嵐の前の配信
装備店「カーゴ」。革と金属の匂いが染みついた、狭い店内。天井から吊り下げられた防具が、薄暗い照明の下で鈍い光を放っている。カウンターの向こうでは久我山が革鎧を磨いている。布が革の表面を擦る、乾いた音。規則的で、心地よい。
「すみません久我山さん、今日はここから配信させてもらいます」
「構わんよ。騒がしくしなきゃな」
久我山の声は低くて穏やかだった。作業の手を止めずに言う。十年前のBランク探索者だった男。膝の古傷で引退し、装備屋を営んでいる。この店に初めて来た日のことを思い出す。鑑定眼鏡を作ってもらった日。あの日から——全てが変わった。
配信を開始した。
【おっカーゴからだ!】
【今日はリラックス回?】
【未登録エリアの続報ないの?】
【シロ:久我山さんの作業、ずっと見てたい】
「皆さん、鑑定士イブキです。今日は装備メンテナンスの配信です。未登録エリアの続報を期待してた人、すまん。今日は——のんびりやります」
コメント欄に安堵の声が広がった。十層ボス戦と未登録エリアの発見から数日。視聴者も興奮の後の疲れがあるのだろう。俺自身も——正直、少し休みたかった。
鑑定眼鏡を外して、レンズの状態を確認した。久我山が専用のクロスを差し出してくれる。手入れの仕方を配信で見せながら、久我山と雑談する。
【鑑定眼鏡の手入れ方法! これは有益情報】
【久我山さんの手つき丁寧すぎる】
【職人の手だ……】
視聴者からの質問が飛んできた。「鑑定眼鏡のレンズはどのくらいの頻度で交換するんですか?」。久我山に振ると「レンズは消耗品じゃない。生体鉱物の結晶だから、使えば使うほど馴染む。ただし衝撃には弱い。落とすな」。職人の言葉には実感がこもっている。
三島が途中で店に顔を出した。「先輩、差し入れっす!」と言って、コンビニの菓子パンを置いていった。配信を見て来たらしい。メロンパンとカレーパン。この男のセンスは相変わらずだが——温かい。三島はカメラに向かって手を振り、「皆さんどうもっす!」と言って帰っていった。滞在時間三十秒。嵐のような男だ。
「マコトさんからコメント来てますね。『装備メンテは大事だ。攻略中に装備が壊れたら死ぬ。地味だが最重要の作業』」
「その通りだ」
久我山が作業の手を止めずに言った。声だけがマイクに拾われている。
「装備は命綱だ。どんなに強いスキルを持っていても、装備が壊れた瞬間に裸同然になる。営業で言えば——」
「営業?」
「お前の昔の仕事だろう。営業で言えば、装備は名刺みたいなもんだ。名刺がボロボロの営業マンは信用されない。装備がボロボロの探索者は——生きて帰れない」
久我山が営業の比喩を使ったのは初めてだった。俺の過去を覚えていてくれている。
【久我山さん意外と話うまいな】
【営業マンの比喩で装備の大事さを説くの草】
【ドクター:久我山の言う通りだ。俺も医療装備のメンテは欠かさない】
装備の手入れが一段落した。配信の空気がリラックスしたものに変わっている。視聴者数は三万人。十万人の十層ボス戦と比べれば少ないが——こういう回を見に来てくれる三万人の方が、コア視聴者だ。営業マン時代に学んだ。大口顧客より、リピーターの方が大事だ。
「ちょっと、昔の話をしてもいいですか」
唐突に言った。自分でも予定していなかった。だが——言いたくなった。今日の空気が、それを許してくれている気がした。
【おっ過去編か?】
【リストラの話?】
「リストラされた日のことを覚えてます。朝、会社に呼び出されて、三十分で全てが終わった。十年間の営業成績。顧客との関係。全部——三十分で白紙になった」
コメント欄が静まった。
「帰り道、電車に乗らなかった。歩いて帰った。二時間くらい。途中でサードダンジョンのゲートの前を通った。あの巨大な構造物が、街の真ん中にどんと立ってるのを見上げて——思ったんです」
久我山がカウンターの向こうで手を止めた。静かに聞いている。
「ダンジョンには嘘がない。モンスターは正直に襲ってくるし、罠は正直に殺しにくる。上司の機嫌も、社内政治も、忖度もない。全ての探索者に——平等に開かれている。なら——」
言葉を選んだ。配信で十五万人のフォロワーに向けて言う言葉だ。
「情報だって平等であるべきだと思った」
カウンターの上のメロンパンが、照明の下で安っぽい光を反射していた。百五十円のメロンパン。六本木のフレンチで鷹取が食べていたフォアグラのテリーヌとは、値段が三桁違う。だがどちらの食事が温かいかと聞かれれば——答えは明白だ。
「ダンジョンの情報を独占して、利権にする人間がいる。管理局もギルドも、情報をコントロールすることで力を維持している。でも——ダンジョン自体は、誰にも情報を隠してない。壁面の構造も、ボスの弱点も、隠し部屋の存在も——全て、最初からそこにある。ただ読める人間がいなかっただけだ」
言葉が——自然に出てきた。台本はない。考えてもいなかった。だが胸の奥にずっとあったものが、今日の空気の中で形になった。
「俺の鑑定が読み取った情報は、ダンジョンが最初から全ての人間に見せようとしていたものだ。俺はそれを——そのまま、全部公開する。それが俺のやり方です」
【……】
【情報の民主化……】
【マコト:……よく言った。お前のその姿勢が、俺がお前を応援する理由だ】
【泣いてる。なんで泣いてるんだ俺は】
【これが鑑定士イブキの原点か……】
【シロ:「情報の民主化」——この言葉、覚えておきます】
コメント欄が共感で埋まった。「情報の民主化」という言葉が切り抜かれ、SNSで拡散され始めている——凛からのメッセージでそれがわかった。「トレンド入りしています。『情報の民主化』がハッシュタグになっています」。
久我山がカウンターの向こうで、静かに頷いていた。何も言わない。だがその沈黙が——同意だった。十年前、情報が封じられた側にいた男が。今日、情報を解き放つ側にいる男の言葉を聞いている。
配信の後半は視聴者との質疑応答に充てた。「次はいつダンジョンに潜るんですか」「管理局とはどうなってるんですか」「鷹取のスカウトを断ったって本当ですか」。答えられることは答え、答えられないことは正直に言った。「今は——準備中です。次に潜る時は、今までで一番深い場所に行く予定です」。
◇
配信を終えた後、久我山がカウンターの奥から——何かを持ってきた。
古いノート。革表紙。角がすり減っている。十年分の歳月が染みついた色をしている。
「お前の配信を見て——確信した。お前になら見せていい」
久我山の声が変わっていた。いつもの穏やかさの下に——震えがある。長い間封じてきた記憶に触れる覚悟の震え。
「十年前、俺がサードダンジョンの八層で見たもの。あの時は誰にも信じてもらえなかった」
ノートを受け取った。革表紙の手触りが使い込まれて柔らかい。表紙に手書きの文字。インクが色褪せているが、読める。
『未踏域調査記録 久我山修 メモ』
ページを開いた。黄ばんだ紙に、丁寧な手書きの文字が並んでいる。図解入り。ダンジョンの通路の断面図。壁面の模様のスケッチ。温度の記録。隣にメモ書き——「壁が脈打っている? 錯覚ではない。全員が確認」。
「これは——」
「十年前、俺はBランクパーティでサードダンジョンの深層を探索していた。五人パーティだ。鑑定持ちが一人、前衛が二人、後衛が一人、俺は装備担当。八層の奥に——今は封鎖されたエリアがあった。そこで俺たちは——お前が10.5層で見たのと同じものを見た」
久我山の目が遠くを見ていた。十年前の暗闇を。カウンターの上で、革を磨いていた手がゆっくりと握りしめられている。
「脈動する壁。温かい空気。金色の光。パーティの鑑定持ちが——異常なデータ量に圧倒されてパニックを起こした。叫びながら走り出して、撤退中に事故が起きた。天井が崩れて——俺は膝をやった。仲間の一人は——二度とダンジョンに入れない体になった。それが——引退の原因だ」
この店。この装備。鑑定眼鏡。全ての始まりだった久我山が——十年前から、俺と同じものを見ていた。
「久我山さん。このノート——預からせてもらえますか。凛に見せたい」
「持っていけ。十年間——ずっと一人で抱えてた。もう十分だ」
久我山の手が微かに震えていた。ノートを手渡す手が。十年分の沈黙の重さが——その震えに詰まっていた。
店を出た。夜の空気が冷たい。ポケットの中に久我山のノート。胸の中に「情報の民主化」という自分の言葉。
帰宅してノートの写真を凛に送った直後——凛からメッセージが来た。
「一颯さん、別件で緊急の報告があります。星霜鉱の原石のデータを再分析したところ、見落としていた特性が見つかりました。『共鳴特性:ダンジョンコアとの親和性——高』。これは——設計図の断片と同じ共鳴パターンです」
星霜鉱。久我山の店で初めて鑑定したあの石。あの時は「希少鉱物」としか読めなかったデータの中に、ダンジョンコアとの共鳴特性が隠れていた。鑑定スキルが成長した今の俺なら読める情報。だがあの時点では——見えなかった。
久我山のノート。千歳の内部資料。星霜鉱の共鳴データ。設計図の断片が五枚。
パズルのピースが——集まってきている。
深夜のアパートで、久我山のノートを膝に載せたまま、天井を見上げた。冷蔵庫の唸り声。窓の外の街灯。リストラされた日から始まった旅が——想像もしなかった場所に辿り着こうとしている。




