25層への準備——装備と覚悟
研磨剤の鋭い匂いが店内に漂っている。金属を磨く硬い音が規則的に響く。カーゴの奥の作業場——久我山がここで装備を仕立てる時は、必ず窓を閉める。外の音が入ると、素材の音を聞き逃すからだと言う。元Bランク探索者の耳は、十年経った今も——素材の声を聴いている。
「25層以深は——これまでとは次元が違う」
久我山が革鎧を持ち上げた。新品の革の手触り。通常の防具よりも厚く、内側に特殊な金属板が仕込まれている。指先で表面を撫でると、硬さの中に微かな弾力がある。受けた衝撃を吸収して分散する構造だ。営業マン時代、革靴を買う時にフィット感を確かめたのと同じ所作——だが革靴は足を守り、この鎧は命を守る。
「素材をグレードアップした。外殻は五層産の強化皮革、内層には20層ボスの装甲片を加工した衝撃吸収板を挟んだ。お前が持ち帰った審判者の自己修復型合金だ」
「あの合金、使えたんですか」
「使えるようにした。三日徹夜した」
久我山の目の下に隈がある。三日徹夜。営業マン時代、決算前の三日連続徹夜は地獄だった。だが久我山の徹夜は——金属を叩き、革を縫い、素材と対話する三日間だ。一つの判断ミスが命を左右する。この男は——十年前にダンジョンを引退した後も、装備屋として探索者の命を支え続けてきた。今また——俺たちのために徹夜している。
「重量は以前の装備比で一割増だが、防御力は三倍以上。この鎧なら25層のBランクモンスターの直撃にも——一発は耐える」
「一発は?」
「二発目を食らう前に倒せ。装備は保険であって無敵ではない」
久我山らしい。装備への自信と、使い手への信頼と、現実への冷徹さが同居した言い方だ。
「三島の装備も見てくれ」
「もうやってる」
久我山がカウンターの裏から——もう一式の装備を取り出した。三島用の軽量プレート。剣の鍔には審判者の合金が仕込まれている。そして——新しい剣。
「これは——」
「25層以降のモンスターの硬度に対応できるよう、刃を二層構造にした。外層が切れ味、内層が耐久性。折れない剣だ」
三島がカーゴに着いたのは午後三時だった。「先輩、遅れました! ランニング十キロしてから来たっす!」。汗だくのTシャツ姿。この男は——本当に元気だ。
三島が新しい剣を握った瞬間——目が変わった。
「……軽い。なのに——」
三島が剣を振った。空気を切る音が鋭い。ブンッという低音ではなく、シュッという高音。刃の精度が違う。
「すげえ……久我山さん、これ——」
「お前の握力と腕の長さに合わせて仕立てた。重心を手元寄りにしてある。お前は振りが速いが、打撃の瞬間に力が逃げる癖がある。重心を手元にすることで——」
「力が先端に集まるっす!」
「分かるならいい」
久我山が三島を見る目が——複雑だった。十年前の仲間の息子。三島鋼一郎の血を引く若い探索者。その男に——自分の技術の全てを注いだ装備を渡している。刃に映る三島の顔が、久我山の目には——別の誰かに見えているのかもしれない。
「……お前の親父にも、昔こうやって剣を仕立てたことがある」
久我山の声が低くなった。作業場の油の匂い。工具棚に並ぶ道具の金属光沢。十年前も——同じ場所で、同じことをしていたのだろう。
三島の手が——剣の柄を握ったまま止まった。
「久我山さん——」
「お前に言っておくことがある。座れ」
三島が丸椅子に座った。久我山がカウンターの向こうに立ったまま——腕を組んだ。久我山が腕を組む時は、重い話をする時だ。
「お前の親父——三島鋼一郎は、俺のパーティメンバーだった」
三島の目が——見開かれた。
「十年前の探索パーティ。五人編成。鋼一郎は前衛。Aランクの剣士だった。お前と同じで、速い剣が得意だった。性格も——お前に似てる。単純で、真っ直ぐで、嘘がつけない男だった」
久我山の声が——震えていた。作業台に寄りかかった手が、工具を握りしめている。金属が軋む音。
「あの探索で何があったか——全部は話せない。十年前、管理局と守秘義務契約を結ばされた。だが——」
久我山が俺を見た。目で確認している。話していいか、と。俺は頷いた。もう——隠す理由はない。
「鋼一郎は——最後にダンジョンの奥で何かを見つけた。俺たちが撤退を始めた後、鋼一郎だけが奥に向かった。『ここに道がある。心臓に繋がる道だ』と言い残して——消えた」
三島の拳が——震えていた。テーブルの上で白くなるほど握りしめている。
「探しに行ったんすか」
「行った。だが——道が閉じていた。鋼一郎が通った後、壁が戻った。管理局の救助隊が来た時には——痕跡すらなくなっていた」
「それで——行方不明扱い」
「そうだ。管理局は事故死として処理した。だが——遺体は出ていない。死亡確認はされていない。公式には——行方不明のまま、十年が過ぎた」
作業場の空気が重かった。研磨剤の匂い。油の匂い。そして——十年分の沈黙が溶け出した匂い。久我山がずっと胸の奥にしまっていた記憶が、三島の前で初めて解放されている。
三島が——立ち上がった。椅子が床を擦る鋭い音。両手を伸ばして、久我山の新しい剣を握り直した。刃が照明を反射して白い光を放った。
「見つけます。親父を」
声は——静かだった。いつもの三島の勢いのある声ではない。もっと深い場所から出る声だ。十年分の——探し続けてきた息子の声だ。
「だから——この剣、大事に使わせてもらいます。久我山さん」
久我山が——何も言わずに、三島の肩を叩いた。ごつい手だった。十年前、鋼一郎の肩を叩いた時と同じ手だろう。
◇
装備の調整が終わった後——俺は久我山のペンダントを鑑定した。
以前鑑定した時は「星霜鉱の欠片」としか読めなかったペンダント。あの頃の鑑定精度では、素材名と基本属性しか表示されなかった。だが今は違う。20層ボスを鑑定し、アイリスで深層パケットを解析し、ダンジョンの応答信号さえ読み取れるようになった今なら——もっと深い情報が読めるはずだ。
鑑定眼鏡のレンズを通して、ペンダントを見た。
┌──────────────────────────────────┐
│ <再鑑定結果・更新情報あり> │
│ 名称:星霜鉱ペンダント(特殊) │
│ 製造地:サードダンジョン50層以深 │
│ 素材構成:星霜鉱 96.7% │
│ ダンジョンコア片 0.03% │
│ 不明素材 3.27% │
│ 前所有者:三島鋼一郎 │
│ 特殊特性: │
│ 微弱な位置信号を発信中 │
│ 信号方向:地下(サードダンジョン深層部) │
│ 信号発信元に生体反応検出 │
│ 共鳴特性:14.7Hz で鑑定眼鏡と共鳴 │
│ 付記:この信号はダンジョンの │
│ ネットワークを経由している │
└──────────────────────────────────┘
手が震えた。鑑定ウィンドウの文字が——視界の中で滲んだ。
50層以深で製造。前所有者は三島鋼一郎。そして——微弱な位置信号。生体反応。生きている。十年間、ダンジョンの深層で——生きている。営業マン時代、年間MVPの発表で自分の名前が呼ばれた時よりも、心臓が跳ねた。比較にならない。これは——一人の父親の命の問題だ。
「先輩——それ……」
三島の声が掠れていた。鑑定ウィンドウを覗き込んでいる。
「三島くん。お前の父親のペンダントだ。そして——深層から位置信号が出ている。生体反応が——ある」
三島の目から——涙がこぼれた。声を出さずに。頬を伝った涙が、新しい剣の柄に落ちた。
凛がスマホ越しにデータを確認していた。その声が通信越しに震えている。
「共鳴周波数14.7Hz——鑑定眼鏡と同じ周波数です。このペンダントは——ダンジョンのネットワークの一部として機能している。つまり——」
「鑑定は——ダンジョンのネットワークにアクセスしている。ペンダントもそのネットワークの端末だ」
つまり、このペンダントは——ダンジョンの奥にいる三島鋼一郎と、地上にいる俺たちを繋ぐ通信線だ。十年間、誰にも気づかれずに——ずっと信号を送り続けていた。久我山がこのペンダントを肌身離さず持っていたのは、偶然じゃない。素材の声を聴く男が、無意識にこの振動を感じ取っていたのかもしれない。
鋼一郎は生きている。ダンジョンの深層で——十年間。
三島が涙を拭いた。凛のハンカチは今日は持っていなかったが、Tシャツの裾で乱暴に拭った。
久我山が——壁に手をついていた。背を向けている。肩が震えているのが見えた。この男も——十年間、仲間が死んだのか生きているのか分からないまま、このペンダントを握り続けていたのだ。
「先輩。絶対に——50層まで行くっす」
「ああ。行く」
ペンダントが——微かに振動していた。14.7Hzの共鳴。人間の耳には聞こえない周波数。だが手のひらには——確かに伝わる。ダンジョンの奥から届く信号。十年間、途切れることなく——誰かが、帰りたいと信号を送り続けていた。
カーゴの窓の外で、夜が深まっていた。街灯のオレンジ色の光。いつもの風景だ。だがこの店の中では——十年越しの希望が、小さなペンダントの振動として生まれていた。




