初配信準備——視聴者ゼロからの船出
カメラのレンズが俺を映している。その小さな黒い瞳の奥に、六畳一間の部屋と、やや疲れた顔をした三十二歳の男が映り込んでいるはずだ。
「えー……皆さん、こんばんは。鑑定士イブキです。初配信、ということで」
声が上ずっている。自分でわかった。
配信プラットフォームの画面を確認する。視聴者数——一人。たぶん、自分のアカウントが反映されているだけだ。コメント欄は真っ白。ただの白い空間が、画面の右側に張りついている。
「今日は、テスト配信として、自宅にあるものを鑑定してみようと思います」
誰に向かって喋っているんだ。この白い空間に。
テーブルの上のマグカップに鑑定をかけた。
『陶磁器マグカップ
素材:磁器(天草陶石由来)
製造:美濃焼・量産品
製造年:2021年
容量:280ml
使用回数:推定1,247回
備考:取っ手と本体の接合部に微細なクラック(0.2mm)あり。推定残存寿命:通常使用で約3年』
使用回数まで出るのか。千二百四十七回。このマグカップで、俺は千二百四十七回コーヒーを飲んだらしい。
「えっと、マグカップの鑑定結果です。素材は天草陶石由来の磁器で、美濃焼の量産品ですね。使用回数が千二百四十七回、取っ手にヒビが入ってるそうです……」
視聴者数、二人。コメントなし。
冷蔵庫の中のペットボトル、テレビのリモコン、本棚の文庫本。片っ端から鑑定して読み上げてみた。文庫本の鑑定結果には印刷工程まで表示されて、さすがに自分でも少し面白いと思ったが、画面の向こうの反応はない。
視聴者数は最大で三人になった。そのうち一人のハンドルネームが『シロ』と表示されていたが、コメントは最後まで一件も来なかった。三人とも無言で見て、無言で去っていった。
三十分間、一人で喋り続けた。壁に向かって。
配信終了ボタンを押す。LEDランプの赤い点滅が消え、部屋が急に暗くなった。
(まあ、そうだよな)
マグカップの使用回数なんか聞いて、誰が面白いと思うんだ。企画がそもそも間違っている。クライアントのニーズを完全に読み違えている。営業時代の俺そのものだ。分析はするが、それを人の心に届ける力がない。
カメラのレンズを布で拭きながら、ため息をついた。四万三千円の機材が、もう無駄遣いに思えてきた。
スマホの通知を確認した。配信のアーカイブ再生数——ゼロ。フォロワー増加——ゼロ。新規コメント——ゼロ。ゼロの三冠達成。
自嘲が漏れた。いっそ清々しい。
◇
翌日の昼過ぎ。
渋谷の裏通りにある探索者向け装備店『カーゴ』は、雑居ビルの地下一階にあった。
階段を降りると、革と金属油の匂いが鼻を突いた。重たい空気の中に、鉄を焼いた後の乾いた残り香が混じっている。壁一面に並ぶ武器——剣、槍、短剣、弓、メイス——が、薄暗い照明の下で鈍い光沢を放っている。無意識に鑑定が起動しかけて、慌てて止めた。店の商品をいちいち鑑定していたら不審者だ。
場違いだ。ここにもまた、その感覚がつきまとう。
カウンターの奥から、ぬっと大きな男が現れた。四十歳くらいだろうか。ごつい手に、細かい火傷の跡がいくつも残っている。鍛冶職人の手だ。
「いらっしゃい。探索者かい」
「あ、はい。ええと、Dランクなんですけど——」
探索者カードを見せると、男はちらりと見て、それだけだった。眉ひとつ動かさない。
鼻で笑われることを覚悟していたから、拍子抜けした。
「久我山修だ。この店のオーナー兼、何でも屋。何を探してる」
「ダンジョンに入るための、基本的な装備を……初心者向けで、なるべく安いものを」
「初めてか」
「免許は五年前に取りましたけど、実質初めてみたいなものです」
久我山は腕を組んで、しばらく俺を観察していた。品定めをされている。営業マン時代、クライアントにこういう目で見られたことがある。値踏みの目。
だが久我山の目には、侮蔑の色がなかった。
「スキルは?」
「鑑定です」
「ほう」
その一言に、微かな興味の色が混じった気がした。気のせいかもしれない。
久我山は棚の奥から装備を引っ張り出し始めた。軽量のプロテクター、走りやすい探索用ブーツ、小型のバックパック、携帯用の光源。
「鑑定持ちなら、重装備は要らん。逃げ足が命だ。これとこれとこれ。全部で三万八千。新品ならこの倍はするが、中古のリペア品で組んだ」
「あ、ありがとうございます……」
安い。中古とはいえ、探索者装備としては破格だ。久我山は手際よく装備を並べながら、不意に口を開いた。
「配信、やるんだろ」
「え、なんでわかるんですか」
「この時代にDランクの鑑定持ちがダンジョンに入ろうって言うなら、金稼ぎだろう。戦闘で稼ぐのは無理だから、配信か、採取か、ガイドか。で、お前さん、カメラのレンズ跡が右肩についてる」
反射的に右肩を見ると、確かにカメラストラップの跡が微かに残っていた。営業マンの観察力か、と思ったが違う。元探索者の観察力だ。
「カーゴの久我山修。元Bランク探索者だ。膝をやって引退した」
久我山はそう言って、一瞬だけ目を曇らせた。何か別のことを考えているような、遠い目。だが、すぐにいつもの仏頂面に戻った。深くは訊かないことにした。初対面で踏み込む領域じゃない。
「配信やるなら、助言をひとつ。鑑定持ちなら、ダンジョン内の鑑定映像を配信しろ。誰もやってない」
「鑑定映像?」
「そうだ。鑑定ウィンドウの内容を、配信画面に重ねて流すんだ。戦闘系の配信者は山ほどいるが、鑑定でダンジョンの中を解説する配信者なんて一人もいない。差別化だよ」
鑑定でダンジョンの中身を見せる。壁や床、罠やアイテムの情報を、視聴者にリアルタイムで公開する。
昨日、ゲート前で見た鑑定結果が脳裏をよぎった。あの異常なほど詳細な情報。あれがダンジョンの中で——壁や床や、未知の構造物に対して表示されたら、どうなる。
なるほど。
「……それ、面白いかもしれません」
「面白いかどうかは客が決める。だが、誰もやってないことをやるのが、一番早い」
久我山の言葉が、妙に腹に落ちた。誰もやってないこと。今まで三十二年、人と同じことをして、人と同じ結果しか出せなかった俺に、これ以上的確な助言はない。
装備一式を購入し、さらに久我山が配信用のカメラマウント——肩に固定して手ぶらで撮影できるアタッチメント——を探してくれた。
「これはサービスだ。初心者には投資しておく。あとで良い客になるかもしれないからな」
商売人の顔で笑った久我山に、一颯も思わず笑い返していた。リストラされてから、初めて自然に笑った気がする。営業職で八年間、作り笑いばかりしてきた顔の筋肉が、久しぶりに本来の動き方を思い出した。
帰り際、久我山がカウンターの奥から何かを取り出した。
「ああ、そうだ。これ、持っていけ。お守り代わりだ」
古びたペンダント。銀色の鎖に、小さな水晶のような石がぶら下がっている。年代物だが、石には傷ひとつない。光の角度によって、ごく淡い青と紫の中間のような色がちらつく。
「いいんですか?」
「俺じゃ価値がわからんかった代物だ。昔、ダンジョンの奥で拾ったんだが、鑑定に出しても『アクセサリー(装飾品)』としか出なくてな」
受け取ったペンダントは、掌の中でひんやりと冷たかった。
◇
自宅に戻り、装備を試着してから夜になった。
明日はいよいよ、初のダンジョン配信だ。
準備リストを確認する。装備、配信機材、予備バッテリー、簡易救急セット。やれることはやった。あとは——やるだけだ。
正直に言えば、怖い。ダンジョンの中には魔物がいる。戦闘力ゼロの俺がそこに足を踏み入れるというのは、丸腰で野生の熊の巣穴に入るようなものだ。だが、退職届に書いた日付は着実に近づいている。怖がっている時間が、もったいない。
ふと、テーブルの上に置いた久我山のペンダントが目に入った。
(お守り代わり、か)
何気なく、鑑定を起動した。
『アクセサリー(装飾品)——』
最初の一行は、久我山が言った通りだった。
だが。
一行目の下から、文字が湧き上がってきた。びっしりと。画面を埋め尽くすように。
『素材:ダンジョンコア結晶(微小片)
生成階層:不明(推定30層以深)
生成年代:ダンジョン構造物と同一時期
結晶格子構造:六方晶系・変則配列(既知の鉱物データベースに該当なし)
魔素含有率:97.2%(通常のダンジョン素材の約30倍)
共鳴特性:ダンジョンコアとの親和性——高
エネルギー残存量:38.7%(フルチャージ時の推定出力は……)
表面微細文様:解読不能——データベース外の言語体系
備考:本品はダンジョン深層部の未踏域から自然剥離したコア結晶の断片と推定される。通常の鑑定では装飾品としてのみ識別されるが、これは結晶表面の魔素膜が情報を——』
鑑定ウィンドウが、青白い光で部屋を満たしていた。
ペンダントを握る手が震えている。ただの装飾品。久我山の鑑定では、そうとしか出なかった品。
だが俺の鑑定には——これだけの情報が見えている。
(どういうことだ)
昨日のゲート前で見た装備の鑑定データ。そして今、このペンダント。
俺の鑑定は、他の鑑定スキルとは何かが違う。
不安と期待が、胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。明日、ダンジョンの中で鑑定を使ったら——何が見えるんだろう。
ペンダントの石が、掌の中で微かに脈動した気がした。鑑定ウィンドウの青白い光が消え、部屋がまた暗闇に沈む。
冷蔵庫の唸り声だけが、沈黙を埋めていた。




