第五話
「クソ、童貞かよ……」
割り当てられた宿の一室で、俺はベッドに座って項垂れていた。雲を思わせるほど柔らかいそのベッドは優しく俺の尻を包み込むが、あいにくそれを楽しむ余裕は俺にはなかった。
頭が真っ白になったあの瞬間、セリスの声が聞こえて俺は我に返った。
正直に言って、かなり危なかった。あのままだったら、勢いに任せて獣のようにセリスを犯していただろうさ。
結局、ろくに会話もせずに二人で宿まで戻ってきた。それで俺は自分に割り当てられた一室に戻った後、秘湯でのことを思い出して自己嫌悪してたわけだ。
全くもってだらしないし、情けない。未だに心臓の鼓動はうるせえし、顔の熱はさっぱり収まらない。
いよいよもってガキ臭い。純粋な童貞少年でもねえのによ。
ベッドの近くのサイドテーブルから水差しを取り、口をつけて直接飲む。『冷却』の魔法がかけられた水差しだ。氷が入れられてるかのように水は冷えちゃいるが、そのキンキンに冷えた透明な水でも、俺の熱を冷ませない。
自慰でもすれば少しは冷めるかもしれないが、それは負けたような気がするから嫌だね。
どうしようもなくなって、俺はベッドに倒れこんだ。晩飯までまだ時間はあるが、どうせすることもないし、こんな気持ちじゃ何をしても滞らない。寝るのが一番だ。
それに、寝ればこの熱も冷めてるだろうからな。今の俺は少しおかしいんだ。そう思わなければ、やってられねえ。
ゆっくりと目を閉じる。徐々に闇が広がり、そして俺の眼前は、闇で閉ざされる。
窓を全開にしているため、室内に風が入り込んでくる。少し硫黄臭い風だが、それもあまり気にならない。
意識がぼやけてくる。寝る直前の、心地良い微睡み。もう少しすれば、俺は魔力を失ったゴーレムのように動かなくなるだろう。
だが、俺の望みは叶えられない。秘湯にいた時は叶えてくれたってのに、運命ってのは本当に気まぐれなもんだ。
「御休憩中のところ申し訳ありませんわ。リョウ様はいらっしゃいますか?」
そんな声が、ノックの音とともに聞こえてきた。声の主は、俺の疲れの原因の一人だ。
「……ちょっと待ってろ」
半分眠った頭をどうにか覚醒させて、俺はドアへと近寄る。鍵を開けてドアを開くと、案の定そこにはリリアが立っていた。だが、いつもと違って、どこか申し訳なさげな表情だ。
その後ろには、秘湯の時とは打って変わって騎士然とした様子のセリスが立っている。が、よく見ると、こっちは何か焦っているような、後ろめたいような表情をしている。
二人とも馬車の移動の時とは違った楽な服装だ。リリアは黒を基調としたナイトドレスを、セリスは白を基調としたインナーだ。
二人が何をしにきたとか、何でそんな表情をしてるのかとか、そういったものを俺は思わなかった。それ以上に、俺の感情を抑えることのほうが先決だったんだ。
秘湯の時と同じように、セリスを見た俺の心臓が加速する。顔に熱が溜まり、まともに顔を見れそうにない。
咄嗟に顔を背ける。こんなところで暴走してたまるかよ。顔の赤さははっきりと見えちまってるが、それでも暴走するよりはマシだ。
「この度は、ワタクシの騎士がご迷惑をおかけして申し訳ありませんわ」
そう言って、リリアはいきなり頭を下げてきた。同じように、セリスも頭を下げている。
意味がわからない。謝罪される理由がないし、何に対して謝っているのかもわからない。
セリスがいきなり入ってきたことの謝罪かもしれねえが、元々あの秘湯は混浴だ。それこそ謝罪される理由にはならない。
「説明が必要みたいですわね。中に入ってもよろしいですか?」
俺が困惑していると、リリアはそんな提案をしてきた。俺にとっては渡りに船だ。聞かない理由がない。
「わかった。説明してもらうさ」
リリアとセリスの二人を室内に招き入れる。二人が部屋に入るのを確認せずに、俺は室内中央に移動する。
座るものを気持ちよく包み込む革張りのソファーと、空を半透明にして固めたような美しい水晶でできたテーブル。この宿に相応しい高級品だが、俺にはさっぱり値段がわからない。目が肥えてるだろうリリアだったらわかるのか?
「好きに座りな」
俺とリリアがソファーに座る。セリスは床に直接正座だ。
二人を見る俺と、恐縮している二人。未だに顔が熱いから、二人の顔を見るだけで一苦労だ。
「それで、何を説明してくれるんだ?」
顔は熱いが、表面上だけは平静を装って言葉をかける。理由がわからない限り、許すも許さないも出来ないからな。
「その前に、こちらをお飲み下さいませ」
そう言ってリリアが取り出したのは、小瓶に入った薬品だった。一瞬ポーションかと思ったが、まったく違うものだ。空気のように透明な液体。パッと見てそれが何なのかは俺にはわからなかった。
「これは?」
「状態異常を回復する万能薬ですわ」
その言葉に、俺は驚いた。顔の熱さを忘れるほどの衝撃だ。Sランク冒険者の俺でも滅多に見ることがない幻ともいえるアイテムを前にしては、正常な反応だろうよ。
あらゆる状態異常を回復させる万能薬は、ごくごく一部の優れた錬金術師にしか作れないアイテムだ。それこそ、国が金に糸目をつけずに雇おうとするほどの腕前が必要となる。
それに、万能薬を調合出来る錬金術師は簡単に見つかるものではない。俺が知っている限り、万能薬を調合出来るのは一人だけだ。
万能薬を調合するには、生きていればどんな傷も状態異常も回復させる万能の霊薬『エリクサー』。あるいは、死を否定する蘇生薬『フェニックスの祝福』なんかの伝説級のアイテムを調合出来るくらいの腕前が必要になるといえば、どれほど優れているかわかりやすいだろうか。
「いいのか? こんなものもらっても」
「構いませんわ。ワタクシの不手際ですもの。責任を取るのは当たり前ですわ」
とは言うものの、正直に言って俺には万能薬は必要ない。だが、まあくれると言うんだ。相手の顔を立てる意味もあるし、ここは素直に受け取るとしよう。
リリアから小瓶を受け取って、栓を外す。覗きこんでも何も見えないが、揺らすと音がすることから、中身は入ってるんだろう。
小瓶の中身を一気に煽る。無味無臭。不思議なもので、舌に感じる感触も水より軽い。そのまま飲み込んだものの、何も飲んだ気がしない。実は万能薬は初めて飲んだんだが、これは慣れそうにねえな。
しかし、変化は激的だった。胸の辺りが一瞬カッと熱くなった気がすると、スーッと感情が冷えていく。顔の熱さも一気に冷めたね。
落ち着いた俺は、セリスを見る。美人は美人だが、それだけだ。秘湯の出来事も思い出しても、眼福だったと思うだけで、獣のような性衝動は襲ってこない。
「魅了……ではなさそうだな」
「そうですわね……言うなれば、愛情増幅薬といったところですわ」
恐ろしい薬もあったもんだ。魅了と媚薬の合わせ技。そんなのを食らって、この程度で済んだのはたぶん運がいい方だろうな。
「元々ワタクシが持っていたものですわ。香水として使っても効果を発揮しますの。使われた痕跡を見つけたのでセリスを問い詰めたところ、白状したということですわ」
なるほどな、それが原因で俺は秘湯で暴走したわけだ。万能薬を持ってるくらいだから、その愛情増幅薬もかなり強力なものだったんだろう。
「全てワタクシの管理不行き届きが原因ですわ。この通り、謝罪いたします」
「いえ、全て私の責任です。弁明のしようもございません。この命で済むならば安いものです。どうか、姫様だけはご容赦を」
リリアとセリスの謝罪を受けて、俺は考える。
ギリギリで理性を取り戻したから、問題自体は起こらなかった。だが、俺の精神や思考が誘導されたのは確かだ。俺が油断していたせいもあるとはいえ、軽く流せる問題ではない。
チームを解散して、各々独自に調査することも考えた。しかし、内心どう考えてるのはわからないが、少なくとも反省する態度を見せてる。理由を聞いてからでも解散は遅くないだろうさ。
「……わかった。頭を上げな」
おずおずと下げていた頭を上げる二人。その表情はまだ暗いものの、部屋に入る前よりはマシだろう。
「次だ。何で俺にその薬を使った?」
その質問に対する反応は激的だ。リリアはセリスを見て、セリスはいきなり顔が赤くなった。そして、視線をあちこちに彷徨わせ、意味もなく両手をパタパタと振っている。
わけがわからん。いきなりそんな反応をされても、俺としては戸惑うしかない。
意を決した様子で、数回深呼吸するセリス。そして、強い眼差しで俺を見つめると、こう言ってきた。
「貴方を好ましく思っているからです」
「いや……それは聞いたけどよ……」
それは、以前にも聞いたことだ。だが、それが何の理由になるのか。
俺が考えていると、リリアがセリスに耳打ちをする。何を言っているかは聞こえないが、セリスが頷きながら聞いていることから、真剣な内容なのはわかる。
耳打ちが終わり、再度セリスが俺を見つめてくる。その眼差しは真剣以外の何ものでもなく、下手な返答をしたら斬り殺されそうな雰囲気がある。
「……貴方は勘違いをしている」
「へぇ……」
何を勘違いしているというのか。冒険者としての俺が好ましいということ以外、どう判断しろというのか。
若干楽しみに答えを待っていた俺だが、その答えは俺の予想の斜め上に吹っ飛んでいた。俺自身はセリスとは初対面だと思っていたし、理由もないと思ってたからな。当然だろう。
「私は貴方を愛している。そういう意味で、私は言いました」
「は?」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
真っ直ぐ貫いてくる瞳は全てが事実だと雄弁に物語り、セリスの態度も言い切ったという充足感に溢れていた。
セリスの全てが、今言ったことが真実だと伝えてくる。こんなにも力強く、真っ直ぐに好意を伝えられたのは久しぶりだった。
好きだと言われたことは何度もある。だが、そのほとんどが、俺がSランク冒険者になってから。つまり、富や名声といったものを目当てに、俺に取り入ろうとする目的からだった。
そんなのが何度も何度も続けば、そりゃあ知らない女からの告白が信用できなくなってもしょうがない。それに、こっちとしては恋人を作る必要もないし、女とは割り切っている方が色々な意味で面倒じゃない。
「私の全てを捧げたい。そう思ったから、貴方にあの薬を使ったのです」
ここまで言われたら、理解せざるを得ない。セリスは、その目的のためだけに、主であるリリアの私物に手を付け、全裸で秘湯に乱入し、俺を誘惑してきた。
頭が痛くなってきた。思わず両手で頭を抱えてしまう。
何なんだ、この理由は。許す許さない、怒る怒らない以前に呆れてものが言えなくなるレベルだ。
俺が頭を抱えているのを悩んでいると勘違いしたのか、セリスは続けて言ってきた。
「今は依頼中。いきなり答えろと言われても、困るだけでしょう。依頼が無事に終了したら、その時に答えを聞かせて下さい」
では、失礼しますと部屋を出て行くセリス。それに続いて、リリアも部屋を出て行く。
いや、話は終わっていないんだが……まあいいか。もう、全部がどうでもいい。
フラフラとベッドに移動し、横になる。どうでも良かった。全てを投げ出したくなった。
結局、俺は晩飯の時間になるまで不貞寝した。




