29層——設計者の回廊
正確には、鑑定眼鏡のレンズが震えた瞬間だ。
28層から29層への階段を降りた途端、レンズの表面に細かな文字が滝のように流れ始めた。通常の鑑定ではこんなことは起きない。情報量が多すぎて、処理が追いつかないのだ。
「先輩、大丈夫っすか。目が——」
「ああ。ちょっと待て」
三島が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。汗が額を伝っている。28層でのボス戦から三時間——体力は回復したが、神経はまだ張り詰めていた。蒼真が去った後の静けさが、逆に緊張を高めている。
配信のコメント欄が動いた。
【なんか画面がバグってる?】
【アイリスの表示おかしくね?】
【マコト:レンズに情報が流れ込んでいる。鑑定が自動起動している】
【シロ:確認しました。アイリスが受信しているデータ量が通常の47倍です。処理負荷が限界に近い】
「凛、聞こえるか。鑑定が——勝手に起動している」
「聞こえています。データログを確認中——これは鑑定結果じゃない。29層そのものが情報を発信しています」
凛の声が通信越しに鋭くなった。キーボードを叩く音が背景に聞こえる。アイリスのモニターを確認しているのだろう。
29層は——回廊だった。
上も下も左右も、全てが石の壁に囲まれた一本の長い通路。天井は五メートルほど。幅は三メートル。モンスターの気配はない。罠の反応もない。ただ——壁一面が文様で覆われている。
いや、文様ではない。
鑑定眼鏡を通して見ると——文字だった。壁面の模様に見えたものは、全て微細な文字列。天井まで、隙間なく。文字の大きさは一ミリ以下。肉眼では模様にしか見えないが、鑑定眼鏡のレンズはそれを読み取っている。
「これは——」
声が出なかった。
営業マン時代、年次報告書を読み込むのは得意だった。数字の羅列から意味を読み取る——それが仕事だったから。しかしこの壁は、年次報告書の比ではない。十年分の、全探索者の活動記録だ。
┌──────────────────────────────────┐
│ <鑑定結果> │
│ 名称:記録回廊 │
│ 階層分類:29層固有構造体 │
│ 機能:探索活動ログの自動記録・保存 │
│ 記録期間:3,652日(約10年) │
│ 記録対象:全探索者の行動・戦闘・取得物 │
│ 記録密度:壁面1㎡あたり約240万エントリ │
│ 読取可能レベル:読み手レベル3以上 │
│ 注意:記録は時系列順ではなく │
│ 階層深度順に配列されている │
└──────────────────────────────────┘
「十年分の——全探索者の活動記録。ダンジョンが記録している」
配信越しに凛が息を呑む音が聞こえた。コメント欄が爆発した。
【は? 全員の記録??】
【つまりダンジョンは探索者を監視してるってこと?】
【マコト:ダンジョンが意思を持っている仮説の補強材料だ】
【ドクター:生体データまで記録されているなら、医学的にも重大な発見だ】
【怖すぎるだろ……俺たち全員監視されてたのかよ】
【シロ:データ量が膨大すぎて処理が追いつきません。優先度の高い記録から順に解析します】
俺は壁に手を触れた。冷たい石の感触。だがその表面を鑑定眼鏡越しに見ると——無数の文字が脈打つように明滅している。生きた記録だ。今この瞬間も、俺の行動が記録されている。
「凛。アイリスで特定の記録を検索できるか」
「やってみます。キーワードを」
「久我山修。十年前の記録」
凛のキーボードが激しく鳴った。数秒の沈黙。モニターの処理バーが動いている映像が、配信画面の隅に小さく表示されていた。
「見つかりました」
凛の声が震えている。
「久我山修、元Bランク探索者。十年前——サードダンジョン深層調査隊の記録。メンバー五名。久我山修、三島鋼一郎、渡辺誠一、高田和美、そしてもう一名——記録が途中で消去されています」
「消去?」
「五人目のメンバーの名前と記録が、途中で意図的に削除されている痕跡があります。削除コマンドの痕跡が残っています。発行者は——管理局の内部コードです」
管理局が——十年前の調査隊メンバーの記録を消した。
【おいおいおいおい】
【管理局が記録消してるって——隠蔽じゃん】
【五人目って誰だよ】
【マコト:管理局が消せるということは、管理局はこの記録回廊の存在を知っていたということだ】
【影山ああああ!!!】
三島が壁に近づいた。自分の手を壁につけて——声が低い。
「先輩。親父の記録——見えますか」
「ああ」
俺は鑑定の焦点を絞った。三島鋼一郎の記録を追う。壁面の文字が再配列された——読み手の要求に応じて情報を提示する。ダンジョンが俺に協力している。
┌──────────────────────────────────┐
│ <個人記録:三島鋼一郎> │
│ ランク:A │
│ スキル:剣聖 │
│ 最深到達層:47層(公式記録) │
│ 最終記録日:2016年9月14日 │
│ 最終記録位置:47層→未登録領域への移行検出 │
│ 記録状態:途中終了(信号ロスト) │
│ 備考:47層以降の記録は回廊の記録範囲外 │
│ 付記:同行者の記録に不一致あり │
│ →五名中一名の記録が削除済み │
└──────────────────────────────────┘
「47層まで到達していたんすか……」
三島の声が掠れた。公式記録では最深到達層は30層台とされていた。十年前の時点で47層——現在の公式最深到達記録すら超えている。
「三島くん。お前の親父は——十年前に、今の人類の限界より先に行っていた」
三島が拳を握りしめた。壁にぶつけそうになって——寸前で止めた。記録を壊すわけにはいかない。
「先輩。五人目——消された記録のメンバー。分かりますか」
「凛、もう少し解析できるか」
「削除痕跡から——スキルタイプだけ復元できました」
凛の声が静かに告げた。
┌──────────────────────────────────┐
│ <削除済み記録・部分復元> │
│ メンバー5/5:名前=削除済み │
│ スキルタイプ:鑑定(特殊) │
│ ランク:D │
│ 記録削除日:2016年10月2日 │
│ 削除権限者:管理局内部コード AX-0017 │
│ 備考:本記録の完全版は │
│ 30層ノードに格納されている │
└──────────────────────────────────┘
鑑定スキル持ち。Dランク。十年前の深層調査隊に——もう一人の鑑定持ちがいた。
久我山が言っていた「記憶を全て失った女性鑑定持ち」。
管理局が、その存在そのものを消そうとした。
【鑑定持ちがもう一人いた!?】
【消された鑑定持ち——これは闇が深い】
【管理局マジでやべえな】
【マコト:プロジェクト・アポストルとの関連を疑うべきだ】
【30層ノードに完全版がある——行くしかないだろ】
回廊の奥へ進んだ。文様——いや、記録の密度がさらに上がっていく。壁だけでなく天井にも床にも。歩くたびに足元の文字が光る。俺の足跡さえも記録されている。
空気の温度が下がった。金属と鉱物の匂い——深層特有の、地球の奥から立ち上る匂いだ。湿度が高い。呼吸が白くなる。
三十分歩いた。
回廊の最奥部——巨大な扉があった。
高さ十メートル。幅五メートル。壁の記録文字が扉の周囲に集中して、渦を巻くように文字が流れている。扉の中央に——数字が浮かんでいた。光る文字。鑑定眼鏡なしでも視認できるほど明るい。
┌──────────────────────────────────┐
│ <30層ゲート> │
│ 状態:施錠(時限解除待ち) │
│ 更新までの残り時間:52:17:33 │
│ 解除条件:読み手レベル3以上(充足) │
│ 開放方法:カウントダウン終了時に自動開放 │
│ 警告:更新は全構造に影響を及ぼす │
│ 推奨:更新前に30層ノードへのアクセスを │
│ 完了すること │
└──────────────────────────────────┘
「52時間——約二日後に、この扉が開く」
三島が扉を見上げた。首が痛くなるほど巨大な扉だ。
「先輩。待つっすか?」
「いや」
俺はレンズを見た。カウントダウンの数字が、一秒ごとに減っていく。52:17:32。52:17:31。
配信のコメントが溢れている。40万人が見ている。
【52時間後に30層が開く!】
【世界最速30層到達クルー!?】
【D-rankが世界最速とか笑うしかない】
【マコト:いや笑えない。これは歴史だ】
【一颯さん頼む——見届けさせてくれ】
「皆さん」
俺はカメラに向かって言った。配信者としての声ではない。探索者としての声だ。
「52時間後——この扉が開きます。その先にあるものが何であれ、俺は全て配信します。それが約束です」
営業マン時代なら、こういうのをクロージングと呼ぶ。だがこれは——営業じゃない。約束だ。
扉のカウントダウンが、静かに刻まれていた。52:16:48。
壁の記録が、俺を見ている。十年分の記録が——次の読み手を、待っている。




