記者の嗅覚——桐生恭子の切り札
都心の裏通りにある個室カフェ。窓のないプライベートルームに通されると、テーブルには既にコーヒーが二杯用意されていた。桐生が先に来て注文していたらしい。カップからは湯気が立ち上っていたが、彼女のほうはほとんど手をつけていない。コーヒーの表面にクリームの渦が崩れずに残っていた。待っている間、飲む余裕もなかったということだ。
封筒はA4サイズで、厚さは指三本分あった。角が少し折れている。何度も持ち直したのだろう。彼女はそれをテーブルの中央に置き、俺の目を真っ直ぐに見た。
「柊さん。これが——私の切り札です」
桐生恭子。フリージャーナリスト。以前、俺の配信を取材に来た時は、どこか遠慮がちな印象だった。だが今日は違う。目の奥に——覚悟の色がある。営業マン時代、契約書にサインする直前のクライアントに似た表情だ。もう後には引かないと決めた人間の顔。
テーブルの下で、彼女の手が微かに震えていた。覚悟と恐怖は矛盾しない。むしろ——本当に覚悟を決めた人間ほど、体が正直に震える。それを知っているのは、営業の現場で数え切れないほどの人間の手を見てきたからだ。
「開けてください」
封筒を開いた。中から出てきたのは——写真と書類の束だった。
一枚目。料亭の個室で酒を酌み交わす二人の男の写真。鷹取誠一郎と影山局長。二人の表情は親密で、公的な会食とは明らかに違う空気が漂っていた。テーブルの上には高級日本酒の瓶と、広げられた書類らしきものが写っている。
「撮影日は今年の四月。場所は赤坂の割烹『月白』。予約は鷹取氏の秘書名義。公的な接待記録には——一切載っていません」
二枚目以降は公文書のコピーだった。管理局の予算配分表。ダンジョン関連機器の調達明細。クロノスの子会社名義で納入された装備品の金額と、それに対応する管理局の承認印。
「これは——」
「管理局が過去三年間にクロノスグループから調達した装備品のリストです。問題は価格。市場価格の二倍から三倍で買い取っています。差額は——年間で約八億円」
八億円。探索者の命を預かる装備品で、八億円の水増し。俺の営業マン時代の年間売上目標が五千万円だった。その十六年分が——毎年、闇に消えている。
俺は書類を一枚ずつめくった。鑑定スキルはダンジョンの外では使えない。だが営業マンとして十年、見積書と契約書を見続けてきた目がある。この数字の不自然さは——素人でも気づくレベルだった。
たとえば調達明細の三ページ目。『高耐久性魔力伝導ファイバー』——単価が前年比で四十パーセント上がっている。だが原材料のダンジョン産鉱石の市場価格は同期間で下がっていた。原価が下がって売価が上がる。どんな業界でも通用しない話だ。
「桐生さん。これ、どうやって手に入れたんですか」
「情報源は明かせません。ただ——管理局の内部にも、現状に疑問を持っている人間がいるとだけ」
朝霧千歳の顔が浮かんだ。だが口には出さなかった。
「柊さんにお願いがあります。配信で見せた鑑定データ——クロノス製装備の詳細分析。あのデータを、記事の補足証拠として使わせてください」
鑑定データ。俺が配信中にクロノス製の装備品を鑑定した時、不自然な品質のばらつきが表示されていた。高額な割に耐久性が低い。素材のグレードが表示価格に見合わない。視聴者の間では以前から話題になっていたが、俺はあえて深く触れなかった。
今なら——触れる理由がある。
「使ってください。ただし条件がある」
「条件?」
「記事の公開前に、俺の配信で同時に出します。百万人の視聴者が証人になる。記事だけなら握りつぶされる可能性がある。だが配信のアーカイブは——消せない」
桐生が目を見開いた。そして——笑った。ジャーナリストの笑顔ではなく、同じ戦場に立つ仲間を見つけた人間の笑顔だった。
「柊さん。あなた、営業マンじゃなくて交渉人ですね」
「元営業マンです。交渉は得意分野で」
桐生がコーヒーをようやく一口飲んだ。すっかり冷めているはずだが、彼女は気にしていないようだった。
「実は——三年前にも似た話を追ったことがあります」
「三年前?」
「ダンジョン関連の不正調達の噂は以前からありました。当時、私はまだ新聞社に所属していて——記事にしようとした。でも——」
桐生の表情が曇った。コーヒーカップを両手で包み込むように持っている。
「圧力がかかりました。広告主経由で。デスクに呼ばれて『証拠不十分だ。名誉毀損で訴えられたら新聞社が持たない』と。私は——引きました」
「それで今はフリーランスに」
「はい。あの時引いた自分が——ずっと許せなかった。だから今度は——絶対に引かない。たとえ一人でも」
一人じゃない。そう言いかけて、やめた。代わりにコーヒーを飲んだ。冷めていた。苦みだけが舌に残った。
◇
凛のマンションに戻ると、三島が先に来ていた。
凛の部屋は相変わらずモニターの要塞だった。六面のディスプレイがアイリスのダッシュボードを映し出している。俺が桐生から受け取った資料をスキャナーに通すと、凛のキーボードが火を噴いた。
タタタタタタタタ——。
凛のタイピング速度は異常だ。一分間に四百打鍵は超えている。キーボードの打鍵音がマンションの一室に機関銃のように響く。その横で三島が落ち着かなげに足踏みしていた。革靴の底がフローリングを叩く、コツ、コツ、という不規則なリズム。
「三島、座れ。気が散る」
「すんません先輩。でも——これ、ヤバくないっすか。こんなの出したら——」
「ヤバいから出すんだろ」
凛がタイピングの手を止めずに言った。
「画像の解像度を調整して、個人情報をマスキングします。公文書のフォーマットは管理局の公式テンプレートと一致。偽造の可能性は低い。写真のメタデータも確認しましたが、加工の痕跡なし」
「凛。データの裏取りにどのくらいかかる」
「既にアイリスのクローラーで関連情報を収集中です。クロノスの子会社の法人登記、管理局の公開入札記録、装備品の市場価格データベース。全て突合すれば——三時間で完了します」
三時間。桐生は記事の公開を明後日に設定していた。時間は十分にある。
「柊さん」
凛が初めてモニターから目を離してこちらを見た。画面の光が眼鏡に反射して、表情が読みにくい。
「この記事が出たら——クロノスは全力で反撃してきます。法的措置だけじゃない。柊さんの探索者免許は既に停止されている。次は——」
「分かってる」
「……分かっていて、やるんですね」
「営業マン時代に学んだことがある。交渉で一番強いのは——失うものがない人間だ」
凛が小さく息を吐いた。タイピングを再開する。画面にデータの整合性チェックの結果が次々と表示されていく。緑色のチェックマーク。全て一致。
三島が足踏みをやめて、俺の隣に座った。
「先輩。俺にできることって——」
「ある。桐生さんの安全確認だ。記事の公開まで、目立たないように周辺を見回ってほしい。お前はCランクの探索者だ。気配の察知は俺よりずっと上だろ」
「了解っす」
三島の目に光が戻った。役割を与えられた若者の顔。こいつは——指示を待つタイプじゃない。役割があれば、全力で動く。
凛がモニターの一つに、桐生の記事のドラフトを表示した。文章は簡潔で、事実を積み上げる構成になっていた。感情的な煽りはない。数字と証拠写真だけで——十分すぎるほどの破壊力がある。
「凛。鑑定データの見せ方だが——グラフにできるか。クロノス製と職人製の品質スコアを並べて比較するようなやつ」
「既に作成済みです」
凛がキーを叩くと、画面に棒グラフが現れた。青がクロノス製、赤が職人製。同価格帯で比較すると、青い棒が赤い棒の半分以下しかない項目がいくつもある。視覚的に一目瞭然だ。
「これなら——配信の視聴者にも一瞬で伝わる」
「ドクターにも事前に共有しますか? 医療装備のデータについてコメントをもらえると——」
「いや。ドクターを巻き込むのは危険だ。あの人は現役の医療従事者だろう。身元が特定されたら——」
凛が頷いた。この子は——俺が言わなくても分かっている。巻き込んでいいラインと、守るべきラインの区別を。
「柊さん。私も——覚悟はできています」
凛の声は静かだった。だがキーボードを叩く指は止まっていなかった。この子の覚悟は——言葉ではなく、行動で示すタイプだ。
◇
翌日、久我山の店に報告に行った。
カーゴの店内は相変わらず鉄と油の匂いが充満していた。久我山が磨いている剣の刃面に、蛍光灯の白い光が滑る。金属の光沢が目に痛い。
「記事を出すのか」
「ああ。桐生さんが主導で、俺は配信で補足する」
「お前の探索者免許は停止中だ。配信は——ダンジョンの中からはできんぞ」
「分かってる。配信は外からやる。鑑定データのアーカイブを見せるだけだ」
久我山が剣を磨く手を止めた。砥石に油を垂らし、また動かし始める。規則正しいリズム。シュッ、シュッ、シュッ。
「柊。お前は——俺の店のことも気にしてるんだろう」
「……ああ」
「気にするな。俺は三十年この商売をやってきた。クロノスに睨まれたくらいで潰れる店じゃない」
久我山の声には、いつもの武骨さの奥に——静かな怒りがあった。この男も気づいている。クロノスが市場を歪めていることに。良質な装備を作る職人が、大手の価格操作で食えなくなっていることに。
「久我山さん。記事が出たら——探索者たちの装備需要が変わるかもしれない。クロノス製を避ける動きが出る」
「だろうな。その時は——うちが受け皿になる。職人仲間にも声をかけておく」
久我山が磨き終えた剣を持ち上げた。蛍光灯の光を受けて、刃文が波のように輝いた。良い剣だ。大手の量産品にはない、一本一本に魂を込めた刃の輝き。
「柊。お前がやろうとしていることは——正しい。だが正しいことをする人間が、必ずしも守られるわけじゃない。背中は——気をつけろ」
「ありがとう、久我山さん」
店を出る時、鉄と油の匂いが服に染みついていた。この匂いは——武器を作る人間の匂いだ。戦う人間を支える者の覚悟の匂い。
◇
その夜、三島から連絡が来た。
メッセージは短かった。だが——その三行で、俺の血の温度が二度下がった。
『先輩。桐生さんのマンション、見回りしてました』
『マンション前の通りに——黒いSUVが停まってます。二時間以上、動いてない』
『窓が暗くて中は見えないんすけど——フロントガラスに街灯が反射して、一瞬だけ人影が見えました。二人。こっちを見てた気がします』
俺はスマホを握りしめた。
夜の街灯に照らされた黒いSUV。フロントガラスの反射。二人の人影。
桐生恭子は——既に、監視されている。
記事の公開は明日だ。
三島に返信を打った。
『離れろ。お前も見られてる可能性がある。桐生さんには俺から連絡する』
スマホの画面の光が、暗い部屋の中で俺の手を白く照らしていた。
交渉の鉄則を思い出す。相手が動き始めたということは——こちらの行動が、相手の利益を脅かしているということだ。
つまり——俺たちは、正しい方向に進んでいる。
だが正しい方向に進むほど——危険も、近づいてくる。




