管理局の手引き——朝霧千歳の提案
カーゴでの全員集合から三日後。
凛のマンション——いつの間にか、ここが俺たちの作戦本部になっていた。引っ越し当初は何もなかった白い部屋が、今ではモニター三台、ホワイトボード二枚、サーバーラック一台で埋まっている。凛の生活空間は寝室の奥に追いやられていた。家賃の半分を俺が出すと申し出たら「データの保管場所だと思ってください」と断られた。
「朝霧千歳の提案。受けるか、断るか」
俺が切り出した。三島はソファの端に座り、凛はモニターの前に座っている。三人の前に、テーブルに広げた資料。千歳が提示した条件書のコピー。凛が昨夜デジタル化した鋼一郎の調査記録。そして——千歳がこっそり渡した管理局の通信デバイス。
「条件を整理しましょう」
凛がホワイトボードにマーカーを走らせた。黒い字が白い板に刻まれていく。凛の字は小さくて整然としている。理系の人間の字だ。俺の営業メモとは真逆——あっちは汚い走り書きで、自分でも読めないことがある。
提供されるもの:装備支援、25層以深の地図データ、影山からの保護
求められるもの:鑑定データの学術利用許可
リスク:管理局への情報漏洩、影山の監視強化
ホワイトボードに書かれた文字を眺めた。営業マン時代、取引先との契約条件をこうやって可視化したことが何度もある。条件を並べて、メリットとリスクを天秤にかける。だが今回の天秤の片方には——命が乗っている。
「装備支援は大きい。25層以深は——正直、今の装備では心もとない」
「久我山さんの装備は最高級っすけど、数が足りないんすよね。消耗品——特に結界符と回復薬が」
三島の指摘は正確だった。深層探索では消耗品の量が生死を分ける。営業マン時代に学んだ——出張先で名刺が切れたら商談ができない。装備が切れたら、ダンジョンでは死ぬ。
「地図データについて」
凛がタブレットを操作した。千歳から受け取ったUSBメモリの中身を表示する。
「25層以深の管理局公式マップが入っています。ただし——」
凛の眉が寄った。モニターに表示された地図データを、アイリスの解析結果と照合している。
「この地図、不自然です。25層から30層までのマップに——空白エリアが複数あります。意図的に消された形跡です」
「消された?」
凛がモニターを指した。地図データの一部が——まるでPhotoshopで塗り潰したように、不自然な矩形の空白になっている。周囲の通路や部屋の構造は詳細に描かれているのに、特定の座標だけが白い穴のように空いている。
「はい。データのヘッダに編集履歴が残っています。元々はデータが存在していた座標に、後から空白が上書きされている。編集者のIDは——」
凛がキーボードを叩いた。解析プログラムの進捗バーが画面上で点滅する。
「影山総司。局長権限での編集です」
また影山だ。十年前の未登録エリアの封印。装備の横流し。そして今度は——地図の改竄。この男はどれだけの情報を握り潰してきたのか。営業マン時代、コンプライアンス違反で左遷された上司がいた。その上司が隠していた不正案件は三件だった。影山は——少なくとも五件以上の情報を隠蔽している。スケールが違う。
「通信デバイスの方は」
凛がデバイスを手に取った。手のひらに収まるサイズの、銀色の薄い端末。管理局の紋章が刻印されている。
「通信は暗号化されていますが——暗号の鍵が管理局のサーバーを経由する構造です。つまり、管理局側で通信内容を傍受できる設計になっています」
「千歳は知ってるのか、それ」
「知っているでしょう。研究員なら、この程度の技術仕様は把握しているはずです。つまり——千歳さんは、管理局に傍受される前提で、このデバイスを渡している」
凛の分析は冷徹だった。だが——それは千歳への不信ではない。千歳の立場の限界を正確に理解している、ということだ。
「千歳は俺たちに全面的に味方してるわけじゃない。管理局の人間として、組織内での立場を維持しながら——できる範囲で協力しようとしている」
「敵か味方かで言うと——」
「どっちでもない。利害が一致する範囲での協力者だ」
「営業先で言えば——フレネミーっすか?」
三島が首を傾げた。どこでそんな言葉を覚えたのか。
「フレネミーじゃない。ダブルエージェントに近い。千歳は管理局の中にいながら、管理局の隠蔽を正そうとしている。そのためには——管理局にいるフリを続ける必要がある」
営業マン時代の経験が、ここでも生きた。取引先の中に協力者を持つ時、その協力者の立場を潰さないことが鉄則だ。情報を引き出しすぎてもいけない。距離感が大事だ。
「受けよう。ただし——こっちも条件をつける」
俺はホワイトボードの空きスペースにマーカーで書いた。
条件1:提供するデータの範囲は俺たちが決める
条件2:配信の自由への干渉は一切不可
条件3:通信デバイスは使うが、重要な情報はこの回線では送らない
「三つ目は千歳に言うのか」
「言わない。見られてる前提でやればいい。管理局が傍受するデータは、管理局に見せてもいいデータだけにする。本当に重要な連絡は——対面で」
凛が微かに笑った。「スパイ映画みたいですね」
「営業マンの基本だよ。重要な話はメールじゃなく、直接会って話す」
◇
午後三時。都内の公園。ベンチに座って、千歳を待った。
三月の冷たい風が頬を刺す。公園の桜はまだ蕾だ。あと二週間もすれば咲くだろう。その頃には——俺たちは25層より深い場所にいるかもしれない。
千歳が来た。黒いスーツにグレーのコート。管理局の建物のエアコンの乾いた匂いが——微かにコートに残っていた。
「条件をまとめてきました」
俺は三つの条件を伝えた。千歳はメモを取らずに聞いていた。全てを記憶する自信があるのか、あるいは——メモを残すリスクを避けているのか。
千歳は——頷いた。交渉は五分で終わった。営業マンとしては拍子抜けだ。大口顧客との契約交渉が何ヶ月もかかった経験からすると、五分は異常だ。千歳は最初から、こちらの条件を想定していたのだろう。あるいは——条件に関わらず、協力すると決めていたか。
「一つだけ追加があります」
千歳がコートのポケットから——小さなカードを取り出した。
「管理局のセキュリティカードです。私の権限で——管理局の資料室に一度だけアクセスできます。25層以深の封印資料がある棚の位置を、口頭でお伝えします」
千歳の手が——かすかに震えていた。カードを差し出す手が。この行為がバレれば、千歳のキャリアは終わる。それどころか、内部情報漏洩で起訴される可能性もある。それでも——差し出している。
「それを俺に渡すのは——相当なリスクだな」
「はい。ですが——柊さんの鑑定データがなければ、私の研究も前に進みません。そしてこの国のダンジョン行政も——変わらない」
最後の一言に——千歳の本音が見えた。研究者としてだけではない。管理局の在り方そのものを変えたい。その覚悟が、この小さなカード一枚に込められている。
千歳の目が——研究者の目だった。凛と同じ種類の光。真実を追い求める人間の、抑えられない渇望。
カードを受け取った。冷たいプラスチックの手触り。このカードが——管理局の内部に開けた小さな風穴になる。
公園の風が冷たかった。桜の蕾が風に揺れている。この風がもう少し温かくなる頃——世界は変わっているだろう。俺たちが変えるのか、世界に変えられるのか。それはまだ分からない。
千歳が去った後、ベンチにしばらく座っていた。スマホに凛からメッセージ。「地図データの解析を始めます。帰ったら結果を見せます」。三島からも。「先輩、俺トレーニング行ってくるっす! 25層に向けて体作るっす!」。三島は三島だ。いつだって行動が先。
帰宅後、凛に千歳から受け取った地図データを本格的に解析してもらった。モニターの青白い光に照らされた凛の横顔が、真剣そのものだった。解析プログラムの進捗バーが画面上で点滅し続ける。
「柊さん」
凛が振り返った。
「空白エリアの座標を復元しました。25層に二ヶ所、27層に一ヶ所、29層に一ヶ所。そして——30層に一ヶ所。計五ヶ所です」
「空白エリアが五つ——意図的に消された空間が五つある」
「はい。そしてこれらの座標を過去の鑑定データと照合すると——」
凛の声が低くなった。
「全ての空白エリアが——設計図の断片が発見された座標と構造的に類似しています。影山は——設計図の断片の存在を知っていた可能性があります」
設計図の断片。ダンジョンの設計者が残したメッセージ。それを——影山は十年前から知っていて、隠していた。俺が配信で見せてきた発見の全てが——影山にとっては「既知の情報の漏洩」だったのだ。
道理で焦っているわけだ。俺の鑑定精度が上がるたびに、影山が隠してきたものが一つずつ白日の下に晒される。
モニターの光が凛の眼鏡に反射した。解析プログラムの進捗バーが100%に達した。画面に——五つの空白エリアの座標が赤く点滅していた。
凛がモニターを見つめたまま言った。
「柊さん。この地図データ——千歳さんが意図的に渡してくれたものだとしたら、空白エリアの存在に気づくことも織り込み済みでしょう。千歳さんは——管理局の地図を渡すふりをして、管理局の嘘を暴く証拠を渡してくれたんです」
ダブルエージェント。千歳は——管理局のフォーマットに包んで、管理局の隠蔽の証拠を俺たちに渡した。頭がいい女だ。
営業マン時代、情報は武器だと教わった。だが今——情報は、もっと大きなものになりつつある。隠蔽を暴く鍵。真実に辿り着くための道標。影山が十年かけて積み上げた嘘の壁が——少しずつ、崩れ始めている。




