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君に捧げる愛の詩

作者: 古瀬ヒイロ

 一条美早さん。彼女はいつも明るい。元が根暗な俺からすると、びっくりするほど明るい。

 いつもくるくるとよく働いて、笑顔が絶えない。美醜で言えば、一般的には美人の部類には入らないのだろうけれど、俺はその働き者の顔が、結構好きだ。

 そして、何より美早さんは、料理がうまい。

「今日のご飯はー、じゃん! 炒り鶏です! いっぱい食べてくださいね」

「いりどり、って何。彩りの間違い?」

 箸をねぶっていると、ぱちんとその手を叩かれた。

「お行儀悪いですよ」

 めっ、と子供にするように叱責されて、仕方なく箸を下ろした。俺は小さな頃からこういう行儀作法というものを教わったことがなかったので、しょっちゅう美早さんに指摘されている。

 美早さんは指差して、今日の献立をひとつひとつ丁寧に教えてくれた。

「炒り鳥って、要するに筑前煮のことですよ。蒟蒻でしょ、牛蒡でしょ、蓮根に椎茸。お腹にいいものばかりだから、ちゃんと食べましょうね」

「美早さんって、お婆ちゃんみたいな料理作るよね」

「それは褒め言葉ですよ」

 くしゃっと笑うと、目尻に皺が寄った。

「お婆ちゃんって、栄養とか、たくさん考えた料理ばかり出すでしょう。お野菜たくさんで、温かくて優しいお料理。だから嬉しいです。わたし、イチくんのためになってるかな」

 少し目線を伏せると、ぱちりと手を合わせた。手を重ね合わせて。きちんと頭を下げて。

「いただきます」

「どーぞ」

 頭の中でいろどりに似た響きが、甘やかに転がった。




 余命、というのは、本当の本当に手の尽くしようがないときに、そう言うらしい。少なくとも美早さんは、ひどい悪性腫瘍があったにも関わらず、あと数ヶ月の命です、なんて宣告されたことはない。

 彼女が癌であると分かったとき、俺は呆然としていた。立ち竦んで、話なんてろくすっぽ聞いちゃいなかった。そんな中、美早さんはただ、真剣な表情で医者の話に頷いていた。

 美早さんのお腹には、癌があった。言われてみれば最近食欲がない、つかえたように胸やけがすると言っていた。

 気が付いた時には癌は『手遅れ一歩手前』だった。……何だよそれって思ったけれど、手遅れっていうのは、手術も何も出来ない状態を指すんだそうで、美早さんは、そういう意味ではまだ恵まれていましたね、と笑った。

 そんな美早さんの五年生存率は、十パーセントを下回っている。

「ほら、イチくん。はやく準備しないと、同伴に間に合いませんよ」

「まだ余裕あるって」

「ダメです。遅刻が一番、よくないことなんですから」

 知ったふうに。そう言うと、きっと彼女は傷つくだろう。構わない。知って欲しくなんかない。ホストの仕事がどんなものかなんて。

 美早さんは、一度も俺のことを聞いたことがなかった。

 箸の持ち方さえ怪しい、そんな俺がどんな育ち方をしたのかとか、何でホストをやっているのかとか。

 彼女は客じゃない。友達でも、恋人でもない。同居人、が近いんだと思う。ホストに女の同居人がいるなんて、バレたら相当まずいんだけど。

「ほら。今日も頑張って、いってらっしゃい」

 背中を押して、送り出す美早さん。

 俺を拾った人。


 数年前の雪の日、俺は行き倒れたみたいに路上に寝転がっていた。酔っ払っていて、腹も痛いし金もないし、もうどうなってもいいやって気分になっていた。怪我をして真っ赤になるまで酩酊している、ホームレスより厄介そうな見た目の俺に、近寄る人間はいなかった。美早さん以外は。

 あの時、真っ赤な傘が差し出されたのだけ、覚えている。

 灰色になってく世界で、あの傘だけが、ひどく真っ赤だった。

 それから俺は完全にヒモになっていた。金もない、仕事もない、働こうにも痣が目立って雇ってもらえそうもない。そんな俺に、美早さんはあったかい家と、手のかけられた料理と、清潔な服をくれた。

 すんと匂いを嗅ぐと、花のような匂いがする。そんな毎日になった。

 それだけだ。

 彼女は何も俺に要求もしなかったし、聞こうともしなかった。

 痣が引いて、手っ取り早く金を稼ぐためにホストになったと報告したときも、笑って、そうですか、と言っただけだった。


 しばらくして、美早さんの病気が分かった。

 一緒に病院に行ったのは、きっと心細かったから、だと思う。

 こうして一緒に暮らしているのも、そうなんだろうと思う。

 働けなくなって、保険や貯金を食い潰して生きている美早さん。

 まだまだ半人前のホストの俺。

 一人になるのが、互いに怖いんだと思う。

 自転車を漕ぎながら、そんなことを考える。

 それでも、普通の社会人の女性は、それも美早さんのような真面目そうな女性は、こんな銀髪の、ピアス穴が軟骨にまであるような男を家に入れたりしないんじゃないだろうか。

 自転車を指定の駐輪場に置くと、俺は待ち合わせ場所まで歩き出した。

 見上げると、冬空が薄暗い。

「イチ!」

 声がかかる。営業用の笑顔で振り返った。

 ――仕事の合図だ。




「……っはー……」

 疲れきって玄関のドアを開けると、腰を曲げて床に重たい革靴を転がす。

 ふらつくのは少し酔っているからだ。今日の客は無茶な飲ませ方をさせるのが好きな、飲みの汚い客だった。そういう客の躱し方も覚え、酒にも強くなった今でも、やはり酔いは回る。それも、こういう酔い方は気持ちのいいものではない。乱暴な気持ちがこみ上げてくるような飲み方だ。

 帰宅した音に気がついたのか、ぱたぱたとスリッパの音が聞こえた。

 美早さんが駆け寄ってくる。

「イチくん、だいじょうぶですか」

 支えようとする手が体にぺたぺた触れる。

「んー……」

「ひとりで、あるけます?」

 手を振って、平気だと示す。俺の散らかした靴を整えて、美早さんは俺の寝室までついてきた。

 心配そうな目つきが、背中にはりついている。

 それにも振り返らずぼすん、とベッドに体を預けると、美早さんは背中をさすってくれた。ひんやりしたその手が、妙に心地いい。

「……いいの、みはやさん」

「え?」

「俺酔ってるから、おそっちゃうかも」

 半分本気だった。いや、そうなりたいと、俺はずっとそう思ってたのかもしれない。

 そう言ったら、美早さんは、にっこりと笑った。

「いいですよ」

 あっけにとられた俺の顔を見て、変わらずに笑っている。思わず苦笑した。

 ――この人には、かなわない。




 その日の朝食は、味噌汁だった。しじみが入っている味噌汁は、疲れた胃に優しく染み渡った。

 それから、ぽつぽつとたわいもない話をして、また仕事のためにマンションを出る。

 マンションの駐輪場から自転車を取り出して、跨った時、何故か急に、俺は空を見上げた。

 マンションの一室から、手を振っている美早さんの姿があった。

 ――いってらっしゃい。

 唇を読み取って、俺は、

「美早さん」

 呼びかける声は、届いたようだ。三階のベランダから美早さんは首を傾げて、こちらを見ている。

「あのさあ……」

 聞きたいことはいろいろあった。

 何で俺を拾ったのかとか、何で何も聞かないのかとか、何で泣かないのかとか、昨日のことは何だったのかとか。

 でも、出てきた答えは一つだった。

「結婚してくれる?」

 今度呆然としたのは、美早さんのほうだった。

 しばらくもったいぶるように間があって、やっと美早さんは、頬に銀色の涙を伝わせて笑った。

「いいですよ」

 その答えで、俺は笑って手を振った。

「行ってきます」

「いってらっしゃい、イチくん」


 それから、結婚する時はじめて、美早さんは俺のダサい本名を知ることになったのだけれど、その時も彼女はやっぱり笑っていた。

 いろどり、みたいな名前ですね、と言って。

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