景の只中で、ワズさんは腕を広げます。

「さあ、おいで」

呼掛けが風見となったのでしょう。

碧落に色が生まれました。

集うは風聞の花蝶。

夥しい色の奔流に眼前の姿は呑まれ。

唯一つ残る小指を強く握りました。


特:

渦巻く花色の中。

最も立派な翅をした風聞は、一瞥だけで追い遣る。

「何故引き止めないのですか」

手を伸ばすウルを制し、あれは『育てられた』風聞だと首を振った。

幼生の頃に信を食べさせ、長文を刻み込んだ花蝶は遠方迄飛ぶ。

出来れば近場の風聞が良い。

何より。恋文に用は無い。


崩:

風聞の中には、読めない物もありました。

とは云え、翅が擦り切れているのは稀です。

消えるのは言葉だけ。

最早元の形をなぞる事は出来い程に、文字は擦れて読めません。

ワズさんは暫く指で辿った後、花蝶を握ります。

「お疲れ様」

指の隙間から零れる砕けた翅に、黙祷を捧げました。


供:

拭えど拭えど滴る汗。

「口を開けて下さい」

不意の聲に云われるが儘口を開くと、唇を掠めて指が入り込んだ。

舌を固く冷たい何かが押し、反射で顎が閉る。

「噛んでは駄目ですよ」

指を舐めつつ云うウルに、口内の塊を舌で探る。

此れは氷海の欠片か。

即座、得意気な口に返してやった。


厭:

暦では冬。

しかし、此の大陸は違う模様。

陽が沈めば良いのですが。

毛皮を纏った姿では、日差しが如何にも厳しいです。

いっそ蛇などは如何でしょうか。

首元に絡めば少しは涼しいかと。

「蛇はね、美味しいんだよ」

ワズさんは瞬きもせず、真顔で言い切ります。

……済みませんでした。


讃:

風聞の多くが語るは勇ましき物語。

国王が其の勇猛にて大陸を一つに束ね、のみならず『魔女の詩』すら斥けたと。

「素晴らしい方なのですね」

感嘆を滲ますウルの聲に、僕は言葉を濁す。

人々を一つに。

言葉は華やかだが、其の影には如何程の死が在ったか。

風聞は一つとして語らない。


濡:

其れは瞬いた瞬間の出来事。

白砂が灰色に染まったかと思うや否や、視界が煙りました。

叩き付ける様な突然の通り雨。逃げる暇も無く、雨宿りの出来る場所すら在りません。

「もう、如何にもならないね」

水の遮幕、其の向こう。

躯の線も露わなワズさんに、咄嗟上衣を投げ付けました。


朋:

『魔女』の風聞。

其れは常に黒蝶で届く。

其の方が『らしい』だろうとの云いには失笑しか出ぬが、分かり易いのは良い。

他の誰に委ねる事無く私室に届くのも又。

『何ぞ良い便りでも御座いましたか』

引見の際、問うた臣下に一つ頷く。

『友』が私を恃むが、悪い知らせである筈が無い。


恒:

十年一昔と云ったのは誰だったかしら。

確かに十年も経てば街も人も変わりはするけれど。

荒野には村が出来た。

幼子は青年へと育つ。

其れでも変わらぬ物も在るものよと、掌から飛び立つ蝶に囁く。

何れ人が『物語』から離れ、過去へと追い遣ったとしても。

『私』は隣人として在るわ。


拗:

砂上を航る白い翼。

帆に風を捉え、羽ばたく様に砂船が奔る。

子供等が器用に操る姿に、僕にだって出来るだろうと一艘借り受けてみた、が。

「その、私が船になりましょうか」

僕から砂を払いつつ、ウルが上目遣いで訊ねる。

「絶対倒れませんから」

力強い申し出に、そっと首を振った。


帷:

近頃、夢を見ないのでしょうか。

眠りも少しだけ深くなり、夢現に『あの人』を呼ぶ事もありません。

そして、私自身について良く訊ねる様になったのです。

「今居るのはウルだからね」

そう、云っては下さるけれど。

其の代わり、少しずつワズさんが消えて行く気がしてならないのです。


詐:

皺枯れた掌から零れるは、染料で染めた砂。

間を置いて、恰も砂自身が意思を持つかの様に蠢いて、卓上に模様を描き出す。

『探し物は近いね』

軈て砂占の婆が告げた言葉に、ウルが喜色を浮べる。

僕も又感謝を述べ乍ら、占賃を渡した。

喜んでいるのだし、磁石は見なかった事にしよう。


嘘:

夫婦に手を引かれた子供。

其れは何処にでも在る睦まじい光景。

しかし。

ワズさんは突然、遮る様に彼等との間に躯を割り込ませました。

「危ないからね」

何時かの言葉を未だ覚えていて下さったのでしょう。

私の、詰らない虚言を。

優しい背に今更告げられず、額をそっと押し付けます。


潜:

此の国で何処でも売られている砂避けの頭巾。

一面に施されている刺繍には、模様の一つ一つに加護の念が込められているそうだ。

術と称ぶには拙いが、十分役立つ。

「まるで世界から隠れている様」

布から僅かに覗いたウルの口元が弧を描く。

元から其の心算だった僕も、其れに倣った。


柔:

此の所、私は獣人の姿で落ち着いています。

しかし、強いられてではありません。

日毎に聢と、何の姿が良いかを聞いて下さるので。

荷物よりは共に歩む方が良いです。

何より。

「手、繋ごうか」

云って、柔々と揉まれる掌、と云うより肉球。

嬉しそうなワズさんに、一寸他は選べません。


戯:

砂丘の涯には井戸が在ると云う。

滾々と湧くは水で無く、砂。

「埋めれば良いのに」

ウルの云いに、『物語』だから出来無いのだと老翁は語る。

『長い永い生に『青の魔女』は倦んでおられるだけだ。儂等にはようして下さる。無聊の慰めとなるならば可い』

そう皺に埋もれる様に笑った。


訝:

視線。

私にとって其れは文字通り、糸の様な物です。

意識は眸で縒り合されて一筋の流れへ。

そうして出来上がる、か細い糸。

時に容易く千切れもしますが、幾重にも絡めば堅固な引綱ともなるのです。

「如何かしたかい」

怪訝そうに振り返るワズさんに、私は強く一歩を踏み出しました。


影:

歩みの鈍るウルを気遣う都度、視界に掠める影。

帯剣した男の姿が其処に在る。

傍道に逸れても付かず離れず。一定の距離を保って。

「失礼します」

聲の後、突如の浮遊感。

抱えられたと気付いた次には、地面へ別れを告げる。

猫族宜しく家の屋根を渡る僕等に、男は何か叫んだ様だった。


斥:

家々を幾らか渡る内、不審な影は姿を消しました。

「知り合いかい」

言外に同族かとも問うワズさんに否を返します。

あれは人でした。

同族ならば引き合うので判ります。『欠片』から『鏡』に戻ろうと。

しかし、先程感じたのは一方的な物。

逆立った毛を、温かい掌が宥めてくれました。


比:

旅をする上で大切なのは識らない事。

予て聞かされた言葉を、呪いの様に唱える。

踏み込めば、脚を取られて抜け出せなくなってしまう。

だから考えまい。

「逃げずに話をすべきだったのでしょうか」

後悔を帯びた声音にも首を振り、ウルを傍へと招き寄せる。

他人の事情など知った事か。


催:

抱擁は柔くも振り解けない強さ。

耳を擽る吐息が小さな謝罪を告げます。

頭から滑り落ちる頭巾を留めようにも、腕は動きません。

いえ、腕ばかりでは無く躯も又。間近い顔に躯の芯も融けます。

そして。

「何方が狙いか知れないからね」

本となった私を腕に抱き、ワズさんは笑みました。


護:

驚いた事に、此の大陸には図書館が存在する。

而も、国王の庇護下に在るのだと。

『此所に在るは、記した者の信念。過去。そして未来。汝等に罪無し。遺棄するは冒涜と識れ』

入口に掲げられた碑銘に、ウルが淡く息を吐く。

「ワズさんの仰った通りですね」

そうだね。

物語は消えない。


庇:

先ずは王都へ。

其れが二人で出した答えでした。

未だ、あの時の方が何だったかが識れない以上は乱りに風聞も飛ばせず、他に道は無いのでしょう。

「人が多い方が紛れられるしね」

依然、本の姿に私を留めさせて、ワズさんは一人歩みます。

「僕は脚だから。君の」

狡く、反論を制して。


責:

斃死に行合うのは、さして珍しく無い。

野盗に、獣や魔物。

『魔女の詩』。

或いは単純に病や飢えと、其の原因は枚挙に暇が無い。

眼にした際には出来る限り弔う。

其れが旅人として当然の事だ。

「あれ、此の人」

ウルの聲に、荼毘に付そうと伸ばした腕が止まる。

見覚えの有る顔だった。


辣:

倒れていらっしゃったのは、つい先日の不審者さんでした。

「よし、埋めてやろう」

ワズさんの言葉には一切の迷いも有りません。

いえ、其の方は未だ生きていますから。止めましょうよ。

手際良く着衣を剥ごうとするのを如何にか止めて頂くと、微か舌打ちが聞こえた様な気がしました。


餓:

俯伏せの儘動かない男。

垣間見える横顔には苦悶が刻まれているが、特に外傷は見当たらない。

取り敢えず、手足位は縛っておこうとすれば、地鳴りに似た音が腹部から轟いた。

即ち。

「若しかして、お腹が空いていらっしゃるだけでは」

ウルの呟きに、今一度男では無く腹の虫が答えた。


緩:

大剣を外して蹴り飛ばし。

脚と手は紐で戒め。

「念の為にね」

そう仰いますが。

何時でも駆け出せる様に距離を置いてイサに突付かせる辺り、不調の方には酷い仕打ちです。

しかし。

彼の間近に置かれた、水と食料の包み。前で縛られた手。

如何にも『甘い』のが、ワズさんの良い所です。


猫:

『あ、怪しいもんじゃ無い本当に』

必死に言い募るが、其れで納得する筈が無い。

『その俺、じゃなくて、私は、にゃんこが好きで』

羞恥からか、顔を真っ赤に染めて男が俯向く。

「にゃんこ、ですか」

うん、にゃんこね。

ウルの言葉を受けて白眼を向けると、男は益々躯を縮こまらせた。


鈍:

空腹を満たし、落ち着かれた男性が語った話を要約すると。

――動物の、しかも猫族が大好き。

従って、獣人も好き。

あわよくば触れたい。

しかし如何云えば良いか解らず、先ずは機会を伺う為に後を追い掛けた。

との事。

「莫迦ですか」

鰾膠無いワズさんに、男性が再び突っ伏しました。


諧:

『所で、にゃ……じゃなく、連れの方は』

未だ頽れた儘に、力無い聲で男が訊う。

一足先に王都へ行ったと嘘を告げると、彼は勢い込んで面を上げた。

『なら、王都迄お供をっ』

真剣な眼差しだが、砂塗れの額が円く赤い。

容赦無く云うなら間抜け面。

僕の代わり、ウルが小さく吹出した。


士:

男性は言葉を重ねます。

『此れでも永代の名乗りを許された騎士っすから』

なら、『詩』を狩ったのでしょうか。

ワズさんも同じく思ったのか尋ねると、否と明朗な聲が返りました。

『護るからこそ騎士と称ばれるんすよ。唯戦うのみなら、破落戸と同じでしょう』

笑みは子供の様でした。


間:

幼い頃、近所の子とやった遊びを思い出す。

鬼が振り返ったら、決して動いては不可ない。

最後は鬼に触れれば勝ち。

そんな他愛の無い遊びだ。

「或る意味凄いですね」

もう幾度目か。

振り返った先で手を振る騎士に、ウルが感嘆を漏らす。

本当に、何で互いの距離が少しも狂わないんだ。


折:

護衛代わりとの言葉を守っているのでしょう。

付かず離れず後ろに居る騎士さんに、ワズさんの歩みは速くなる一方。

「王都に着く前に離れたいけど」

何より。

男性なのが気に障るのでしょう。

「君は如何したい」

けれど、厭々乍ら聞いて下さいます。

一度位なら触らせても良いのですが


産:

人、獣、時に蟲だろうと。

如何な相手とも児を成す。

だが、生まれし児は皆イーディアの性である。

故に、生じた時点では明瞭な形を持たぬ。

人との間に成したなら、即ち。

蠢く肉塊を前に、産婆は呪いと共に逃げ。

男は愛慕を捨てた。

残りし子は母を啜って生きる。

何時か愛される為に。


貫:

今、此の場に在る事が主からの命とあっては、否やも無い。

何時、如何なる時にも、如何なる状況でも王命に従い、護り戦うのが騎士である。

正義も悪も無い。忠心が全て。

唯其れでも、胸に刺さるのは。

前方より向けられる、変質者を見る様な冷たい眼差し。

ちょっぴり泣きたくなった。


遁:

彼。男。騎士。或いは端的に、あれ。

「名は何と仰るのでしょうね」

僕が男を示す言葉に、ウルが尤もな疑問を上げる。

だが、此方から訊いはしない。

名を知れば、存在を認めてしまう。

名さえ知らなければ。

有象無象に埋もれて個は郡となる。

何れ無かった事にするには、其の方が良い。


替:

今迄とは違い、素直に街道を辿っての行き路。

砂の多い此の土地では、其方が楽な道程と云う事もあるのですが。

「何かあったら、あの人に任せれば済むしね」

ワズさんは言い切ると、迚も良い笑顔を後方に向けます。

嬉しそうに手を振って下さる騎士さん。

何だか申し訳なくなりました。


卑:

舗に入ろうと、互いの距離は変えない。

離れた場所に座る自称騎士は、苦笑を浮かべて僕を見る。

「相席でも宜しいのでは」

ウルの勧めは聞えなかった物とした。

自分でも狭量だと解っている。

しかし。

意思の強そうな太い首も。広い掌も。厚い胸も。

僕が持ち得ない全てから目を逸らす。


羞:

探し物は近い、筈ですが。

未だ手掛りは有りません。

同族の事も。信を渡すべき人の事も。

「そう云えば聞いてなかった」

ワズさんは騎士さんに、あの『宿』の事を問います。

すると。

『何て事を聞くんすか!』

叫んで、勢い良く駆けて来る彼。

迫る真赤な顔を、強かにイサが突きました。


汚:

騎士の手は何時でも黒い。

薄汚れて居る訳では無く、単に手袋を外さないだけだが。

物に、人に、直接触れる事が無い。

目視出来た唯一の例外は、帯剣を手入れする時。

「けじめ、なのかも知れませんね」

何の、とは聞き返さない。

唯、ウルに触れる際は如何するだろうかと、ふと思った。


絆:

爪一欠。髪一筋。睫毛一本。血や涙の一滴。

或いは、剥がれた瘡蓋でも。

何でも構いません。貴方の一部で有りこそすれば。

体に取り込む事で繋がります。貴方へと、強く。他に影響されぬ様。

「自由にさせてあげられなくて御免」

ワズさんはそう仰いますが。

私は既に選んでいるのです。


砦:

飾り気の無い無骨な城壁。

其れは数多の戦火に耐え、戦い抜いた証。

許多の傷を刻み、睥睨する武人の如き威風に気圧される。

城門にも武装した門番が控え、直ぐには入れそうに無い。

否、無かった。

『此方は連れっす』

横合いからの一言で容易に通される様に、鞄から口笛の音が漏れた。


昵:

騎士さんが歩むと、先々で街の人が心安く話し掛けます。

「威厳は無いみたいだね」

其の姿をワズさんが辛辣に評します。

『聖務の時には改めるっすけどね。俺は此方が好きな落ち零れで』

言葉と裏腹に、穏かで自信に満ちた顔。

私も彼と話したいです。

囁けば、承諾と鞄が叩かれました。


欺:

旅人に必要な技能。

挙げれば色々有る。

だが、役立つと云えば矢張り此れだろう。

如何に巧く嘘を吐けるか、だ。

抑、ウルが姿を変えない限り会える筈も無い。

詮索を躱し続け、一度騎士団の宿舎に戻ると云わせる。

『ナシムと云えば判るっす』

去り際に告げられた名。

返しはしなかった。


奇:

邂逅自体は問題無かったのです、が。

『出来れば其の手で頬を叩いて欲しいっす!』

私の手、もとい肉球を見詰め、輝くナシムさんの瞳。

反してワズさんの双眸は沼の如く濁ります。

恐らく私の眼も同様に。

「多分、爪を立てれば良いんじゃないかな」

半ば本気の勧めに、心が揺れました。


妬:

一見和やかに言葉を交すウル達。

半歩身を引き、其の光景を目の上に乗せる。

頻りに肩で跳ねるイサを咎める気も起きない。

会話は鼓膜を上滑りし、小鳥の囀りの様だ。

「あの、私が紹介しても?」

しかし、戸惑い揺れる聲に引き戻され、如何にか名を告げる。

胸の重さに、溜息が漏れた。


疆:

此方を見て居ますが、観ては居ない眸。

半ば心を彷徨わせているかの様。

『捜し人の事は俺の方でも聞いておくっすよ』

ナシムさんの申し出に深く礼を返すと、ワズさんの手を引きます。

「他人と深く係るのは御免だよ」

耳を掠めた呟き。

微か震える手に言葉を殺します。

では私は、との。


斉:

聖句を刻んだ玉を算え、頭を垂れる司祭。

其の直ぐ傍には鈴を鳴らして祝詞を上げる僧の姿も在る。

隣で唱える祈りが違おうと、誰も異を唱えない。

異なる神を奉じる者達が、混然と祈りを捧げる聲が夕闇を色彩る。

「祈る心に違いは無いですものね」

円かなウルの眸に祈人の影が揺れる。


他:

黄昏に鐘音が滲み、長い影を引く人々が家路を急ぎます。

髪も。膚も。眸も。

異なり乍ら混じり合う人波。

手を結んだ私達も容易く紛れてしまいます。

唯の『人』として。

「優しい夜だね」

露天の灯りを目に、ワズさんは仄か笑います。

でも私達は識っていました。

其処に留まれない事を。


備:

銀鱗に水晶角。

滑石の指と鋼の蹄。

躯の一部であれば部位は問わぬ。

だが、美しい方が壊し甲斐が有ると云う物。

歪な笑みを浮かべ、呪具師は鎚を振るう。

全て砕いて硝子に封じ、作り上げしは銀鎖の振子。

呪具は狩人に委ねられ、獲物の在所を示す導となる。

娘が又、タリホーと歌った。


興:

一目なりとも会って見たい。

そう言い出すとは思っていた。

『此所に在るは皆、我が身内よ。何を懼れる事がある』

磊落な云いに、思わず従順に頷き掛けて如何にか止める。

危険は確かに無かろう。

国王においそれと手は出せまい。

だが。

護衛が目立つんで邪魔っすとは口に出し辛かった。


患:

酒場で不穏な張紙を見付けた。

良く有る人夫募集の類だが、狩人募集と書かれている。

呪具は支給。獲物は――。

人目を盗んで貼紙を剥がす。

店主に聞けば、集めている領主が居るらしい。

其れこそ、如何な姿でも問わず。

「何か解りましたか」

問い掛けるウルの影で掌の紙を握り潰した。


鎖:

人混みで、急に手を引かれました。

目を遣ると小蛇が一匹、では無く、銀鎖が小指に絡んでいます。

擦違った際に引っ掛かったのでしょう。

失礼を詫びて解こうとすると、硝子飾りが指を掻く様にして外れました。

「大丈夫かい」

ワズさんが覗き込む指に一筋の傷。

何故か胸が痛みました。


奪:

呪い。

術符。

此れ等は時に無比ともなる、『魔女の詩』の断片であり世界を変質する力。

だが其れも使い手次第。

結局の所は、何を使おうと最後は個人の技量が全て。

力無き者は力有る者には抗えない。

痛む顳と横倒しの視界。

縛り上げられたウルの姿を最後に焼き付けて、意識は落ちた。


復:

緩々と開いた眸に見得たのは。

ワズさんでは無く懐かしい面差し。

乾いた唇で紡いだ名に返る肯定。

頬へ笑窪を刻み、真直ぐ伸べられた両腕が首に絡みます。

訝しむより先、慕わしさに細い躯を抱き締め返そうとした瞬間。

『も一度一つになろ』

甘い囁きと共に、喉が締め上げられました。


躊:

鈍痛残る頭を抱え、道を往く。

目指すべき場所は手の内に有る。

迷う事は無い。

道だけは。

次第に鈍る足は軈て進むのを止め、僕は其の場に立ち尽くす。

ウルが僕の呪を解こうとしているのを識っている。

此処で離れれば、呪は僕の物だ。

其れでも、捜すのか。

自問は敷石の狭間に消えた。


抗:

触れる膚の下。

見合う眸の底。

犇き揺れる意識。

何十と、若しかしたら其れ以上の。

『いっしょになろ。もう、離れないよに』

沢山の『私達』が、クノが、私を呼びます。

けれど。

『そしたら、しあわせ』

喉に食い込む手に爪を立てて抗いました。

私は未だワズさんに別れを告げていない。


助:

何故此所に居る。

門前に佇む影に、思わず出し掛けた言葉を飲み込む。

『来てくれて良かったっす』

ナシムは迷う事無く話し掛けて来る。

予見でもしていたかの如く、兵装を整えて。

何時でも駆け出せると、馬が蹄を鳴らす。

『貴方が望むなら、供を』

馬上から伸べられた手を僕は取った。


補:

例えば――

自分を捨てた息子。

世界で唯一の物。

金に代わる物。

亡くした娘。

人間は私達を見ません。

私達に被せた形を愛でるだけ。

でも、ワズさんは。

あの時を限りに、代わる事を願わなかった。

だから。

『ヒトをジギとイル、私の代わりにしたの?』

降り注ぐ笑言が反駁を殺しました。


譚:

窶れた月の下、闇沈む道にも臆せず騎馬は疾駆する。

差し出した紙片は一瞥も与えられずに役目を終えた。

『騎士は乙女の危機に必ず現れる物っすよ』

何故を切り捨て、ナシムはウルの救済を請け負う。

此れでは宛ら『物語』では無いか。

馬蹄が高らかに夜を穿つ音が、開幕の鐘に聞えた。


保:

『私達』が己を保つ術は二通り。

自分自身を自ら認識し続けるか。

他者に認識し続けて貰うか。

しかし、前者は他者と交われば容易に侵食され、後者は『イーディア』で在る以上顧られる事がありません。

だから、なのでしょうか。

クノが『私達』を飲み込んでいるのは。

自分を保つ為に。


傷:

顳に触れた指先に僅か滑る感触。

黒ずむ其れは、灯下で見れば紅色をしているのだろう。

振動に合せて襲う頭痛。

宿に押し込んで来た奴等に殴られた後、手当も等閑な儘だった事を思い出す。

――ウルは如何だろう。

今更に過った想像に背筋が冷えた。

仮令一筋でも傷が在ったなら、僕は。


求:

虜囚の身。

そう云うには、余りにも恵まれていました。

しかし。

柔かな寝台。絹の衣。

其れ等を与えられたとて何になるでしょう。

――ワズさんは大丈夫でしょうか。

床に頽れた姿が瞼に浮かびます。

唯一外へ開かれた天窓から、今直ぐ飛び立ちたいのに。

黒鋼の枷が、其れを許しません。


紕:

始まりは、ゼアの同行として。

次には、其の軌跡を辿って。

其の旅を終えた後はウルの脚として、此処迄歩いて来た。

そう、僕は僕自身の旅をした事が、無い。

今改めて、其れに気付いた。

今でさえ、手綱を握るナシムに導かれて先を目指す。

僕はもう、何処にも行けない。

独りきりでは。


喪:

クノは未だ知りません。

二人が、もう何処にも居ない事を。

私に融け、混じり、一つには足りない欠片に戻ってしまった事を。

『みんな揃ったら、いっしょになってくれるよね』

無邪気な笑みを浮かべて訊う稚い顔に、私は固く口を噤みます。

爪をもがれた指より、心が血を流す様でした。


竦:

砂海に浮かぶ一艘の軍船。

眼前に構える館は、一見してそんな印象を抱かせた。

此の荘園は豊かな水場を内包していると云う。

其れ故にか領主の要塞は門を固く閉ざし、外界を拒む構えを見せていた。

『穏便に行きたいっすけどね』

黒手袋が帯剣に置かれる。

僕は。

懐の柄を握れずに居た。


謬:

私達は一体何処で、何を、間違えたのでしょう。

出逢った事でしょうか。

或いは混じってしまった事。

そもそも、森を出てしまった事でしょうか。

其れとも。

『母様』が私達を作った事こそが、過ちだったのでしょうか。

嬉々として私に繃帯を巻くクノはもう、嘗ての彼女ではありません。


正:

小細工はしない。

其れが僕等の間で交された決め事だった。

何も恥じる事が無いならば正面から堂々と。

『一応は俺が先に行くっす』

預けられた手綱を引き、先導する背を追う。

ウルは物では無い。己の意思を持つ命だ。

其れに、僕の。

飲んだ聲の代わり、羽ばたきが耳朶を掠めて行った。


徴:

共に在ればクノは救われるのでしょうか。

ぐらり傾ぐ意識に、鋭く差し込む硬質な音韻。

細かな光が降り注ぎ、仰ぎ見る眸に破れた天窓が映りました。

次いで滴る金の雫。

掌に落ちた其れは音無き歓喜の聲を上げ、翼を広げます。

真鍮の躯に蒸気の命を巡らせた鳥。

紛う事無くイサでした。


賄:

面会が滞り無く了承されたのは、騎士の肩書き故か。

耳触りの良い社交辞令に始まり、柔和な笑みすら交えた遣り取り。

『非礼は如何様にも詫びましょう。しかし』

僕を他所に交される一進一退の探り合いが一転、硬直する。

『娘の友人だと聞きました』

卓に置かれた袋から金音が響いた。


亡:

瞬きの間。

掌から忽然と温もりは失せました。

一陣の風を連れ、白い軌跡がイサを攫ったのです。

『そっか』

掲げられた小鳥は逃げる間も無く。

『ぜんぶ壊さないと』

艶めく革靴の元、散った歯車。

膝に当たった硝子球、其れは。

『そしたら、私だけ』

虚ろな目に笑声と慟哭が響きました。


促:

窓が、揺れた。

太々と長い咆哮によって。

白々しい小袋に向けられていた三対の眸が、音の源を求める様に扉を指す。

今再び響いた哮りに、ナシムが一つ肯定きを寄越した。

証左など在りはしない。

何の見返りも無い親切など、此世には存在しない。

だが。

全力で高価な敷物を踏み躙った。


甦:

集めなくては。

脳裏に過ったのは其の一言でした。

もう一度『モグラ』に行けば良いのです。

きっとワズさんは何時もの様に、苦笑混じりに連れて行って下さるでしょう。

だから全部拾い集めて、そうしたら、きっと。

何故か逃げる硝子球を捉えようとする指に、重い何かが落されました。


憑:

音に導かれ、痩身が迷い込んだは離宮へと続く滑石の回廊。

居並ぶ柱影に、しりんしりんと鋼が歌う。

行く手を阻む刃の草叢に、臆する事無く旅人は奔った。

懐中に抱く刃は其の儘に、符の助けを受けた双脚は宙を行くが如く。

故に雇兵の眸に残るは、翼に似て靡く外套の軌跡のみだった。


剣:

さてと騎士は首を鳴らし、席を立つ。

背は任せられた。

俄か雑喚き出す館内に、帯剣を鞘から抜き払う。

銀光滴る様な其の腹に刻まれし紋章に、領主の顔へと青が翳した。

『王命に従いて彼らを護るが、宜しいか』

宣言に怯んだ相手の傍を抜け、先陣の後を追う。

猛る血に口元を歪め乍ら。


瞋:

術符で無理に働かせた脚が鈍い痛みを訴える。

漸く自由になった呼吸を補う為に胸は忙しなく動き、喘鳴が耳に煩い。

其れでも、其の微かな音だけは鮮明に聴覚に届いた。

固く確く閉ざされた豪奢な扉。

其の隙間から嫋々と漏れ出る嗚咽。

ウルの聲。

瞬時、熱帯びた脳裏で婦が笑っていた。


序:

初めは一つ。

続いて二つ。

後は間断無く。

震える扉と把手に怒号混じりの呼掛けが続き、私は重い首を擡げました。

直ぐ其処に、居る。

ワズさんが。

思わず唇から溢れた音に、氷青の眸が鳴り止まぬ扉を見据えます。

『あれが失くなれば』

幽けき聲を曳いて踏み出す足を咄嗟に捉えました。


執:

扉越しにも聞こえる鈍く重い音。

「逃げて下さい!」

次いで響いた叫びに、出来る物かと首を振る。

ウルが居る。

生きて、居る。

綺麗事など今更知った事か。

掲げる拳には冴々とした銀の刃。

汗ばむ掌に、革の柄は良く馴染む。

勢いの儘振り下ろそうとする腕を、何者かが背後より掴んだ。


破:

眼前で踊る淡い色。

蝶の羽ばたきに似て軽やかな其れは、そんな優しい物で無く。

ドレス姿も構わずに足掻き、藻掻く矮躯。

蹴られようとも共に床を転げ回る私の頭上で、銀光が閃きました。

敷物に落ちたは、断たれた扉の掛金。

矩形の明かりを背負い立つ人影に、指先が力を失いました。


承:

後方へ引かれる躯。

傍を擦違う様に奔った剣が、一刀の下に鍵を両断する。

『貴方が其れを使うにゃ、未だ早いっすよ』

耳を掠める戯け口。

頬に散る赤い飛沫も拭わず、ナシムは唇に笑みを刷く。

其の肩越し。

開いた扉に垣間見えたは、縺れ合う影。

刃を握り直せば、難無く腕は外された。


急:

一瞬は、まるで舞台の様でした。

首の下へと辷り込むナイフに硬直するクノ。

繊い首に確と刃を添えたワズさん。

瞬きの間に場景は変わり、翻った二色が一点で静止します。

遅れて室内に傾れ込む外気は何処か腥く。

「如何すれば良い」

其の中で、唯問い掛けの聲だけが清廉に響きました。


兇:

唯漠然と、出来てしまう事を怖れた。

手順は獣を捌くのと何ら変わりは無い。

此の儘、腕を横に引く。

其れだけだ。

違うのは、食料では無いと云う事。

瞋恚揺れる少女の眸を見下ろし、口内に湧く苦い唾を飲込む。

いっそ『眠り』に就かせれば。

「待って下さい」

惑いをウルの聲が遮った。


二:

目の前に大切なモノが二つ。

懐かしい友と。新しい友と。

いいえ、そうではありません。

『私達』と『私自身』。

過去と未来。

何方かを取れば、もう一つは失われてしまうかも知れないモノ。

「長くは、待てない」

ワズさんの聲は軋む様で。

私は床を這い進み、一人の躯を抱き竦めました。


憤:

刃先から細首が遠ざかる。

其れは安堵すべき事なのに、強張る指は兇器を離そうとしない。

狂気を放そうとする。

選んだのは其方なのか。

僕の寄す処を揺らがせておいて、自分は過去を取るのか。

「ジギもイルも、もう居ません」

睨める僕に怯まず、少女を抱くウルは静かに懺悔を告げた。


骰:

最早、戻れないのです。

ジギ、そしてイル。

彼等を飲み込んで、私が居る。

其れを『無かった』事には出来はしない。

『うそよ』

告解に、亜麻色の頭がゆるりと振られます。

鼻を擽る其れは甘く優しいのに。

「事実だよ」

ワズさんが肯定する現実は苦く冷たく。

クノと私の胸を貫きました。


渇:

慟哭の影、窺い知れた真実の一端に、詰めていた息を吐く。

恐らく。

夢見たは、唯の平穏。愛しい者と日々を過ごす事。

変わらぬ日常が在り続けさえすれば良い。

其れが如何な形であれ。

何を犠牲にしても。

「クノ、其れでも貴方が望めば共に」

怖々と切り出すウルを、少女は振り払った。


窮:

身構えるワズさん。

『でも、とうさまが』

其の前に身を割り込ませると、細い聲が耳に届きました。

『愛してくれたの』

縋る眸に、頷きを返します。

『娘』として慈しまれて居たのでしょう。

偽りでも、愛を拒む事は出来ず。

其れでも消せなかった自分。

ならばと静かに口吻を開きました。


堕:

諦める事は容易い。

たった一言、もう良いと呟くだけ。

其れだけで人は、常に傍らへ寄添って居る奈落に落ちる。

呆気無く。他愛無く。

伸ばした指先を掠める事すら無い。

僕は其れを良く識っている。

「御免なさい」

呟いて、細首へと顔を埋めたウルには見えない。

中身を無くした笑みは。


喰:

ぶつ、り。

音は耳では無く、頭蓋に直接響きました。

肉を穿つ牙先に鈍く伝わる蠕動。命の震動。

弾性に抗って力を込めれば、口腔に溢れる熱。

血は水。水は記憶。

舌刺す意識の奔流を、吐気を堪えて喉に流し込みます。

他に何が出来るでしょう。

背に触れる掌に、固く目を閉ざしました。


殻:

心と体が切り離されていく。

其の微かな響きを聞いた気がした。

芯を失くし、床を掻く指先。

淡く開かれた唇は塗り忘れたかの様に白く。

少女は人形と化して横たわる。

そう、正しく人形として。

「さようなら、クノ」

器に残るのは愛された記憶。

其れだけを頼りに、繊く息を紡いでいる。


孤:

左様なら。

無数の泡沫は其々にそう歌い上げて弾け、後に残されるのは漣立つ水面ばかり。

クノだけが知っていた彼等は、一人残らず『私』になってしまいました。

顎を伝う雫を、乾いた指が拭って行きます。

ワズさんは何も云わず一つだけ頷いて、青白い少女の躯を寝台に横たえました。


幕:

剣戟の楽音は何時しか止んでいる。

ナシムは。

斃れたのだろうか。

冷えた心で思う。

ならば、踏み込んで来ても可笑しくはないのだが。

僕等の存在と痕跡を消し去る心算なら。

だが、其処まで正気を棄て切れはしなかったらしい。

緩慢と開かれた扉の先。

倒れ伏す影は一つとして無かった。


集:

歯車。螺旋。導管。捻じれた欠片。水に、油。

嘴だった物。脚だった物。そして、瞳だった物。

小さな躰から零れた、沢山の破片達。

敷物の染みは戻せませんが。

躰だけは余さず集めなければ。

戻るにしろ、そうで無くとも。

黙々とイサを衣嚢に納める私の頭上に、一筋の影が差しました。

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