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Tale of Paths  作者: 橘颯
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第一話~第二百二十話

登場人物


主役

ワズ:旅人・人間

ウル:同行者・『イーディア』魔法的生物


その他

ゼア:旅人・元咒い保持者・人間

ジギ:宝石鳥・『イーディア』魔法的生物

クノ:稚い少女・『イーディア』魔法的生物

イル:上古の獣・『イーディア』魔法的生物

プラト:高位術師・パガド・人間?

イサ:蒸機鳥

ナシム:騎士・夏の大陸、中央王家に属す・人間


黄の魔女:『世界』の敵・十と二十二名からなる『魔女』の一人

青の魔女:『世界』の創造者・十と二十二名からなる『魔女』の一人

 始:

 草原を行く影一つ。

 天蓋より降り落つ月光は草原を銀海へと変え、旅人は孤独な船の如く。

 ところが。

「今晩和。良い夜ですね」

 唐突に、朗らか、よりは幾分か落ち着いた聲が草上を渡り、旅人に届いた。

「今晩、和?」

 聲に釣られ、振り返った先には一冊の本。

 此れが『二人』の出会い。


 遇:

「始めまして」

 ぱたりぱた。

 表紙が動く都度、先程の聲が聞こえる。

「ええと、貴方には今私が何に見えますか」

 幻聴では無い、が。

 本、以外何に見えるだろう。

 喋る本も確かに奇態だが、其れ以上に気になる事があった。

 そも、此処は草原の真中。

 如何して此処に在る、いや、居るんだ。


 弁:

 本、ですか。

 まあ、躯が儘ならぬ時点で生物では無いとは思いましたが。

 そう零した所で、何やら独り言ちている旅人さんに私の呟きは届かない模様。

 改めて、私は認識の生物なのです、と語り掛ける。

 貴方が本として認識する以前は自由に逍遥っていました。

 そう、問の解を付け加えて。


 語:

 認識の生物、とは。

「他者の認識に容易く染まるのです」

 首を捻る僕へ、本は淡泊に返した。

「側に居る者に影響されて私は変化します。此の様に」

 何故か少し誇らしげに本が開く。

「ところで、何が書いてありますか」

 ええと今の会話、か。

 広げられた頁を読み上げた途端、聲が止んだ。


 黙:

「如何したんだい。急に黙って」

 と、申されましても。

 其の様に『認識』されては、いっかな聲が出ません。

 しかし旅人さんも気付いたのでしょう。

 僕のせいかとの呟きが落ちて来ました。

 確かに、貴方の認識によって私の聲が文字になりましたが、唯其れだけの事。

 何卒お気になさらず。


 念:

 月明かりに照らして読み取る、幾行かの文。

 謝罪を零せば、呼応する様に白い頁へ繊い書体がするすると浮かび上がった。

 曰く、僕の固定概念が働いた為らしい。

 無機物は喋らない、と云う。

 此れは喋る本、喋る本だと念じる。

「有難う御座います」

 甦った涼やかな聲に、何故か安堵した。


 嬉:

 若し私に手が有れば、力強く握り拳を作っていた事でしょう。

 しかし現在、旅人さんには本の身。

 私自身は握っている心算でも、現実では頁が揺れる程度でしかありません。

 しかし、其れでも。

「喋ってくれないか」

 其の言葉が嬉しくて堪らないのです。

 矢張り、私は間違っていなかった。


 認:

「有難う御座います」

 鼓膜を擽る少し低目の聲。

 慌てて手を振り……

 かけて、草間に埋もれる本の前に跪き、本当に済まなかったと言葉に変えた。

 生物と云う以上は僕を『見て』いるのだろうが。

 先程の沈黙を思い返すと、言葉にしたかった。

 此の、長らく使っていなかった喉を動かして。


 望:

「さて」

 不意に、旅人さんは視線を逸らしました。

 丁度天蓋の頂辺で煌く月を仰ぐ様に。

「此れから、如何しようか」

 如何する、とは。

「貴方は、如何する心算」

 如何するも何も。

 旅人さんが私を此所に残せば、又別の物になるだけです。

 しかし。

 其の問いに、希望を見て良いでしょうか。


 提:

「申し訳御座いません」

 静謐に、其の聲は溶け入る様だった。

「呼び止めたのは御迷惑でしたか」

 何処か果敢無い響き。

 思えば、此の草原で一人きりだったのだ。

 ねえ、君は。

「はい」

 呼掛けに、躊躇無く返る聲。

 僕は、一緒に来るのは厭かな、と如何にか乾いた喉から問いを搾り出した。


 笑:

 別に厭ではありませんよ。

 そう、恐る恐る答えた瞬間の、旅人さんの表情ときたら!

「そうか」

 今迄、何処か強張っていた口元が緩りと解けて、微笑んで下さったのです。

「旅には連れが欲しくてね」

 含羞む様に伏せられた眸。

 其の言葉に、私もですよと精一杯、聲に笑みを乗せました。


 尋:

 拍子抜けする程、呆気ない了承。

 一瞬戸惑ったが、気を取り直して肝腎な事を尋ねる。

 希望はあるだろうか。

 例えば、人の姿が良いだとか。

「いいえ。出来れば本のままで」

 本当に其れで良いのだろうか。

「ええ、本なら軽いでしょう?」

 茶目っ気を含んだ調子で、ぱたりと表紙が動いた。


 化:

 旅人さんは優しい方で、尚も私に其れで良いのかと尋ねて下さいます。

 其れならば、若し、ですが。

「何だい?」

 貴方が望むなら、異性の連れにもなれますよ。

「いや、其れは一寸」

 其の方が自然かも知れないと思って申し上げたのですが。

 酷く狼狽てた調子で、辞退されてしまいました。


 消:

 向けられた単語に、束の間浮かび掛けた面影を振り払う。

 脳裏に本の形を刻み込んで、記憶には鍵を掛けた。

 自分で誘い水を向けた挙句に、何を考えたのだろう。

「如何しました」

 質問には曖昧に言葉を濁し、そろそろ行こうかと眼前に手を伸ばす。

 抱え上げた本は、仄かに温かかった。


 獣:

 旅人さんの腕に揺られ、先ず目指したのは木でした。

 今宵の宿となる木を捜していたそうです。

 ならば。

 天幕に成っても良いですが、此処は安全の為、私が猛獣になりますよ。

「そうかい」

 旅人さんによって変わる私。

 所が。

「虎だよ」

 此れは、ね――。

「虎、だ」

 ――確かに縞ですしね。


 眠:

「まあ、良いでしょう」

 ふっふと笑う、僕の背丈より大きな『虎』の腹へ、意趣返しの様に頭を乗せる。

「そう云えば、名乗ってもいませんでしたね。私はウル」

 とろとろと押し寄せる眠りの合間に、僕も如何にか名前を告げる。

「好い夢を、ワズ」

 心地よい温もり。直に意識は飲まれた。


 姿:

 何かが髪に触れている。

 繰り返し、繰り返し。

 髪を梳り、幼子をあやすかの如く。

 優しい手付きで。

 遠い昔を思い起こさせる感触。

 次第に意識が明瞭になって来た。

 薄く開いた眸に映る人影。

「お早う御座います、ワズさん」

 開けた横倒しの視界に、表紙を動かす本もとい、ウルが映った。


 触:

 ワズさんが目覚めると同時に動かなくなる躯。

 低くなった視界にも、慌てはしません。

 再び本へと変わっただけの事です。

 ね……では無くて、虎よりも此方の方が意識にあるのでしょう。

「お早う、ウル」

 挨拶に表紙を動かして応え乍ら、心の中でそっと先程の感触を思い返していました。


 標:

 僕の勧める朝食を断り乍ら、ウルは至極当然な質問を寄越した。

 此れからで、一番大事な事。

「どちらに向かうのでしょう」

 無邪気とも云える其の聲に、僕は口篭る。

 多分、北だよ。

「多分、とは?」

 恐る恐る問う本の表紙を、柔く撫でた。

 判らないんだよ。

 目指す場所が何処に在るのか。


 遠:

 朝食に興味をそそられはしましたが、我慢します。

 ワズさんの食料を減らしてはいけません。

 旅の間には節約も必要でしょうし。

 其れに。

「其処の風景は知ってるんだよ。けれど、何処に在るかは知らない」

 彼方を見る横顔が余りにも遠くて。

 何の感情も無い透明な眸に、聲を飲みました。


 道:

 物云いたげなウルを腕に抱え、陽を右手に歩き出す。

 頭の中で繰り繰る廻る言葉。

 聲にすれば、歪んで捩れて虚言になる。

 嘘で無くとも、語れば外れて逸れて、判らなくなるんだ。

 未だ。

 ……村か街に着いたら、もう少し詳しく話すよ。

「待ちますね」

 曖昧な言葉に優しい聲が返って来た。


 髪:

「有難う」

 其の応えを最後に会話が途絶えました。

 草を踏む音の間に言葉を探します。

 ああ、そう云えば随分と髪を短くしていますね。

「長いと邪魔になるからね」

 確かに。

 でも、陽に透けて金色で、蒲公英の綿毛の様。

 私は好きです。

「そうかい」

 微りとワズさんの耳が赤くなりました。


 辿:

 街道を外れての旅は安全の為。

 獣に遭う危険もあるが、其れよりも恐ろしいモノが居る。

 其れが群れを成せば、尚更に。

 だから、出来る限り避けて来た。

 けれども。

 ウルは如何なのだろう。

 左腕の重みに目を落す。

 行きたい場所が有るだろうか。

「いえ、特には」

 尋ねておいて、安堵した。


 願:

「君は何処に行きたい?」

 私は。

 目的地は有りません。

 人と、『人間』と知り合いたかったんです。

 人は私達を見世物にするのだと聞いています。

 けれども、私は人と友人になりたかった。

 人の素晴らしい想像を此の身で感じたいのです。

「そんなに良くは無いよ」

 苦笑の気配がしました。


 術:

 お茶でも淹れようと、背嚢から小鍋と炎符を取り出す。

 決まりの文句を唱えて火を呼び出すと、ウルが歓声を上げた。

 如何やら、魔術其の物を余り見た事が無いらしい。

「便利ですね」

 符を見乍ら、頻りに感心している。

 便利だけれども万能じゃない。

 僕は出掛った言葉をお茶と共に飲む。


 食:

 身を寄せた樹の杪に跳ねる小さな影。

 蒼色の可愛い小鳥ですね。

「うん、あれは可愛いと思えるよ」

 聊か歯切れの悪い応答が意外です。

 可愛くないのも居るんですか。

「と、云うよりも。其れなりの大きさだと、先に美味しそうが出てくるからね」

 ああ、ご飯として。

「そう、ご飯として」


 呼:

「親の姿は知らないんです」

 何が切っ掛けだったか。

 ウルが事も無げに、笑いすら交えてそう云った。

 ――直ぐ周囲の意識に影響されますからね。

 出合ったとしても判りませんよ。

 私達はそう云う存在です。

 だから。

「貴方が私を呼んで下さる事が嬉しい」

 半ば閉じた表紙に、聲が篭った。


 憶:

「此処はね」

 ワズさんは頭を指差し、云います。

 ――覚えた事を忘れる事は無いそうだよ。

 唯、ガラクタに埋もれて、肝心の物が引っ張り出せなくなるだけなんだ。

 或いは、仕舞い込んで、抽出しの鍵が開けられ無い状態。

「其れっきりの事」

 眦に浮かんだ仄昏い色に、相槌だけ返します。


 進:

 地図は初めから持っていない。

 以前聞いた町の話と、小さな羅針儀だけが旅の指針。

 方角さえ判れば、十分。

 何処かに行き着けないなんて事は無い。

 唯、時間をたっぷり掛けるだけ。

 其れに。

「寄り道や道草は楽しいですからね」

 其の通り。

 着いてしまったら其処で終わってしまうからね。


 逸:

 夜闇に響く木の爆ぜる音。

 黙々と焚火に木をくべるワズさんに、所で、と切り出します。

 私は如何して本なのでしょう。

 出会った時から気になっていたのです。

「多分、こんな時に読みたいと考えたんじゃないかな」

 夜は静かだからね、と、触れる指は冷たく。

 真実とは思えませんでした。


 星:

 あれは角灯。

 其の下は竜。

 向こうで乙女が憂い顔。

 窓の向こうに、剣の切っ先。

 今宵もウルの温かな躯を背に、濃紺の天布に鏤められた銀砂に纏わる物語を巡る。

「あの星には、どんな物語が」

 弾む声に促され、僕は記憶を手繰り、語る。

 あの人がしてくれた様に。

 昔の僕に似たウルへと。


 境:

「多分あそこだね」

 ワズさんの示す先には、小高い丘。

 唯、丘が在るだけでした。

 目印が在る訳ではありません。

 線が引かれていもいません。

 丘の周辺も大差は無く。

 其れでも、確かに其処でした。

「国境なんて、判りはしないのさ」

 丘向こうに広がる街を見下ろし、ワズさんは笑います。


 安:

 街に入る時には何時も緊張する。

 身形が汚れてはいないか。

 笑顔が作れているか。

 そして――直ぐに逃げ出せるだろうか。

 程々に親切で、程々に無関心であってくれれば良い。

 そう脳裏に巡らせた所で、腕に抱く存在に気付いた。

「大丈夫だよ」

 聲にして、ウルを、自分をも落ち着かせる。


 縋:

「如何かな」

 訊ねるワズさんの聲も何処か遠く。

 唯々目の前の光景に圧倒されました。

 此れでも小さい方なのだそうです。

 しかし。

 街の入り口を潜った瞬間、行き交う人、人、人。

 渾沌と渦巻く意識達に飲まれ掛け、変質しようとする躯。

 其れを押し止めたのは。

「大丈夫だよ」

 一つの聲。


 鞄:

 旅に無駄遣いは厳禁。

 本当に必要な物だけを、必要な分だけ手に入れる。

 背負える荷物は限られているのだから、当然だ。

 けれども今、僕の肩には真新しい鞄が提げられている。

 柔らかな鞣革で出来た、小さな鞄。

「済みません」

 聞き逃しそうな程小さな謝罪に、鞄の中の背表紙を撫でた。


 厚:

 ご、とん。

 重い音を立て、寝台の下に良く履き慣らされた長靴が落ちます。

 靴底が大層厚いんですね。

「うん、まあね」

 背も高くなるでしょうと云ったら、ワズさんの視線は卓上の私を越えて、窓の外。

「そう云う心算では無いのだけども」

 ええと、世界が広く見えて良いですよね、ええ!


 約:

 約束は守るべきだと僕は思う。

 其の為に此処まで旅をして来た。

 そして旅をして行く。果たす事の出来無い約束ならば端からしない。

「何の話ですか」

 ウルを膝上に抱き上げると、戸惑う様に白頁が閃く。

 一息吸い込んで笑みを作った。

 約束、しただろう。

 話をしようか。此の旅の目的を。


 村:

 其れは昔話。

 と或る青年と少女の物語。

 そして小さな村の追憶。

 眸を閉じれば在々と浮かぶ程、精緻に語られる其の情景。

「僕はね、其処を目指しているんだ。あの人の故郷を」

 其の聲は、とても優しいのですが。

 洋燈の淡い光はワズさんの面に濃く影を落とし、表情を朧にしていました。


 渡:

 じいじいと灯明の芯がか細く泣く音が、更け行く夜に谺す中。

 過去は語られる事により、思い出となるのだと知った。

 過去を繙き、ウルに手渡す都度、あの人の面影が古色に縁取られる。

 だが、不思議と寂しくは無かった。

「必ず、行き着きましょうね」

 もう独りでなぞらずとも良いのだ。


 稼:

 どれ程切り詰めても、旅には路銀が必要。

 と、云う事で酒場の片隅、ワズさんは私を小道具に物語を紡ぎます。

 評判は上々。

 店の主が引き留める程。

 しかし。

「行かなければならない所があるので」

 きっぱりと断る聲は頑なで。

 打ち据える様な物言いに、主は私達を店から追い出しました。


 誓:

 大して稼げなかったけれど、其れは別に良い。

 しっかと鞄を掛け直して、酒場に背を向ける。

「大丈夫ですか?」

 心配そうなウルに、じくりと胸が痛んだ。

 独りなら何時もの様に街を出て行けば済むだけの事。

 でも、今は違う。

 人波に埋れ乍ら、鞄の紐を握る。

 固く、強く。

 感情を隠して。


 咒:

 歩き乍ら、ぽつりと。

「僕にはね」

 人里に留まれない呪いが掛けられているのだと、ワズさんは零しました。

 嗚呼、だから。

 先程の一件を思い返し、私は温かな暗がりで嘆息します。

「街に留まれるのは一つの季節だけ。其れ以上は――」

 濁された言葉の先も又闇の中。

 其れで良いのです。


 記:

 死者は何も語らない。

 何時かの言葉ばかりを繰返し、其れすらも軈て擦り切れて、元の形を失くして行く。

 記憶は余りにも頼り無く。

 確実に引き止めるには何かに書き留める他、無い。

 僕が望むが儘、本の姿で居てくれるウルに触れる。

 けれど。

「如何しました」

 此処に書く事は出来無い。


 意:

 ワズさんは、思い出に托された村を探して旅をしています。

 だから、私も決めました。

「何をだい」

 小さな決意が漏れた様で、藍玉の眸が此方を覗き込みます。

 何でも無いですよと返し乍ら、今一度心に誓いました。

 唯、村だけを目指す貴方の為に。

 私は其の呪いを解く術を探しましょう。


 続:

 街道を逸れ、羅針儀の針を頼りに歩く。

 僕の後方に連なる、細く草の倒れた痕。

 仮初の道は、直に消えてしまうだろう。

 今迄と同じ様に。あの森も随分遠くなった。

 ふと背後を振り返る。すると、ウルが小さな聲を上げた。

「街まで繋がっていますね」

 そうだ。

 見えなくても繋がっている。


 船:

 街を出て暫くすると広い河に行き当たりました。

 見渡しても橋は無く。

 此処は一つ、私が船になりましょうか。

「止めておくよ。何処かに渡れる場所が在るかも知れないし。其れに」

 ワズさんの言葉に、先を待ちます。

「未だ水は冷たいよ」

 其れは。

 有難う御座います。

「如何致しまして」


 決:

 ウルは先程から度々、姿を変える事を提案してくる。

 例えば騎獣だったり、そうでなくとも背に乗る事の出来る大柄な動物が大半だ。

「私なら大丈夫ですのに」

 僕も大丈夫だと言い返して、一歩を踏み締める。

 此処で歩けない様なら、初めから旅をしない。

 未だ歩ける。

 僕は歩かなくては。


 人:

 夜中に躯が軋み、目が覚めました。

 鳥でも。獣でも。

 眠っている時の意識が一番素直です。

 普段は奥に隠している物が浮かび上がって来易いのでしょう。

 其れを拾い上げて、私は人の姿を形作るのです。

「○○」

 眠るワズさんが紡いだ、たった二つの音。

 其れはきっと、此の姿が持つ名前。


 借:

 街で買った食糧は節約しようと数日で無くなる。

 後は自然から得るより他無い。

 其れは自明の事。

 今では大地から『借りる』のも造作無い。

「食べるのも、借りるのと同じなのですか」

 疑問符の形に頁を撓ませるウルに、僕は語る。

 僕等は命を借りているのだと。

 あの人の言葉をも借りて。


 別:

 今日、出会ったのは小さな商隊。

 先の村で荷を卸した帰りとの事で、ワズさんは村の話を聞いて別れます。

 さよならと手を振り、家路を目指す人達の顔は晴れやかで。

 ――何時か私達も旅を終え、さよならを言う日が来るのでしょうか。

 其れは喜ばしい筈なのに、少し寂しい気がしました。


 遡:

 とつとつと土を穿つ雫。

 天水によって緩やかに解け流れる褐色を、仮初に作った堀で受け止める。

 そうして浅い岩穴で息を潜め、雨が行き過ぎるのを待つ。

「旅はお休みですね」

 少し残念げなウルに、一つの提案。

 雨が止む迄、昔を旅しよう。

 と或る国の話を語り出すと、獣の眸が煌いた。


 淀:

 降り続いた雨は夜と共に去りました。

 地面には幾つもの青空が落ちています。

「死んだ水だね」

 薄く濁った水溜りを見下ろし、淡と聲が零れました。

「生きるには動かないと」

 其れは、ご自身の事をも指していますか。

 浮かんだ言葉は躯の中に張り付いて、ワズさんには届きませんでした。


 糧:

 樹の根元に白い山。何かの骨。

「綺麗ですね」

 ウルの聲に頷く。

 骨は砕けておらず、捕食された訳では無さそうだ。

 恐らくは春の女神に捧げられたんだろう。

「供物、なのですか」

 そう、彼女は冬の男神が凍て付かせた命で胎の命を育む。

 軈て産み落とされた命が春を芽吹かせるのだから。


 友:

 くぅと何やら小さな音。

 ねぇワズさん。何か食べられる生き物になりましょうか。

 私なら多少欠けても大丈夫ですし。

 お好きな物を想像して下さい。

「僕はね、友人の体を害なうのは厭だよ」

 ワズさんは前を向いた儘云いました。

「もう云わないでくれるかな」

 ええ。

 友人の頼みですもの。


 遺:

 此れ迄背負って来た鞄の底には、信[てがみ]が一つ。

 前の持ち主から譲り受け、僕が幾らか書き足した物。

 少し縒れた、出す予定の無い信。

 何時か『あの村』に着いたら、今度は僕だけの物を新しく書こうと思う。

 そうしたら。

 肩に下げた鞄に触れる。

 ウル、君が継いでくれるだろうか。


 懐:

 山中で小さな廃屋を見付けました。

 蔦や苔と云った緑に抱かれて、其れでも未だ如何にか家の形は残っています。

 今夜の宿に丁度良いでしょう。

 しかし。

「邪魔しては不可ないよ」

 ワズさんは、しぃ、と唇に指を添えます。

「眠らせておやり。昔を抱いた儘」

 何処か懐かしそうな目をして。


 謎:

 麗らかな陽光の下、他愛の無い話をぽつぽつと交わし乍ら歩む。

 其の内に、ふかりと浮雲の如く疑問が湧いた。

 ウルは何故、人の言葉を知っているのだろう。

「簡単な事です。あの草原を通り過ぎた人達の聲を聞いて覚えました」

 一拍の後、明朗な返答。

 しかし其れだけだろうか。

 本当に。


 巡:

 ワズさんが教えてくれた事。

 此の世界は、ぐるりと円を描く様に大陸が連なっているのだそうです。

 ならば、貴方の目指す地に行き着け無い事はありませんね。

 けれど、ワズさんは私の言葉にそっと首を振ります。

「けれども、環は終りの無い形だ」

 放られた聲に想いました。

 旅の長さを。


 飾:

 此の村では染物が名産だと云う。

 独得の技法で染め付けられた薄絹は、柔らかな階調を描いている。

 端布でも好い人に買って行きなよと舗の女主人が笑う。

「きっと、ワズさんの髪に似合いますよ」

 こっそりとウルが囁くのを耳に、一枚買い求めた。

 此れは僕の為じゃ無い。

 栞にするんだ。


 朽:

 街路の近くで、赤茶の膚をした馬が天を仰いでいました。

 瞬きもせず、呼吸もせず。

「蒸騎馬だね」

 高く掲げられた首に触れると、錆がざらりと零れ、ワズさんの指を薄赤くに染めます。

「置いて行かれたのかな。其れとも逃げて来たのかな」

 もう蒸気を昇らせない口は、何も語りません。


 弱:

 月に一度は訪れる躯の倦怠感。

 其の感覚に慣れたとは云えど、歩みは鈍る。

 最初には酷く狼狽していたウルも、三度目には手馴れて僕を容赦無く叱り付る様になった。

 今とて鋭い口調で自らを獣へと転じさせ、懐に抱き寄せる。

「大丈夫。大丈夫」

 其の聲は母の如く。

 僕は熱い瞼を閉じた。


 恐:

 ワズさんの眠りは浅いのです。

 僅かな物音で目覚めてしまう程。

 私が居るのだから、頼ってくれれば良いのに。

「臆病でなければ旅は出来ないんだよ」

 けど、ワズさんは私を本の形に留めて、柔く抱き締めます。

「恐い物は何処にでも居るのだから恐れなさい」

 そう、少し哀しげに笑って。


 幻:

 水煙草の煙と乾いた砂の香。

 埃に塗れて尚褪せぬ陽気な喧騒。

 川の如く流れる人に紛れてバザールを素見す。

 此処は交易だけを目的として作られた仮初の村。

 色取り取りの天幕は明日を待たず、陽が去ると共に畳まれる。

 後に残るのは足跡のみ。

「まるで夢の様」

 ウルの呟きも泡沫の如く。


 生:

 ワズさんの腰には何時でも一本のナイフが下げられています。

 けれども其れは『食事』の時以外には使われません。

 そう、例えば身を脅かす獣が居たとしても。

「生きる為以外に奪ってはいけない」

 今、足元には一匹の獣。

 私達は樹上で息を潜めて、彼が居なくなるのを唯静かに待ちます。


 映:

 水音を頼りに辿り着いた泉で、旅の埃を濯ぎ落すべく身を屈める。

 揺れる水面に映るのは、貧相な手足を持つ痩せた自分の姿。

 他人より幾分か低い背。

 其れを丁度良いと笑った人の面影が、傍らに並ぶ。

「ワズさん」

 幾分か固い声音に、僕は固く眸を閉じた。

 此れはウルにとっても冒涜だ。


 花:

 平原に点在する窪地。

 其の穴底には、一面の花園がありました。

「此処はね、少し前迄は戦場だったんだ」

 ぐるりと縁を辿り歩き乍らワズさんは視線を下へ落します。

「多勢が死んで、其の上に花の種が蒔かれたんだよ」

 風に揺れる花達は少し寂しげに、其れでも力強く天を仰いで居ます。


 噂:

 高位術師の風評が花蝶の姿を取り、文字通り風の一筋に乗って届いた。

 此の身に宿る呪に惹かれてだろう。

 術は引き合う。

 其れが呪禍であれ、祝福であれ。

 頻りに纏わる紅色を指先で突くと、花弁と化して地に落ちた。

「行かないのですか」

 遠慮がちなウルの聲。

 方角が違うとだけ答えた。


 形:

 躯に絡む思惟の糸が解けると、鋳型を外されたも同じ。

 私の躯は地へと染みそうになります。

 もう早、今迄の私を忘れ掛けているのでしょう。

 其れを如何にか『虎』の形に練り直して、小さく溜息。

 振り返るは風聞が来た先です。

 一人で行こうと意味はありません。

 ワズさんと共でなくば。


 隠:

 ど、と強く背を叩かれて息が詰まった。

 咳を堪え乍ら真っ先に触れたのは小さい鞄。

 本が動くのを見られぬ様に外套で隠す。

 陽気な旅芸人達に囲まれて、僕は愛想笑いを浮べた。

 彼等に悪気は無いんだ。

 ウルを紹介すれば良い。

 けど、若しもの時には守り切れないだろう自分が歯痒かった。


 祈:

 ワズさんは村や街に着くと、真っ先に神様を祀っている所へ行きます。

「僕は神様に祈りを捧げる人達に向けて祈ってるのさ」

 信心深いですねと囁くと、そう首が振られました。

「何もしてくれない神様より、彼らの方がずっと親切だ」

 そして、施しのパンを沢山貰って微笑んだのでした。


 守:

 僕は気付いていた。

 ウルが其の躯へ密やかに隠している物を。

 頁の合間に、柔らかな体毛の襞に宿る、幾らかの花弁を。

「もうそろそろ北の果てでしょうか」

 素知らぬ顔で旅の先を口にするウルに頷き乍ら、拳を握る。

 此の呪いは贈り物。

 だから解かない。

 消させない。

 僕が死ぬ其の日迄。


 蒐:

 此の世界では、一口に人と云っても様々な姿が在ります。

 獣相を持つ人。

 魚や蛇の様な鱗相を持つ人。

 鉱物の膚を持つ人とて居ます。

 旅の途中に出逢う、そんな多種多様な種族の人達。

 其の姿を私は記憶に貯えます。

 何時か其の内のどれかで、ワズさんの隣に立つ事が赦される事を希って。


 代:

 夜に眠れば、軈ては朝が来る。

 明けぬ夜は無く、朝は決して待ってくれない。

 歩き、眠り、又歩き。繰返し。繰返し。

 欠けてしまった場所を埋めも出来ず。

 嗚呼、ウルの鞄が重い。

「ほら。あの雲の形、面白いですよ」

 先程から振られる取留め無い話に、頷く振りで項垂れる。

 僕は莫迦だ。


 種:

 ジギは宝石の羽を持つ鳥に。

 クノは稚い少女に。

 イルは疾うに死に絶えた獣に、なりました。

 皆、黒い首輪を嵌められて、遠くへ連れて行かれました。

『人』は私達を見てはくれませんでした。

 此れが昔の御話。

 今に繋がる御話。

 ワズさんが初めてです。

 無理矢理鋳型に嵌めなかったのは。


 昔:

『森の中には小さなお家。

 白木の壁に赤い屋根。

 一体何方が住んでいるの。

 黄昏は友人。

 夜闇が隣人。

 月を仲人と云えば判るでしょう。

 さあさ良い子よ、気をお付け。

 彼等に見付からない様に』

 其れは小さな村の童歌。

 ――けれど、私達は幸せだったのよ。

 と或る少女は最後にそう囁いた。


 警:

 獣は想う。

 小さき物を。

 早鐘の心臟を持つ素早き物を。

 されど想うと同時、首に枷されし黒鋼に青い燐光が踊り、其のか弱き形象を打ち消す。

 後には変わらず獣が一頭。

 ――如何か莫迦な事をするでないよ。殊に『人』と交わる事無き様。

 今は遠き小さい児を想い、上古の獣は太く吼えた。


 様:

 旅路は平坦では無く、歩む事は困難を伴う。

 されど熱狂の刻を経た世界は平穏の微睡みを甘受し始めており、足を止めさえすれば穏やかな生を全う出来るだろう。

『其れでも僕は』

『其れでも私は』

 二人は、此の世界で歩むと決めた。

 ぐるりぐるりと、螺旋を描いて巡り乍ら。

 自らの力で。


 過:

『人』は森を脅かす。

 其れが妖精の言い伝え。

 しかし今回は違った。

『人』の方から『人』で無い聲が届く。

『私達は唯行き過ぎる者』

 己等に近しい其の聲に、小さき乙女等は口を噤むと木下闇へ身を潜めた。

 害無き事に安堵して。

 そして聲の主が『人』と在る限り長くない事を案じつつ。


 信:

 如何やら暑気に中ったらしい。

「眼を開けないで下さいね」

 涼しい感触に意識を取り戻すと同時、耳元で響いた聲。

 反射的に眸を開くと、其れは居た。

「ワズさん」

 固い聲に謝罪を返し、再び瞑目。

 そして脳裏に描く。

『本』で無く、先程の仄蒼く澄んだ粘塊を。

 僕の為に変わったウルを。


 欲:

 収斂。

 そして拡散。

 固体に為り掛けた躯が再び融け、先程の形状に戻った事に対する深い安堵。

 ワズさんは私を拒絶しませんでした。こんな姿でも。

 預けられた躯を包み直すと唇が弧を描きます。

「有難う。大分良くなった」

 嗚呼。

 今更眸を開いて欲しいだなんて。何て我儘なのでしょう。


 兆:

 夢だと判っていた。

 あの人が居るから。

「ワズさん、私は」

 だがあの人の聲は、嗚呼、ウルの其れで。

 眸を抉じ開けると、心底夢で良かったと思った。

 僕は未だ、抽出しの鍵を閉じてはいない。

 あの人の面影は、名前は、手の届く所に在る。

 しかし示された予兆に、震える躯を抱き締めた。


 黙:

 私が出来るのは慮る事だけ。

 身代わりにはなれないし、して貰えないのです。

「夢で、良かった」

 震える聲で呟いたウルさんに、私は寝た振りを続けました。

 仮令、見た物がどんな夢であれ。

 其れが潜在意思の表れと云われようと。

 目が覚めて、夢で良かったと思えたなら、十分でしょう。


 失:

 小鳥の巣。羊の家。慈善の園。

 耳障りの良い名を連ねても、其の本質は変わらない。

 無慈悲に降り注いだ災厄と。人が抗う為に興した戦と。

 其の間で家族を喪った者が集う孤児院、と云う事実は。

 幼い嘆きを聞き乍ら、僕はウルの鞄を閉ざす。

「御免なさい」

 小さな謝罪ごと、閉じ込める。


 非:

「君のせい、じゃない」

 皮の帷の向こう側から。暗闇で身を竦める私に聲が降ります。

「彼等は、慣れなくては、不可ないんだ」

 噛み締める様に、一つ一つ。

「慣れなければ、先へ行けない」

 ワズさんは、無力な私を宥める様に軽く叩きました。

 私とて、理解しています。

 其れでも哀しい。


 繋:

 木陰から届くは優しき母の子守唄。

 嫋やかな手が優しく招く。

 赤い眸の児は駆け寄り、其の膝に頭を預けるだろう。

 木漏れ日を遮る手は涼しく、眠りを紡ぐ。

 其れは一幅の絵画の如き情景。

 在ったかも知れない一時。

 若しウルが其方を選ぶなら、僕は止められない。

 僕等は友人でしかない。


 共:

「君と僕は今、同じ道を歩いている」

 何時もより幾分か早い発作の時期。

 融け落ちそうに潤んだ藍玉の眸が、此方を見上げて云います。

「けれど道は一つじゃない。望む道を往く自由がある」

 しかし、ワズさんが今見ているのは私では無いのでしょう。

 だから云うのです。

 此所に在る、と。


 祝:

 賑やかな村と、寄り添う男女。

 揃いの白服を纏い、祝福の花弁を身に受ける二人は今日一日村の主役となる。

 華美では無いが、心の篭った婚礼の宴。

 僕達の様な旅人も御裾分けを貰う事が出来るから有難いのだが。

「綺麗ですね」

 ウルの感嘆にも苦い物が込上げ、祝福出来ない自分が居た。


 夢:

 ワズさんの眸はまるで、一等昏い翳りを帯びた夜明け前の様。

 私は視線を外らすべく、明るい調子で云います。

 凄い御馳走ですよね。

 後でこっそり分けて下さいな、と。

「うん。一緒に食べよう」

 其の聲にわざと歓声を返して想います。

 貴方も曾て夢見ましたか。

 ああして祝福される事を。


 伝:

 幾百。幾千。幾億と。

 変わらず星は在る。

 テレスコォプから眸を離さず、丘に立つ学者は斯く語った。

 其れ故、星に纏わる話も連綿と継がれる。

 細部を変化させ乍ら延々と遺るのだと。

「私も遺します。ワズさんの教えてくれた話を」

 微かな紙の音とウルの言葉に、僕は出会いを思い返す。


 答:

 星明り。月明かり。

 数多に注ぐ光の下には影。

「僕は欲しかった」

 地表に張り付く其の昏がりに身を浸し、ワズさんの聲も又翳ります。

「あの人の言葉を記した物が。僕の言葉を遺す物が」

 其の告白に、私は何時かの解を知りました。

 だから、謝罪は要りません。

 私はもう答えたでしょう?


 哀:

 かの身に巣食うは『魔女の悪意』。

 元来は祝福であった其れは何時しか変質し、呪となった。

 深く体内を廻る根が抱くは、唯一つの願。

『何モノにも害われる事なかれ』

 偏に愛し児を想った心は今や遠く。

『害われる前に災禍を』

 其の血縁絶えて尚、呪は継がれ行く。

 愛と云う名に包まれ。


 代:

 幸せは仕合せ。互いに想いを掛け合う事。

 嗚呼然し。だが然し。

 かの者は鏡。反射する者。

 真心を尽くせど心無き物と見られ。尚も尽くせば己を無くす。

 献身は報われず、軈ては欲に飲み込まれるが定め。

 其れは創始からの約定。

『魔女』が創りし安寧は、今『悪意』に沿うて先を夢見る。


 怒:

「火竜にでも変わりたい」

 静かな、だが明瞭に憤りを宿した其の聲に鞄を押さえる。

 坊主。小僧。お嬢ちゃんに若造が、等々。

 体格から、揶揄われる事には慣れている。

 大概は固く口を噤めば、頭上を行き過ぎて行くものだ。

 其れでもウルは聲を軋ませる。

「誰も貴方を識らない癖に」

 と。


 説:

 かの呪によって死ぬ事は無い。

 断片的な風聞は総じて、そう伝えます。

 陽下で生きる物が寝静まった頃。

 ワズさんの寝息を確め乍ら、密かに繰る花蝶の翅。

 御伽噺に似た風聞を、聞いては食べて躯に収めます。

 ――呪を受けた者が死ぬ時は、還るか、或いは諦めた時。

 そんな苦い言葉をも。


 禍:

 実の所、呪は街に留まれぬだけに限らない。

 寧ろ其方は『余剰』の部分だと、嘗て『あの人』が語った。

 害意に対する鏡が本質とも。

 現に今、悪罵を受ける僕の脳裏に『魔女の悪意』が婦の貌で、緋く笑む。

「其れ、は?」

 かたと揺れたウルに婦の笑みが重なるより先、其の場から駆けた。


 母:

「僕を見ないでくれ」

 息急き駆けるワズさんに垣間見得えた別の意思。

 私は其の姿を知っていました。

 いえ、『私達』は識っていました。

 生れ落ちた時から心に巣食う一つの面影。

『魔女』たる婦[ヒト]の姿を。

 其れで、漸く判ったのです。

 彼の婦は未だ待って居るのだと。あの森で。


 痕:

「哀しいですね」

 無残な村址に、ウルの聲が深々と響く。

 此の世に訪れた『災厄』が手を下したは生けるモノのみ。

 しかし。

 其れに抗う力は生物静物問わずに砕いた。

 其れが善き事と信じて。今も尚。

 故に、僕は意識して心に留めずにいた。

『あの村』の風聞が僅かたりとも聞こえぬ事を。


 世:

『魔女』は斯く語る。此世は皆御伽噺――。

 瓦礫の間に造られた村で六弦の調べに乗せ、吟遊詩人が語ります。

 近しい過去の御話を。

 此の世界が御伽噺なら。きっと皆幸せになれますね。

「御伽噺の先は書かれないからこそ幸せなんだよ」

 希いの言葉に、ワズさんは優しくそう答えました。


 靴:

 ナイフの手入れは最低限。

 其れよりも時間を掛けて長靴を磨く。

 縫目は綻んでいないか。紐は緩んでいないか。

 余る所には詰め物を当て、しっかと地を踏める様に。

「私が」

 上がったウルの聲を遮り、長靴を履き直す。

 此の靴と加速符があれば、僕だって逃げ切れる。

 そう思わせて欲しい。


 再:

 北の果てに行き着き。眼前に広がるは渺茫たる滄海。

 此の先にも陸が在ると、海鳥は歌います。

 しかし。

「海を渡ったとは聞いていないしね」

 ワズさんは淡々と西に足を向けます。

 まあ、夏の間は涼しい所で探しましょうよ。

 戯けた調子で聲を接ぐと、潮風に朗らかな笑聲が混じりました。


 離:

 腕を掴む爪が離れ、一陣の風が頬を叩く。

 蒼穹に舞上る影は放たれた矢の如く。一息の間に黒点と化した。

 ウルは今、悠然と風を掴んでいるのだろう。

 僕を独り残して。

 残された腕の軽さに唇を噛む。

 若し、戻って来なかったら。

「村、在りましたよ」

 過る思惟を払う聲に、酷く安堵した。


 還:

 視界に映るのは靭やかな両羽。

 耳元では轟々と風が唸り、迫り来る樹冠は瞬く間に後方へと流れました。

 辿り着いた空は澄んで広く。

 其れに感嘆するより先、眼下の森に金色の花を求めます。

 樹梢の合間に覗く、ワズさんの姿を。

 さて、戻る場所が判ったなら、今度は村を見付けなくては。


 歌:

 ウルが口遊む、不思議な調べ。

 楽しげに張上げる聲は意味を取れない。

「此れと云った詩も旋律も有りませんよ。出鱈目なので」

 ワズさんも如何と誘われて、恐る恐るハミングを接いでみた。

 夕映えの空に昇る、懐かしい様な曲節。

「私達だけの歌ですよ」

 秘密めかす聲と歌が耳に染みた。


 白:

 ――北方の人間は膚が白いのさ。

 宿の女将さんはそう云って腕を捲ります。

 だから、色白の美人が多いんだ。そう云や、お兄さんも色白だね。

「親が北の生まれだと聞いた事が」

 冗句に答えるワズさんの膚は確かに白。

 陽に晒されると直ぐ赤く色付き、痛々しく見える程。

 其れ故時に儚い。


 錘:

 周囲に降りた乳白色の帳。

 乳の様な濃霧は躯に纏わり付き、じわりと膚を湿らせる。

 数歩先も見得ない薄暮の霧は、世界から僕を切り離そうとする。

 が。引き止める様に僕の指先を何かが包んだ。

「御免なさい。でも、どうか後少しだけ」

 失せた鞄の重みとウルの聲。

 冷たい掌を握り返す。


 原:

 夜が世界を抱く頃。

 眠るワズさんを残し、抜け出す宿の前。

「解を与えるのは容易」

 君達は識っている筈と、術師を名宣る方は微笑みます。

「されど最良とは言い難い」

 囁きは淡く闇に融け。

「イーディア。魔女の娘、其の愛し児。君の『物語』を想起しなさい」

 謎掛だけが残されました。


 戻:

 ヒトはキライと、母さまは泣いた。

 私たちは生きたかっただけ。

 シアワセになりたかっただけのにと泣いた。

 それは私たちが一つだったころのお話。

 こんな小さな女の子の体じゃなくて、もっと大きなヒトだったころの話。

 も一度もどれたらいいのに。

 そしたら、あの子とずっといっしょ。


 賛:

『魔女』の詩[ウタ]に綴られたモノも又犠牲者。

 此の言葉が浸透するには、未だ時を待たねばならぬのだろう。

 数多の『物語』への遺恨は深く、根絶やしを願う聲も在る。

「イーディア君達の『物語』は如何なるかね」

 局地的災厄と称ばれる呪。

 其れを負う健気な彼等に、幸いを願った。


 証:

 短い夏が育む碧の海。

 面覆いをした子らが歓声を連れ、段成す畑を駆け下りる。

 緑衣は豊饒を司る神子の印。

 彼等が踏む麦は丈夫に育つと云う。

 一頻り碧落を震わせた笑聲が失せると、ウルが聲を張上げた。

「私は此所に居ます!」

 そうだ、僕達は此所に居る。

 僕も倣って同じ言葉を叫ぶ。


 残:

 融ける事の無い氷湖の底に沈む沢山の本。

 嘗て魔女の詩を恐れて、全ての物語が焼かれそうになった際の名残だそうです。

「全ては戻らないかも知れない」

 折り重なった本を見下ろして、ワズさんは云います。

「けれど、全てが消える訳でも無いよ」

 力強い聲で。

「人が覚えているからね」


 後:

 足元できうきうと砂が泣く。

 いや、其れは聲だった。

 背の高い鳥籠頭の擬人。

 恐らく『魔女』の詩から生まれたのだろう。

 軋む聲で何かを語り乍ら長衣を靡かせ、異形は歩を進める。

 時折何かを探す様、首を巡らせて。

「あのヒトの『お話』が幸せでありますよう」

 ウルの祈りを砂が吸う。


 縁:

 瞼に落ち掛かる影。

 ともすれば眸を刺しそうな前髪を指先で摘み、ワズさんは苦笑します。

「邪魔になってきたね」

 そして無雑作にナイフを滑らせ、伸びた髪を削ぎ落としました。

 風に乗り舞う繊い金色。

 私は気付かれない様に、幾らか頁の間に隠します。

 何時か別れても思い出せる様に。


 疑:

 大空の下、自然に身を委ねて眠る時には絶えず側に在る温もり。

 其れが人里で宿を取る際には失せる事に気付いた。

 安宿の寝台は酷く軋む。

 揺り起こされた意識の中、衣擦れが床に流れ、ウルの気配が遠ざかる。

 辛うじて開いた瞼の隙間。

 小さな鼠の尻尾が床板の隙間に消えるのが見えた。


 出:

 ワズさんが眠る宿を抜け出し。暗がりで人の姿に身形を整えます。

 同族を捜すには、矢張り他人に話を聞かねばなりません。

 人と交わるのは未だ恐ろしいのですが。

 しかし、賑やかな酒場ならば、私に意識が集まる事も無いので大丈夫。

 が。

 いざ、と歩み掛けた所で強く肩を掴まれました。


 焦:

 夜の街には其処此処に暗闇が踞っている。

 ともすれば足元も危うい道で、小さな鼠を探すのは困難だ。

 とは云え、灯りを点せば後を追った事に気付かれる。

 そも、僕にはウルを束縛する権利は無い。

 自分の軽率さに思わず髪を掻き毟った、其の瞬間。

 路地裏で、何かが崩れる様な音がした。


 捕:

 口を塞ぐ広い掌と、饐えた臭い。

 生緩い息が耳を撫で、全身が総毛立ちます。

 咄嗟に跳ね上げた足は其処等の木樽を蹴り倒しただけで、見る間に縮みました。

「コイツは値打ちモンだ。ツイてるな」

 顔を上気させ、見知らぬ男が酒精に焼けた濁声で笑います。

 幼児となった私の首を絞め乍ら。


 詩:

 男の腕の中、暴れる幼子が瞠目する。

 稚い聲が叫ぶは助命では無く僕の名。

 其の聲が脳に浸透すると同時。

『憎いかしら』

 頭の隅で緑衣の婦が慈母の笑みで問うた。

『貴方を傷付けるモノは何一つ赦しはしない』

 嫋やかな二の腕を広げ、紅い唇が詩う。

 嗚呼ウルだけは。

 懇願は届くか否か。


 忽:

 形容し難い獣の咆哮にも似た叫びの後。

 ごとり、と。

 鈍い音を立てて地に転がる塊。

 其れは人でした。

 先程まで私を捕らえていた男でした。

「良かっ、た」

 私を抱き締めたワズさんの手はじとりと湿って冷たく。酷く震えています。

「御免。ごめん」

 繰り返される謝罪がやけに響きました。


 逃:

 石畳に横たわる男。

 其の胸は規則正しい動きを繰返す。

 そう、『悪意』は唯、穏やかに眠らせるだけ。

 僕は男を其の場に残し、温かなウルの躯を抱えて先ず宿へと走る。

 数日も経てば知れてしまう。

 其の前に、そ知らぬ顔で出来るだけ遠くに行かなくては。

 腕の中のウルは、何も云わない。


 噤:

 一体何が起こったのか。

 耳元で響く忙しい鼓動を聞き乍ら、自分に問います。

 私には良く判りません。男が倒れたとしか。

 ――いえ、本当は解っていました。風聞が、術師が、語った事。

「眠っただけだ」

 ワズさんは荒い吐息の迫間に云います。

 けれども。

 其れは死に果てる迄、でしょう。


 誤:

 前に『眠らせた』のは何時だったか。

 独りになって暫くは幾度かあったように思う。

 けれど、最近は無かった。

 今はウルが居たから。

 僕独りなら、あの男は『眠らずに』済んだ。

 ああ、ゼア。

 貴方も同じでしたか。

 ゼア。教えて欲しい。

 貴方も『二人』を遺す為に私の手を取ったのですか。


 変:

「ゼア」

 掠れた聲に、私の中で何かが動きました。

 只管に繰返される馴染みの二音。

 ワズさんの中で次第に色鮮やかになる『あの人』の姿。

 其れこそ、私の姿が不確かになる程に。

 嗚呼。

 私は矢張り『鏡』なのです。

 映す像が『愛』であれば尚更。

 ならば、私は其の役割を甘受しましょう。


 慕:

 宿まで数歩の所で、腕に掛かる重量が唐突に増した。

 思わず取り落とす、ウルの躰。

 路上に転げた影を助け起こそうと伸ばした手が、凍り付く。

 先程までの幼児とは似付かない、其の姿は。

「大丈夫、で……大丈夫だから」

 其の聲は、『あの人』の物では無いのに。

 唇は懐かしい名を呼ぶ。


 冒:

 此れは恐らく愚かな事。

 けれど、濃紺の眸に揺れた感情に、浮かび掛けた詫言を呑込みました。

 躯を強かに打ち付けた其の瞬間が分岐点。

 もう遅い。

「ああ、ゼア」

 甘やかな囁きには笑みを。

 揺れる指先には救いの掌を。

 ワズさんの中から『私』が消える痛みは、罰として甘んじましょう。


 縋:

 手を引かれる儘、歩く。

 少し先に在る背は懐かしい。

 けれど、違う。

「良いんだよ。無理をしなくても」

 だが、強く手を握られて頭に浮かんだ像を消した。

 宿の戸口で焚かれている灯りに蛾が飛び込む。

 一瞬で果てた蛾は、満足だったろうか。

 問いは形を成さない。

 聲は零れず喉を下った。


 閉:

 ぱちりと爆ぜた焔。

 其の光芒を目にしたワズさんは、俯向いて最早何を語る事もしませんでした。

 委ねられた手には力が無く。

 零れぬ様にしかと握り直して、部屋まで誘います。

 私も又、語る言葉を持ちません。

 何を語ろうと紛い物でしか無いのならば、沈黙を。

『ゼア』として在る為に。


 印:

 安宿の小さな寝台の上。

 ひたりと躯を重ね、心音に耳を澄ました。

 言葉は胸裏で砂粒の様に零れ、掬い上げたとて元の形を失くす。

 水気を含んで、ぐずぐずと崩れて行く。

「必ず行こう」

 子守唄に似て優しい声が誘う。

「あの『村』へ」

 そう、行かなくては。

 其れがたった一つの在る意味。


 由:

 固く丸まる四肢。

 苦心して静かに解き、細い躰を寝台に横たえます。

 眠り落ちる迄、ワズさんは一度たりとて『私』を呼びませんでした。

『ヒト』では無い私では、足りないのでしょうか。

 支えとしては、在れぬのでしょうか。

 だから『私達』は。

 続く聲は緻かに砕け、過去には届かない。


 空:

 目を開くと、其処は夢の中。

 此方を覗き込む優しい双眸は見慣れた物。

 名を呼ぶと、ゼアは何故か哀しげに眸を落した。

「行きましょう」

 促す聲に導かれ、手を伸ばす。掴んだのは空の鞄。

 何も入っていない、小さな鞄。

 虚ろを覗く僕の耳に響く、ごとりと重い音。

 夢は泡沫の様に弾けた。


 在:

 返事が無いのは淋しい事。

 其れは、独りの時に無言が返って来るよりも、誰かが居る時の方がずっと。

 静けさが胸に迫って重く、苦しいのです。

 けれど私は呼びます。

 此の暗がりから、ワズさんの名を呼び続けます。

 仮令、応えが無くとも。

 貴方の望むモノでなくとも、此所に居るのです。


 違:

「ワズさんにとって、私は誰なのでしょうね」

 呟かれた言葉に、心が騒いだ。

 其れは何時か、僕が自分に問い掛けた言葉と同じ。

 似ていると云われて、髪を切った。

 同じだと嬉しそうに云うので、口癖を止めた。

 其の時と、同じ。

 ウル。

 間違えぬように名を呼ばわると、鞄が小さく弾んだ。


 冀:

 囁く様に呼ばれた名に、全身で答えます。

「君は、ウルだよ」

 一音一音噛み締めて紡ぐ聲が、私を形作るのが嬉しくてなりません。

 仮令、其れが『本』としてであっても。

 ワズさんにとっての『誰か』では無く、『私』だけの姿だから。

 嗚呼、其れでも気付かなければ良かった。

 此の欲に。


 毅:

 何時か、を決めようと思った。

 寄せては返す、昨日と変わらぬ街の喧騒を足早に抜け乍ら。

 別れ、を決めようと思った。

『あの村』に辿り着く迄と。

 ウルを二度と僕の都合で変えたく無い。

 僕自身の為に。「

 ならば、其処迄は決して離れませんよ」

 だが、いっそ陽気に言い切られて怯んだ。


 急:

 本当は知っているのだと、ワズさんの唇から自嘲に塗れた聲が滴ります。

「大体の場所は、初めから」

 何処、とは言わずとも知れた事。

 其れは其れは、長い道草ですね。

 そう何でも無い様に返せば、固く凝っていた頬が少し緩みました。

 行きましょう、今迄と同じ様に。

 此の街を出たなら。


 捨:

 羊顔の商人に合せて街の門を潜る。

 同行者の顔をして、緩慢と門を通り抜けた。

 背後から誰何の聲は無い。

 後ろを今一度確かめてから、歩調を早める。

 男に対しての後悔は、無い。

 唯、呪を知られる事が恐ろしかっただけ。

「生きる為、だったから」

 ウルの言葉は独語として流れていった。


 愁:

 痩けた月が頼り無く照らす藪に、下生えを踏む音が響きます。

 其の歩みに迷いはありません。

 まるで見知った道を歩む様。

「先ずは隣の大陸へ行く」

 りん、と鋼を打ち合わせるのに似た聲で宣言し、ワズさんは絡まる草を引き千切ります。

 幾つもの小さな悲鳴達。

 聞えない振りをしました。


 命:

 ウルは本の形状を取ると一切飲食をしない。

 ――所謂魔術的生物の理は、通常の道理からは外れていますから。

 そう在るが為に在る。其れ以外に云い表し様が無い。

 存在其の物が理なのです。

 学者としては悩ましい所で。

 此れが酒場で行合った学者の談。

 嗚呼、其れは何て純粋な生だろう。


 躯:

 ――俺は此の腕一本を犠牲に、魔女の詩を退けたのさ。

 隻腕の傭兵さんが、酒席で得意気に語っています。

 多くのモノ達は損った躯を元通りには出来無いのだと、草原を出てから知りました。

 そして、戻せない方が普通なのだと云う事も。

 だから、全て整っているワズさんに安堵しました。


 憧:

 湖の畔に佇む石造りの塔。

 其れは嘗て此処を治めていた領主の令嬢が、愛しの竜を待つ為に造らせたと云う。

 だが今は露台も朽ち落ちた。

 竜が現れる事は無く、苔生した手摺は顧みられない。

「邂いに行こうとは思わなかったのでしょうか」

 不可解げなウルに云う。

 唯の恋だったのさ、と。


 華:

 黄昏の街で出会った、花売りの女の子。

 ワズさんは少し悩んで、躊いがちに一つ買いました。

 彼女は代金を受け取ってから暫くワズさんを見ていましたが、直に溜息を吐いて路地の奥へと消えます。

「哀しいね」

 其の聲は萎れている花に落ちましたが、何だか女の子に向けられた様でした。


 委:

 何時か判る時が来る。

 其の人は尽きせぬ悲哀を宿した目で云った。

 何時か解る時が来る。

 其の人は全てを内包した笑みを湛えて云った。

 其の何時かは限り無く遠く。

 されど、其の何時かに触れる瞬間がある事を確信し。

 絶望と希望とを等分して、確かに託したのだった。

 先を征く二人へと。


 時:

 何事にも巡り合わせがあるものよ。

 時期、時節、時刻、其れこそ時運。

 時宜を違えては、良縁も悪縁となるでしょう。

 例えば、私と彼女。

 其処から続く、あの子達。

 出会いは必然であろうと、時の媒を待っていたの。

 そして、青年は乙女に出逢う。

 其れが王道、と魔女は退屈げに欠伸した。


 香:

 露天の合間を歩んでいると、其処の旅人さん、と手招きされた。

 懐こい目をした男の前には様々な香。

 ――夜間、此の香を焚けば獣が寄り付かない。一つ如何?

 上目遣いを軽く受け流して離れる。

「一つ買っても良かったのでは」

 ウルの言葉も尤もだ。

 だが、きっと君の鼻にも良くない。


 避:

 食事は一杯の水を飲み干してから。

 其れが此の村の為来りだそうで。

「意味を考える必要は無いよ。大体は伝承なんかが出てくるだけだ」

 ワズさんは陶杯を手に一笑します。

「でも、余程の事で無い限りはやった方が良い」

 そう云うと、水を一息に乾しました。

「所詮此処だけの事だから」


 使:

 円匙を背負った男は墓堀人だと名乗った。

 文字通り墓を掘ち、弔うのが生業らしい。

「あの戦ん時には、たんと働いた物さ。今じゃ死肉猟りだのと云われるが」

 構わんと、赤銅色の頬に矜りに満ちた笑が乗る。

 其の面に、僕はウルの囁きを伝えた。

 在った証を残して貰えた人は幸せだ、と。


 海:

 空を泳ぐ魚の群れ。

 鱗が弾く光が、ワズさんの髪を霓色に染めます。

 此れも、かの『黄色の魔女』がした事なのでしょうか。

「いや、『青の魔女』の戯れさ」

 四つの大陸全てを地続きにして、其々繋いだ所の海を捻じ曲げたそう。

 街道の上を覆う海は、唯々穏かに光の漣を降らせています。


 翰:

 舗先に吊るされた籠。

 蒼い花蝶の鉢が納められた其れは風聞屋の証だ。

 犇く色彩の中、若草色の花蝶を選び、翅へと風聞を認める。

『あの村』の詳細を尋ねる文を。

 そうだ。若し、ウルも届けたい人が居れば。

「いえ、届けられません」

 僕の問いに、哀しげな聲がことことと鞄を震わせた。


 精:

 人の食物にも大分昵みました。

 食べ付けない為にか、当初は調理した食物に苦しい思いもしましたが、今は大丈夫。

 ワズさんと楽しみもします。

 けれど、野宿の時ばかりは昔通り。

 獣の姿で、眼前に揺れる半透明の影を丸呑みしました。

 自分が誰かも忘れた思念は、静かにお腹で解けます。


 迷:

 他者を拒む様に張り出した角。

 絡み合う茨も似た其れを得意げに翳すのに、黙って首を振る。

「いけませんか」

 上目遣いをされても駄目だ。

 そも、其れでどうやって扉から出るんだ。

 当然の問いに、考えてなかったと笑って、眼前の姿が又揺らいだ。

 彼此、数時間。

 ウルの外出姿は、未だ決まりそうも無い。


 遊:

 綺麗な姿、可愛い姿は危険だからと駄目出しされました。

 ならば、と逞しい躯に変わってみた所、深々と溜息を零します。

 以前の事を踏まえ、初めから人に変わって行く事を言付かったのは当然なのですが。

「何でそんなに極端なんだ」

 決まってるでしょう。

 ワズさんの好みを知る為です。


 劣:

 隣で弾む長い尻尾。

 周囲の喧騒に合わせ、小刻みに動く耳。

 今僕の側らに在るのは、猫もとい虎人だ。

 結局、獣相の方が良いだろうと云う事で落ち着いたのは未だ良い。

 問題は、背丈。

 まるで僕に誂えたかの如く肩が並ぶ。

「折角ですから。目線が合った方が」

 涼しげなウルが小憎らしい。


 真:

 薄紫の空に流れる躇いがちな問い。

「君は、呪を解く術を探しているのかい」

 私は私の一族と出会いたいのです。

 首を振り乍らそう告げると、ワズさんは柔らかな吐息を漏らしました。

 ええ、嘘は云っておりませんよ。

 彼等に話を聞く事が、結果呪いを解く術となる可能性となるだけの事。


 愛:

 愛に正否は無い。種族も性差も、愛の前には全て平等だ。

 ――暑苦しい事此の上無い弁舌。

 其の勢いが全く衰え無いのは、聴き手が居るせいだ。

 熱心な相槌を返しているウルを、其の場から引き剥がす。

 所詮は酔漢の戯言に過ぎない。

「識っていますよ」

 苦言に応じる聲はやや褪めていた。


 居:

 狭く昏い穴の中。

 ぴったりと躯を収めて、ほうと一息。

「何も、わざわざ其処に入らなくても」

 呆れを含んだワズさんの聲は、聞えない振りをしました。

 何と云われようと、此処が良いのです。

 身動き一つ取れなくても。触れ合う手を無くしても。

 此の鞄は、私だけの居場所なのですから。


 火:

 ざくり、と。

 見事な半球に刳られた山向こうで、大輪の花が咲く。

 腹の底に響く低音に合わせ、光の花弁が散る。

 幾つも夜空を粧る其の花火は、戦を免れた火薬を使っているらしい、と聞いた。

「あんなにも、綺麗な物になれるのに」

 ウルの聲は打上げの音で半ばにして跡切れ、聞えない。


 香:

 花の香は、甘く喉に絡みます。

 水の香は、涼しく胸を満たします。

 そして、旅に出てから識った様々な香り。

 人里の香は何処か弾むよう。

 廃墟の香は重く蟠ります。

 そして。

 眠るワズさんの髪に鼻先を埋め、深く息をしました。

 暖かく湿った、胸を締め付ける優しい香。

 私の一番好きな香。


 翁:

 荒れた森中。

 行く手を難む太い根に、乗り越えるべきか思案がてら手を掛けようとした途端。

 根が逃げた。

『悪いな、御若いの。儂が退こう』

 次いで、朗々と響いたのは太い聲。

「有難う御座います、先覚の方」

 先んじたウルの謝辞と共に頭を垂れると、樹皮に刻まれた顔が鷹揚に笑んだ。


 独:

 戦が興る前、此所には多くの仲間が居たそうです。

 其れでも今は彼一人きり。

 しかし。

『遠くへ行けずとも、訪ねてくれるモノが居れば辛くは無い。儂は独りでは無いのだから』

 優しい聲が促す先。

 葉陰には夥しい花蝶。

 根では動物達が遊んでいます。

 ワズさんは眩しげに目を細めました。


 臆:

 行く先々で現れる花蝶達の翅は一様に昏い。

 今も肩に止まった風聞は、深く淀む紫を帯びている。

 其れは、以前流した物への返信だと解ってはいた。

 けれども。

「見ないで良いのですか」

 花をポケットに落とし込むと、ウルが首を傾げる様に背を揺らす。

 見ない訳じゃない。

 もう少し後で。


 虚:

 近頃ワズさんの口数が減ったように思います。

 いえ、元々其れ程多弁な方では無いのですが。

 針を束ねた様な小さな森を抜けてからは、特に。

 其処此処に穿たれている戦の爪痕のせいでしょうか。

「此の方角で、正しい筈なんだ」

 霤の様な聲は重く。

 私の中に、小さく昏い穴を作るのです。


 疵:

 往時、此所には道が在った。

 広い道では無い。恐らくは荷馬車を通す為に整えた程度だろう。

 所々に敷かれた石が其れを物語っている。

 しかし、其の慎ましい道は今、無い。

「何、が通ったのでしょう」

 荒野に同化し始めている道を前に、ウルが聲を震わせた。

 其の答を僕等は識っている。


 穴:

 地面に空いた穴の底。

 剥き出しの固い土の上で、ワズさんと私は身を寄せ合っていました。

 身を隠す場の乏しい荒野の事。躯を休める場は他に無かったのです。

 見上げれば、手の届かぬ高みに浮かんだ円い空。

「彼処が塞がったら」

 半ば瞼を閉じて、ワズさんは笑います。

 まるで試す様に。


 知:

『よーほい。おめさんら、何処さ行きなさる』

 そんな呼び声と共に、頭上に落ち掛かる影。

 巨人族だろうか。

 見上げても足りぬ程の巨漢が、にこやかに問い掛ける。

『此の先には何も無いだで。前は村があったけんど』

 其処に行くのだと告げると、困惑顔の男に合わせてウルが息を飲んだ。


 無:

 蒸騎獣が踏み荒らしたのか。

 或いは、術で一掃されたのでしょうか。

 山裾に拓かれた土地に人の営みは無く。

 辛うじて残る瓦礫の向こう。其処には、無数の白木が立てられていました。

 ワズさんは林立する木切れ達の中に足を進めます。

 乾いた聲で呟かれた三文字が、風に千切られました。


 結:

 御免、と。

 毀れた言葉を渡す相手はもう、何処にも居ない。

 ゼアがあれ程望んだ村はもう、無いのだ。

『彼女』の墓すら最早、大地に還っているだろう。

 目の前で跡切れた道に、呟く。

 此れで終い。

「其の前に」

 しかし、ウルが幕を下ろさせない。

「今度は私にお付き合い下さいませんか」


 盟:

 びょうびょうと啜り泣く風に負けじと、私は聲を張り上げます。

 旅は未だ終わりませんよ。

 今度は一人で行く事が儘成らない私の、旅路の供に。

 私は貴方との約束を守ったのだから。

 次は貴方の番です。

「友、か」

 私の其れとは異なる語調で二文字を紡ぎ、ウルさんは私を抱き寄せました。


 選:

 約束と云うならば、此処での別れも又約束ではないのだろうか。

「貴方の決意は聞きました」

 ウルは僕の云いに反論はせず、穏やかに云う。

「けれど、私は承諾していませんから」

 腕の中から届く聲は、真っ直ぐ胸を叩く。

「今度は貴方が選ぶんです」

 急き立てはせず、何処までも優しく。


 彩:

 灰色。土色。枯草色。

 如何にも旅装束は地味です。こんな色ばかりでは楽しく無いでしょう。

 だから此処は一つ、此の鮮やかな藍色の

「却下」

 は駄目ですか。

 店先で示した服はにべ無く断られます。

 御似合いだと思うのですが。

「ウルが着るかい」

 ワズさんの提案は丁重に御断りしました。


 維:

 何事も無かったかの様だ、と思う。

 僕は『あの村』に辿り着いたなら、きっと『終わる』だろうと思っていた。

 だが、結局は如何だろう。

 今迄と同じくウルと共に在り。二の足は大地を踏む。

 僕達は如何したって此所に居るのだ、と思う。

 居るしか無い。

 居るなら歩むしか無い。

 死ぬ迄は。


 介:

 御免と有難う。

 其れは誰に向けた言葉だったのでしょうか。

 又、誰の言葉だったのでしょう。

 ただいま、は恐らくゼアと呼ばれた人の物。

 懐郷を胸に抱き、戻り得ぬ儘去った人の物。

 其れ等を一握の白砂と共に土へ返したウルさん。

 迷い子の様な横顔に、別れる等如何して出来ましょうか。


 惑:

 道無き道。

 其れは文字通りでもあり。

 又、比喩としても正しく。

 今度こそ、当ての無い旅をしている。

「彼等は恐らく、今も尚『人』と在るでしょう」

 だからこそ風聞は飛ばせないのだと、ウルは感情を含まぬ聲で云う。

 其の言葉に含まれる意味は僕でも解る。

 其れ故に解らない事も、又。


 譲:

 そっと頁の間に挟み込まれた封筒。

 端も擦り切れ、古色を帯びた其れは恐らく幾度も開かれたのでしょう。

 封は半ば迄千切れておりました。

「今度はウルに持っていて欲しい」

 噎ぶ風の中、ワズさんの微笑みも又吹き散らされる様に淡く。

 私は応えの代わり、托された信を閉じ込めました。


 綰:

 注意を欠いていたのは、否定出来ない。

 熱を孕む足首に舌打ちを零せば、広い背が溜息に震えた。

「今は私を頼って下さい」

 宥めを含むウルの物云いにも又、舌打ち一つ。

 じくじくと痛むのは足か、胸か。

 膿む様な其れを抱えて、柔かな毛皮に身を伏せる。

『僕』が、此れ以上戻らぬ為に。


 扛:

 土を踏み締める四つ足。

 肉球に食い込む小石の感覚は好ましくないのですが、仕方ありません。

「其れなら自分の足で歩く」

 先に云われた強い否定が、今も頭蓋に響いています。

 其れでも何時か必ず『人』の身で。

 案外と強かに思考を巡らす自分に笑えば、ウルさんが背を一つ叩きました。


 負:

 懇願に却下を言い渡した事、十数回。

「御願いします」

 遂には伏し目がちとなったウルを前にして、決心が揺らぐ。

 体側にぴたりと沿う様回された尻尾。

 前足の間に先端が入り込んでいるのは、確か不安を示す。

 ひたと伏せられた耳も同様。

 ――斯くして、僕は虎と街の門を潜るに至った。


 悔:

『大層な愛玩動物』

 擦違いざまに投げ掛けられた言葉。

「友人だよ」

 ワズさんは眸を前に向けた儘、小さな呟きを呉れました。

『騎獣は外に繋いどくれ』

 宿でも同じく向けられた言葉。

「友人です」

 再び訂して帳場に置かれた二人分の代金に、今度は目を伏せました。

 二度と云いますまい。


 盲:

 ウルは戸口に蹲って動かない。

 僕を置いて同胞を捜しに行けば良いのに。

「矢張り、私と別れたかったのですか」

 促せば、抑揚の無い問が向けられた。

 如何だろう。解らなくなった。

 そう口にして、違うと気付く。

 本当は何も考えていなかった。

 何も。

 呪と共に在る事だけが、最後の願い。


 義:

「もう、休むよ」

 ぽつりと寝台に染みた聲。

 此方に向けられたワズさんの背に、私は手元へと視線を落しました。

 ほんの一時、揺らぐ前脚の輪郭。

 嗚呼。

 姿を変えられたとて結局は何の役にも立たない。立てない。

 許しを請う様に、私は傷々しく冷却符に包まれた足首へ口吻を寄せました。


 覚:

 膚に空気が張り付く。

 首を撫でる風の指は冷たい。

 音は何処か丸みを帯び、虫達が軒下へと身を潜める。

 雲は銀の裏地を隠して、頭から黒の外套を被った。

 雨が、近い。

「気付かないのでしょうか」

 僕同様、周囲に耳を傾けていたウルが苦笑気味に云う。

 其処此処で揺れる洗濯物を見つつ。


 憩:

 雨は長引きそうですね。

 語る聲に気色が乗ったのでしょうか。

「雨乞いをしたのかい」

 ワズさんは窓辺に目を遣った儘、淡に笑いました。

 真逆。本は湿気に弱いのですよ。

「其れでも丁度良いね」

 戯ける私の表紙を指が撫でました。

 街は未だ雨催いに気付かずに、多彩な布を翻しています。


 否:

 内から光を零しているかに見得る滑石の膚。

 木苺の其れより赤い唇。

 樹影の如く深き睫毛の帷に、緑柱石の燦めき。

 面紗に似て艶やかに広がる髪は花の香。

 完璧な女が、其処に居た。

「如何かしましたか」

 飾り窓の前に立つ僕に、ウルの聲が投げ付けられる。

 まるで女など居ないかの様に。


 性:

 とつとつ、と。

 二重に響く音の向こう。

 扉から漏れ出る空気は生温く。

 浴室に満ちる湯の気配が、此方側迄漂って来ます。

 唯々水音ばかりが響く部屋で、私は視界を闇に沈めました。

「ウル」確める様に届いたワズさんの聲には沈黙を返します。

 其れを貴方が望んでいると識っているから。


 枷:

『人と人を分かち難く結び付ける物とは何か』

 語り部の職を終えた僕に向けられた問。

『圧屈や恐怖。支配する事で別たれる事は無くなるだろうか。否。其れよりも愛情、憐憫、或いは』

 プラトと名乗る術師は一度聲を切ると、憫れむ様な視線を向ける。

『罪悪感』

 聲はウルの鞄に落ちた。


 晒:

『此奴はイーディアだ』

 市で聞こえた呼掛け。

『とは云え、すっかり『固まっちまってる』から駄目だが』

 がん、と商人が檻を蹴り付けても、彼から漏れるのは低い唸り声だけ。

 唯の獣だろうとの野次が飛ぶけれど、私には解ります。

 イル。

 呟くと、ワズさんが歩き出しました。

 聲の元へ。


 懣:

 近くで見せてくれと商人に金を握らせ、檻に近付く。

 獣の口から漏れる聲は濁って意味を成さず、悪戯に唾液の泡を撒き散らすばかり。

 だが其の目の底では、煮滾った鋼の如き憎悪が渦を巻いている。

『人』に向けて、烈しく。

「私が、解りますか」

 震えるウルの聲が、牙に噛み砕かれた。


 喚:

 鋭い牙の噛み合わされる音。

 心迄砕いて行く音に、言葉は喉へと張り付きます。

「呼び掛けて」

 もう無理だと諦め掛けた瞬間。

「僕が口を合わせるから」

 私の背をワズさんの聲が押しました。

 人の目を盗み乍ら、檻の内側に再び語り掛けます。

 如何か解って、と。

 昔の彼を思い起こし乍ら。


 化:

 未だ衰えぬ眼光は、仮令檻に囚の身であろうと近付くに躊躇わせる。

 牙は届かずとも、前肢の一凪は出来よう。

 其れでも、退けない。

 ウルの為にも。

「もう、届かないのですか」

 悲痛な聲に一歩進める。

 しかし。商人も又焦れたのだろう。

 肩を掴もうとする寸前、鞄から蜂を抜け出させた。


 飛:

 翳の中で融ける輪郭。

 固く角張る形から、柔く丸みを帯びた形へ。

 背に生じた薄翅が、外へと躯を誘います。

 此れは私の意志では無く。

 商人に肩を掴れたワズさんが、確かに一度頷きました。

「行っておいで」

 其の唇が綴る言葉を受け、翅が確と空気を掴みます。

 迷う事無くイルに向けて。


 希:

 忌々シイ、形カラ、懐かしイ、コえ。

 聞こエた、きガ、しタケど。

 きッと、違ウ。

 目ニ、ウツるのハ、おぞマシい、かタまリ、だケ。

 アア。

 わタシが、ワたしデ、なくナル、まエに。

 ドうカ、モウ、一ド。ワタしヲ、ヨンで。

 ウル。

 ぴんト、たテた、みミに、なにカが、フレた、きがした。


 論:

 イーディアと称ばれる種族。

 彼等は元来、一つの個体から派生したとの説がある。

 他者との感応により姿を変容させるが故に、本来の姿は未だ誰も知り得ない。

 唯一片鱗を覗わせるのは死亡時のみ。

 彼等は其の際、遺骸を残す事は無い。

 しかし、水と化して消える姿が多数目撃されている。


 往:

 須臾。市場の空気が揺れた。

 質量を伴う太く重い音が檻の内から発せられたのだ。

 其れは咆哮。

 悲愴では無い。

 瞋恚でも無い。

 寧ろ欣幸を感じさせる聲で獣が吼える。

 其れが最期だった。

 逞しい躯がぐずりと崩れて外に流れ出す。

 其の流れからウルが飛び立つのを、茫然と僕は眺めていた。


 同:

 今の私には洞窟の様な耳孔に呼び掛けると、イルの躰が震えました。

 触れた毛先からは、想いが流れて来ます。

 其れは歓喜と、諦念。

『さあ、連れて行っておくれ』

 もう終りだと告げる懐かしい聲。

 水に還ったイルを呑み込むと、其の場を飛び立ちます。

 想いも呑んで、ワズさんの元へと。


 退:

 鞄にウルが飛び込むや、否や。

 懐に納れていた加速符を発呪させる。

 耳元で引き伸ばされて行くのは、商人の怒号。

 緩慢に持ち上げられる腕の下を潜り、土を蹴る。

 粘性を帯びて纏わり付く空気を躯で割り乍ら、僕等は市から逃げ出した。

 行き掛けの駄賃に鋼の首輪を掠って。

 振り返らず。


 痛:

 荒れ狂う風音に、跳ねる鞄の中。

 私の躰も又、彼方此方に打ち付けられます。

 けれど、痛みは微塵も感じませんでした。

 其れよりも尚、喉が、そしてお腹の底が痛い。

 雪崩込んで来る自分の物では無い感情と記憶。

 此の小さな躯では受け止められぬ程。

 でも、吐き出す事は出来無いのです。


 埋:

 ちりりちりり。

 穴の底に落ちるモノ。

 鉄片が地の黒に紛れて、降り積もる。

 丹念に砕かれた枷を大地に還す。

 円く盛り上げた土の上には、若木を殖えた。

 何時かの墓堀人がそうした様に。

 此れはウルの頼みでは無い。

 僕の自己満足だ。

「有難う御座います」

 其れでも、感謝の聲に心弛んだ。


 弔:

 土の下には誰も居ません。

 彼は私の中に、『私達』に還ったのですから。

「余計な事をしたかい」

 ワズさんは黒い手の儘、足元に視線を落します。

 いいえ。いいえ。

 仮令『欠片』でも、彼は確かに居た。

 其の証は残されるべきです。

 一杯の水に輝く緑。

 踊る様に滴る光の雫は、涙の代わり。


 席:

 先ず一人。

 未だ一人。

 だが、世界に犇く許多の者達の中から出会いを果たせた事は、幸運と云えるだろう。

 仮令、触れた時間が刹那でも。

 しかし、僕の唇はそんな慰めを紡ぐのを拒む。

 喪われた者が居た席は空席の儘、心に残されるのだから。

 其の空虚を識っている僕には、何も云えない。


 繕:

 鞄の中に搖蕩う聲。

 いえ、聲は私の内側で波に似て、寄せては返しているのです。

 其れは、何時か草原で交した他愛の無い言葉だったり。

 遠い昔、一枚の『鏡』だった頃の聲であったり。

 繊く優しく哀しく温かな聲を手繰り、私は欠けた箇所を繕いました。

 其れはイルの望みでもあるから。


 猜:

 違和感の昏い一滴。

 其れは日毎滴り、平坦だった水面を揺らす。

「他を捜しましょう」

 涼やかな聲が又、鈍色と化して落ちた。

 其れは細やかな草の根に似て水中に広がり、次第に無色を有色へと変えて行く。

 今や膨れ上がった疑問は舌の根を押し、喉を塞いだ。

 何故、ウルは歎かないのか。


 隔:

 振り返っても、小さな若木は何処にも見えません。

 当然です。

 あれから五つの川を渡り、三つの丘を越えたのですから。

 其の間、ワズさんは折りに触れて一綴りの言葉を私に向けました。

「無理をしなくて良いのだよ」

 私は都度、大丈夫と返します。

 一体何故、気遣われているのでしょう。


 異:

 あの獣とどんな関係だったかは知らない。

 けれど、哀しくはないのだろうか。

「彼は此所に居ます」

 ウルは屈託無く云うと、黒く染まった頁を幾枚か揺らして見せた。

「全く失われた訳では無く、形を変えたに過ぎないのです」

 憂愁など微塵も無い。

 寧ろ誇らしげな声音に、眩暈を覚えた。


 裂:

 高が壁一枚。

 けれど、壁一枚。

 鞣革の向こう側で刻まれる鼓動は、何時もよりも速く聞えます。

 鞄に確と掛けられた留金。

 姿を変えさえすれば何の意味も無い其れが、今は余りにも難い。

「君は、本だ」

 ワズさんの意思が聲まで奪ってしまう以上、何も出来ず。

 私は頓に身を竦ませました。


 拒:

 悲しむべきだ、と思うのは僕の我執なのかも知れない。

 だけれども、今迄交した言葉を思い出すにつれ、感情は淀んで行く。

 猜疑い出せば限りが無い。

 慰めも共感も嘘では無いのかと。

 きっと聲にした時点で、既に本質は失われている。

 言葉は、不誠実。

 だから、僕はウルに沈黙を強いた。


 囚:

『本』は語りません。

『本』は動きません。

 其れは『普通』ならば当然の事。

『物』となった躯は強張り、殻の様な内側で思考だけが揺れます。

 私は何を間違えたのでしょう。

 問う聲も持たない今、解を得る事も又出来無いのです。

 夜も昼も無い暗闇で、頓にワズさんの許しを待ちました。


 静:

 行く手に待っていたのは三叉路。

 どの路を行けば良いだろう。

 行き先を決めるのは、飽く迄でもウルだ。

 鞄の留金を外し、本に手を伸ばす。

 ……表紙が、冷たい。

 其れは当たり前の感触なのに、慄いた。

 そう云えば。

 何時から僕は会話を拒んでいた?

 掌の上で、ウルは無音を保ち続ける。


 依:

 私達にとって自分とは、酷く頼り無い物。

『だから、人に交わるなと云ったのだ』

 少しずつ欠ける感覚の中で、私でない私が嘆きます。

『お前も固まってしまうよ』

 断定に近い言葉に小さく笑って見せました。

 私は信じています。

 ワズさんを信じる自分自身を。

 だって其れが友人でしょう?


 想:

 揺すろうと。

 叩いても。

 あの優しい聲が聞こえない。

 震える指で闇雲に頁を繰る。

 干乾びた花蝶の翅。繊い金糸の幾筋か。擦り切れた信[てがみ]。

 そして漸く見付けた一文。

『私は、貴方を』

 其の後に続く字は滲んで解らない。

 けれど、紛れも無いウルの聲に、僕は強く額を押し当てた。


 請:

 柔かな膜を隔てた様に朧げな感触。

 其れでも確かに『私』に触れている温もりに、私は『上』を仰ぎました。

「戻っておいで」

 繰返されるワズさんの聲。

 ほら、大丈夫だった。

 深く求める場所からの呼掛けに容を変え始めた躯。

 其処に『イル』だった『私』が静かに融け込んで行きました。


 抱:

 軋々と。

 耳障りな音を立てて、本が蠢く。

 変化し始めた質量を取り落すまいと草地へ腰を下ろす。

 軈てウルは獣人へと変貌を遂げた。

 くったりと力無く頽れる躯。

 膝上に頭を置いて横たわらせると、淡金の眸が僕を見上げて笑う。

「ワズ」

 其の乾き切った聲を押し留める様、口元を封いだ。


 唇:

 長い口吻を覆う、かさついた掌。

 頬を擽る金糸を掬いたくても、腕は微塵も動いてくれません。

「御免よ」

 降り注ぐワズさんの聲を眸で受けると、温かな雫となって眦から零れます。

『私』は此所に居ます。

 綺羅星泳ぐ眼差しを宥めたくて、そう唇だけで語れば、熱が一つ額に燈りました。


 確:

 何でも一つ。

 そう切り出したのは僕自身。

 漸く躯の自由を取り戻したウルが望んだのは、他愛の無い事。

「手を」

 短く告げて伸ばされた手を握れば、子供みたいに稚い笑みを顔中に浮かべた。

 触れ合わせた指先に伝うのは温かな鼓動。

 生きている。

 そんな当たり前の事を、今更に確かめた。


 幸:

 鋭い爪を触れさせない為には、どうしたって手に力を込められません。

 僅かでも食い込めば、柔かな膚は裂けるでしょう。

 其れでも。

「次の街迄は」

 示した岐路の先を、ワズさんは迷い無く歩き出しました。

 力一杯、私の手を握って。

 其れは後悔からだと解ってはいたけれど。

 幸せでした。


 交:

 大体ウルの半歩後ろ。

 其の距離を保った儘、僕等は歩む。

 時折振り返って僕の存在を確める緑を帯びた金の眸には、手を握り返す事で応えた。

 二人の間に言葉は無い。

 其れは少し前と似ている様で、確かに違う沈黙。

 聲の代わりに僕等は、繋ぐ掌の熱で語る。

 優しい想いだけを、伝え合う。


 猶:

 昼と夜の間。

 橙色に染まり始めた地面に落ちる影を、追い掛ける様に歩いていました。

 そろそろ眠る場所を見付けなければいけないのに。

 そうしたくなくて。

 そろりと背後を窺えば、一足先に夜を帯びた眸が和らぎました。

「もう少し」

 甘く絡むワズさんの指に頷きます。

 後もう少しだけ。


 温:

 陽が最後の光を稜線に滲ませる頃。

 一陣の風が外気に晒された項を揶揄う様に触れた。

 其の冷やかさに首を竦めて、この大陸の夏は酷く短いのだと今更に思い返す。

 秋も又、きっと瞬く間に過ぎるのだろう。

 朦朧と想えば、ウルに肩を抱かれた。

「此の方が暖かいでしょう」

 うん、暖かい。


 唯:

 何時か、こうして歩いた事があったのでしょう。

「暖かいね」

 頬が触れ合いそうな程の距離で寄り添い、囁くワズさんの横顔を盗み見ます。

 円かな表情と、預けられた嫋やかな躯。

 しくりと収まる温もりに、矢張りと思うのです。

 きっと『あの人』と。

 でも、今は私です。

 他の誰でも無く。


 君:

 価値観。

 其れは個人であったり。

 性差であったり。

 或いは育った環境。

 況や種族でも異なる。

 単純な美醜の差ですら一致しない事が儘あるのだ。

 今も、ウルが綺麗だと賞した毒々しい芋虫を扱下ろす。

「でも、貴方が綺麗だと云う事は譲りません」

 長い沈黙の後、返った聲に敗北を告げた。


 私:

 一つ。

 又一つ。

 日々の中で出て来る違い。

 其の度に聞く、ワズさんの決まり文句。

「僕は君じゃないからね。そして君も僕じゃないからね」

 突き放す様な言葉。

 人によっては冷淡に聞こえるかも知れません。

 けれども、其の違いが『私』になるのです。

 確かな『私』を作ってくれるのです。


 色:

 冬支度、として外套を探す。

 今使っている物は端が擦れているし、この際新調しようと思ったのだ。

 重要なのは手頃な値段と軽さ。

 そして何よりも色。

 舗を何軒か回覧って、漸く手に入れた一着の外套。

「今迄のとは雰囲気が違いますね」

 ああ、うん。

 此れならウルにも似合うと思うんだ。


 褥:

 息をしているみたいに揺らぐ焔の前。

 小さな銀色の光が見え隠れ。

 長い指が器用に動くと、外套の解れた箇所が綺麗に繕われて行きます。

「未だ着られるしね」

 ふつんと糸を切って、ワズさんは元通り外套を着直しました。

 真新しい外套は地面の上。

『本』の私を、柔らかに包んでいます。


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