消えた鑑定持ち——10年前の足跡
45層の壁面に、十年前の足跡が残っていた。
進化した鑑定の四次元解析が——過去の痕跡を浮かび上がらせる。薄い残像のように壁面に重なる、人間の手の跡。指先の圧力分布。体温の残滓。十年という時間が風化させたはずの情報を、鑑定は時間軸から掘り起こしていた。
「ここに——誰かが触れた。十年前に」
俺は壁面に手を伸ばした。指先が岩肌に触れると、鑑定ウィンドウが展開する。こめかみに痛みが走る。三秒。耐える。
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│ <過去痕跡解析> │
│ │
│ 検出時期:約10年前(誤差±3ヶ月) │
│ 対象:成人男性(身長178cm前後) │
│ 接触時の状態: │
│ ├ 体力残量:推定32% │
│ ├ 精神状態:高度緊張下の冷静 │
│ └ スキル使用痕:鑑定系(型式不明) │
│ │
│ 付随データ(壁面記録): │
│ 「被験者候補Alpha │
│ ——記録:不完全な対話の後、 │
│ 自主的に深層移動」 │
│ │
│ 記録者権限:設計者 │
└──────────────────────────────────┘
被験者候補Alpha。
身長178cm。鑑定系スキル。十年前。
三島が横で、息を止めていた。
「先輩……それ、親父ですか」
「断定はできない。だが——身長と時期が一致する。そして鑑定系スキルの使用痕がある」
三島鋼一郎。先代の読み手。久我山の元相棒。十年前に40層以深に消えた探索者。その足跡が——45層の壁に刻まれていた。ダンジョン自身が記録した、被験者候補Alphaの行動ログ。
不完全な対話の後、自主的に深層移動。
自主的に。
その二文字が——重い。鋼一郎は追い詰められて消えたのではない。自分から、さらに深い層へ進んだ。何かを求めて——あるいは何かに応じて。
◇
「久我山さん。聞こえますか」
通信機を握った。40層付近で一度途切れた久我山との通信だが、凛がアイリスの中継プロトコルを調整し、断続的に接続が復活していた。ノイズが多い。声が歪む。だが——繋がっている。
数秒の沈黙。ノイズの向こうから、低い声が返ってきた。
「……聞こえてる。状況は」
「45層です。壁面に十年前の痕跡を見つけました。鋼一郎さんの——と思われるものです」
通信が途切れかけた。ブツッ、という断絶音の後、久我山の声が戻った。歪んでいる。だが——声の中に震えがあるのは、ノイズのせいだけではない。
「……どんな記録だ」
「ダンジョンが記録した行動ログです。被験者候補Alphaと分類されている。45層に到達し——不完全な対話の後、自主的に深層移動した、と」
長い沈黙。通信のノイズだけが耳に刺さる。
「自主的に——か」
久我山の声が掠れた。五十代の元B-rank探索者。装備店カーゴの店主。十年前に相棒を失った男が——十年越しに聞く、相棒の最後の記録。
「あの人は……自分から入っていったんだ」
久我山の声には——悔恨と、奇妙な納得が混在していた。恨むべきなのか、理解すべきなのか。感情の整理がつかないまま、言葉だけが零れ落ちている。
「鋼一郎は——俺と二人で40層に挑んだ。あの頃はまだ、40層以深の情報なんてほとんどなかった。ダンジョンが出現して三年目。手探りもいいところだ。39層のボスを倒して——40層に降りた。壁が脈打ってるのを見た。空気が重くなった。鋼一郎が——目を押さえて膝をついた」
久我山の回想。十年前の40層。
「鑑定データが爆発的に増えたんだ——今のお前と同じだろう。あいつの鑑定眼鏡が光って、目の周りが真っ赤になって。俺は引き返そうと言った。だがあいつは——壁に何か見えると言った。声が聞こえると」
深キ場所ニ来タレ。十年前にも——ダンジョンは読み手を呼んでいた。
「42層まで一緒に進んだ。だがそこで——あいつは俺を帰した。『ここから先は、読み手にしか歩けない道だ』と。俺は怒った。置いていくなと言った。でもあいつは笑って——背中を向けた。それが最後だ」
久我山の声が完全に震えていた。通信のノイズが混じって、泣いているのか、それとも歯を食いしばっているのか、判別できない。
三島が通信機の横で、唇を噛みしめていた。目が赤い。だが涙は流していない。父の最後の姿を——他人の口から聞く二十二歳の若者。拳が白くなるほど握りしめられている。ギプスの左腕が微かに震えていた。骨折した腕に無意識に力を入れているのだろう。痛いはずだ。だがその痛みは——心の痛みに比べれば、些細なものなのかもしれない。
蒼真が壁に寄りかかったまま、腕を組んでいた。何も言わない。だが二刀を鞘に収めたその姿勢は——戦闘態勢を解いている。今は戦う時ではなく、聞く時だと——この男は分かっている。
◇
その時——通信に別の声が割り込んだ。
ノイズの質が変わった。久我山の声を押しのけるように、低く明瞭な声が通信チャンネルに乗った。
「久我山くん。契約を思い出したまえ」
影山。
管理局局長の声が——ダンジョンの中にいる俺たちの通信に、直接介入してきた。
「45層の情報は機密事項だ。探索者への開示は管理局の認可が必要になる。個人的な感情で——規約を破らないでいただきたい」
久我山の声が途切れた。影山の言葉が——久我山を黙らせた。契約。管理局との契約。元B-rank探索者が装備店を開業する際の——何らかの取り決め。鋼一郎の件に関する守秘義務か。
「影山局長」俺は通信機を掴んだ。「あんたは——何を知っている」
沈黙。数秒。通信のノイズが不気味に静まる。ダンジョンの壁面の脈動すら、一瞬止まったように感じた。
「柊くん。君の鑑定スキルが進化したことは——こちらも把握している」
傍受されている。凛の暗号化をすり抜けて——いや、暗号化されたデータ本体ではなく、通信の発着信ログから状況を推測しているのか。影山はデータそのものを見なくても、データの流れから状況を読む人間だ。管理官僚の嗅覚。
「50層で会おう、柊くん」
影山は——それだけ言って、通信を切った。
◇
通信が元に戻った。久我山の声はもう聞こえない。影山の介入で回線が切断されたのか、それとも久我山が自ら沈黙したのか。
「凛」
「はい」
「朝霧からの警告——通信傍受の件、詳しく聞かせてくれ」
凛は少し躊躇した。配信中だ。二百万人の視聴者が聞いている。だが——もはや隠す段階は過ぎている。影山自身が通信に介入してきた以上、管理局の関与は公然の事実になった。
「朝霧さんから連絡がありました。管理局は探索者免許のIDチップを経由して、鑑定データをリアルタイムで傍受しています。私はアイリスの通信プロトコルを暗号化して対処しましたが——通信ログそのものは暗号化の対象外です。影山局長はデータの中身は見れなくても、通信パターンから行動を推測できます」
配信コメントが爆発した。
【管理局が傍受!?】
【マコト: IDチップによる鑑定データの傍受は探索者保護法第14条に抵触する可能性があります。法的に問題のある監視行為です】
【ドクター: これは……政府機関による違法な監視ですか】
【影山やべえやつじゃん】
【シロ: 通信暗号化は実施済みです。以後の鑑定データは管理局には渡りません。ただし——局長が通信に直接介入できるということは、物理的な回線にもアクセス手段がある可能性があります】
「50層で会おう——って言ってましたね」三島が呟いた。「あの人は……何をするつもりなんですか」
分からない。影山が50層で何を企んでいるのか。対話の間に何があるのか。鋼一郎はそこで何を見たのか。
分かっていることは一つだけ。
影山は——俺たちより先に、答えを知っている。十年前から管理局の最深部に座っている男は、ダンジョンの秘密の一端を——既に握っている。
だからこそ「泳がせろ」と言った。俺たちの進行を止めないのは——俺たちが50層に辿り着くことが、影山にとっても必要だからだ。
利用されている。営業マン時代、何度も経験した構図だ。クライアントが下請けを泳がせて、成果だけを吸い上げる。報告書を出させて、実績だけを横取りする。影山は俺たちの鑑定データを——自分の目的のために利用している。あの男の目的が何であれ、俺たちは駒にされている。
だが——利用されていると分かっていて、それでも進む理由がある。三島の父がいる。ダンジョンの真実がある。そして俺は——読み手だ。
45層の壁面に残された十年前の足跡。鋼一郎が自ら選んだ道の痕跡。その道の先を——俺は進む。
影山がそこで待っていようと、構わない。
こめかみの痛みが脈打つ。四次元の目が——次の層を求めている。




