管理局の女
古い木造ビルの二階。狭い階段が軋む。木の匂い。コーヒーの匂いが、階段を上がるにつれて濃くなっていく。サイフォン式の、深煎りの豆の香り。入り口に「炎珈琲」と書かれた古びた看板。客が少ない——というより、常連以外は辿り着けない立地だ。管理局の人間が密会場所に選ぶのも頷ける。
奥の個室席に、女が一人座っていた。
朝霧千歳。三十代前半。ダンジョン管理局調査課主任。黒いスーツに白いブラウス。髪をきっちりとまとめている。化粧は薄い。機能的な外見だ。だが目だけが——異質な熱を帯びていた。研究者の目。凛と同じ種類の光を持つ目。
テーブルの上にはコーヒーが二杯。俺の分も注文してあった。湯気がまだ立っている。到着の時間を正確に計算して注文していた。細かい人間だ。計画性がある。
凛には事前に伝えてある。千歳の名前も、管理局調査課という所属も。凛の返事は「録音をお願いします。分析します」だった。ポケットの中でスマホの録音が動いている。
「お忙しい中、ありがとうございます」
千歳の声は電話で聞いた通り、落ち着いていて明瞭だった。だが対面して気づいた。声に——かすかな緊張が混じっている。この女も、リスクを冒してここに来ている。
「単刀直入に伺います。管理局の指示じゃないとおっしゃいましたが——じゃあ何の目的で」
営業マンの癖だ。雑談から入らない。時間が惜しい。相手の反応を見るためにも、直球が有効な場合がある。
千歳がコーヒーカップを両手で包んだ。指が細い。爪が短く切り揃えられている。実験器具を扱う手だ。
「私はダンジョンの学術的研究を担当しています。生体鉱物の分析。階層構造の解明。魔素の循環メカニズム。ダンジョンが何であるか——その根本的な問いに答えるための部署です」
「管理局にそんな部署があるとは知らなかった」
「ほとんどの人が知りません。予算も人員も最小限です。影山局長は——ダンジョンの管理と利用には関心がありますが、理解には関心がない」
声に苦みが混じった。上司への不満を外部の人間に漏らすのは、組織人として禁忌だ。それを承知で話しているということは——千歳の不満は、個人的な感情ではなく、信念に基づいている。
「あなたの配信を見て確信しました。あなたの鑑定データは、これまでのどの鑑定持ちよりも——桁違いに情報量が多い。学術的に計り知れない価値がある」
「それで——協力関係を提案しに来たと」
「はい。データ提供と引き換えに、管理局内部の情報と装備面での支援を提供します」
千歳がテーブルの下から——茶色い封筒を滑らせた。管理局のロゴ入り。「機密」の赤いスタンプが押されている。封筒の角が折れている。カバンの中で何度も出し入れした痕跡。持ち出すかどうか迷った痕跡。
「見てください」
封筒を開いた。指先に紙の感触。古い。紙が黄ばんでいる。インクの匂いが微かに残っている。十年の歳月を経た文書の重み。日付は——十年前。ダンジョン出現直後。
千歳がカウンターの向こうに目を走らせた。他の客がいないことを確認している。喫茶店のマスターはサイフォンの前で背を向けている。古いジャズがスピーカーから低く流れていた。ここなら、盗聴の心配は少ない。
タイトル。『サードダンジョン内部構造調査報告書(暫定版)——未登録空間の検出と対応方針について』。
読み進めた。十年前、ダンジョン出現直後の初期調査で、複数の未登録空間が検出されていた。各階層のボスエリア付近に、フロアマップに存在しない空間の反応がある——と報告されている。
「十年前から——知っていた」
「はい。この報告書は正式に受理されましたが、その後——」
千歳が別のページを指した。赤いスタンプ。『調査凍結——総合的判断により当面の調査を見送る。指示者:影山総司(当時・調査課長)』。
影山が封じた。十年前の時点で、影山は未登録エリアの存在を知りながら——情報を凍結した。
書類を持つ手が震えた。怒りではない。困惑だ。十年間、未登録エリアの存在は知られていた。にもかかわらず——誰一人、その事実を公表しなかった。管理局という組織が、一人の人間の判断で、人類にとって重要な情報を握り潰した。
「なぜですか。なぜ影山は凍結した」
「わかりません。少なくとも公式の記録には理由が残されていない。ただ——」
千歳がコーヒーを一口飲んだ。カップを置く音が、古い喫茶店の静寂に吸い込まれた。サイフォンが小さな音を立てている。
「影山局長は、ダンジョンの『意思』を恐れている。それは確かです。あなたの配信で10.5層が公開された時——ダンジョンからのメッセージが表示された瞬間、局長の顔色が変わりました。会議室で全員がモニターを見ていましたが、局長だけが椅子から立ち上がった。私が見た限り、局長が動揺したのは——あの瞬間が初めてです」
千歳の声が低くなった。
「局長は何かを知っている。十年前から」
影山が恐れている。ダンジョンの意思を。十年前に封じた理由もそこにあるのか。未知の存在との接触を——避けたかったのか。
「柊さん。私が提案したいのは、対等な協力関係です。あなたのデータを学術的に分析させてもらう代わりに、管理局側の情報をお伝えします。ただし——」
「ただし?」
「データの公開は続けてください。あなたが公開をやめれば、管理局は全てを闇に葬ります。公衆の目がある限り——隠蔽は不可能です。それが、あなたにとっても私にとっても最大の安全保障です」
千歳の言っていることは、凛と同じだった。情報の公開が、最大の盾になる。組織の内部にいる千歳が、外部の俺にそれを求めている。皮肉な構図だ。営業マン時代、競合他社の社員が内部告発をしてきたことがある。その人間は自分の会社の不正を正したかったのだが、社内では声を上げられなかった。だから外部の力を借りた。千歳も同じだ。管理局という巨大組織の中で、一人では変えられないものを——外部の力で動かそうとしている。
サイフォンの水が沸騰する音が聞こえる。コーヒーの苦い香りが個室に漂っている。千歳の持ってきた十年前の書類が、テーブルの上で黄ばんだ色を見せている。時間の重み。十年間封印されていた情報が、今この瞬間に開封されている。
「わかりました。協力します。ただし条件がある。俺の鑑定データの公開は、俺が決める。管理局にも、あなたにも、制限されない」
千歳が微かに笑った。初めて見る表情だった。緊張が少しだけ解けている。堅い表情の下に隠れていた、研究者としての素顔が一瞬だけ覗いた。
「それで結構です。むしろ——それが条件でなければ、あなたに協力する意味がない」
千歳が封筒を回収した。書類は持ち帰る必要がある。管理局の機密文書だ。紛失すれば千歳のキャリアが終わる。
「写真を撮ってもいいですか」
「必要な部分だけ。ただし、出所は絶対に明かさないでください」
スマホで書類の要所を撮影した。封印のスタンプ。影山の署名。日付。これだけあれば——凛が分析できる。
コーヒーを飲み干した。冷めていた。だが苦みが口の中に残っている。この味を覚えておこうと思った。管理局の内側に、初めて味方ができた日の味だ。
喫茶店を出た。夜の神保町。古書店の看板が並ぶ通り。街灯がオレンジ色の光を落としている。千歳が数歩先を歩いている。別れ際——千歳が振り返った。
街灯の光が、千歳の横顔を照らしていた。遠くに——サードダンジョンのゲートが、空の低い位置に微かな光を放っているのが見えた。
「最後にひとつ」
千歳の声が低くなった。
「影山局長が隠しているのは未登録エリアだけではありません」
風が吹いた。三月の冷たい風。千歳のまとめた髪が、わずかに乱れた。
「十年前、ダンジョンが出現した瞬間——局長が最初に確認したもの。それはダンジョンの構造でも、魔獣の分布でもありませんでした」
千歳の目が——研究者の目から、別の何かに変わった。同情。あるいは——警告。
「鑑定スキルの持ち主のリストです。あなたの名前は——十年前から、局長のファイルにあります」
十年前。俺はまだ大学生だった。ダンジョンが出現した日のことは覚えている。大学の食堂でテレビを見ていた。画面に映る巨大なゲート。アナウンサーの声が震えていた。「都内に突如出現した構造物、当局は現在調査中——」。世界が変わる日だと思った。
だがその日——俺の名前が、すでに誰かのリストに載っていた。鑑定スキルの持ち主として。まだスキルの存在すら自覚していなかった俺の名前が——影山のファイルにあった。
鑑定スキルは天賦のものだ。ダンジョン出現と同時に、一定の資質を持つ人間に発現する。俺がスキルを自覚したのはダンジョン出現の数ヶ月後だった。だが影山は——出現したその日に、スキル保有者のリストを確認していた。つまり管理局は、ダンジョンが出現する前から——あるいは出現と同時に——鑑定スキルの存在を把握する手段を持っていたことになる。
千歳が頭を下げて去った。ヒールの音が路地裏に吸い込まれていく。古書店のシャッターが降りた通りに、その音だけが響いた。
俺は立ち尽くしていた。神保町の古い街灯の下で。十年前から——俺は見られていた。知らないうちに。名前も顔も、誰かのファイルの中にあった。
帰りの電車の中で、窓に映る自分の顔を見つめた。この顔が——十年前から、管理局の監視対象だった。リストラされて、求人サイトをスクロールしていた日も。ダンジョンに初めて入った日も。ずっと——見られていた。
背筋が冷たくなった。電車の窓の外を、夜の街灯が流れていく。オレンジ色の光の列が、まるで監視カメラの点滅のように見えた。




