短夜
多少の残酷描写を含みます。口調も少し堅め。
物悲しい話を目指しました。
獣の咆哮が遠くに聞こえた。
産湯にも浸からぬ私が身に纏う、鉄の匂いに気付いたのだろう。徐々に私と、私を抱いてめちゃくちゃに走る男の元へ近付いてくる。
決して獣が恐ろしい訳ではないのだが、私はもうただただ苦しくて、辛くて、ひたすら泣き続けた。
あの温かく柔らかな場所から、狭苦しい道を無理矢理に押し出されて今に至る。臍から伸びる唯一の繋がりは無情にも切り離された。私が望む望まぬを一切無視して、「これからは一個体として生きろ」と強いる。
此処は寒いのだ。苦しいのだ。辛くて泣かずにはいられぬ。私は彼処にいたかった。悲しみに苛まれ、男の両手に抱かれながら、私は声を張り上げ続けた。
最初の内こそ、男は私の口を押さえるだのして、泣き止ませようとしたものだ。然しこればかりは如何様にもならぬ。たとい父なる男の掌とて、私の慟哭を止められようものか。
男も早々に諦め、今では私を抱いたまま走る事に集中している。
両の眼が未だ開かぬので、此処が何処かも知れぬ。ただ薄い瞼に透ける向こう側が、真っ暗であるところから察するに、「夜」というものなのではなかろうか。
己の泣き声に混じり、男の乱れた吐息と葉擦れの音が耳に入る。森か、林か、山の中なのかもわからぬが、次第に木々のざわめきは遠退いていった。
男の足が止まる。深く吸って吐いた呼気が、かさかさに渇いた血で塗れる私の肌に触れた。息の乱れを整えながら、男は先程とは打って変わってゆったりとした歩調で進む。
どどど、どうどう……
遥か下方から唸り声が聞こえた。空気が一層冷え、湿り気を帯びる。
「許せよ、父を許せ」
父なる男は初めて私に声をかけた。男の両手同様、小刻みに震えた声だ。私は相変わらず苦しさに喚いているが、男は元より私に返答など期待してはおらぬようで、好き勝手に喋り続けた。
「父は苦しいのだ。辛いのだ。訳もなく胸が詰まり、溢れる涙を止める事も出来ず、身体から水気を失って果てようほどに。だが然し、幾ら泣けどもこの命が儚くなる事は叶わぬ。神は死を望む者を生かし、生きたいと願う者を殺すのよ。世には信ずるに足るものなど何一つとして存在せぬ」
あああぁ、あああぁ。
下からの怒涛と、男の口から漏れる喘ぎが交じり合い、大層耳に障る。不愉快極まりない。
「子よ、子よ、お前もそうなのであろう。頼んだ訳でもなしに、こんな世に生まれ出でたのが苦しくて、辛くて泣くのであろう」
私達から遠からぬ場所で、夜露に濡れた小枝を踏む気配がした。生臭い獣の匂いがする。それでも男は、憑かれたように紡ぐ言葉を絶やさない。
「父にはお前の悲しみがよくわかる。故にお前をこんな世に生きさせるのが、不憫で哀れでならぬのだ。父と同じ苦痛を負わせたくないのだ。だから許せ。これが、父が子であるお前にしてやれる、唯一にして最大の愛なのだから」
身体がふわりと浮いた。そう感じたのは刹那の事、すぐに頭が下になる。落ちているらしい。未だ乾ききらぬ臍の緒が、空気の抵抗を受けて私の短い足をびちびちと叩いた。
男の腕の、胸板の温もりが急に恋しい。けれども慕わしく腕を伸ばしたところで、もうその温かさには二度と触れられぬ事を、私は漠然と理解していた。
最後に父なる男の顔を見てやろうと、初めて両の瞼を開いた。最初に飛び込んできたのは青白く丸い光だ。それを背負って、男が一人立っていた。
逆光で視認出来ぬその顔を、何とかして瞳に映そうと試みる。だが丁度その時、男の背後から黒い塊が突如として覆い被さった。
甲高い悲鳴と、飢えた獣が獲物の喉笛に牙をうずめる、生生しい捕食音が響く。力無く持ち上がった片腕が丸い光の中に浮かび、獣が肉を食い千切る度にびくびくと揺れた。
どうやら私は、親の顔も知らぬままに逝かねばならぬらしい。もう開いておく必要のなくなった瞼を再度閉じ合わせ、私は行き着く場所まで落ちるに身を任せた。
未練の一つすらない生ならば、誕生した事に何の意味があったというのか。或いは、男に殺されてやる事だけが、私の生に与えられた意味だったのかも知れぬ。そしてそれは今、果たされんとしている。
私は男を責める気にはなれなかったし、これで私の命が終わるというのなら、もう絶望に泣く必要もない。
十月十日の期間を経て、なんと無駄な一時を過ごした事か。せめてまたあの温かな場所に戻れますように、それだけを祈ろう。
愛という名の究極のエゴ。そしてやはり子殺しは裁かれねばならないのです。