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南の島

作者: helios

種別は短編ですが、ちょっと長めです。

高校生の時に書いたものに修正を加えてちょっと読みやすくしました。昔書いた文章を読み直すのは恥ずかしいですね。

揺れに揺れた船に乗って、船が到着したのは東京をでてから三十時間近く経ってからだった。しかしながら、僕が上陸した場所は、まだ日本の領土内だった。そして、僕の胃袋は瀕死だった。

幼馴染の女の子一人を連れて、南の島を訪れた。彼女の名はミハルで、三つ下の15だった。上見ると、雲一つないコバルトブルー、横見れば彼女がいた。そうして、柔らかく暖かい風は、僕たちの間を絶えず流れていた。遠くに見える島影に目を凝らした。じき島に着く。

 その時、時計は十一時三十分を示していて、それは木曜日の昼で、そして船に乗っている人は少なかった。やがて、船が舫われ、僕はタラップの上を、ヨタヨタ歩いて陸地まで重い体を持っていった。

 空は底が抜けたように青かった。肺の中を洗う空気はどこまでも透明に燃えていた。真っ白い日の光が、あたり一面を照らしていた。目の前では集落が地べたに張り付いていた、その奥に黒々とした木々に包まれた山が横たわっていた。路肩の雑草が膝の高さだった。この島に不釣合いなほど普通の民家が立ち並んでいた。僕は少し辟易した。隣でミハルは楽しそうだった。船の周りは騒がしかった。島民の生活必需品やらが運ばれて来るからである。そうまでして、この島に住まねばならぬ理由が僕には理解しかねた。とろける暑さのアスファルトが地面の上の空気を暖め密度の違いを作って、モヤモヤさせていた。そんな中を、ミハルはテッテと軽快に走っていく。

 僕がここを訪ねたのは六月だった。普通なら、梅雨の時期であって、路肩には苔の精液がいつもこびりつき、ヌラヌラとした光沢のナメクジがそこらじゅうを這い回り、そうして、彼らはいつだって僕を憂鬱にさせた。けれども、この島に梅雨は無かった。

「六月をきれいな風の吹くことよ!」

隣でミハルがそんなこと言った。南の島の六月を詠んだ歌じゃないだろうと感じつつも、潮風に身をさらして、いくらか気分が良くなったとは確かだった。

 ふと首上げれば、上ではカモメが暢気に鳴いて、鼻腔に潮の匂いが満ちた。

「しゅんちゃん顔色悪いよ、大丈夫?」

しゅんちゃん、僕はそう呼ばれる。昔からだった。僕は彼女のことを、色々な呼び方でこの頃は呼んでいた。共有する時間は年を経るごとに、ゆっくりと、しかし確実に減っていた。

「ねえ、大丈夫?」

無視されてたものだから、クイッと体を屈めて、ちょっと眉を吊り上げながら(大方僕が何か思春期の男子にありがちな桃色の妄想にひたっているとでも考えているに違いなかった)下から顔を覗き込んだ。柔らかい風が吹いて、彼女の黒髪が風に靡いた。黒髪ぱっつんロングヘアー。乾かすのが大変だから早く切ってしまいたいと常々ぼやいていた彼女に、そんなもったいないことするもんじゃないと言い聞かせていたのは僕だった。

「大丈夫だ、なんて言えるように見えるのか?すばらしい感性だな。」

手で胃のあたりをさすりながら僕は答えた。肩に荷物が食い込んで、かなわなかった。まったくひどい荷物の量だったから。

「かわいくないなあ。」

と彼女は言った。

 それにしても、荷物の重さは耐えがたかった。腰まで痛くなってきた。

「なんで、そんなに顔色悪いの、しゅんちゃん?」

不思議そうな顔してミハルが顔を覗き込んできた。傍から見ると優しい気遣いに見えたに違いない。この荷物が誰の荷物かってことに着目しなければの話だった。胃液の味が口にこびりついた。不快感が単調上昇だった。上で暢気に無くカモメがいい加減に忌々しくなってきた。

「いや、むしろ、なんでお前なんともないの?」

「いや、誰も他に顔色悪い人いないよ。しゅんちゃんだけじゃん、そんなに顔色悪いのは。お前ってよばないで。前から言おうと思ってたんだけれど、ミハルちゃんって呼んで。」

 僕は周りを見渡した。なるほど、みんなにこやかにしている。僕は、自分が船に滅法弱いことを十八年の人生で初めて知った。それにしても荷物が重かった。何度言ったろうか、この台詞。繰り返しって地獄らしい。

「なあ、ミハルちゃん。荷物置きたいんだけれど。」

 この荷物、肩の肉をえぐるかと思われる荷物は、船内でしたポーカーに二万五千六百三十円負けたことが原因だった。出世払いにしてもらえるように祈る他なかった。だって、僕の財布には一万円札が一枚チョコンと申し訳なさげに入ってただけだったから。

 大敗の直後、ちょうど僕が財布を見つめて呆然としている時だった。彼女は、「この荷物重いな、明日持って欲しいな」とわざとらしくもらした。従順に言うこと聞いた僕を誰が責められよう

 ミハルは大きめのバッグを一つ。僕は三人分弱の荷物を持っていた。鬼畜である。ミハルは海の方みてぼーっとしていた。僕の言ったことなんて耳に入っちゃいないようだった。

「ねえミハルちゃんてば、聞いてんの?ねえ。」

「ん?ああうん。ねえ、ミハルちゃんってたまに呼ばれるのがいいの!いつもよんでたら駄目じゃん。分かってないなあ、もう。」

「難し過ぎるよ、僕には。苦手なんだそういうの。割合決めてくれない? 」

「いーやーだー。」

 僕は財布に携帯、水着と着替えとその他の細々とした日用品に参考書やノートなどを数冊くらいしか持ってきていなかった。旅行に行くときに、荷物を減らすのは、僕にとってポリシーのようなものだった。

 この後の予定を思い出す。確か、彼女の親戚の家に泊めてもらうことになっていたはずだった。なんでも以前その親戚の人が東京の大学に行っていた際に、ミハルの家に頻繁に遊びに来ていたかららしい。

「で、その親戚の家ってのは、どこら辺にあるの?」

荷物から少しでも早く解放されたい、その一心で僕は尋ねた。

「・・・・・・観光案内のパンフレットに載って」

かすれた声でミハルちゃんは言った。突然に彼女は空気の抜けた風船みたいになった。

「る訳ないよな。」

最後まで言えそうになかったから、僕が後を貰う。

「あ、あっちの、ほうじゃないかな」

裏返った声でどもりながら彼女は適当な方向指差す。その指の方向を目で辿ると、明らかに人の住んでいなそうな山があった。心洗われるいい緑色した山々が見える。

「最高だ。あそこに野宿しろって一晩中昆虫と格闘か、コンクリートジャングルに生きる現代人としては最高の娯楽じゃないか。地下鉄の駅でダンボールに包まって寝たほうが何倍マシかってことを考えなければの話だけど。」

「……。」

なんだかミハルが落ち込んでいた。どうにも冗談の通じない奴だった。

「冗談だよ。」

僕は携帯を開いた。お世話になる親戚の人の電話番号知っていたから。これ以上ミハルと話しても事態は解決しそうになかったし、それが分かっていながらイジれるほど僕は器用な人間じゃなかった。

 電話を掛けたのは僕だけれども電話に出て話したのはミハルだった。車で向かえにきてくれるらしい。そういうわけだから、十分くらい待ってなくちゃならないんだ、と彼女は僕に伝えた。見知らぬ島で迷子になることは避けられたようで、僕は少しばかり安堵の息をついた。

「あの、親戚の人さ、名前なんていうんだっけ?」

「赤井碧。真面目に考えてこの名前つけたのかなあ?」

「覚えやすくていいんじゃないか?補色だしなあ、なんか意味があるんじゃないのか?」

適当なこと言ってみた

 港には待合室があった。そこには腰掛けるところがあって、僕は重い荷物抱えて彼女とその中で向かえの車が来るのを待った。擦り切れた畳の座敷、塗装の所々剥げた柱、潮風に海の匂い、そういうものがごちゃごちゃと乱雑に詰め込まれていた。彼女は脚をブラブラさせて俯いていた。僕には彼女の顔が見えなかった。何か話でもしようかと思ったのだけれども、ミハルちゃんてば脚とのにらめっこが忙しそうだったから、僕は話掛けなかった。港の喧騒が耳から零れ落ちていった。潮風は、少し生臭かった。睡魔が襲う。僕はあたりを見回して、興味を引くものを探していくことで、眠気を追い払おうと必死になった。

 座ってる間に一人、30代前半くらいの男性が僕の隣に腰掛けて、僕に話しかけてきた。他に座るところはあるのだから、何もここに腰掛けなくともと思ったのだけれど、言っても仕方ない。

「連れのお嬢ちゃんべっぴんさんだねえ。」

と僕の隣に一瞥くれた後に言った。僕が彼を見る目が無意識に少しきつくなったような覚えがある。

「名前なんていうの?」

「どっちですか?」

「野郎の名前聞いてどうすんだよ。」

喧嘩を打っているとしか思えない口ぶり。一発殴ってやろうかと思ったけれども、僕は大人の態度で接することに心落ちけた。

「すみません、知らない人に名前を言うなって幼稚園でならったもので。」

 僕は横を見た。ミハルは寝ていた。時々頭がピクッと動いた。時にはすごい激しく、ふざけてるんじゃないかって思うくらい。でもそうじゃない時は静かな吐息が微かに聞こえるだけだった。

「いや。いいねえ。」

なんて寝ている彼女を見ながら言う。

「はあ。」

「1杯どう?」

彼の太い手には芋焼酎が握られていた。

「未成年ですよ。」

「知ってるよ。」

尚更タチが悪い。というか、僕の歳を知っているわけないじゃないか。

 それにしても、この人酒臭かった。それほど酔っている風ではなかったけれども、エチルアルコールを酢酸へと分解することに一生を費やすタイプの人間だってことは分かった。それにしても、彼の眼の奥は濁っていた。そこらで水揚げされている死んだ魚のほうがいくらかマシな目をしている。

 それからも、彼はひたすらどうでもいいことを言い、また質問し続け、僕はそれに、はあ、と適当に相槌を打った。その間彼女はずっとスヤスヤ寝ていた。そうして時々ピクッと野生の小動物みたいな動きをした。島中は暖かい光に満ちていて、時間はとてもゆっくりと流れた。

 ミハルが随分ぐっすり寝ているなあと僕はふと少し不思議に思ったのだけれど、そういえば、昨日、ポーカーの負けを取り替えそうと必死になって夜遅くまで粘って彼女をつき合わせていたので眠いのは当然だった。

 適当に相槌を打っていると、一人の女性がこちらへ向かってきた。逆光なのでシルエットしかわからなかった。近くまで来て、若い女性であると分かった。若いって言っても、二十代半ばくらい。黒淵眼鏡を掛けていて、幾らか肌の露出面積が多いように感じた。

 僕の隣で寝ている女の子は局所的に発育が悪くて、自己主張の少ない胸だった。外見から焼き蕎麦やお好み焼きを不覚して連想してしまう辺り本物である。胸部がオーストラリア楯状地である。だからその女性を見てこれが同じホモサピエンスの女性なのかと僕が疑ったのも無理のない話だった。

「こんにちは。」

なんて、その女性は言った。オガサワラクチナシが風にそよぐ音がした。少しいい匂いがした。隣でミハルの鼻がヒクヒクした。

「あ、こんにちは。いや、はじめまして。」

僕は椅子に弾かれた。立ち上がって言った。ちょっと舌噛んだ。彼女は手を口にあてクスクスと小さく笑った。隣を見るとミハルはまだ寝ていた。僕は起こそうとした。けれど

「いいわよ、長旅で疲れているでしょう。ほら、お姫様だっこでもしてあげたら?」

と楽しそうに言うのは赤井碧さんである。彼女の言葉に従って、起こさないで運ぶことにした。男女の仲はしかるべきステップを踏まねばならぬと思っていた僕は背中に背負うことにした。幼馴染だからきっとこれはセーフ。抱き上げるとき彼女は寝ぼけて僕の顔をペチペチ叩いた。その彼女の手には涎がついていたさっきの男の人はいつの間にかどこかにいなくなっていた。ミドリさんは遠くを見やった。妙に涼しい風が吹いた。

 彼女の車は小さめの日本車だった。後部座席にミハルを寝かせた。残りのスペースに荷物を詰め込む。そこまでは良かったんだけれども、僕の乗るスペースが後ろに無くなった。これには少し、まいった。

「助手席に座ればいいじゃないの」

と彼女は気にする風もなく言った。

 なれた手つきでキーを差込み回転させ、エンジン掛け、ギアをドライブに入れた。車に備え付けのデジタル時計は十一時五十分を指していた。ミラーに吊るしてある人形がかわいらしかった。車が曲がる度に左に右に、プラプラ揺れた。

 エアコンのつまみの下には、飲み物を置く場所があった。500ミリリットルのペットボトルのラベルにはsports drinkの文字があったのにもかかわらず、中には黒い液体が入っていた。そうか、ここのスポーツドリンクは黒いのか、カルチャーショックだ、と思った。ペットボトルには水滴がビッチリついていた。クーラーが全開でかかっているんだけれど、それでも、やはり暑かった。喉が乾いて仕方なかった。

「ああ、ごめん暑いよね。」

CDをプレーヤーの差込口に入れながら言う。流れてきたのは、『heal the world』。マイケル・ジャクソンがここ最近は流行しているようである。世界より先に喉の渇きを癒してはどうだろうか。

「いや、大丈夫です。」

昨夜は、ほとんど徹夜だったから、朝は食欲がなくて朝食にはあまり手をつけずに、やたら飲み物ばかり飲んでいたのに、喉は渇いた。

 赤信号に引っかかった。

「あの、その飲み物は一体何なんですか?」

「ああ、それね。ただの蕎麦つゆよ。スポーツドリンクとかじゃないから大丈夫。のど渇いてる?飲んでもいいよ。口つけてあるけれども、気にしないならね。ああ、私は別に構わないわよ」

僕の方見てそう言った。ぺトボトルを取ると一口すすって、手渡してくれた。

 ひんやりと濡れたペットボトルが涼しかった。そうか、ここでは蕎麦つゆを飲むのか、カルチャーショックだ、と僕は思った。一気に飲んだ。ゴキュリと喉が予想以上に大きな音を出した。僕はその音が僕の外に漏れていないかをひどく気にした。南国の蕎麦つゆは普通のウーロン茶だった。

 口をボトルにつけている間中、キャップに触れていた彼女の唇とウーロン茶に混ざった彼女の甘い唾液やなんかが僕の頭の中を執拗に引っ掻き回した。別に僕が女の子に飢えてたってわけじゃないんだ。誰だってそうなるんだ、きっと。

「ねえ?」

「あ、はい。」

目をまともに見ようとすると、どうにもにやけてしまってかなわなかった。彼女に振り向くまでにタイムラグ。その時信号が青に変わって、ミドリさんは前を向き、車は信号を抜けて走り出した。僕は後悔した。

「なんて呼べばいいかしら?」

普通に名前を呼んでくれれば、それでいいのだけれども。こういうのには困った。考えながら外に目を向けた。街の風景がガラスをつたって流れていった。

「そのままでいいです。こだわりがあるわけじゃありませんから。」

「じゃあ、下の名前でいいね」

「べ、別にいいですけれど、いや、はい」

そう言われると、なんとなく気恥ずかしいような気もした。分かるかな、こういう気持ち。そういえば、僕はなんて呼べばいいのだろう。

「そっか、じゃあシュンくんだね」

「ほら、つくわよ。ここが家。」

 車が私道に入った。その奥に車庫があった。一人で住んでいると聞いていたんだけれども、それにしては大きすぎた。昭和中期といった感じの家だった。増築したようなトタン造りの土間が、より一層貧相な住まいに見せていた。後部座席に目をやると、起きる気配のないミハルがいる。また背負って運ぶのだろうかなんてことを考えた。途端に僕は嬉しいような恥ずかしいような、そんなくすぐったい気もちにのまれた。

 スルスルと車庫の中に車が入っていった。車庫の中には怪しげな道具が沢山置いてあるのが見えた。その多くは長い間使われていないようで、埃をかぶっていた。

「不思議なものが沢山ありそうでしょう?」

コロコロ笑った。僕もつられて笑った。そうしてすぐに、馬鹿みたいだなあと思った。

「ここ、もともと何だったんですか?」

長年使われていなそうな怪しげな道具の数々を見つつ問うてみた。マトモに答えてくれなさそうな気もした。

「愛の巣よ。」

そんな答えを予想していたようなしていなかったような。

「はあ。」

僕はまた曖昧な相槌を打った。今日何回目になるんだろうか。

「荷物は後でおろしましょう。」

「えっと。ミハルはどうしますか?」

「疲れているんだろうから、寝かせておきなさいよ。」

「はあ。」

「車の中じゃないわよ。トオルちゃんが部屋に運んであげなさい。」

彼女は随分と楽しそうに言った。ミドリさんにしても、こういう日々があったんだなあと考えて、僕は会ったばかりのこの美しい女性にかつて愛された男にぼんやりと嫉妬した。

「あの、」

「何?」

「背中に背負う方が楽なんですが、手伝ってもらえませんか?」

彼女はニコっとして、背中に彼女を乗せるのを手伝ってくれた。ミハルのフニフニした温かい二つの脂肪塊が背中に押し付けられた。僕は本当に死んじまうんじゃないかって覚悟した。僕の耳の横にもたれかかる頭からは寝息とシャンプーの匂いがさらさらと流れていた。首に髪の毛が当たってくすぐったいったらありはしなかった。

「さっきから聞こうと思っていたんですが、僕はなんて呼べばいいですか?」

「なんでもいいわよそんなの。お姉ちゃんでも、姫でも。」

「そうですか。」

「ミドリでいいわよ。」

 背中のミハルを二階の部屋のベッドに置いて上に薄く布団を掛けて、カーテンを閉めてやった。カーテンを閉めると部屋は急に暗くなった。クーラーがかかっていて部屋の中はわりと涼しかった。部屋には掃除機が置いてあった。それから背が日に焼けた文庫本をいっぱいに詰めた本棚があった。読んだことがある本もあったし、名前しか知らない本もあれば、全く知らない本もあった。全部彼女がよんだんだろうか。その天には薄く埃が積もっている。ミドリさんの言った愛の巣という言葉を僕は反芻した。これからどうしようかと考えていると階下から声がした。

 来てくれた初日くらいは派手にやりたいじゃないの、ということだそうで、到底一度には食べきれない量の食材が一階のダイニングテーブルに置いてあった。実を言うと僕はあまり食事は多く摂らない方だった。でも、嬉しそうな顔はしておいた。

「この魚、島の外で買うと値が張るのよ。」

僕の近くに置いてあった魚を指差してそんなことを言った。魚の種類については殆ど全く知識がなかった。

「これ、昼食ですか?」

「その魚はそうよ。他にも色々あるけれど夕食の分ね。腐るといけないから冷蔵庫にあるわ。今朝獲れたものらしいわよ。」

 上で物音がした。ミハルが起きたのだろう。予想以上に短い睡眠時間だった。昼寝の標準的な時間なんてそんなものなのかもしれない。僕は自分が三時間や四時間は平気で昼寝をする人種だけれども、他の人はどうかなんてことは知らなかったし、知る必要も無かった。

 木の軋む音がした。階段からの音。空気に割り込んできた。ミハルは一階に下りて来るようだった。

「おはよー、なんかテレポートしたみたい。クーラー切っといた。」

目をこすりながら現れたのはミハル。服が乱れている。

「おはよ」

ミハルは二人にほぼ同時に挨拶を返された。

「今何時?」

眠そうに尋ねた。僕は部屋の壁に掛けられた時計を見てまだ正午を過ぎて十分ほどだって伝えたら、彼女は思っていたよりあまり眠れなかったとぼやいて、汗がべたつくと言いながらシャワーを浴びに風呂へ行くため、また部屋を出た。

「わざわざこの部屋に来ないで風呂場へ直行すればいいじゃないかと思いませんか?」

「よりみちするのが人生よ。最近の子は駄目ね。学校帰りに寄り道すると怒られるらしいわ。学校帰り、夕日に染まった田圃の中でおたまじゃくし見つけて友達とじゃれあって。或いは、学校帰りに制服着たまま本屋で官能小説買うのにハラハラしたりね。」

「深いですね。」

 外で風鈴がちりんとなった。開け放した大きな窓から風が流れた。外には海が見えた。その上には小さな白い点々(カモメか何かだと思う)がゆっくりと旋回しているのが見えた。

「お昼ごはん食べたら海にでも行ってらっしゃいよ。この家の前、いや、うしろかしら?とにかくそこの海岸は人気もなくてゆっくりできるわよ。というか……なんでも?」

僕の目が海に行っているのを見てそう言った。

 家の前って言ってたけれど正確には下だった。この家は比較的島の高くに位置していて、海に行くためには長い階段を下りていく必要があるらしい。これはミハルちゃん特製の「旅行のしおり」の要約だ。

「砂のお城でも作りに行きます。」

僕はそう言った。

「そう。」

ミドリさんはにっこり笑った。




 昼ごはんも早々に平らげ、海を目指してテクテク歩いた。木々に陽光を遮られ、長らく陽の光をみていなそうな湿った古いコンクリートの階段が不気味だった。おそらくすでに中性か酸性だった。隣にはミハルがいて、先刻までの眠気はどこへ失踪したのやらしれない。某北の国の工作員もかくやと思われる素早さだった。両腕をぶんぶん振って意気揚々として歩くさま、初めて動物園で象を見ることができる機会を得た五歳児のそれだった。そんな姿を見ていると、暗い森も、なんだか美しく感じられるようになってきた。

「分け入っても 分け入っても 青い山」

とミハルが楽しそうに詠んだ。

 ミハルが、どうせ海行くんだったらシャワー浴びなくてもよかったなあとニヤニヤしながら言いつつ一分足らずで身支度して、僕の行動が遅いと散々罵ったあげくに、出る間際になって日焼け止めクリーム忘れたから待っててと恥ずかしげに言ったのは今から十分ほど前のことだった。顔紅くして走って戻るミハル見て僕は楽しくなった。コイツにはかなわないと思った。

 徐々に樹木が少なくなっていった。そうして突然視界が開けた。真っ白い砂浜だった。ミハルは履いていたビーチサンダルを脚振って思い切り遠くまで飛ばした。

「やふー」

隣からそんな歓声が聞こえてきた。船酔いまでして遥々やって来た甲斐もあった。ビーチを貸しきった石油王の気分っていうやつだろうか。まばらじゃない、人がそもそも僕たち以外にいなかった。

          ―ゆっくり、というか・・・・・・。何でも?―

ミドリさんの言葉が脳裏をよぎったけれど、このことはミハルには秘密にしておいた。後ろを振り返ると傾斜の上に人家が見えた。その中にミドリさんの家を見つけた。彼女は今何を考えているんだろうか。そう考えている自分に気づいて、僕何やってるんだ、と頭を振った。

 ばちゃばちゃと喧しい水音がした。目を後ろの海へと向けると露出の少ない水着を着たミハルが波打ち際を走っていた。いつの間に着替えたのだか知れない。

「家で着替えてきてたの!」

僕の心を読んだわけでもなかろうに、タイミングよく疑問に答えてくれた、すでに二十メートル近く離れた彼女がこちらにクルリと向き直って。ミハルの姿を目の端っこで無意識に追いながら、僕は予定通り砂の城の建設に着手することにした。砂を盛る、ひたすらに。何も考えずに、砂に埋めていった。

「ねえ、しゅんちゃん、あそぼーよー」

いつの間にか近くに来ていて、ちょこんと僕の隣に体育座りしながら、まだ着替えていない僕のTシャツの裾を掴んでいる。そう言いながら頬を背中にピトッとあてた。くすぐったかった。

「遊んでる。」

「ヴぁっかじゃないの!」

そういって立ち上がると、彼女は基礎工事の終了した僕の城を蹴った。素晴らしい「V」の発音に舌を巻いた。城の基礎部分は蹴られた場所からグズッと崩落した。彼女がビーチサンダルで蹴ったとき、砂の中にあった貝殻が割れた。

 ノソノソと緩慢な動作で僕は着替えていった。別にその底に悪意があったわけじゃなかった。ただ、そうするべきだという輪郭のぼやけた思いがチョコンとあっただけだった。多分、時間なんていくらだってあるんだから、慌てたって仕方ないだろうっていうことなんだろう。とにかく本当に僕の前に無責任に横たわった時間ってやつは、ちょっと明確には意識できない長さだった。だから、時々怖くなった。そうして、僕は、眼をそらした。僕は全体を見ることに耐えることのできる心と体を持たなかった。かといって、微小時間の積み重ねを精一杯生きて日々と為すわけじゃなくて、とにかくそういうものから目をそむけ、斜め三十度から見るためだけの今だった。

 今日は昨日で昨日は明日だっていうことを、小さい頃から自然とすりこまれてきた。学校でも家庭でも。絶えることのない連続だったら、何を急ぐことがあるっていうんだろうか。人生何かを為すにあまりに短いなんていうけれど、だったら何も為さなければいいと思わないか。意識の裏側に感じる違和感が無いわけではなかった。でもしれを意識してはいけなかった。ただ、楽しめばいいじゃないか。快楽自身が束縛になったとしても、だ。あくせくして何になるって言うんだろうか。たどり着く場所は死以外にないなんてことは誰にだって分かりきったことだった。そこをスピード超過でツッ走ったからといって糞の役にも立たない下卑た自己陶酔があるだけじゃないか。ギアを落として徐行で走らずして人生を楽しもうなんて傲慢ですらある。僕は何も間違っちゃいないはずだ。きっと。

 水着を取り出した。さほど使っていないにもかかわらずくたびれたようになった海パン。

「はーやーくー」

脚で水をばちゃつかせながら急かす。

 他の人に、早くしろなんて急かされるのなら、気が滅入るんだろうけれど。彼女の場合だと、気が滅入るなんてことは、なかった。

「ボール膨らまさないのか?」

「え?」

彼女はゆっくりと身を起こし砂にまみれた体で僕の後ろに歩いて来ると、そこに置いてある袋の中をゴソゴソとやってビーチボールを取り出し、その場にペタンと座り込んで息を吹き込み始めた。本当は空気入れが僕の鞄の中にあったのだけれども面倒なので言わなかった。口で膨らませたほうがいいに決まっていた。ろくに苦労もせずに手に入れたものには愛着も湧かない。……というのは表向きの理由だった。裏側の理由は、彼女の吐息を抱きしめるっていうのがなんだかとってもステキなものに感じられたから。少し詩的だ。

 くるくる巻きタオル巻いた。海パン穿こう。波音ってもっと静かだと思ってた。ボールが皺一つなくなるまでいっぱいに膨れると、彼女は僕の方に目をやって、そうして僕の着替えが終わったことを確認すると、ボールをトスしてきた。

「勝負!」

目を爛々と輝かせて僕に人差し指を突きつける彼女を見ながら、僕はここに来たことは正解だったと満足した。本当に良かった。何って彼女の顔がいい表情してた。

 小一時間ほどボールで遊んでいたんじゃないだろうか、彼女はいい加減に疲れたらしかった。椰子か何かの木の日陰に入ってそのまま横になってしまった。僕もそれなりに疲れていたな。恐らくこの疲れの大部分は睡眠不足のせいだった。けれども、今日ほどのびのびと過ごせた日が今までにあっただろうかって考えたとき、僕はそんな日は思いつかなかった。

「そろそろ帰ろうか」

とミハル。

「そうだな」

と僕。

「背中に砂が入ってるの、ここら辺にシャワーないし、気持ち悪いから取ってくれない……?」

「家が近いだろ」

「でもイヤなの」

「なんで?」

「うるさい!」

声が硬くなった。僕はうるさいらしいので黙った。沈黙がながれた。

「……ただのヘタレじゃない」

胸に両手を当てて俯きながら僕のほうを見るでもなくそうつぶやいた。ひどく小さな声だった。

 生暖かいような、薄ら冷たいような、なんとも中途半端な風が、浜辺を、僕ら二人の間をゆっくりと縫っていった。後ろからは木々のざわめく音がした。何かが間違っていた。

 今殆ど頭上にある雲は恐らく昼に港から見えた綿菓子みたいな雲のはずだ。色は白から黒ちかい灰色へと変わっていたけれど。ポツリと一滴僕の手の甲に雨粒が落ちてきた。妙に痛かったのは何も雨粒の大きさのせいだけではなかった。雲行きが怪しくなってきた。足跡の沢山ついた砂浜を見ながら僕は彼女に言った。浜辺に刻まれた足跡は、きっと明日には波に洗われているはずだ、そう思った。

 遠くの雷鳴が、聞こえた。後ろ振りかえると荒波立たせた海が何処までも広がっていた。




 夕食は豪勢だった。今朝獲れたとミドリさんの言っていた魚、今は調理されてテーブルを彩っていた。夕餉は早朝の小鳥の会話みたいに楽しげだった。僕は、その中でつつましく幸福を食んだ。

 突然ミドリさんが切り出した。

「ヤマダさん、いた?」

「いなかったよー。」

ミハルがすこし残念そうに返答した。浜辺での一件からこっち、彼女とは少し話しにくかった。彼女は大して気には掛けていないようだったけれど、僕の方はそういう訳にもいかなかった。これは彼女云々でなくて、僕自身の問題だった。

「誰ですか、その人は?」

「ああ、まだ知らなかったわよね、シュンちゃんは。この島に毎年来てた人でね、そのうち住み着いちゃったのよ。」

「そりゃ大分暇人ですね。家族いないんですか? 仕事は?」

我ながら、いくらかしつこかったかもしれなかった。

「それが良くわかんないのよねー。あんまり自分のこと話さない人なのよ。」

「はあ。」

「でも、別に悪い人じゃない、よね? お姉ちゃん。」

と、ミハルが割り込んできた。その疑問符に向かって疑問符を打ちたかった。

「要は、よく分からないけれど悪い人ではなさそうで、なんだかよくわからないけれどこの島に住み着いちゃった人ってことですよね?」

「うん。」

「どのあたりに信頼する要素があるのかよくわかりませんが、世間ではそういう人を危ない人って言う気がします。」

「まあ、それもそうなんだけれどね。会ってみないと分からないものよ、人なんて。」

ミドリさんはそう諭すけれどもそんな胡散臭い人物には会わないようにしたいものである。折角の夏休みの安息がぶち壊しになってはたまらない。と思った矢先、

「明日、ヤマダさんの家行きたいな。一応今日来るとは言っておいたんだけど。」

なんて言いだした、ミハルが。ナパームを落としていきやがった。

「まあ、どうせ暇してるでしょうからね、彼。トオルちゃんも、会ってきなさいよ。」

「はあ。」

 夕食終えると風呂だった。その場の流れで適当に順番が決まった。ミハルが最初、次が僕で最後はミドリさんだった。居候的な身分で先にはいるのはなんとも悪い気がしたが、ミドリさんは客人だからと言って聞かなかった。こういう言葉って物理的に紙一重だけれども感覚的に違うから難しい

 ミドリさんが食器を片付け始めた。手伝いを申し出たけれども、男の子は台所に立たなくもいいとか何とか。素直にそのまま了承して二階に上がった。そういえば申し訳程度に持ってきただけではあったけれどもここに着いてから参考書の類にはまだ一度も触れていないんだ。受験生の身だ。僕は鉛筆でも握って何となく晴れない気持ちを晴らそうとした。

 部屋に入り、ドアをパタンと閉じると静寂に耳が痛かった。静寂は空気をキリキリと焼いて耳を焦がすのだということを、初めて知った。部屋の隅っこに雑然と置いてあるバッグ類から、自分のものを掘り出して、チャック開いてグチャグチャやった。そうして、筆箱やら参考書やらを適当に取り出して、机まで持っていった。

 僕は正しいはずだった。違和感などなかった。心の奥底で叫ぶ者などいなかった。しかし、部屋が静かなだけに、ミハルが僕の鼓膜につけた傷跡は、どうしようもなく意識された。

「ただの、ヘタレじゃない。」

 僕は握っていたシャープペンシルが砕けるのを感じた。痛みはなかった。何かぬめりのある生暖かい液体が左の手の平を包んだ。ポタポタと音を立てて真紅の液体が左手から机に滴った。表面張力で半球に近い形になった。毒々しい赤だった。こんなものが体の中を流れていることをリアルに感じることは到底出来なかった。事実は僕の思考と乖離した。そのうち、ミハルのお風呂上がったよの声が聞こえて、僕は着替え持って、一階へと下った。


 風呂上り、冷えた牛乳でも飲もうと思ってパンツ一枚だけ穿いて台所に行った。ミハルがいた。牛乳ぐびぐび飲んでいた。パジャマ姿もなかなかいける。

「牛乳……」

「あ、もうないよ。ところで、ねえ、変態さんなの、しゅんちゃん? なんで裸なの? お姉ちゃんと私を手篭めにするつもりなの?」

空っぽになった牛乳パックの首根っこ捕まえて僕に振って見せた。なんでそんなに牛乳飲むんだろうか。僕には彼女が分からなかった。それは大抵の時がそうであったのだけれども、よくわからない行為を彼女がしている時は、さらに僕は彼女との隔たりをいっそうに強く意識した。

「手篭めとか言うなよ。」

「ねえ、お風呂のお湯飲んでみた?」

「なんでそんなことしなくちゃいけないんだ。お腹壊す。」

「私の煮汁が溶け込んだお湯だよ?飲まないではいられないと思うんだ。」

小さい胸を大きく張ってそんなこと言った。

「へいへい」

「明日、七時ね」

とだけ言い残して、僕のお腹を人差し指で小突いてから、彼女は二階にある自分の部屋にテッテッテと走って帰っていった。後には僕と空っぽの牛乳パックだけが残された。お前も大変だなあと、牛乳パックに語りかけ、そうして誰かに見られちゃいなかったかと、周りを確認した。

 その夜は、布団に入っても寝られなかった。心地よい疲労が眠りへと僕を引っ張りはするのだけれど、眠りに落ちるということは無かった。布団で眠りにつきやすい体位を考えながら、そうして羊の数を常に数えて、何時間かが経った。僕は隣の部屋で物音がしたのを聞いた。ベッドの軋んだ音だったと思う。隣はミハルの部屋だった。昼寝したから眠れなくなっているようだった。ガラス戸の開く音が聞こえた。

 彼女の部屋と僕の部屋とはベランダで行き来が出来るようになっていた。僕はうとうとしながら、彼女の姿をベランダにみとめた。僕はのっそりと立ち上がって、戸を開けた。彼女が少し驚いたような顔をして、こちらを見た。

「何してんだよ、こんな時間にミハルちゃんてば。」

ミハルはベランダで体育座りして、子供っぽい寝巻き着ていた。先刻と同じ服なのだけれども、こうして小さくなって体育座りなんかしていると、なんだか余計に子供っぽく見えた。

「ちょっと、夜風にあたりたくなって。」

なんて彼女は言った。僕はそうと言って彼女の隣に腰を下ろした。

 ミハルが僕の方に頭を預けてきた。僕はどうしてよいのやら良く分からなかったけれど、とにかく彼女の右手を握った。

 ベランダからは、暗い海が見えた。少し遠くの殺虫灯でジジと羽虫の焼ける音が絶えずしていた。シャンプーの匂いがした。妙な取り合わせだった。彼女のこんなに近くにいるのは久しぶりだった。黒い髪が濡れているようにつやつやしていた。

「あの赤い星なに?」

「アークトゥルス。」

「何それ?」

「それが、僕もよくわからないんだ。」

「ふーん。」

「私こんなに綺麗な星空見たのは、小さい頃にキャンプ行って以来だなあ。」

「うん。」

「達磨山って言うの。静岡県。」

「うん。知ってる。」

「沢蟹取りしたんだ。川の水が、冷たくって仕方なかった。でもね、しゅんちゃんがね、取ってくれたんだよ。覚えてる?」

「そうだっけか?」

「うん、そうだよ。また一緒に行きたいなあ。」

潮風が吹き付けていた。十分くらいの間彼女と僕は何も言わずに外の景色を眺めていた。

「なんだか眠くなってきた。また明日ね。」

彼女はそういうと、すっくと立ち上がって部屋に帰っていった。




 鬱陶しいアラームの音がした。七時ぴったり。クソ、なんてことだ忌々しい。時間通りって言葉は嫌いだった。ベッドの隅に手をやった。見てみると、新着メールを示す緑色のランプが明滅していた。僕はそれに目を通した。新型インフルエンザで学校が今日から休みになるということが書いてあった。学校から送られてきたものだ。ハイテクになったものだと思う。

 下の階では朝食の準備がされているらしく、何やらいい匂いがした。胃液がでてくるのを感じた。僕は朝食はあまり量を食べない人間なんだけれど、不思議と腹が減って仕方なかった。僕は布団を畳み、洋服に着替えて、部屋を出た。

 隣の部屋はミハルの部屋。彼女はどうやら寝ているようだった。だって、階下では喋り声が聞こえないんだ。あの二人が無言でいるとは考えにくかった。ということは、明日は七時に起きようなどと言っておきながら、まだ部屋で惰眠を貪っているってわけだ。まったくいい神経していやがる。僕は眠さと空腹のなかミハルの寝室へたどり着く。

「起きろー。」

ノックしながら言ってみる。やる気のなさげな声がしただけで起きる気配はない。仕方ないのでドアを開けた。今更プライバシーだ何だ、と気にする仲でもなかった。別に構わないだろう、と。さすがに抵抗はあるさ。だから今こうして言い訳をしてるんじゃないか。

 ドアを開けると、そこには虫になったグレゴール・ザムザがいた……わけはない、そこには下着だけ身に着けて薄いタオルケット一枚に上半身を包んで丸まっているミハルがいた。勿論人間だった。でも、純粋な心の持ち主である僕には、虫なんかよりよほど衝撃的だった。

 彼女の頭の側の壁には窓があって、カーテンの隙間から洩れる光が彼女の頬をくすぐっていたけれども起きる気配はまったくなかった。枕元にはしおりの挟まった『光と風と夢』が置いてあった。

「朝ですよー」

耳元で言ってやったらやっと目を開いた。

「……お、」

何か言っているらしい。酸欠の金魚の物まねをする売れない芸人のようなことをしている。耳を近づけて聞くことには、

「お嫁にいけなくなっちゃう」

と。彼女はが重大な勘違いをしているらしいことはよく分かった。確かに、ベッドの下に脱ぎ散らかされた寝巻きやら、やたら涼しそうな自分の着装から考えて、寝込みを襲われたと思うのは、わからないでもない。でも、それは僕の人格を無視しすぎているってことにも目を向けて欲しいと、被疑者として、僕は考えた。とにかく、そんなことだから僕も彼女の言うことを無視して起こし続けてやったんだ。

「朝ですよー。」

「お嫁…貞操…」

「朝ですよー。」

「うぅぅ、貞操…。」

 そんな双方向性に欠ける会話をすること数分の後にようやっと現状を理解し始めたミハルは、あー、だとか、うー、だとか言いながらノソノソと布団を再び掛け始めたかと思うと、

「着替えるから、出てって。」

目を合わせないままキツイ声でそう言うので、僕は部屋を出ることにした。なんだか機嫌が悪いみたいだった。そういえば、寝起きは機嫌がいつも悪かった。

 パタンと戸が閉まると中から足音がして、そして、衣擦れの音がして、彼女が着替え始めたのが分かった。スカートを穿く音がした、そう、多分スカートだった。白く温かい脚はスルっと布に入っていったに違いない。昨日、僕の砂の城を蹴った脚だ。十五時間くらいしか経っていないはずなのに、僕の中ではいいヤゴ(1185)捕ろう鎌倉幕府と同じカテゴリに入っているから不思議なことだ。息を吐く音がする。その息を吐いた唇は昨日僕にヘタレと言った唇なんだなと僕はぼんやりと考えた。

 そうこうしていると―そうは言っても僕は先生に怒られた小学生みたいに廊下にぽつねんと立ってただけなんだけどさ―静かに扉が開いてミハルが中から出てきた。

「朝ごはん食べたらヤマダさんのとこ行くんだ。」

 そういうとそのまま僕の横を通り抜けて、階段をテッテッテと軽快に下りてった。階段が軋んで音を立てた。

 朝食はエッグマフィンと麦茶だった。一晩でなぜか牛乳がなくなっているんだけれど、飲んだの誰とミドリさんが聞いた。ミハルは顔を赤らめた。そうして、僕のせいにした。一階のダイニングルームにはエアコンが効いていなかったけれど、庭に面した大きな窓が開け放されていて、そこから風が入ってくるからか意外と涼しかった。ちりんと風鈴がなって、僕は少し昨日の昼食を思い出した。窓から見える朝の海は、やたらと美しかった。

 テレビが点いていた。ニュース番組をやってた。大して興味なんかないだろうに、馬鹿みたいに真面目な顔して低脳な司会者が番組を進行させていた。チンパンジーがデリダを読んでるみたいに見えた。

 その番組のなかでは、本州で猛威を振るう新型インフルエンザに関する特集をやっていた。今更の説明だけれども僕も今日から自宅学習の期間であり「自主的にやってみました、学習合宿」の名目でここに来ているってわけだった。

「早くしよーよ」

ミハルが脚をぶんぶん振って言う。気がつくと、もう二人は食事を終えていたから、僕は、急いで残りのご飯を口の中に押し込んで、皿を流しに持っていった。

 ミドリさんの家を出たのは九時をちょっとばかし過ぎたころだった。外は暑かったけれど、僕は暑いということが分かるだけで特に気にはならなかった。今日も、威勢のいい入道雲が南の方にいた。ミハルは十五の夏らしく、昨日一日で少し焼けた無垢の膚を、無邪気に薄紅色を咲かせていた。




 ヤマダさんなる人物は、エチルアルコールを分解することに、その人生を費やすタイプの人間だった。こんなこと、前にも思ったような……・ヤマダさんは、昨日港にいたオジサンだった。浅黒い皮膚だとか、筋骨隆々とした体つき、人懐っこそうな赤ら顔は、本来であれば、生き生きとしたものとして捉えられるべきだのに、何故かその底に冷めた悲しみがあった。それが、彼を日向で幸せに生きる者たちと区別していた。ヴィヴィッドな南国の色調は、彼の周りだけ、無彩色だった。

 彼の家は港の近くにあった。ミドリさんの家の車庫には埃をかむった二台の自転車があり、僕らはそれに乗って来た。道はミハルが知っていた。舗装されてない砂利道だった。所々に黄緑色の雑草が伸びていた。僕らが家に着くなり一声、ヤマダさんは、僕の自転車見て、それ俺の自転車だよと苦笑した。僕は目をぱちくりさせて、まさか此奴がヤマダであったとは、と考えていた。ミハルは僕のことになんかまるで気づいちゃいなかった。ミハルは彼を見て、自分のTシャツの裾を握った。ミハルはヘニャっと笑って、ヤマダさんに久しぶりねと挨拶した。

 

 昨日の夜の話だ。牛乳が無くなったため、僕は水飲んで我慢した。そうして、二階に上がって、本棚にある本でも読もうと思っていた時のことだ。ミドリさんが、廊下にいた。ちょっと私の部屋来なさいと言う。僕は少なからず緊張した。部屋には皺一つない白いシーツの掛かった布団が整然と敷いてあった。幾つかの文庫本が枕元に置いてあった。クーラーが効いていた。いい匂いがした。けれどミハルの匂いとは違った。

「この布団に何か他意は」

「夜になれば私だって寝るのよ。」

「はあ」

「あなた本当にヘタレなのね」

そう言い放った。僕は別に否定する気にはならなかった。

「まあ、そうです。」

彼女は少しため息ついて、

「駄目よそんなんじゃ」

と言った。二回目だと僕は思った。海に行っても何もしなかったでしょうと、ミドリさんは僕に言った。ビーチバレーしましたと僕が言うと、ヘタレねとまた言う。なんでそんななのかなあと彼女は不思議そうに言った。僕はゆっくりと、つっかえながら、自分の性格についてなるべく客観的に説明した。

 ―僕がヘタレなのは、きっと、中途半端だからなんです。大抵の人は道徳とか規範とかいうものの上を自由意志によって歩かされるのですが、それが自分の意思でないことを普通は認めないんです。僕は、進んで強制を受けることが、自分の自尊心を守るための逃避だと気づきつつも、それに敢然と立ち向かうほど強くはないのです。諦めですね。そんな硝子の心を隠すために、必死になってヘタレの砂のお城を作って埋めたんです。お城の中は直接世界に触れませんから、とか何とか説明した。彼女は

「駄目よそんなんじゃ、ろくなことにならないわ。私、知っているのよ。」

と言った。僕はなんて返してよいのやら分からなかった。そうして、多分何か(気の利いたことではなかったはずだ)言ってミドリさんの部屋を後にした。


 僕とミハルとヤマダさんとは、その後彼の家のウッドデッキにある椅子に腰掛けながら、いくらかのアルコールを織り交ぜつつ、話をした。南極の氷河の底から取り出してきたみたいに冷えた透明な氷を入れたメーカーズマークとラフロイグを呑まされた。喉が焼けた。熱いというか、痛いというか。やたらと暑い日だった。朝の心地よい涼しさは、いつのまにか、消え去っていた。

「そうそう、昨日話そうと思ったらさ、ミドリちゃん来ちゃったからさ、ねえ。」

「何かあるんですか、その、ミドリさんと会いたくない理由っていうのが。」

「いや、ほらさあ、まあ、色々あるんだよ。」

「大人の事情ですね。」

「そうそう、そういうこと。」

「まともに話してあげなさいってば。遠路遥々船に揺られて一昼夜だったんだから。」

ミハルはそんな事言う。なんかいい奴みたいだった。

「で、どんな関係なんですか?」

「だから、大人の事情が、ねえ。」

 しばらくして、話題が本のことになった。趣味は何って聞かれたときに、僕が読書だって答えたからだった。でも、趣味なんて実際ないようなもので、ただ、趣味はありませんと馬鹿正直にその通りに答えるとつまらない人間のようであるから、僕は趣味を聞かれるときまって読書と答えるようにしていた。無難だから、一番。

「へえ、そう、サリンジャー好きなの、若いねえ。」

「枕元に置いといて、時々読むくらいですけれどね。一度読んだ本を再び通して読むことを、僕はあまりしないんです。二回目以降は、気に入ったページを読むだけなんです。」

「僕が十八の時は、そうだなあ、何読んでたっけか?」

「『襞』とか『斜めから見る』みたいなやつですか?」

「まさかね。官能小説買おうとして、でも店員さんが好みの女の人だったんだ。アルバイトの女子大生だったんだけれどもね。俺と同い年だったんだ。その人に会いたくて、頻繁に本屋に通ってたんだよ。でも、その人に変なやつだと思われたくなくて、彼女がいると哲学書コーナーをウロウロしてインテリぶるんだ。大学入って一年目のころだから、ちょうど君くらいのころ。なんだかんだで同棲してた時期もあったもの。一緒にこの島旅行してさ、僕がここに住むようになったの理由の一部は彼女にあるんだ。だけれども、最後には全部駄目になっちゃったんだよね。」

「はあ」

「なあ、シュン君、失うと分かっているものを得たいと思うか?」

「さあ、どうでしょう。でも、なんだってそうですよね」

「マトモな話、しない?」

呆れ顔でミハルが言う。

「マトモの基準って人によってマチマチだしなあ」

と僕は言った。

「まいっちんぐ。」

ヤマダさんが言った。

「古いよお」

「で、何でしたっけ?」

「俺がいいたいのはさ。結局あらゆるものは失うために得ていると思わないかってことさ。誰だって何かが欲しいだろう? そりゃ欲の無い人間なんていないわなあ。でも、それと同じくらいに誰だって失うことを分かっているじゃないか。だから何かを得ようとすることは、それを将来的に失う悲哀を求めているんじゃないだろうか? なあ、そんなに誰もかれもがマゾヒストなんだろうか。」

すこしこじつけがましい気がしないでもない。でも、反論するのも面倒だった。太陽が少しずつ、僕を気だるくさせた。ミハルは頬杖ついて、こっち見てた。僕の答えを気にしているようでもあった。

「そうかも、しれません。」

「本当に? 本当にそうだろうか?」

一体何が言いたいんだか僕にはもうよく分からなくなってきた。彼は何かの外周を掘っていた。けれど傍目には、何を掘っているのやら見当もつかなかった。まいっちんぐ、だった。

「失うと分かるのは、俺というより、俺の底の部分じゃないだろうか? 俺自身は楽観的に観測するために、今度こそは失わないと、そう思ってるんだよ。」

「僕の底は僕ですよ。」

「そりゃそうだけどさ。でも、そういうのって、わかんないかなあ?」

「大人の事情について話す気になってたんじゃなかったんですか? 話の振り方からして。」

「いや、何。そんなに楽しい話でもないし、かといって君の期待するような話じゃないよ。」

 どのくらい外にいたか分からないけれど、そのうち馬鹿みたいに暑くなってきたから、ミハルのあっちいという一言で三人とも家の中に引き返した。その後は今ひとつ記憶が判然としない。ひどく酔っていたに違いなかった。




 ヤマダさんの家を出たのは、暮れ方と呼ぶには少し早いけれども昼と呼ぶにはいくらか陽の傾きすぎた、そんな頃合だった。空はまだ水色していたけれども、陽の光は橙色だった。遠くの雲が、灰色と白色と黄金色とに分かれていた。じっと見ていたら目にしみた。

 僕とミハルは、砂浜にいた。昨日の砂浜、だと思う。確信は持てないけれど。まだ、意識が少し朦朧としていた。頭がガンガンした。彼女は僕の手を取って、波打ち際までテクテク歩いた。僕はそれについていこうとした。けれども、足が縺れてその場にトテッと崩れた。少し離れた所にペタンとミハルが腰を下ろした。

 砂糖衣を吹きかけた甘ったるい山吹色の風が柔らかく吹いていた。

 彼女は空の溶けた波打ち際に座ってた。大理石みたく青っ白い脚してた。細雪みたいな砂粒だった。融けて無くなることを期待しているようだった。真ん丸い眼球の切っ先が、掌の砂粒を必死で穿った。

 夕焼けが好きだと、そう彼女は言っていた。朝焼けじゃ駄目だって。いつのことだったかは覚えていなかった。僕にはなんとなく分かった。夕日の光っていうのは、腐乱した生気の果汁たっぷりと吸って滔滔と流れる空っぽな何かだった。

 街路を歩く人みたく薄っぺらい波が、絶えず彼女の足を洗ってた。真っ白い木綿豆腐の砂浜だったから、彼女のところには行けないようだった。僕は仕方なく近くの砂で城を作った。蹴って崩してくれたらいいけれど、誰も蹴っちゃくれなかった。

 ミハルが突然話し出した。

「あの人ってあんな人だったっけ?」

「僕は知らないよ、会ったの昨日が初めてだもの。」

「しぼんだ気がする。もっと楽しそうな人だったよ。」

「ミハルが大きくなったんだよ。楽しい時間は続くもんじゃないし、その場で楽しいんじゃなくて、思い返して楽しいんだよ。」

 甘い赤橙色の風がゆるゆる流れてきた。鼻から入って頭をうった。僕は頭をふって、追い払った。彼女は僕の少し前のところに海の方向いて座ってた。だから彼女の顔が、僕には見えなかった。それ以上何も彼女は言わなかったし、僕は何といってよいのやら、てんで分からず、喉まで出かかった文字の一つ一つが、音も立てずに漆黒の底のその裏に音も飲み込まれていった。

 大きな空がゆっくりと傾いていった。何か間違っているような気がした。何かが傾くとき、僕はいつもこういう気持ちになった。いつのまにか、日は沈んでいた。上に金星。僕を笑った。頭が痛かった。

 前を見ると、彼女が近くを歩いてた。波と平行に歩いてた。さっきより、波打ち際が近くなっていた。雲が黄金色してた。日はでてないのに雲は眩しかった。金砂子をあたり一面に散らしていた。彼女の膝の辺りと黄金色の輝きが濃紺の海に交じり合ってた。彼女の眼が好きだった。清澄で静謐な空気を吸った早朝の残月の匂いがするから。彼女の眼を見た。僕を見つけた。熔解した僕は彼女の眼で結像した。ぐっしょりと濡れた衣服がやたらと重かった。いい匂いがした。





 気がつくと、僕は砂浜に座ってた。星がやたらときれいだった。彼女は僕のとなりで寝てた。僕の肩の辺りに頭を乗せてた。胸の辺りが彼女の涎でべとべとになっていた。けれども別段僕は悪い気がしなかった。

 何処から夢だったのやらよく分からない。群青色した冷たい風が頭の芯に響いて心地よかった。僕はミハルを起こさなかった。涎以外にも何か液体がついていた。覗き込むと目の辺りが光ってた。大方、美化された淡い初恋の思い出が現実と食い違っていて失念したのか。

 起こさないでいてやろう、と僕は思う。そっと頭を撫でてやった。頭の重さが生々しかった。起きる気配はなかった。シャンプーと汗の混じった匂いがした。僕は胸いっぱい吸い込んだ。やっぱりこれだな、と思った。僕を下の方で二分していた何かにゆっくりと皹の入るのを感じた。

 僕と彼女との間は自然と、邪魔立てする何物もがそこに存在しないとしても、開いていくのだということを感じずにはいられなかった。ここ最近二人で話すことなんてあまりなくなっていた。幼馴染ポジションは、今でこそ居心地のそう悪くないところであるけれど、そのうちそうでもなくなるに違いなかった。そういう、ヤマダさんと話してから今まで僕の底の方にあって形の捉えられなかった漠然とした不安が、今になって輪郭を現し始めた。いや、多分、もっと前から、より抽象的な形で僕の中にそれがあったのかもしれない。とにかく、彼女は、この先僕から離れていくんだろう。そうして、それは、彼女や僕の意思とはあまり関係のないことのように思えた。多分、昨夜僕にミドリさんが言いたかったのはそういうことだった。

 そういうどうしようもないことが、どうしようもないくらいに意識された。所詮は幼馴染だから、の一言が堪らなく痛かった。僕には彼女のいなくなった後にも繰り返される果てしない時間があって、それをどうやって、何を目標に、その先を生きればいいのかなんてことは、皆目見当もつかなかったし、そもそも直視することが出来なかった。

 だから、今のうちは、この頭の重さだとか唾液の涼しさや涙の透明度、そういったものを―僕にとってそれが何を意味するのかを文字に落とすことはできないけれども―感じておこうと思った。それは、間違っちゃいないはずだと、そう感じたから。

 上見ると、海の湿気を吸って大きくなった月があった。骨みたく白っぽい光をやんわり落とした。無表情に空虚な充足を照らした。




エピローグ


 彼女から三年ぶりに手紙が届いたのは、木枯らしが吹き始めた晩秋の十一月だった。

 僕は悩んだ挙句、地元の大学の大学を諦めて、とある地方国公立を受験して、なんとか浪人せずに済んだ。それからしばらくは、ミハルともメールでのやり取りをしていた。しかし、メールほど味気無いものは無かった。カサカサとした紙よりも、さらに一段と人間の感情のこもっているようには見えない携帯の文字に、僕は上手く心情をのせることが出来なかったし、それは彼女にしても同じだったのだと思う。次第に頻度は、毎日数通から一日一通、数日に一通と減っていった。そういうことに哀しみを覚えたのも、半年かそこらだった。どちらからとも無くメールのやり取りは終わった。

 僕は特定の女性と関係をもつことはしなかった。僕にとってあらゆる美しい女性はミハルと比較の対象になってしまうだけで、それは僕の心の癒しがたい渇きを潤すものではなく、ただその渇きを痛切に意識させるためだけのものだったからだ。

 夜の十二時を廻ったくらいに、僕は家に帰ることを常としていた。それは何も僕が夜な夜な不健康な遊びに興じていたからではなく(田舎であったから、夜の十二時ともなると、人はほとんどいなかったし、そんなところで採算もろくに見込めないのに営業している店はなかった。)街頭も殆ど点いてないような暗い夜道を深夜に散歩することが好きだったからだ。ひっそりと死んだような町並みだけが、多少なりとも僕の心を慰めた。何度か道に迷って、朝まで帰れなかったこともあった。だからといって、僕は別段そのことをやめようという気にはならなかったし、もしかするとそもそも僕が求めているのはそうやって迷って家に帰って来れなくなることかもしれなかった。

 そんな生活を送っていたある日、僕が夜中にポスト開けると、手紙が一通入っていた。僕はその場できれいに封を開けて、仲の便箋を取り出した。そこには、懐かしい文字でミハルの近況が書いてあった。その手紙は「お久しぶりです。」という文句から始まって、大学生活の一年目で好意をよせていた男性と懇意になることができた旨が書き連ねてあった。そうして、なぜこんなことを今更書いたのかと最後のところには「私あなたのことが、本当にすきだったの。だから、あなたにだけは絶対に伝えておきたかったの。」と書いてあった。文体はいつのまにか大人びたものになっていたし、二人称は「あなた」だった。唯一文字だけは昔と変わりなかった。それが却って僕にとっては、やり場の無い感情を生んだ。

 僕は手紙をポケットにくしゃくしゃと入れて、もう一度散歩に行くことにした。妙に今日は冷えるなあと思った。






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