経済封鎖と一人の志願者
スマホの画面に表示された月次収支。収入欄には配信の投げ銭とアーカイブ再生の広告収入。支出欄には装備の消耗品費、通信費、家賃、光熱費、食費。差し引き——マイナス八万三千円。
スポンサー二社の撤退が、これほどまでに数字に響くとは。固定収入がゼロになった穴は、投げ銭だけでは埋まらない。冷蔵庫を開けた。卵二個。豆腐一丁。もやし一袋。営業マン時代の一人暮らしを思い出す。あの頃も給料日前は似たような冷蔵庫だった。だがあの頃は——来月の給料が保証されていた。
部屋の照明が一つ切れている。交換用の蛍光灯を買いに行く気力がない。天井の半分が暗い。その暗さが——今の状況を映しているようで、妙に居心地が悪かった。
スマホの計算画面を睨みながら、営業マン時代の上司の言葉を思い出した。「数字は嘘をつかない。だから数字から逃げるな」。あの上司は——嫌いだったが、正しいことを言っていた。数字は今、俺に「このままでは詰む」と告げている。
凛から着信があった。
◇
凛のワークスペース。雨が窓を叩いている。細かい雨粒がガラスを流れ落ち、外の景色をぼやけた水彩画に変えていた。凛がノートPCの画面を俺に向けた。
「月次収支の試算を作りました」
スプレッドシートに数字が並んでいる。凛が作った家計簿は——営業マン時代の売上管理シートよりも精密だった。色分けされたセル。条件付き書式で赤くなった合計欄。
「このままだと、三ヶ月後には装備の消耗品が買えなくなります。ダンジョンに潜れなくなる」
「わかってる」
「それで——提案があるんですけど」
凛がコーヒーカップに手を伸ばしたが、途中で止めた。言いにくそうに——眼鏡の位置を直した。
「私のエンジニア収入で、装備費は出せます。フリーランスの案件を一つ増やせば——」
「駄目だ」
即答した。自分でも驚くほど強い声が出た。
凛が目を見開いた。銀縁眼鏡の奥の瞳が、微かに揺れている。
「……理由を聞いても?」
「凛の金で俺がダンジョンに潜る。それは——順序が違う。俺が稼ぐべきなんだ。自分の配信で」
営業マン時代の癖だ。自分の案件は自分で数字を出す。他人のリソースに頼った瞬間、それは自分の仕事ではなくなる。だがこれは——営業ではない。プライドと合理性のどちらを取るかの問題だ。
「一颯さん」
凛が静かに言った。コーヒーカップを両手で包んでいる。雨音が窓を叩く音が、沈黙の隙間を埋めていた。
「これはビジネスじゃないです。私は——投資してるんです。一颯さんの鑑定に。ダンジョンの真実を解明するという、私自身の目標のために」
その言い方は——ずるかった。凛は、俺のプライドを傷つけずに、合理的な理由を提示してきた。エンジニアらしい。感情ではなくロジックで説得する。
「……考えさせてくれ」
「はい。急ぎません」
凛がコーヒーを口に運んだ。冷めきったコーヒーを飲む顔が、一瞬だけ歪んだ。苦いのか、冷たいのか。たぶん——両方だ。
窓の外の雨が、少しだけ弱まった気がした。雨粒がガラスを伝い落ちる速度が遅くなっている。凛のモニターに映るスプレッドシートの赤い数字が、俺の視界の端でちらちらと光っていた。
◇
その日の夕方。サードダンジョンのゲート前広場。
ゲートは地下鉄の出口のように地面にぽっかりと口を開けている。そこから漏れ出す低い振動音が、広場全体を微かに揺らしていた。地下から吹き上げる風は冷たく、春先の空気と混じって肌を粟立たせる。
ベンチに座って、ぼんやりとゲートを眺めていた。装備店に向かう途中だったが、足が止まった。このゲートの向こうに、俺の仕事場がある。十一層以降の未踏域。人類未到達の領域。あそこに潜るには——金がかかる。
「先輩!!!」
声が広場に響き渡った。振り向くと——三島大輝が全力で走ってきていた。額に汗を光らせ、息を切らしながら。手には大きな紙袋を抱えている。
「三島……何してるんだ、ここで」
「待ってたんっす! 先輩が今日ダンジョンのゲート前に来るって、SNSに書いてたから!」
書いていない。ゲート前の写真を一枚上げただけだ。位置情報もつけていない。それだけでここまで来るのか、この男は。ストーカーかファンか——紙一重だ。だがこの真っ直ぐさが、三島大輝という人間だった。
三島が額の汗を腕で拭った。春先の風が、日焼けした肌を撫でていく。
「先輩、スポンサーの件——聞きました。それで——」
三島が紙袋を差し出した。中身を覗くと——消耗品の詰め合わせだった。ヒールリーフ。解毒草。防御結界符。マナポーション。全てダンジョン攻略の必需品だ。ちゃんとした品質のもの。総額で——五万円は下らない。
「お前、これ——全部で五万くらいするぞ」
「今月のダンジョン報酬っす! ソロで8層回ったら結構稼げたんで。先輩に使ってもらおうと思って。ヒールリーフは高品質のやつ選びました! 久我山さんに聞いて、先輩が普段使ってるグレードと同じのにしたっす!」
「いや、待て。これお前の生活費に——」
「飯は卵かけご飯で十分っす!」
笑顔が眩しい。こいつは本気だ。
「先輩」
三島が真っ直ぐな目で俺を見た。夕日が横から差し込んで、三島の日焼けした横顔を照らしている。ゲートから吹き上げる風が三島の短い髪を揺らし、広場の木の葉がかさかさと音を立てた。
「俺にとって先輩は——恩人なんす」
三島がベンチに腰を下ろした。紙袋を膝の上に置いて、ゲートの方を見つめている。
「探索者になったばかりの頃、1層で死にかけたっす。スライム型のモンスターに追い詰められて、逃げ場がなくて。あの時は本気で辞めようと思った。Eランクの探索者なんて、ギルドも雇ってくれないし、ソロで潜っても稼ぎは微々たるもんだし」
三島の声は震えていなかった。過去を振り返る声だ。辛い記憶を、もう笑い話にできるくらいの距離感で語っている。
「そん時に先輩の配信を見つけたんす。鑑定で罠の位置とモンスターの弱点を全部見せてくれてた。それを見て——次の日から、攻略のやり方が変わりました。鑑定の情報があったから罠を避けられた。ボスの弱点がわかった。Cランクに上がれたのは——先輩のおかげっす」
飾りのない、素直な言葉。この男は——いつもこうだ。回りくどい言い方ができない。だからこそ——言葉が、まっすぐ刺さる。
「だから——消耗品くらい、俺に出させてください。弟子入りは断られたけど、これくらいはさせてほしいっす」
紙袋を受け取った。ずしりと重い。消耗品の重さではない。三島がソロで8層を何周もして稼いだ報酬の重さだ。8層のモンスターはBランク。Cランクの三島がソロで相手するには、命懸けだったはずだ。
「三島」
「はい」
「ありがとう。本当に——ありがとう」
言葉が出てこなかった。営業マン時代、感謝を伝える場面は何百回もあった。顧客に。上司に。同僚に。だがその全てが——ビジネスの言語だった。今口にした「ありがとう」は——ビジネスの言語ではない。もっと深い場所から出てきた言葉だ。
「でも——弟子は取れない。まだ、その資格が俺にはない」
三島が頭を掻いた。照れたような、残念なような、複雑な表情。
「でも先輩——一つだけ聞いていいっすか」
「ん?」
「先輩の配信で、俺の人生変わったんす。Eランクでくすぶってた俺が、今はCランクで飯食えてる。それって——先輩にとっては何でもないことかもしれないけど、俺にとっては全てなんす」
ゲートから吹き上げる冷たい風が、二人の間を通り抜けた。自販機の缶コーヒーを二本買った。温かい缶を三島に渡す。三島が両手で受け取って、その温もりに目を細めた。
「先輩の配信がなかったら——俺は探索者を辞めてました」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
配信を始めた理由は、金のためだった。リストラされて、他に稼ぐ手段がなくて。鑑定なんてハズレスキルで食っていける仕事は配信くらいしかなくて。それだけの理由だった。誰かのためなんて、考えたこともなかった。
だが三島の言葉を聞いて——初めて気づいた。俺の配信は、誰かの人生を変えていた。十二万というフォロワーの数字ではなく、ここに座っている一人の青年の人生を。
営業マン時代、「お前の提案書のおかげで助かった」と言ってくれたクライアントが一人だけいた。中小企業の社長で、不器用な人だった。あの時の感覚と——似ている。自分がやったことが、誰かの役に立っていたという実感。それは金では買えない。
夕日がゲートの向こうに沈んでいく。三島の日焼けした横顔が、橙色の光の中で笑っていた。
「先輩、絶対配信やめないでくださいね。俺——ずっと見てますから」
缶コーヒーが、手の中で温かかった。春先の風が頬を撫でる。ゲートの振動音が、低く、遠く響いている。
やめない。やめるわけがない。
金がなくても。スポンサーがいなくても。圧力をかけられても。
俺の配信を待っている人間が——ここにいる。
帰り道、スマホを取り出した。凛にメッセージを打った。
『装備費の件、受ける。ただし——必ず返す。配信で稼げるようになったら、全額返す』
返信は三秒で来た。
『了解です。領収書は全て保管しておきます。経費処理も完璧にやります』
凛らしい返事だった。感情ではなく——システムで答える。だがその冷静さの裏に、温かさがあることを俺は知っている。
夜の街を歩きながら、紙袋の中の消耗品の重みを感じていた。三島の気持ちと、凛の投資。二人が俺に差し出してくれたもの。
リストラされた日は——一人だった。何もかもを失って、冷蔵庫の唸り声だけが友達だった。
今は違う。
クロノスの圧力は続くだろう。鷹取は簡単に諦める男ではない。だが——俺も簡単に折れる男ではなくなった。
だから——もう一度、戦える。明日から。




