第一話~第二百二十話
登場人物
主役
ワズ:旅人・人間
ウル:同行者・『イーディア』魔法的生物
その他
ゼア:旅人・元咒い保持者・人間
ジギ:宝石鳥・『イーディア』魔法的生物
クノ:稚い少女・『イーディア』魔法的生物
イル:上古の獣・『イーディア』魔法的生物
プラト:高位術師・パガド・人間?
イサ:蒸機鳥
ナシム:騎士・夏の大陸、中央王家に属す・人間
黄の魔女:『世界』の敵・十と二十二名からなる『魔女』の一人
青の魔女:『世界』の創造者・十と二十二名からなる『魔女』の一人
始:
草原を行く影一つ。
天蓋より降り落つ月光は草原を銀海へと変え、旅人は孤独な船の如く。
ところが。
「今晩和。良い夜ですね」
唐突に、朗らか、よりは幾分か落ち着いた聲が草上を渡り、旅人に届いた。
「今晩、和?」
聲に釣られ、振り返った先には一冊の本。
此れが『二人』の出会い。
遇:
「始めまして」
ぱたりぱた。
表紙が動く都度、先程の聲が聞こえる。
「ええと、貴方には今私が何に見えますか」
幻聴では無い、が。
本、以外何に見えるだろう。
喋る本も確かに奇態だが、其れ以上に気になる事があった。
そも、此処は草原の真中。
如何して此処に在る、いや、居るんだ。
弁:
本、ですか。
まあ、躯が儘ならぬ時点で生物では無いとは思いましたが。
そう零した所で、何やら独り言ちている旅人さんに私の呟きは届かない模様。
改めて、私は認識の生物なのです、と語り掛ける。
貴方が本として認識する以前は自由に逍遥っていました。
そう、問の解を付け加えて。
語:
認識の生物、とは。
「他者の認識に容易く染まるのです」
首を捻る僕へ、本は淡泊に返した。
「側に居る者に影響されて私は変化します。此の様に」
何故か少し誇らしげに本が開く。
「ところで、何が書いてありますか」
ええと今の会話、か。
広げられた頁を読み上げた途端、聲が止んだ。
黙:
「如何したんだい。急に黙って」
と、申されましても。
其の様に『認識』されては、いっかな聲が出ません。
しかし旅人さんも気付いたのでしょう。
僕のせいかとの呟きが落ちて来ました。
確かに、貴方の認識によって私の聲が文字になりましたが、唯其れだけの事。
何卒お気になさらず。
念:
月明かりに照らして読み取る、幾行かの文。
謝罪を零せば、呼応する様に白い頁へ繊い書体がするすると浮かび上がった。
曰く、僕の固定概念が働いた為らしい。
無機物は喋らない、と云う。
此れは喋る本、喋る本だと念じる。
「有難う御座います」
甦った涼やかな聲に、何故か安堵した。
嬉:
若し私に手が有れば、力強く握り拳を作っていた事でしょう。
しかし現在、旅人さんには本の身。
私自身は握っている心算でも、現実では頁が揺れる程度でしかありません。
しかし、其れでも。
「喋ってくれないか」
其の言葉が嬉しくて堪らないのです。
矢張り、私は間違っていなかった。
認:
「有難う御座います」
鼓膜を擽る少し低目の聲。
慌てて手を振り……
かけて、草間に埋もれる本の前に跪き、本当に済まなかったと言葉に変えた。
生物と云う以上は僕を『見て』いるのだろうが。
先程の沈黙を思い返すと、言葉にしたかった。
此の、長らく使っていなかった喉を動かして。
望:
「さて」
不意に、旅人さんは視線を逸らしました。
丁度天蓋の頂辺で煌く月を仰ぐ様に。
「此れから、如何しようか」
如何する、とは。
「貴方は、如何する心算」
如何するも何も。
旅人さんが私を此所に残せば、又別の物になるだけです。
しかし。
其の問いに、希望を見て良いでしょうか。
提:
「申し訳御座いません」
静謐に、其の聲は溶け入る様だった。
「呼び止めたのは御迷惑でしたか」
何処か果敢無い響き。
思えば、此の草原で一人きりだったのだ。
ねえ、君は。
「はい」
呼掛けに、躊躇無く返る聲。
僕は、一緒に来るのは厭かな、と如何にか乾いた喉から問いを搾り出した。
笑:
別に厭ではありませんよ。
そう、恐る恐る答えた瞬間の、旅人さんの表情ときたら!
「そうか」
今迄、何処か強張っていた口元が緩りと解けて、微笑んで下さったのです。
「旅には連れが欲しくてね」
含羞む様に伏せられた眸。
其の言葉に、私もですよと精一杯、聲に笑みを乗せました。
尋:
拍子抜けする程、呆気ない了承。
一瞬戸惑ったが、気を取り直して肝腎な事を尋ねる。
希望はあるだろうか。
例えば、人の姿が良いだとか。
「いいえ。出来れば本のままで」
本当に其れで良いのだろうか。
「ええ、本なら軽いでしょう?」
茶目っ気を含んだ調子で、ぱたりと表紙が動いた。
化:
旅人さんは優しい方で、尚も私に其れで良いのかと尋ねて下さいます。
其れならば、若し、ですが。
「何だい?」
貴方が望むなら、異性の連れにもなれますよ。
「いや、其れは一寸」
其の方が自然かも知れないと思って申し上げたのですが。
酷く狼狽てた調子で、辞退されてしまいました。
消:
向けられた単語に、束の間浮かび掛けた面影を振り払う。
脳裏に本の形を刻み込んで、記憶には鍵を掛けた。
自分で誘い水を向けた挙句に、何を考えたのだろう。
「如何しました」
質問には曖昧に言葉を濁し、そろそろ行こうかと眼前に手を伸ばす。
抱え上げた本は、仄かに温かかった。
獣:
旅人さんの腕に揺られ、先ず目指したのは木でした。
今宵の宿となる木を捜していたそうです。
ならば。
天幕に成っても良いですが、此処は安全の為、私が猛獣になりますよ。
「そうかい」
旅人さんによって変わる私。
所が。
「虎だよ」
此れは、ね――。
「虎、だ」
――確かに縞ですしね。
眠:
「まあ、良いでしょう」
ふっふと笑う、僕の背丈より大きな『虎』の腹へ、意趣返しの様に頭を乗せる。
「そう云えば、名乗ってもいませんでしたね。私はウル」
とろとろと押し寄せる眠りの合間に、僕も如何にか名前を告げる。
「好い夢を、ワズ」
心地よい温もり。直に意識は飲まれた。
姿:
何かが髪に触れている。
繰り返し、繰り返し。
髪を梳り、幼子をあやすかの如く。
優しい手付きで。
遠い昔を思い起こさせる感触。
次第に意識が明瞭になって来た。
薄く開いた眸に映る人影。
「お早う御座います、ワズさん」
開けた横倒しの視界に、表紙を動かす本もとい、ウルが映った。
触:
ワズさんが目覚めると同時に動かなくなる躯。
低くなった視界にも、慌てはしません。
再び本へと変わっただけの事です。
ね……では無くて、虎よりも此方の方が意識にあるのでしょう。
「お早う、ウル」
挨拶に表紙を動かして応え乍ら、心の中でそっと先程の感触を思い返していました。
標:
僕の勧める朝食を断り乍ら、ウルは至極当然な質問を寄越した。
此れからで、一番大事な事。
「どちらに向かうのでしょう」
無邪気とも云える其の聲に、僕は口篭る。
多分、北だよ。
「多分、とは?」
恐る恐る問う本の表紙を、柔く撫でた。
判らないんだよ。
目指す場所が何処に在るのか。
遠:
朝食に興味をそそられはしましたが、我慢します。
ワズさんの食料を減らしてはいけません。
旅の間には節約も必要でしょうし。
其れに。
「其処の風景は知ってるんだよ。けれど、何処に在るかは知らない」
彼方を見る横顔が余りにも遠くて。
何の感情も無い透明な眸に、聲を飲みました。
道:
物云いたげなウルを腕に抱え、陽を右手に歩き出す。
頭の中で繰り繰る廻る言葉。
聲にすれば、歪んで捩れて虚言になる。
嘘で無くとも、語れば外れて逸れて、判らなくなるんだ。
未だ。
……村か街に着いたら、もう少し詳しく話すよ。
「待ちますね」
曖昧な言葉に優しい聲が返って来た。
髪:
「有難う」
其の応えを最後に会話が途絶えました。
草を踏む音の間に言葉を探します。
ああ、そう云えば随分と髪を短くしていますね。
「長いと邪魔になるからね」
確かに。
でも、陽に透けて金色で、蒲公英の綿毛の様。
私は好きです。
「そうかい」
微りとワズさんの耳が赤くなりました。
辿:
街道を外れての旅は安全の為。
獣に遭う危険もあるが、其れよりも恐ろしいモノが居る。
其れが群れを成せば、尚更に。
だから、出来る限り避けて来た。
けれども。
ウルは如何なのだろう。
左腕の重みに目を落す。
行きたい場所が有るだろうか。
「いえ、特には」
尋ねておいて、安堵した。
願:
「君は何処に行きたい?」
私は。
目的地は有りません。
人と、『人間』と知り合いたかったんです。
人は私達を見世物にするのだと聞いています。
けれども、私は人と友人になりたかった。
人の素晴らしい想像を此の身で感じたいのです。
「そんなに良くは無いよ」
苦笑の気配がしました。
術:
お茶でも淹れようと、背嚢から小鍋と炎符を取り出す。
決まりの文句を唱えて火を呼び出すと、ウルが歓声を上げた。
如何やら、魔術其の物を余り見た事が無いらしい。
「便利ですね」
符を見乍ら、頻りに感心している。
便利だけれども万能じゃない。
僕は出掛った言葉をお茶と共に飲む。
食:
身を寄せた樹の杪に跳ねる小さな影。
蒼色の可愛い小鳥ですね。
「うん、あれは可愛いと思えるよ」
聊か歯切れの悪い応答が意外です。
可愛くないのも居るんですか。
「と、云うよりも。其れなりの大きさだと、先に美味しそうが出てくるからね」
ああ、ご飯として。
「そう、ご飯として」
呼:
「親の姿は知らないんです」
何が切っ掛けだったか。
ウルが事も無げに、笑いすら交えてそう云った。
――直ぐ周囲の意識に影響されますからね。
出合ったとしても判りませんよ。
私達はそう云う存在です。
だから。
「貴方が私を呼んで下さる事が嬉しい」
半ば閉じた表紙に、聲が篭った。
憶:
「此処はね」
ワズさんは頭を指差し、云います。
――覚えた事を忘れる事は無いそうだよ。
唯、ガラクタに埋もれて、肝心の物が引っ張り出せなくなるだけなんだ。
或いは、仕舞い込んで、抽出しの鍵が開けられ無い状態。
「其れっきりの事」
眦に浮かんだ仄昏い色に、相槌だけ返します。
進:
地図は初めから持っていない。
以前聞いた町の話と、小さな羅針儀だけが旅の指針。
方角さえ判れば、十分。
何処かに行き着けないなんて事は無い。
唯、時間をたっぷり掛けるだけ。
其れに。
「寄り道や道草は楽しいですからね」
其の通り。
着いてしまったら其処で終わってしまうからね。
逸:
夜闇に響く木の爆ぜる音。
黙々と焚火に木をくべるワズさんに、所で、と切り出します。
私は如何して本なのでしょう。
出会った時から気になっていたのです。
「多分、こんな時に読みたいと考えたんじゃないかな」
夜は静かだからね、と、触れる指は冷たく。
真実とは思えませんでした。
星:
あれは角灯。
其の下は竜。
向こうで乙女が憂い顔。
窓の向こうに、剣の切っ先。
今宵もウルの温かな躯を背に、濃紺の天布に鏤められた銀砂に纏わる物語を巡る。
「あの星には、どんな物語が」
弾む声に促され、僕は記憶を手繰り、語る。
あの人がしてくれた様に。
昔の僕に似たウルへと。
境:
「多分あそこだね」
ワズさんの示す先には、小高い丘。
唯、丘が在るだけでした。
目印が在る訳ではありません。
線が引かれていもいません。
丘の周辺も大差は無く。
其れでも、確かに其処でした。
「国境なんて、判りはしないのさ」
丘向こうに広がる街を見下ろし、ワズさんは笑います。
安:
街に入る時には何時も緊張する。
身形が汚れてはいないか。
笑顔が作れているか。
そして――直ぐに逃げ出せるだろうか。
程々に親切で、程々に無関心であってくれれば良い。
そう脳裏に巡らせた所で、腕に抱く存在に気付いた。
「大丈夫だよ」
聲にして、ウルを、自分をも落ち着かせる。
縋:
「如何かな」
訊ねるワズさんの聲も何処か遠く。
唯々目の前の光景に圧倒されました。
此れでも小さい方なのだそうです。
しかし。
街の入り口を潜った瞬間、行き交う人、人、人。
渾沌と渦巻く意識達に飲まれ掛け、変質しようとする躯。
其れを押し止めたのは。
「大丈夫だよ」
一つの聲。
鞄:
旅に無駄遣いは厳禁。
本当に必要な物だけを、必要な分だけ手に入れる。
背負える荷物は限られているのだから、当然だ。
けれども今、僕の肩には真新しい鞄が提げられている。
柔らかな鞣革で出来た、小さな鞄。
「済みません」
聞き逃しそうな程小さな謝罪に、鞄の中の背表紙を撫でた。
厚:
ご、とん。
重い音を立て、寝台の下に良く履き慣らされた長靴が落ちます。
靴底が大層厚いんですね。
「うん、まあね」
背も高くなるでしょうと云ったら、ワズさんの視線は卓上の私を越えて、窓の外。
「そう云う心算では無いのだけども」
ええと、世界が広く見えて良いですよね、ええ!
約:
約束は守るべきだと僕は思う。
其の為に此処まで旅をして来た。
そして旅をして行く。果たす事の出来無い約束ならば端からしない。
「何の話ですか」
ウルを膝上に抱き上げると、戸惑う様に白頁が閃く。
一息吸い込んで笑みを作った。
約束、しただろう。
話をしようか。此の旅の目的を。
村:
其れは昔話。
と或る青年と少女の物語。
そして小さな村の追憶。
眸を閉じれば在々と浮かぶ程、精緻に語られる其の情景。
「僕はね、其処を目指しているんだ。あの人の故郷を」
其の聲は、とても優しいのですが。
洋燈の淡い光はワズさんの面に濃く影を落とし、表情を朧にしていました。
渡:
じいじいと灯明の芯がか細く泣く音が、更け行く夜に谺す中。
過去は語られる事により、思い出となるのだと知った。
過去を繙き、ウルに手渡す都度、あの人の面影が古色に縁取られる。
だが、不思議と寂しくは無かった。
「必ず、行き着きましょうね」
もう独りでなぞらずとも良いのだ。
稼:
どれ程切り詰めても、旅には路銀が必要。
と、云う事で酒場の片隅、ワズさんは私を小道具に物語を紡ぎます。
評判は上々。
店の主が引き留める程。
しかし。
「行かなければならない所があるので」
きっぱりと断る聲は頑なで。
打ち据える様な物言いに、主は私達を店から追い出しました。
誓:
大して稼げなかったけれど、其れは別に良い。
しっかと鞄を掛け直して、酒場に背を向ける。
「大丈夫ですか?」
心配そうなウルに、じくりと胸が痛んだ。
独りなら何時もの様に街を出て行けば済むだけの事。
でも、今は違う。
人波に埋れ乍ら、鞄の紐を握る。
固く、強く。
感情を隠して。
咒:
歩き乍ら、ぽつりと。
「僕にはね」
人里に留まれない呪いが掛けられているのだと、ワズさんは零しました。
嗚呼、だから。
先程の一件を思い返し、私は温かな暗がりで嘆息します。
「街に留まれるのは一つの季節だけ。其れ以上は――」
濁された言葉の先も又闇の中。
其れで良いのです。
記:
死者は何も語らない。
何時かの言葉ばかりを繰返し、其れすらも軈て擦り切れて、元の形を失くして行く。
記憶は余りにも頼り無く。
確実に引き止めるには何かに書き留める他、無い。
僕が望むが儘、本の姿で居てくれるウルに触れる。
けれど。
「如何しました」
此処に書く事は出来無い。
意:
ワズさんは、思い出に托された村を探して旅をしています。
だから、私も決めました。
「何をだい」
小さな決意が漏れた様で、藍玉の眸が此方を覗き込みます。
何でも無いですよと返し乍ら、今一度心に誓いました。
唯、村だけを目指す貴方の為に。
私は其の呪いを解く術を探しましょう。
続:
街道を逸れ、羅針儀の針を頼りに歩く。
僕の後方に連なる、細く草の倒れた痕。
仮初の道は、直に消えてしまうだろう。
今迄と同じ様に。あの森も随分遠くなった。
ふと背後を振り返る。すると、ウルが小さな聲を上げた。
「街まで繋がっていますね」
そうだ。
見えなくても繋がっている。
船:
街を出て暫くすると広い河に行き当たりました。
見渡しても橋は無く。
此処は一つ、私が船になりましょうか。
「止めておくよ。何処かに渡れる場所が在るかも知れないし。其れに」
ワズさんの言葉に、先を待ちます。
「未だ水は冷たいよ」
其れは。
有難う御座います。
「如何致しまして」
決:
ウルは先程から度々、姿を変える事を提案してくる。
例えば騎獣だったり、そうでなくとも背に乗る事の出来る大柄な動物が大半だ。
「私なら大丈夫ですのに」
僕も大丈夫だと言い返して、一歩を踏み締める。
此処で歩けない様なら、初めから旅をしない。
未だ歩ける。
僕は歩かなくては。
人:
夜中に躯が軋み、目が覚めました。
鳥でも。獣でも。
眠っている時の意識が一番素直です。
普段は奥に隠している物が浮かび上がって来易いのでしょう。
其れを拾い上げて、私は人の姿を形作るのです。
「○○」
眠るワズさんが紡いだ、たった二つの音。
其れはきっと、此の姿が持つ名前。
借:
街で買った食糧は節約しようと数日で無くなる。
後は自然から得るより他無い。
其れは自明の事。
今では大地から『借りる』のも造作無い。
「食べるのも、借りるのと同じなのですか」
疑問符の形に頁を撓ませるウルに、僕は語る。
僕等は命を借りているのだと。
あの人の言葉をも借りて。
別:
今日、出会ったのは小さな商隊。
先の村で荷を卸した帰りとの事で、ワズさんは村の話を聞いて別れます。
さよならと手を振り、家路を目指す人達の顔は晴れやかで。
――何時か私達も旅を終え、さよならを言う日が来るのでしょうか。
其れは喜ばしい筈なのに、少し寂しい気がしました。
遡:
とつとつと土を穿つ雫。
天水によって緩やかに解け流れる褐色を、仮初に作った堀で受け止める。
そうして浅い岩穴で息を潜め、雨が行き過ぎるのを待つ。
「旅はお休みですね」
少し残念げなウルに、一つの提案。
雨が止む迄、昔を旅しよう。
と或る国の話を語り出すと、獣の眸が煌いた。
淀:
降り続いた雨は夜と共に去りました。
地面には幾つもの青空が落ちています。
「死んだ水だね」
薄く濁った水溜りを見下ろし、淡と聲が零れました。
「生きるには動かないと」
其れは、ご自身の事をも指していますか。
浮かんだ言葉は躯の中に張り付いて、ワズさんには届きませんでした。
糧:
樹の根元に白い山。何かの骨。
「綺麗ですね」
ウルの聲に頷く。
骨は砕けておらず、捕食された訳では無さそうだ。
恐らくは春の女神に捧げられたんだろう。
「供物、なのですか」
そう、彼女は冬の男神が凍て付かせた命で胎の命を育む。
軈て産み落とされた命が春を芽吹かせるのだから。
友:
くぅと何やら小さな音。
ねぇワズさん。何か食べられる生き物になりましょうか。
私なら多少欠けても大丈夫ですし。
お好きな物を想像して下さい。
「僕はね、友人の体を害なうのは厭だよ」
ワズさんは前を向いた儘云いました。
「もう云わないでくれるかな」
ええ。
友人の頼みですもの。
遺:
此れ迄背負って来た鞄の底には、信[てがみ]が一つ。
前の持ち主から譲り受け、僕が幾らか書き足した物。
少し縒れた、出す予定の無い信。
何時か『あの村』に着いたら、今度は僕だけの物を新しく書こうと思う。
そうしたら。
肩に下げた鞄に触れる。
ウル、君が継いでくれるだろうか。
懐:
山中で小さな廃屋を見付けました。
蔦や苔と云った緑に抱かれて、其れでも未だ如何にか家の形は残っています。
今夜の宿に丁度良いでしょう。
しかし。
「邪魔しては不可ないよ」
ワズさんは、しぃ、と唇に指を添えます。
「眠らせておやり。昔を抱いた儘」
何処か懐かしそうな目をして。
謎:
麗らかな陽光の下、他愛の無い話をぽつぽつと交わし乍ら歩む。
其の内に、ふかりと浮雲の如く疑問が湧いた。
ウルは何故、人の言葉を知っているのだろう。
「簡単な事です。あの草原を通り過ぎた人達の聲を聞いて覚えました」
一拍の後、明朗な返答。
しかし其れだけだろうか。
本当に。
巡:
ワズさんが教えてくれた事。
此の世界は、ぐるりと円を描く様に大陸が連なっているのだそうです。
ならば、貴方の目指す地に行き着け無い事はありませんね。
けれど、ワズさんは私の言葉にそっと首を振ります。
「けれども、環は終りの無い形だ」
放られた聲に想いました。
旅の長さを。
飾:
此の村では染物が名産だと云う。
独得の技法で染め付けられた薄絹は、柔らかな階調を描いている。
端布でも好い人に買って行きなよと舗の女主人が笑う。
「きっと、ワズさんの髪に似合いますよ」
こっそりとウルが囁くのを耳に、一枚買い求めた。
此れは僕の為じゃ無い。
栞にするんだ。
朽:
街路の近くで、赤茶の膚をした馬が天を仰いでいました。
瞬きもせず、呼吸もせず。
「蒸騎馬だね」
高く掲げられた首に触れると、錆がざらりと零れ、ワズさんの指を薄赤くに染めます。
「置いて行かれたのかな。其れとも逃げて来たのかな」
もう蒸気を昇らせない口は、何も語りません。
弱:
月に一度は訪れる躯の倦怠感。
其の感覚に慣れたとは云えど、歩みは鈍る。
最初には酷く狼狽していたウルも、三度目には手馴れて僕を容赦無く叱り付る様になった。
今とて鋭い口調で自らを獣へと転じさせ、懐に抱き寄せる。
「大丈夫。大丈夫」
其の聲は母の如く。
僕は熱い瞼を閉じた。
恐:
ワズさんの眠りは浅いのです。
僅かな物音で目覚めてしまう程。
私が居るのだから、頼ってくれれば良いのに。
「臆病でなければ旅は出来ないんだよ」
けど、ワズさんは私を本の形に留めて、柔く抱き締めます。
「恐い物は何処にでも居るのだから恐れなさい」
そう、少し哀しげに笑って。
幻:
水煙草の煙と乾いた砂の香。
埃に塗れて尚褪せぬ陽気な喧騒。
川の如く流れる人に紛れてバザールを素見す。
此処は交易だけを目的として作られた仮初の村。
色取り取りの天幕は明日を待たず、陽が去ると共に畳まれる。
後に残るのは足跡のみ。
「まるで夢の様」
ウルの呟きも泡沫の如く。
生:
ワズさんの腰には何時でも一本のナイフが下げられています。
けれども其れは『食事』の時以外には使われません。
そう、例えば身を脅かす獣が居たとしても。
「生きる為以外に奪ってはいけない」
今、足元には一匹の獣。
私達は樹上で息を潜めて、彼が居なくなるのを唯静かに待ちます。
映:
水音を頼りに辿り着いた泉で、旅の埃を濯ぎ落すべく身を屈める。
揺れる水面に映るのは、貧相な手足を持つ痩せた自分の姿。
他人より幾分か低い背。
其れを丁度良いと笑った人の面影が、傍らに並ぶ。
「ワズさん」
幾分か固い声音に、僕は固く眸を閉じた。
此れはウルにとっても冒涜だ。
花:
平原に点在する窪地。
其の穴底には、一面の花園がありました。
「此処はね、少し前迄は戦場だったんだ」
ぐるりと縁を辿り歩き乍らワズさんは視線を下へ落します。
「多勢が死んで、其の上に花の種が蒔かれたんだよ」
風に揺れる花達は少し寂しげに、其れでも力強く天を仰いで居ます。
噂:
高位術師の風評が花蝶の姿を取り、文字通り風の一筋に乗って届いた。
此の身に宿る呪に惹かれてだろう。
術は引き合う。
其れが呪禍であれ、祝福であれ。
頻りに纏わる紅色を指先で突くと、花弁と化して地に落ちた。
「行かないのですか」
遠慮がちなウルの聲。
方角が違うとだけ答えた。
形:
躯に絡む思惟の糸が解けると、鋳型を外されたも同じ。
私の躯は地へと染みそうになります。
もう早、今迄の私を忘れ掛けているのでしょう。
其れを如何にか『虎』の形に練り直して、小さく溜息。
振り返るは風聞が来た先です。
一人で行こうと意味はありません。
ワズさんと共でなくば。
隠:
ど、と強く背を叩かれて息が詰まった。
咳を堪え乍ら真っ先に触れたのは小さい鞄。
本が動くのを見られぬ様に外套で隠す。
陽気な旅芸人達に囲まれて、僕は愛想笑いを浮べた。
彼等に悪気は無いんだ。
ウルを紹介すれば良い。
けど、若しもの時には守り切れないだろう自分が歯痒かった。
祈:
ワズさんは村や街に着くと、真っ先に神様を祀っている所へ行きます。
「僕は神様に祈りを捧げる人達に向けて祈ってるのさ」
信心深いですねと囁くと、そう首が振られました。
「何もしてくれない神様より、彼らの方がずっと親切だ」
そして、施しのパンを沢山貰って微笑んだのでした。
守:
僕は気付いていた。
ウルが其の躯へ密やかに隠している物を。
頁の合間に、柔らかな体毛の襞に宿る、幾らかの花弁を。
「もうそろそろ北の果てでしょうか」
素知らぬ顔で旅の先を口にするウルに頷き乍ら、拳を握る。
此の呪いは贈り物。
だから解かない。
消させない。
僕が死ぬ其の日迄。
蒐:
此の世界では、一口に人と云っても様々な姿が在ります。
獣相を持つ人。
魚や蛇の様な鱗相を持つ人。
鉱物の膚を持つ人とて居ます。
旅の途中に出逢う、そんな多種多様な種族の人達。
其の姿を私は記憶に貯えます。
何時か其の内のどれかで、ワズさんの隣に立つ事が赦される事を希って。
代:
夜に眠れば、軈ては朝が来る。
明けぬ夜は無く、朝は決して待ってくれない。
歩き、眠り、又歩き。繰返し。繰返し。
欠けてしまった場所を埋めも出来ず。
嗚呼、ウルの鞄が重い。
「ほら。あの雲の形、面白いですよ」
先程から振られる取留め無い話に、頷く振りで項垂れる。
僕は莫迦だ。
種:
ジギは宝石の羽を持つ鳥に。
クノは稚い少女に。
イルは疾うに死に絶えた獣に、なりました。
皆、黒い首輪を嵌められて、遠くへ連れて行かれました。
『人』は私達を見てはくれませんでした。
此れが昔の御話。
今に繋がる御話。
ワズさんが初めてです。
無理矢理鋳型に嵌めなかったのは。
昔:
『森の中には小さなお家。
白木の壁に赤い屋根。
一体何方が住んでいるの。
黄昏は友人。
夜闇が隣人。
月を仲人と云えば判るでしょう。
さあさ良い子よ、気をお付け。
彼等に見付からない様に』
其れは小さな村の童歌。
――けれど、私達は幸せだったのよ。
と或る少女は最後にそう囁いた。
警:
獣は想う。
小さき物を。
早鐘の心臟を持つ素早き物を。
されど想うと同時、首に枷されし黒鋼に青い燐光が踊り、其のか弱き形象を打ち消す。
後には変わらず獣が一頭。
――如何か莫迦な事をするでないよ。殊に『人』と交わる事無き様。
今は遠き小さい児を想い、上古の獣は太く吼えた。
様:
旅路は平坦では無く、歩む事は困難を伴う。
されど熱狂の刻を経た世界は平穏の微睡みを甘受し始めており、足を止めさえすれば穏やかな生を全う出来るだろう。
『其れでも僕は』
『其れでも私は』
二人は、此の世界で歩むと決めた。
ぐるりぐるりと、螺旋を描いて巡り乍ら。
自らの力で。
過:
『人』は森を脅かす。
其れが妖精の言い伝え。
しかし今回は違った。
『人』の方から『人』で無い聲が届く。
『私達は唯行き過ぎる者』
己等に近しい其の聲に、小さき乙女等は口を噤むと木下闇へ身を潜めた。
害無き事に安堵して。
そして聲の主が『人』と在る限り長くない事を案じつつ。
信:
如何やら暑気に中ったらしい。
「眼を開けないで下さいね」
涼しい感触に意識を取り戻すと同時、耳元で響いた聲。
反射的に眸を開くと、其れは居た。
「ワズさん」
固い聲に謝罪を返し、再び瞑目。
そして脳裏に描く。
『本』で無く、先程の仄蒼く澄んだ粘塊を。
僕の為に変わったウルを。
欲:
収斂。
そして拡散。
固体に為り掛けた躯が再び融け、先程の形状に戻った事に対する深い安堵。
ワズさんは私を拒絶しませんでした。こんな姿でも。
預けられた躯を包み直すと唇が弧を描きます。
「有難う。大分良くなった」
嗚呼。
今更眸を開いて欲しいだなんて。何て我儘なのでしょう。
兆:
夢だと判っていた。
あの人が居るから。
「ワズさん、私は」
だがあの人の聲は、嗚呼、ウルの其れで。
眸を抉じ開けると、心底夢で良かったと思った。
僕は未だ、抽出しの鍵を閉じてはいない。
あの人の面影は、名前は、手の届く所に在る。
しかし示された予兆に、震える躯を抱き締めた。
黙:
私が出来るのは慮る事だけ。
身代わりにはなれないし、して貰えないのです。
「夢で、良かった」
震える聲で呟いたウルさんに、私は寝た振りを続けました。
仮令、見た物がどんな夢であれ。
其れが潜在意思の表れと云われようと。
目が覚めて、夢で良かったと思えたなら、十分でしょう。
失:
小鳥の巣。羊の家。慈善の園。
耳障りの良い名を連ねても、其の本質は変わらない。
無慈悲に降り注いだ災厄と。人が抗う為に興した戦と。
其の間で家族を喪った者が集う孤児院、と云う事実は。
幼い嘆きを聞き乍ら、僕はウルの鞄を閉ざす。
「御免なさい」
小さな謝罪ごと、閉じ込める。
非:
「君のせい、じゃない」
皮の帷の向こう側から。暗闇で身を竦める私に聲が降ります。
「彼等は、慣れなくては、不可ないんだ」
噛み締める様に、一つ一つ。
「慣れなければ、先へ行けない」
ワズさんは、無力な私を宥める様に軽く叩きました。
私とて、理解しています。
其れでも哀しい。
繋:
木陰から届くは優しき母の子守唄。
嫋やかな手が優しく招く。
赤い眸の児は駆け寄り、其の膝に頭を預けるだろう。
木漏れ日を遮る手は涼しく、眠りを紡ぐ。
其れは一幅の絵画の如き情景。
在ったかも知れない一時。
若しウルが其方を選ぶなら、僕は止められない。
僕等は友人でしかない。
共:
「君と僕は今、同じ道を歩いている」
何時もより幾分か早い発作の時期。
融け落ちそうに潤んだ藍玉の眸が、此方を見上げて云います。
「けれど道は一つじゃない。望む道を往く自由がある」
しかし、ワズさんが今見ているのは私では無いのでしょう。
だから云うのです。
此所に在る、と。
祝:
賑やかな村と、寄り添う男女。
揃いの白服を纏い、祝福の花弁を身に受ける二人は今日一日村の主役となる。
華美では無いが、心の篭った婚礼の宴。
僕達の様な旅人も御裾分けを貰う事が出来るから有難いのだが。
「綺麗ですね」
ウルの感嘆にも苦い物が込上げ、祝福出来ない自分が居た。
夢:
ワズさんの眸はまるで、一等昏い翳りを帯びた夜明け前の様。
私は視線を外らすべく、明るい調子で云います。
凄い御馳走ですよね。
後でこっそり分けて下さいな、と。
「うん。一緒に食べよう」
其の聲にわざと歓声を返して想います。
貴方も曾て夢見ましたか。
ああして祝福される事を。
伝:
幾百。幾千。幾億と。
変わらず星は在る。
テレスコォプから眸を離さず、丘に立つ学者は斯く語った。
其れ故、星に纏わる話も連綿と継がれる。
細部を変化させ乍ら延々と遺るのだと。
「私も遺します。ワズさんの教えてくれた話を」
微かな紙の音とウルの言葉に、僕は出会いを思い返す。
答:
星明り。月明かり。
数多に注ぐ光の下には影。
「僕は欲しかった」
地表に張り付く其の昏がりに身を浸し、ワズさんの聲も又翳ります。
「あの人の言葉を記した物が。僕の言葉を遺す物が」
其の告白に、私は何時かの解を知りました。
だから、謝罪は要りません。
私はもう答えたでしょう?
哀:
かの身に巣食うは『魔女の悪意』。
元来は祝福であった其れは何時しか変質し、呪となった。
深く体内を廻る根が抱くは、唯一つの願。
『何モノにも害われる事なかれ』
偏に愛し児を想った心は今や遠く。
『害われる前に災禍を』
其の血縁絶えて尚、呪は継がれ行く。
愛と云う名に包まれ。
代:
幸せは仕合せ。互いに想いを掛け合う事。
嗚呼然し。だが然し。
かの者は鏡。反射する者。
真心を尽くせど心無き物と見られ。尚も尽くせば己を無くす。
献身は報われず、軈ては欲に飲み込まれるが定め。
其れは創始からの約定。
『魔女』が創りし安寧は、今『悪意』に沿うて先を夢見る。
怒:
「火竜にでも変わりたい」
静かな、だが明瞭に憤りを宿した其の聲に鞄を押さえる。
坊主。小僧。お嬢ちゃんに若造が、等々。
体格から、揶揄われる事には慣れている。
大概は固く口を噤めば、頭上を行き過ぎて行くものだ。
其れでもウルは聲を軋ませる。
「誰も貴方を識らない癖に」
と。
説:
かの呪によって死ぬ事は無い。
断片的な風聞は総じて、そう伝えます。
陽下で生きる物が寝静まった頃。
ワズさんの寝息を確め乍ら、密かに繰る花蝶の翅。
御伽噺に似た風聞を、聞いては食べて躯に収めます。
――呪を受けた者が死ぬ時は、還るか、或いは諦めた時。
そんな苦い言葉をも。
禍:
実の所、呪は街に留まれぬだけに限らない。
寧ろ其方は『余剰』の部分だと、嘗て『あの人』が語った。
害意に対する鏡が本質とも。
現に今、悪罵を受ける僕の脳裏に『魔女の悪意』が婦の貌で、緋く笑む。
「其れ、は?」
かたと揺れたウルに婦の笑みが重なるより先、其の場から駆けた。
母:
「僕を見ないでくれ」
息急き駆けるワズさんに垣間見得えた別の意思。
私は其の姿を知っていました。
いえ、『私達』は識っていました。
生れ落ちた時から心に巣食う一つの面影。
『魔女』たる婦[ヒト]の姿を。
其れで、漸く判ったのです。
彼の婦は未だ待って居るのだと。あの森で。
痕:
「哀しいですね」
無残な村址に、ウルの聲が深々と響く。
此の世に訪れた『災厄』が手を下したは生けるモノのみ。
しかし。
其れに抗う力は生物静物問わずに砕いた。
其れが善き事と信じて。今も尚。
故に、僕は意識して心に留めずにいた。
『あの村』の風聞が僅かたりとも聞こえぬ事を。
世:
『魔女』は斯く語る。此世は皆御伽噺――。
瓦礫の間に造られた村で六弦の調べに乗せ、吟遊詩人が語ります。
近しい過去の御話を。
此の世界が御伽噺なら。きっと皆幸せになれますね。
「御伽噺の先は書かれないからこそ幸せなんだよ」
希いの言葉に、ワズさんは優しくそう答えました。
靴:
ナイフの手入れは最低限。
其れよりも時間を掛けて長靴を磨く。
縫目は綻んでいないか。紐は緩んでいないか。
余る所には詰め物を当て、しっかと地を踏める様に。
「私が」
上がったウルの聲を遮り、長靴を履き直す。
此の靴と加速符があれば、僕だって逃げ切れる。
そう思わせて欲しい。
再:
北の果てに行き着き。眼前に広がるは渺茫たる滄海。
此の先にも陸が在ると、海鳥は歌います。
しかし。
「海を渡ったとは聞いていないしね」
ワズさんは淡々と西に足を向けます。
まあ、夏の間は涼しい所で探しましょうよ。
戯けた調子で聲を接ぐと、潮風に朗らかな笑聲が混じりました。
離:
腕を掴む爪が離れ、一陣の風が頬を叩く。
蒼穹に舞上る影は放たれた矢の如く。一息の間に黒点と化した。
ウルは今、悠然と風を掴んでいるのだろう。
僕を独り残して。
残された腕の軽さに唇を噛む。
若し、戻って来なかったら。
「村、在りましたよ」
過る思惟を払う聲に、酷く安堵した。
還:
視界に映るのは靭やかな両羽。
耳元では轟々と風が唸り、迫り来る樹冠は瞬く間に後方へと流れました。
辿り着いた空は澄んで広く。
其れに感嘆するより先、眼下の森に金色の花を求めます。
樹梢の合間に覗く、ワズさんの姿を。
さて、戻る場所が判ったなら、今度は村を見付けなくては。
歌:
ウルが口遊む、不思議な調べ。
楽しげに張上げる聲は意味を取れない。
「此れと云った詩も旋律も有りませんよ。出鱈目なので」
ワズさんも如何と誘われて、恐る恐るハミングを接いでみた。
夕映えの空に昇る、懐かしい様な曲節。
「私達だけの歌ですよ」
秘密めかす聲と歌が耳に染みた。
白:
――北方の人間は膚が白いのさ。
宿の女将さんはそう云って腕を捲ります。
だから、色白の美人が多いんだ。そう云や、お兄さんも色白だね。
「親が北の生まれだと聞いた事が」
冗句に答えるワズさんの膚は確かに白。
陽に晒されると直ぐ赤く色付き、痛々しく見える程。
其れ故時に儚い。
錘:
周囲に降りた乳白色の帳。
乳の様な濃霧は躯に纏わり付き、じわりと膚を湿らせる。
数歩先も見得ない薄暮の霧は、世界から僕を切り離そうとする。
が。引き止める様に僕の指先を何かが包んだ。
「御免なさい。でも、どうか後少しだけ」
失せた鞄の重みとウルの聲。
冷たい掌を握り返す。
原:
夜が世界を抱く頃。
眠るワズさんを残し、抜け出す宿の前。
「解を与えるのは容易」
君達は識っている筈と、術師を名宣る方は微笑みます。
「されど最良とは言い難い」
囁きは淡く闇に融け。
「イーディア。魔女の娘、其の愛し児。君の『物語』を想起しなさい」
謎掛だけが残されました。
戻:
ヒトはキライと、母さまは泣いた。
私たちは生きたかっただけ。
シアワセになりたかっただけのにと泣いた。
それは私たちが一つだったころのお話。
こんな小さな女の子の体じゃなくて、もっと大きなヒトだったころの話。
も一度もどれたらいいのに。
そしたら、あの子とずっといっしょ。
賛:
『魔女』の詩[ウタ]に綴られたモノも又犠牲者。
此の言葉が浸透するには、未だ時を待たねばならぬのだろう。
数多の『物語』への遺恨は深く、根絶やしを願う聲も在る。
「イーディア君達の『物語』は如何なるかね」
局地的災厄と称ばれる呪。
其れを負う健気な彼等に、幸いを願った。
証:
短い夏が育む碧の海。
面覆いをした子らが歓声を連れ、段成す畑を駆け下りる。
緑衣は豊饒を司る神子の印。
彼等が踏む麦は丈夫に育つと云う。
一頻り碧落を震わせた笑聲が失せると、ウルが聲を張上げた。
「私は此所に居ます!」
そうだ、僕達は此所に居る。
僕も倣って同じ言葉を叫ぶ。
残:
融ける事の無い氷湖の底に沈む沢山の本。
嘗て魔女の詩を恐れて、全ての物語が焼かれそうになった際の名残だそうです。
「全ては戻らないかも知れない」
折り重なった本を見下ろして、ワズさんは云います。
「けれど、全てが消える訳でも無いよ」
力強い聲で。
「人が覚えているからね」
後:
足元できうきうと砂が泣く。
いや、其れは聲だった。
背の高い鳥籠頭の擬人。
恐らく『魔女』の詩から生まれたのだろう。
軋む聲で何かを語り乍ら長衣を靡かせ、異形は歩を進める。
時折何かを探す様、首を巡らせて。
「あのヒトの『お話』が幸せでありますよう」
ウルの祈りを砂が吸う。
縁:
瞼に落ち掛かる影。
ともすれば眸を刺しそうな前髪を指先で摘み、ワズさんは苦笑します。
「邪魔になってきたね」
そして無雑作にナイフを滑らせ、伸びた髪を削ぎ落としました。
風に乗り舞う繊い金色。
私は気付かれない様に、幾らか頁の間に隠します。
何時か別れても思い出せる様に。
疑:
大空の下、自然に身を委ねて眠る時には絶えず側に在る温もり。
其れが人里で宿を取る際には失せる事に気付いた。
安宿の寝台は酷く軋む。
揺り起こされた意識の中、衣擦れが床に流れ、ウルの気配が遠ざかる。
辛うじて開いた瞼の隙間。
小さな鼠の尻尾が床板の隙間に消えるのが見えた。
出:
ワズさんが眠る宿を抜け出し。暗がりで人の姿に身形を整えます。
同族を捜すには、矢張り他人に話を聞かねばなりません。
人と交わるのは未だ恐ろしいのですが。
しかし、賑やかな酒場ならば、私に意識が集まる事も無いので大丈夫。
が。
いざ、と歩み掛けた所で強く肩を掴まれました。
焦:
夜の街には其処此処に暗闇が踞っている。
ともすれば足元も危うい道で、小さな鼠を探すのは困難だ。
とは云え、灯りを点せば後を追った事に気付かれる。
そも、僕にはウルを束縛する権利は無い。
自分の軽率さに思わず髪を掻き毟った、其の瞬間。
路地裏で、何かが崩れる様な音がした。
捕:
口を塞ぐ広い掌と、饐えた臭い。
生緩い息が耳を撫で、全身が総毛立ちます。
咄嗟に跳ね上げた足は其処等の木樽を蹴り倒しただけで、見る間に縮みました。
「コイツは値打ちモンだ。ツイてるな」
顔を上気させ、見知らぬ男が酒精に焼けた濁声で笑います。
幼児となった私の首を絞め乍ら。
詩:
男の腕の中、暴れる幼子が瞠目する。
稚い聲が叫ぶは助命では無く僕の名。
其の聲が脳に浸透すると同時。
『憎いかしら』
頭の隅で緑衣の婦が慈母の笑みで問うた。
『貴方を傷付けるモノは何一つ赦しはしない』
嫋やかな二の腕を広げ、紅い唇が詩う。
嗚呼ウルだけは。
懇願は届くか否か。
忽:
形容し難い獣の咆哮にも似た叫びの後。
ごとり、と。
鈍い音を立てて地に転がる塊。
其れは人でした。
先程まで私を捕らえていた男でした。
「良かっ、た」
私を抱き締めたワズさんの手はじとりと湿って冷たく。酷く震えています。
「御免。ごめん」
繰り返される謝罪がやけに響きました。
逃:
石畳に横たわる男。
其の胸は規則正しい動きを繰返す。
そう、『悪意』は唯、穏やかに眠らせるだけ。
僕は男を其の場に残し、温かなウルの躯を抱えて先ず宿へと走る。
数日も経てば知れてしまう。
其の前に、そ知らぬ顔で出来るだけ遠くに行かなくては。
腕の中のウルは、何も云わない。
噤:
一体何が起こったのか。
耳元で響く忙しい鼓動を聞き乍ら、自分に問います。
私には良く判りません。男が倒れたとしか。
――いえ、本当は解っていました。風聞が、術師が、語った事。
「眠っただけだ」
ワズさんは荒い吐息の迫間に云います。
けれども。
其れは死に果てる迄、でしょう。
誤:
前に『眠らせた』のは何時だったか。
独りになって暫くは幾度かあったように思う。
けれど、最近は無かった。
今はウルが居たから。
僕独りなら、あの男は『眠らずに』済んだ。
ああ、ゼア。
貴方も同じでしたか。
ゼア。教えて欲しい。
貴方も『二人』を遺す為に私の手を取ったのですか。
変:
「ゼア」
掠れた聲に、私の中で何かが動きました。
只管に繰返される馴染みの二音。
ワズさんの中で次第に色鮮やかになる『あの人』の姿。
其れこそ、私の姿が不確かになる程に。
嗚呼。
私は矢張り『鏡』なのです。
映す像が『愛』であれば尚更。
ならば、私は其の役割を甘受しましょう。
慕:
宿まで数歩の所で、腕に掛かる重量が唐突に増した。
思わず取り落とす、ウルの躰。
路上に転げた影を助け起こそうと伸ばした手が、凍り付く。
先程までの幼児とは似付かない、其の姿は。
「大丈夫、で……大丈夫だから」
其の聲は、『あの人』の物では無いのに。
唇は懐かしい名を呼ぶ。
冒:
此れは恐らく愚かな事。
けれど、濃紺の眸に揺れた感情に、浮かび掛けた詫言を呑込みました。
躯を強かに打ち付けた其の瞬間が分岐点。
もう遅い。
「ああ、ゼア」
甘やかな囁きには笑みを。
揺れる指先には救いの掌を。
ワズさんの中から『私』が消える痛みは、罰として甘んじましょう。
縋:
手を引かれる儘、歩く。
少し先に在る背は懐かしい。
けれど、違う。
「良いんだよ。無理をしなくても」
だが、強く手を握られて頭に浮かんだ像を消した。
宿の戸口で焚かれている灯りに蛾が飛び込む。
一瞬で果てた蛾は、満足だったろうか。
問いは形を成さない。
聲は零れず喉を下った。
閉:
ぱちりと爆ぜた焔。
其の光芒を目にしたワズさんは、俯向いて最早何を語る事もしませんでした。
委ねられた手には力が無く。
零れぬ様にしかと握り直して、部屋まで誘います。
私も又、語る言葉を持ちません。
何を語ろうと紛い物でしか無いのならば、沈黙を。
『ゼア』として在る為に。
印:
安宿の小さな寝台の上。
ひたりと躯を重ね、心音に耳を澄ました。
言葉は胸裏で砂粒の様に零れ、掬い上げたとて元の形を失くす。
水気を含んで、ぐずぐずと崩れて行く。
「必ず行こう」
子守唄に似て優しい声が誘う。
「あの『村』へ」
そう、行かなくては。
其れがたった一つの在る意味。
由:
固く丸まる四肢。
苦心して静かに解き、細い躰を寝台に横たえます。
眠り落ちる迄、ワズさんは一度たりとて『私』を呼びませんでした。
『ヒト』では無い私では、足りないのでしょうか。
支えとしては、在れぬのでしょうか。
だから『私達』は。
続く聲は緻かに砕け、過去には届かない。
空:
目を開くと、其処は夢の中。
此方を覗き込む優しい双眸は見慣れた物。
名を呼ぶと、ゼアは何故か哀しげに眸を落した。
「行きましょう」
促す聲に導かれ、手を伸ばす。掴んだのは空の鞄。
何も入っていない、小さな鞄。
虚ろを覗く僕の耳に響く、ごとりと重い音。
夢は泡沫の様に弾けた。
在:
返事が無いのは淋しい事。
其れは、独りの時に無言が返って来るよりも、誰かが居る時の方がずっと。
静けさが胸に迫って重く、苦しいのです。
けれど私は呼びます。
此の暗がりから、ワズさんの名を呼び続けます。
仮令、応えが無くとも。
貴方の望むモノでなくとも、此所に居るのです。
違:
「ワズさんにとって、私は誰なのでしょうね」
呟かれた言葉に、心が騒いだ。
其れは何時か、僕が自分に問い掛けた言葉と同じ。
似ていると云われて、髪を切った。
同じだと嬉しそうに云うので、口癖を止めた。
其の時と、同じ。
ウル。
間違えぬように名を呼ばわると、鞄が小さく弾んだ。
冀:
囁く様に呼ばれた名に、全身で答えます。
「君は、ウルだよ」
一音一音噛み締めて紡ぐ聲が、私を形作るのが嬉しくてなりません。
仮令、其れが『本』としてであっても。
ワズさんにとっての『誰か』では無く、『私』だけの姿だから。
嗚呼、其れでも気付かなければ良かった。
此の欲に。
毅:
何時か、を決めようと思った。
寄せては返す、昨日と変わらぬ街の喧騒を足早に抜け乍ら。
別れ、を決めようと思った。
『あの村』に辿り着く迄と。
ウルを二度と僕の都合で変えたく無い。
僕自身の為に。「
ならば、其処迄は決して離れませんよ」
だが、いっそ陽気に言い切られて怯んだ。
急:
本当は知っているのだと、ワズさんの唇から自嘲に塗れた聲が滴ります。
「大体の場所は、初めから」
何処、とは言わずとも知れた事。
其れは其れは、長い道草ですね。
そう何でも無い様に返せば、固く凝っていた頬が少し緩みました。
行きましょう、今迄と同じ様に。
此の街を出たなら。
捨:
羊顔の商人に合せて街の門を潜る。
同行者の顔をして、緩慢と門を通り抜けた。
背後から誰何の聲は無い。
後ろを今一度確かめてから、歩調を早める。
男に対しての後悔は、無い。
唯、呪を知られる事が恐ろしかっただけ。
「生きる為、だったから」
ウルの言葉は独語として流れていった。
愁:
痩けた月が頼り無く照らす藪に、下生えを踏む音が響きます。
其の歩みに迷いはありません。
まるで見知った道を歩む様。
「先ずは隣の大陸へ行く」
りん、と鋼を打ち合わせるのに似た聲で宣言し、ワズさんは絡まる草を引き千切ります。
幾つもの小さな悲鳴達。
聞えない振りをしました。
命:
ウルは本の形状を取ると一切飲食をしない。
――所謂魔術的生物の理は、通常の道理からは外れていますから。
そう在るが為に在る。其れ以外に云い表し様が無い。
存在其の物が理なのです。
学者としては悩ましい所で。
此れが酒場で行合った学者の談。
嗚呼、其れは何て純粋な生だろう。
躯:
――俺は此の腕一本を犠牲に、魔女の詩を退けたのさ。
隻腕の傭兵さんが、酒席で得意気に語っています。
多くのモノ達は損った躯を元通りには出来無いのだと、草原を出てから知りました。
そして、戻せない方が普通なのだと云う事も。
だから、全て整っているワズさんに安堵しました。
憧:
湖の畔に佇む石造りの塔。
其れは嘗て此処を治めていた領主の令嬢が、愛しの竜を待つ為に造らせたと云う。
だが今は露台も朽ち落ちた。
竜が現れる事は無く、苔生した手摺は顧みられない。
「邂いに行こうとは思わなかったのでしょうか」
不可解げなウルに云う。
唯の恋だったのさ、と。
華:
黄昏の街で出会った、花売りの女の子。
ワズさんは少し悩んで、躊いがちに一つ買いました。
彼女は代金を受け取ってから暫くワズさんを見ていましたが、直に溜息を吐いて路地の奥へと消えます。
「哀しいね」
其の聲は萎れている花に落ちましたが、何だか女の子に向けられた様でした。
委:
何時か判る時が来る。
其の人は尽きせぬ悲哀を宿した目で云った。
何時か解る時が来る。
其の人は全てを内包した笑みを湛えて云った。
其の何時かは限り無く遠く。
されど、其の何時かに触れる瞬間がある事を確信し。
絶望と希望とを等分して、確かに託したのだった。
先を征く二人へと。
時:
何事にも巡り合わせがあるものよ。
時期、時節、時刻、其れこそ時運。
時宜を違えては、良縁も悪縁となるでしょう。
例えば、私と彼女。
其処から続く、あの子達。
出会いは必然であろうと、時の媒を待っていたの。
そして、青年は乙女に出逢う。
其れが王道、と魔女は退屈げに欠伸した。
香:
露天の合間を歩んでいると、其処の旅人さん、と手招きされた。
懐こい目をした男の前には様々な香。
――夜間、此の香を焚けば獣が寄り付かない。一つ如何?
上目遣いを軽く受け流して離れる。
「一つ買っても良かったのでは」
ウルの言葉も尤もだ。
だが、きっと君の鼻にも良くない。
避:
食事は一杯の水を飲み干してから。
其れが此の村の為来りだそうで。
「意味を考える必要は無いよ。大体は伝承なんかが出てくるだけだ」
ワズさんは陶杯を手に一笑します。
「でも、余程の事で無い限りはやった方が良い」
そう云うと、水を一息に乾しました。
「所詮此処だけの事だから」
使:
円匙を背負った男は墓堀人だと名乗った。
文字通り墓を掘ち、弔うのが生業らしい。
「あの戦ん時には、たんと働いた物さ。今じゃ死肉猟りだのと云われるが」
構わんと、赤銅色の頬に矜りに満ちた笑が乗る。
其の面に、僕はウルの囁きを伝えた。
在った証を残して貰えた人は幸せだ、と。
海:
空を泳ぐ魚の群れ。
鱗が弾く光が、ワズさんの髪を霓色に染めます。
此れも、かの『黄色の魔女』がした事なのでしょうか。
「いや、『青の魔女』の戯れさ」
四つの大陸全てを地続きにして、其々繋いだ所の海を捻じ曲げたそう。
街道の上を覆う海は、唯々穏かに光の漣を降らせています。
翰:
舗先に吊るされた籠。
蒼い花蝶の鉢が納められた其れは風聞屋の証だ。
犇く色彩の中、若草色の花蝶を選び、翅へと風聞を認める。
『あの村』の詳細を尋ねる文を。
そうだ。若し、ウルも届けたい人が居れば。
「いえ、届けられません」
僕の問いに、哀しげな聲がことことと鞄を震わせた。
精:
人の食物にも大分昵みました。
食べ付けない為にか、当初は調理した食物に苦しい思いもしましたが、今は大丈夫。
ワズさんと楽しみもします。
けれど、野宿の時ばかりは昔通り。
獣の姿で、眼前に揺れる半透明の影を丸呑みしました。
自分が誰かも忘れた思念は、静かにお腹で解けます。
迷:
他者を拒む様に張り出した角。
絡み合う茨も似た其れを得意げに翳すのに、黙って首を振る。
「いけませんか」
上目遣いをされても駄目だ。
そも、其れでどうやって扉から出るんだ。
当然の問いに、考えてなかったと笑って、眼前の姿が又揺らいだ。
彼此、数時間。
ウルの外出姿は、未だ決まりそうも無い。
遊:
綺麗な姿、可愛い姿は危険だからと駄目出しされました。
ならば、と逞しい躯に変わってみた所、深々と溜息を零します。
以前の事を踏まえ、初めから人に変わって行く事を言付かったのは当然なのですが。
「何でそんなに極端なんだ」
決まってるでしょう。
ワズさんの好みを知る為です。
劣:
隣で弾む長い尻尾。
周囲の喧騒に合わせ、小刻みに動く耳。
今僕の側らに在るのは、猫もとい虎人だ。
結局、獣相の方が良いだろうと云う事で落ち着いたのは未だ良い。
問題は、背丈。
まるで僕に誂えたかの如く肩が並ぶ。
「折角ですから。目線が合った方が」
涼しげなウルが小憎らしい。
真:
薄紫の空に流れる躇いがちな問い。
「君は、呪を解く術を探しているのかい」
私は私の一族と出会いたいのです。
首を振り乍らそう告げると、ワズさんは柔らかな吐息を漏らしました。
ええ、嘘は云っておりませんよ。
彼等に話を聞く事が、結果呪いを解く術となる可能性となるだけの事。
愛:
愛に正否は無い。種族も性差も、愛の前には全て平等だ。
――暑苦しい事此の上無い弁舌。
其の勢いが全く衰え無いのは、聴き手が居るせいだ。
熱心な相槌を返しているウルを、其の場から引き剥がす。
所詮は酔漢の戯言に過ぎない。
「識っていますよ」
苦言に応じる聲はやや褪めていた。
居:
狭く昏い穴の中。
ぴったりと躯を収めて、ほうと一息。
「何も、わざわざ其処に入らなくても」
呆れを含んだワズさんの聲は、聞えない振りをしました。
何と云われようと、此処が良いのです。
身動き一つ取れなくても。触れ合う手を無くしても。
此の鞄は、私だけの居場所なのですから。
火:
ざくり、と。
見事な半球に刳られた山向こうで、大輪の花が咲く。
腹の底に響く低音に合わせ、光の花弁が散る。
幾つも夜空を粧る其の花火は、戦を免れた火薬を使っているらしい、と聞いた。
「あんなにも、綺麗な物になれるのに」
ウルの聲は打上げの音で半ばにして跡切れ、聞えない。
香:
花の香は、甘く喉に絡みます。
水の香は、涼しく胸を満たします。
そして、旅に出てから識った様々な香り。
人里の香は何処か弾むよう。
廃墟の香は重く蟠ります。
そして。
眠るワズさんの髪に鼻先を埋め、深く息をしました。
暖かく湿った、胸を締め付ける優しい香。
私の一番好きな香。
翁:
荒れた森中。
行く手を難む太い根に、乗り越えるべきか思案がてら手を掛けようとした途端。
根が逃げた。
『悪いな、御若いの。儂が退こう』
次いで、朗々と響いたのは太い聲。
「有難う御座います、先覚の方」
先んじたウルの謝辞と共に頭を垂れると、樹皮に刻まれた顔が鷹揚に笑んだ。
独:
戦が興る前、此所には多くの仲間が居たそうです。
其れでも今は彼一人きり。
しかし。
『遠くへ行けずとも、訪ねてくれるモノが居れば辛くは無い。儂は独りでは無いのだから』
優しい聲が促す先。
葉陰には夥しい花蝶。
根では動物達が遊んでいます。
ワズさんは眩しげに目を細めました。
臆:
行く先々で現れる花蝶達の翅は一様に昏い。
今も肩に止まった風聞は、深く淀む紫を帯びている。
其れは、以前流した物への返信だと解ってはいた。
けれども。
「見ないで良いのですか」
花をポケットに落とし込むと、ウルが首を傾げる様に背を揺らす。
見ない訳じゃない。
もう少し後で。
虚:
近頃ワズさんの口数が減ったように思います。
いえ、元々其れ程多弁な方では無いのですが。
針を束ねた様な小さな森を抜けてからは、特に。
其処此処に穿たれている戦の爪痕のせいでしょうか。
「此の方角で、正しい筈なんだ」
霤の様な聲は重く。
私の中に、小さく昏い穴を作るのです。
疵:
往時、此所には道が在った。
広い道では無い。恐らくは荷馬車を通す為に整えた程度だろう。
所々に敷かれた石が其れを物語っている。
しかし、其の慎ましい道は今、無い。
「何、が通ったのでしょう」
荒野に同化し始めている道を前に、ウルが聲を震わせた。
其の答を僕等は識っている。
穴:
地面に空いた穴の底。
剥き出しの固い土の上で、ワズさんと私は身を寄せ合っていました。
身を隠す場の乏しい荒野の事。躯を休める場は他に無かったのです。
見上げれば、手の届かぬ高みに浮かんだ円い空。
「彼処が塞がったら」
半ば瞼を閉じて、ワズさんは笑います。
まるで試す様に。
知:
『よーほい。おめさんら、何処さ行きなさる』
そんな呼び声と共に、頭上に落ち掛かる影。
巨人族だろうか。
見上げても足りぬ程の巨漢が、にこやかに問い掛ける。
『此の先には何も無いだで。前は村があったけんど』
其処に行くのだと告げると、困惑顔の男に合わせてウルが息を飲んだ。
無:
蒸騎獣が踏み荒らしたのか。
或いは、術で一掃されたのでしょうか。
山裾に拓かれた土地に人の営みは無く。
辛うじて残る瓦礫の向こう。其処には、無数の白木が立てられていました。
ワズさんは林立する木切れ達の中に足を進めます。
乾いた聲で呟かれた三文字が、風に千切られました。
結:
御免、と。
毀れた言葉を渡す相手はもう、何処にも居ない。
ゼアがあれ程望んだ村はもう、無いのだ。
『彼女』の墓すら最早、大地に還っているだろう。
目の前で跡切れた道に、呟く。
此れで終い。
「其の前に」
しかし、ウルが幕を下ろさせない。
「今度は私にお付き合い下さいませんか」
盟:
びょうびょうと啜り泣く風に負けじと、私は聲を張り上げます。
旅は未だ終わりませんよ。
今度は一人で行く事が儘成らない私の、旅路の供に。
私は貴方との約束を守ったのだから。
次は貴方の番です。
「友、か」
私の其れとは異なる語調で二文字を紡ぎ、ウルさんは私を抱き寄せました。
選:
約束と云うならば、此処での別れも又約束ではないのだろうか。
「貴方の決意は聞きました」
ウルは僕の云いに反論はせず、穏やかに云う。
「けれど、私は承諾していませんから」
腕の中から届く聲は、真っ直ぐ胸を叩く。
「今度は貴方が選ぶんです」
急き立てはせず、何処までも優しく。
彩:
灰色。土色。枯草色。
如何にも旅装束は地味です。こんな色ばかりでは楽しく無いでしょう。
だから此処は一つ、此の鮮やかな藍色の
「却下」
は駄目ですか。
店先で示した服はにべ無く断られます。
御似合いだと思うのですが。
「ウルが着るかい」
ワズさんの提案は丁重に御断りしました。
維:
何事も無かったかの様だ、と思う。
僕は『あの村』に辿り着いたなら、きっと『終わる』だろうと思っていた。
だが、結局は如何だろう。
今迄と同じくウルと共に在り。二の足は大地を踏む。
僕達は如何したって此所に居るのだ、と思う。
居るしか無い。
居るなら歩むしか無い。
死ぬ迄は。
介:
御免と有難う。
其れは誰に向けた言葉だったのでしょうか。
又、誰の言葉だったのでしょう。
ただいま、は恐らくゼアと呼ばれた人の物。
懐郷を胸に抱き、戻り得ぬ儘去った人の物。
其れ等を一握の白砂と共に土へ返したウルさん。
迷い子の様な横顔に、別れる等如何して出来ましょうか。
惑:
道無き道。
其れは文字通りでもあり。
又、比喩としても正しく。
今度こそ、当ての無い旅をしている。
「彼等は恐らく、今も尚『人』と在るでしょう」
だからこそ風聞は飛ばせないのだと、ウルは感情を含まぬ聲で云う。
其の言葉に含まれる意味は僕でも解る。
其れ故に解らない事も、又。
譲:
そっと頁の間に挟み込まれた封筒。
端も擦り切れ、古色を帯びた其れは恐らく幾度も開かれたのでしょう。
封は半ば迄千切れておりました。
「今度はウルに持っていて欲しい」
噎ぶ風の中、ワズさんの微笑みも又吹き散らされる様に淡く。
私は応えの代わり、托された信を閉じ込めました。
綰:
注意を欠いていたのは、否定出来ない。
熱を孕む足首に舌打ちを零せば、広い背が溜息に震えた。
「今は私を頼って下さい」
宥めを含むウルの物云いにも又、舌打ち一つ。
じくじくと痛むのは足か、胸か。
膿む様な其れを抱えて、柔かな毛皮に身を伏せる。
『僕』が、此れ以上戻らぬ為に。
扛:
土を踏み締める四つ足。
肉球に食い込む小石の感覚は好ましくないのですが、仕方ありません。
「其れなら自分の足で歩く」
先に云われた強い否定が、今も頭蓋に響いています。
其れでも何時か必ず『人』の身で。
案外と強かに思考を巡らす自分に笑えば、ウルさんが背を一つ叩きました。
負:
懇願に却下を言い渡した事、十数回。
「御願いします」
遂には伏し目がちとなったウルを前にして、決心が揺らぐ。
体側にぴたりと沿う様回された尻尾。
前足の間に先端が入り込んでいるのは、確か不安を示す。
ひたと伏せられた耳も同様。
――斯くして、僕は虎と街の門を潜るに至った。
悔:
『大層な愛玩動物』
擦違いざまに投げ掛けられた言葉。
「友人だよ」
ワズさんは眸を前に向けた儘、小さな呟きを呉れました。
『騎獣は外に繋いどくれ』
宿でも同じく向けられた言葉。
「友人です」
再び訂して帳場に置かれた二人分の代金に、今度は目を伏せました。
二度と云いますまい。
盲:
ウルは戸口に蹲って動かない。
僕を置いて同胞を捜しに行けば良いのに。
「矢張り、私と別れたかったのですか」
促せば、抑揚の無い問が向けられた。
如何だろう。解らなくなった。
そう口にして、違うと気付く。
本当は何も考えていなかった。
何も。
呪と共に在る事だけが、最後の願い。
義:
「もう、休むよ」
ぽつりと寝台に染みた聲。
此方に向けられたワズさんの背に、私は手元へと視線を落しました。
ほんの一時、揺らぐ前脚の輪郭。
嗚呼。
姿を変えられたとて結局は何の役にも立たない。立てない。
許しを請う様に、私は傷々しく冷却符に包まれた足首へ口吻を寄せました。
覚:
膚に空気が張り付く。
首を撫でる風の指は冷たい。
音は何処か丸みを帯び、虫達が軒下へと身を潜める。
雲は銀の裏地を隠して、頭から黒の外套を被った。
雨が、近い。
「気付かないのでしょうか」
僕同様、周囲に耳を傾けていたウルが苦笑気味に云う。
其処此処で揺れる洗濯物を見つつ。
憩:
雨は長引きそうですね。
語る聲に気色が乗ったのでしょうか。
「雨乞いをしたのかい」
ワズさんは窓辺に目を遣った儘、淡に笑いました。
真逆。本は湿気に弱いのですよ。
「其れでも丁度良いね」
戯ける私の表紙を指が撫でました。
街は未だ雨催いに気付かずに、多彩な布を翻しています。
否:
内から光を零しているかに見得る滑石の膚。
木苺の其れより赤い唇。
樹影の如く深き睫毛の帷に、緑柱石の燦めき。
面紗に似て艶やかに広がる髪は花の香。
完璧な女が、其処に居た。
「如何かしましたか」
飾り窓の前に立つ僕に、ウルの聲が投げ付けられる。
まるで女など居ないかの様に。
性:
とつとつ、と。
二重に響く音の向こう。
扉から漏れ出る空気は生温く。
浴室に満ちる湯の気配が、此方側迄漂って来ます。
唯々水音ばかりが響く部屋で、私は視界を闇に沈めました。
「ウル」確める様に届いたワズさんの聲には沈黙を返します。
其れを貴方が望んでいると識っているから。
枷:
『人と人を分かち難く結び付ける物とは何か』
語り部の職を終えた僕に向けられた問。
『圧屈や恐怖。支配する事で別たれる事は無くなるだろうか。否。其れよりも愛情、憐憫、或いは』
プラトと名乗る術師は一度聲を切ると、憫れむ様な視線を向ける。
『罪悪感』
聲はウルの鞄に落ちた。
晒:
『此奴はイーディアだ』
市で聞こえた呼掛け。
『とは云え、すっかり『固まっちまってる』から駄目だが』
がん、と商人が檻を蹴り付けても、彼から漏れるのは低い唸り声だけ。
唯の獣だろうとの野次が飛ぶけれど、私には解ります。
イル。
呟くと、ワズさんが歩き出しました。
聲の元へ。
懣:
近くで見せてくれと商人に金を握らせ、檻に近付く。
獣の口から漏れる聲は濁って意味を成さず、悪戯に唾液の泡を撒き散らすばかり。
だが其の目の底では、煮滾った鋼の如き憎悪が渦を巻いている。
『人』に向けて、烈しく。
「私が、解りますか」
震えるウルの聲が、牙に噛み砕かれた。
喚:
鋭い牙の噛み合わされる音。
心迄砕いて行く音に、言葉は喉へと張り付きます。
「呼び掛けて」
もう無理だと諦め掛けた瞬間。
「僕が口を合わせるから」
私の背をワズさんの聲が押しました。
人の目を盗み乍ら、檻の内側に再び語り掛けます。
如何か解って、と。
昔の彼を思い起こし乍ら。
化:
未だ衰えぬ眼光は、仮令檻に囚の身であろうと近付くに躊躇わせる。
牙は届かずとも、前肢の一凪は出来よう。
其れでも、退けない。
ウルの為にも。
「もう、届かないのですか」
悲痛な聲に一歩進める。
しかし。商人も又焦れたのだろう。
肩を掴もうとする寸前、鞄から蜂を抜け出させた。
飛:
翳の中で融ける輪郭。
固く角張る形から、柔く丸みを帯びた形へ。
背に生じた薄翅が、外へと躯を誘います。
此れは私の意志では無く。
商人に肩を掴れたワズさんが、確かに一度頷きました。
「行っておいで」
其の唇が綴る言葉を受け、翅が確と空気を掴みます。
迷う事無くイルに向けて。
希:
忌々シイ、形カラ、懐かしイ、コえ。
聞こエた、きガ、しタケど。
きッと、違ウ。
目ニ、ウツるのハ、おぞマシい、かタまリ、だケ。
アア。
わタシが、ワたしデ、なくナル、まエに。
ドうカ、モウ、一ド。ワタしヲ、ヨンで。
ウル。
ぴんト、たテた、みミに、なにカが、フレた、きがした。
論:
イーディアと称ばれる種族。
彼等は元来、一つの個体から派生したとの説がある。
他者との感応により姿を変容させるが故に、本来の姿は未だ誰も知り得ない。
唯一片鱗を覗わせるのは死亡時のみ。
彼等は其の際、遺骸を残す事は無い。
しかし、水と化して消える姿が多数目撃されている。
往:
須臾。市場の空気が揺れた。
質量を伴う太く重い音が檻の内から発せられたのだ。
其れは咆哮。
悲愴では無い。
瞋恚でも無い。
寧ろ欣幸を感じさせる聲で獣が吼える。
其れが最期だった。
逞しい躯がぐずりと崩れて外に流れ出す。
其の流れからウルが飛び立つのを、茫然と僕は眺めていた。
同:
今の私には洞窟の様な耳孔に呼び掛けると、イルの躰が震えました。
触れた毛先からは、想いが流れて来ます。
其れは歓喜と、諦念。
『さあ、連れて行っておくれ』
もう終りだと告げる懐かしい聲。
水に還ったイルを呑み込むと、其の場を飛び立ちます。
想いも呑んで、ワズさんの元へと。
退:
鞄にウルが飛び込むや、否や。
懐に納れていた加速符を発呪させる。
耳元で引き伸ばされて行くのは、商人の怒号。
緩慢に持ち上げられる腕の下を潜り、土を蹴る。
粘性を帯びて纏わり付く空気を躯で割り乍ら、僕等は市から逃げ出した。
行き掛けの駄賃に鋼の首輪を掠って。
振り返らず。
痛:
荒れ狂う風音に、跳ねる鞄の中。
私の躰も又、彼方此方に打ち付けられます。
けれど、痛みは微塵も感じませんでした。
其れよりも尚、喉が、そしてお腹の底が痛い。
雪崩込んで来る自分の物では無い感情と記憶。
此の小さな躯では受け止められぬ程。
でも、吐き出す事は出来無いのです。
埋:
ちりりちりり。
穴の底に落ちるモノ。
鉄片が地の黒に紛れて、降り積もる。
丹念に砕かれた枷を大地に還す。
円く盛り上げた土の上には、若木を殖えた。
何時かの墓堀人がそうした様に。
此れはウルの頼みでは無い。
僕の自己満足だ。
「有難う御座います」
其れでも、感謝の聲に心弛んだ。
弔:
土の下には誰も居ません。
彼は私の中に、『私達』に還ったのですから。
「余計な事をしたかい」
ワズさんは黒い手の儘、足元に視線を落します。
いいえ。いいえ。
仮令『欠片』でも、彼は確かに居た。
其の証は残されるべきです。
一杯の水に輝く緑。
踊る様に滴る光の雫は、涙の代わり。
席:
先ず一人。
未だ一人。
だが、世界に犇く許多の者達の中から出会いを果たせた事は、幸運と云えるだろう。
仮令、触れた時間が刹那でも。
しかし、僕の唇はそんな慰めを紡ぐのを拒む。
喪われた者が居た席は空席の儘、心に残されるのだから。
其の空虚を識っている僕には、何も云えない。
繕:
鞄の中に搖蕩う聲。
いえ、聲は私の内側で波に似て、寄せては返しているのです。
其れは、何時か草原で交した他愛の無い言葉だったり。
遠い昔、一枚の『鏡』だった頃の聲であったり。
繊く優しく哀しく温かな聲を手繰り、私は欠けた箇所を繕いました。
其れはイルの望みでもあるから。
猜:
違和感の昏い一滴。
其れは日毎滴り、平坦だった水面を揺らす。
「他を捜しましょう」
涼やかな聲が又、鈍色と化して落ちた。
其れは細やかな草の根に似て水中に広がり、次第に無色を有色へと変えて行く。
今や膨れ上がった疑問は舌の根を押し、喉を塞いだ。
何故、ウルは歎かないのか。
隔:
振り返っても、小さな若木は何処にも見えません。
当然です。
あれから五つの川を渡り、三つの丘を越えたのですから。
其の間、ワズさんは折りに触れて一綴りの言葉を私に向けました。
「無理をしなくて良いのだよ」
私は都度、大丈夫と返します。
一体何故、気遣われているのでしょう。
異:
あの獣とどんな関係だったかは知らない。
けれど、哀しくはないのだろうか。
「彼は此所に居ます」
ウルは屈託無く云うと、黒く染まった頁を幾枚か揺らして見せた。
「全く失われた訳では無く、形を変えたに過ぎないのです」
憂愁など微塵も無い。
寧ろ誇らしげな声音に、眩暈を覚えた。
裂:
高が壁一枚。
けれど、壁一枚。
鞣革の向こう側で刻まれる鼓動は、何時もよりも速く聞えます。
鞄に確と掛けられた留金。
姿を変えさえすれば何の意味も無い其れが、今は余りにも難い。
「君は、本だ」
ワズさんの意思が聲まで奪ってしまう以上、何も出来ず。
私は頓に身を竦ませました。
拒:
悲しむべきだ、と思うのは僕の我執なのかも知れない。
だけれども、今迄交した言葉を思い出すにつれ、感情は淀んで行く。
猜疑い出せば限りが無い。
慰めも共感も嘘では無いのかと。
きっと聲にした時点で、既に本質は失われている。
言葉は、不誠実。
だから、僕はウルに沈黙を強いた。
囚:
『本』は語りません。
『本』は動きません。
其れは『普通』ならば当然の事。
『物』となった躯は強張り、殻の様な内側で思考だけが揺れます。
私は何を間違えたのでしょう。
問う聲も持たない今、解を得る事も又出来無いのです。
夜も昼も無い暗闇で、頓にワズさんの許しを待ちました。
静:
行く手に待っていたのは三叉路。
どの路を行けば良いだろう。
行き先を決めるのは、飽く迄でもウルだ。
鞄の留金を外し、本に手を伸ばす。
……表紙が、冷たい。
其れは当たり前の感触なのに、慄いた。
そう云えば。
何時から僕は会話を拒んでいた?
掌の上で、ウルは無音を保ち続ける。
依:
私達にとって自分とは、酷く頼り無い物。
『だから、人に交わるなと云ったのだ』
少しずつ欠ける感覚の中で、私でない私が嘆きます。
『お前も固まってしまうよ』
断定に近い言葉に小さく笑って見せました。
私は信じています。
ワズさんを信じる自分自身を。
だって其れが友人でしょう?
想:
揺すろうと。
叩いても。
あの優しい聲が聞こえない。
震える指で闇雲に頁を繰る。
干乾びた花蝶の翅。繊い金糸の幾筋か。擦り切れた信[てがみ]。
そして漸く見付けた一文。
『私は、貴方を』
其の後に続く字は滲んで解らない。
けれど、紛れも無いウルの聲に、僕は強く額を押し当てた。
請:
柔かな膜を隔てた様に朧げな感触。
其れでも確かに『私』に触れている温もりに、私は『上』を仰ぎました。
「戻っておいで」
繰返されるワズさんの聲。
ほら、大丈夫だった。
深く求める場所からの呼掛けに容を変え始めた躯。
其処に『イル』だった『私』が静かに融け込んで行きました。
抱:
軋々と。
耳障りな音を立てて、本が蠢く。
変化し始めた質量を取り落すまいと草地へ腰を下ろす。
軈てウルは獣人へと変貌を遂げた。
くったりと力無く頽れる躯。
膝上に頭を置いて横たわらせると、淡金の眸が僕を見上げて笑う。
「ワズ」
其の乾き切った聲を押し留める様、口元を封いだ。
唇:
長い口吻を覆う、かさついた掌。
頬を擽る金糸を掬いたくても、腕は微塵も動いてくれません。
「御免よ」
降り注ぐワズさんの聲を眸で受けると、温かな雫となって眦から零れます。
『私』は此所に居ます。
綺羅星泳ぐ眼差しを宥めたくて、そう唇だけで語れば、熱が一つ額に燈りました。
確:
何でも一つ。
そう切り出したのは僕自身。
漸く躯の自由を取り戻したウルが望んだのは、他愛の無い事。
「手を」
短く告げて伸ばされた手を握れば、子供みたいに稚い笑みを顔中に浮かべた。
触れ合わせた指先に伝うのは温かな鼓動。
生きている。
そんな当たり前の事を、今更に確かめた。
幸:
鋭い爪を触れさせない為には、どうしたって手に力を込められません。
僅かでも食い込めば、柔かな膚は裂けるでしょう。
其れでも。
「次の街迄は」
示した岐路の先を、ワズさんは迷い無く歩き出しました。
力一杯、私の手を握って。
其れは後悔からだと解ってはいたけれど。
幸せでした。
交:
大体ウルの半歩後ろ。
其の距離を保った儘、僕等は歩む。
時折振り返って僕の存在を確める緑を帯びた金の眸には、手を握り返す事で応えた。
二人の間に言葉は無い。
其れは少し前と似ている様で、確かに違う沈黙。
聲の代わりに僕等は、繋ぐ掌の熱で語る。
優しい想いだけを、伝え合う。
猶:
昼と夜の間。
橙色に染まり始めた地面に落ちる影を、追い掛ける様に歩いていました。
そろそろ眠る場所を見付けなければいけないのに。
そうしたくなくて。
そろりと背後を窺えば、一足先に夜を帯びた眸が和らぎました。
「もう少し」
甘く絡むワズさんの指に頷きます。
後もう少しだけ。
温:
陽が最後の光を稜線に滲ませる頃。
一陣の風が外気に晒された項を揶揄う様に触れた。
其の冷やかさに首を竦めて、この大陸の夏は酷く短いのだと今更に思い返す。
秋も又、きっと瞬く間に過ぎるのだろう。
朦朧と想えば、ウルに肩を抱かれた。
「此の方が暖かいでしょう」
うん、暖かい。
唯:
何時か、こうして歩いた事があったのでしょう。
「暖かいね」
頬が触れ合いそうな程の距離で寄り添い、囁くワズさんの横顔を盗み見ます。
円かな表情と、預けられた嫋やかな躯。
しくりと収まる温もりに、矢張りと思うのです。
きっと『あの人』と。
でも、今は私です。
他の誰でも無く。
君:
価値観。
其れは個人であったり。
性差であったり。
或いは育った環境。
況や種族でも異なる。
単純な美醜の差ですら一致しない事が儘あるのだ。
今も、ウルが綺麗だと賞した毒々しい芋虫を扱下ろす。
「でも、貴方が綺麗だと云う事は譲りません」
長い沈黙の後、返った聲に敗北を告げた。
私:
一つ。
又一つ。
日々の中で出て来る違い。
其の度に聞く、ワズさんの決まり文句。
「僕は君じゃないからね。そして君も僕じゃないからね」
突き放す様な言葉。
人によっては冷淡に聞こえるかも知れません。
けれども、其の違いが『私』になるのです。
確かな『私』を作ってくれるのです。
色:
冬支度、として外套を探す。
今使っている物は端が擦れているし、この際新調しようと思ったのだ。
重要なのは手頃な値段と軽さ。
そして何よりも色。
舗を何軒か回覧って、漸く手に入れた一着の外套。
「今迄のとは雰囲気が違いますね」
ああ、うん。
此れならウルにも似合うと思うんだ。
褥:
息をしているみたいに揺らぐ焔の前。
小さな銀色の光が見え隠れ。
長い指が器用に動くと、外套の解れた箇所が綺麗に繕われて行きます。
「未だ着られるしね」
ふつんと糸を切って、ワズさんは元通り外套を着直しました。
真新しい外套は地面の上。
『本』の私を、柔らかに包んでいます。