シロ、接触——鑑定データの真実
非通知ではない。昨日の着信履歴に残っていた番号からだ。枕元のスマホを取り上げる。画面に映る番号を見つめて、一瞬躊躇した。昨日のボス戦の疲労がまだ体に残っている。全身が筋肉痛で、起き上がるだけで腹筋が悲鳴を上げた。戦ったのは三島なのに、俺まで筋肉痛になるのは——緊張で全身に力を入れていたからだろう。カーテンの隙間から差し込む朝日が、枕元のスマホの画面を白く光らせている。
「おはようございます。朝霧です。昨日はお疲れのところ失礼しました」
丁寧すぎる口調。官僚の話し方。だが昨日電話で聞いた時ほどの硬さはない。どこか——声に温かみがある。営業電話を何千本も受けてきた耳には、その微妙な差がわかる。マニュアル通りの声と、自分の言葉で喋っている声の違い。この人は——後者だ。
「5層の世界記録、改めておめでとうございます。管理局内でも話題になっています」
「ありがとうございます。で、昨日の件なんですが——」
「はい。あなたの鑑定データに学術的関心がある、という件ですね」
「正直に言うと、管理局に対しては警戒心があります。いきなり本部に来てくださいと言われても」
電話の向こうで、微かな笑い声が聞こえた。作り笑いではない。本当に笑っている。
「ごもっともです」
朝霧の声のトーンが、わずかに下がった。次の言葉を慎重に選んでいる間。営業マン時代、重要な交渉の前に相手が見せる、あの一瞬の沈黙と同じだ。
「柊さん、率直に申し上げますが——管理局の全員があなたに好意的とは限りません。局内にも様々な思惑があります」
正直な物言いだった。官僚らしくない。桐生が見せた写真が脳裏をよぎる。影山局長と鷹取が親しげに話す姿。管理局の中にも、派閥がある。朝霧は——影山とは別の立場にいるのかもしれない。
「ですが私個人は、純粋にあなたの鑑定データに学術的な関心を持っています。ダンジョンの構造を解明する手がかりになる可能性がある。それだけです」
「考えさせてください」
「もちろんです。いつでもお待ちしています」
通話を切った。
朝霧千歳。ダンジョン管理局調査課の主任。桐生の警告した「管理局の動き」とは別の文脈の人物なのか、それとも——同じ穴の狢なのか。
判断がつかない。保留にした。営業マン時代に学んだ。判断がつかない時は、動くな。追加情報が来るまで待て。
◇
その日の夕方。久我山の店『カーゴ』を訪ねた。
5層のドロップ品を見せるためだ。翼刃の素材は高額で取引される。久我山に鑑定してもらい、適正な売却先を相談したかった。店のドアを開けると、革と金属の匂いが鼻を突く。いつもの匂いだ。だが今日は、もう一つ——コーヒーの香りが混じっていた。久我山が淹れたものではない。別の誰かが先にいる。
だが店に入った瞬間、カウンターの向こうに——見知らぬ女性がいた。
銀縁の眼鏡。肩までの黒髪。細身で、背筋がぴんと伸びている。カウンターの上にノートPCを広げていて、画面にはグラフやチャートが表示されている。キーボードを叩く指の動きが速い。プログラマーの手だ。
久我山がカウンター越しに一颯を見て、あごで女性を指した。
「おう。来たか。お前さんに会いたいって人だ」
女性が振り返った。銀縁眼鏡の奥の目が、一颯を捉える。一瞬、息を呑んだような表情をした。すぐに平静を取り繕ったが、目の奥の興奮は隠しきれていない。
「……初めまして。白峰凛と言います」
声は落ち着いていたが、わずかに上ずっていた。緊張しているのが見てとれた。
「配信でのハンドルネームは——シロです」
心臓が跳ねた。
「シロ……あの、シロ?」
「はい。初回のテスト配信から、全てのアーカイブを保存しています」
白峰凛は二十五歳のITエンジニアだった。フリーランスでシステム開発を手がけている。名刺を受け取った。シンプルなデザインに、名前とメールアドレスだけ。余計な情報を載せない名刺は、自分の実力に自信がある人間のものだ。桐生の名刺もそうだった。
一颯の配信を初回から——視聴者三人だった、あのテスト配信から見ていたという。
「あの時から、あなたの鑑定のUIが通常と違うことに気づいていました」
凛はノートPCの画面を一颯に向けた。画面には、一颯の過去の配信からキャプチャした鑑定ウィンドウのスクリーンショットが数百枚、時系列で並んでいる。全配信を記録し、全ての鑑定ウィンドウを切り出している。この作業量は——尋常じゃない。
「これは、他の鑑定スキル持ちの配信者のUIです」
別のウィンドウを開く。比較用のスクリーンショット。通常の鑑定ウィンドウは項目が五つ程度。テキストは簡素で、フォントも小さい。三島が言っていた通りだ。
「見てわかる通り、通常の鑑定はテキストベースで、項目数は最大でも五つ程度。ところがあなたの鑑定は——」
凛の指がキーボードを叩く。打鍵音がカーゴの静かな店内に響いた。グラフが表示された。
「情報量が百倍以上です」
凛の指がグラフの曲線をなぞった。爪が短く整えられている。キーボードを打つ人間の爪だ。
「しかも、ダンジョンの深層に行くほど加速度的に精度が上がっている。1層では項目数が平均十二だったのが、5層では平均三十七。しかも4層から予測分析まで追加されている」
データが可視化されたグラフは、右肩上がりの指数関数的な曲線を描いていた。液晶画面の色彩が凛の銀縁眼鏡に反射して、その奥の目が——輝いていた。研究者の目だ。何かを発見した人間の、押さえきれない興奮。
「これ、鑑定じゃないんです」
凛の声が、少しだけ震えた。技術者としての冷静さを保とうとしているが、知的興奮が抑えきれていない。
「あなたの鑑定は、ダンジョンの——ソースコードを読んでるんです」
ソースコード。
プログラムの設計図。システムの根幹を記述する言語。
「鑑定が表示しているのは、単なるステータス情報じゃありません。ダンジョンそのものの構造データです。建築で言えば設計図。プログラムで言えばソースコード。あなたのスキルは——ダンジョンの中身を、直接覗き込んでいる」
一颯は口を開きかけて、閉じた。言葉が出てこなかった。
営業マン時代、クライアントから想定外の要求を突きつけられた時、頭が真っ白になることがあった。あの感覚と似ている。だがあの頃の空白は恐怖だった。今の空白は——衝撃だ。
ソースコード。設計メモ。行動アルゴリズム。生成年代。管理者権限。鑑定に表示されてきた全ての情報が——一つの仮説に収束していく。俺の鑑定は、ステータスを読んでいるんじゃない。ダンジョンの設計書そのものを読んでいる。
ハズレスキルだと思っていた。攻撃力ゼロ。回復力ゼロ。見るだけの、戦えないスキル。だがもし凛の仮説が正しいなら——このスキルは、ダンジョンそのものの根幹に触れている。
「あなたの鑑定データの全ログを解析させてください」
凛が頭を下げた。深く。
「お願いします。この鑑定の正体を——突き止めたいんです」
久我山がカウンターの向こうで、静かにコーヒーを淹れている。太い指がカップを二つ、テーブルに置いた。一颯の分と、凛の分。
コーヒーの湯気が、鑑定データのグラフが表示されたPCの画面の前で、ゆらゆらと揺れていた。苦い香りが、カーゴの革と金属の匂いに混じる。
「……一緒に突き止めよう」
一颯は言った。
「この鑑定の正体を」
凛が顔を上げた。銀縁眼鏡の奥の目が潤んでいるように見えたのは、液晶画面の光のせいだろう。
◇
凛が帰った後、一颯は自宅に戻った。
5層のドロップ品を整理していると、見覚えのない薄い板が混ざっていた。昨日、ヴァルチャーの残骸から回収した戦利品の中に紛れていたものだ。
鑑定をかける。
『ダンジョン設計図の断片(3/7)』
三枚目。ボス戦の混乱の中で、気づかずに回収していたのか。鑑定ウィンドウが追加情報を表示する。
『構造情報密度:高(全体の約43%を復元可能)
組み合わせ条件:既存の断片(1/7, 2/7)と物理的に重ねることで立体構造図が生成される
注意:鑑定スキル非保有者には視認不可』
三枚の断片を机の上に並べた。1枚目、2枚目、3枚目。
重ねてみた。
青白い光が、部屋を満たした。
立体映像が浮かび上がる。サードダンジョンの構造図。三枚分——全体の約四割。地下五十層を超える巨大構造の輪郭が、4層で見た時よりさらに鮮明になっている。エネルギーラインの分岐が増え、各層の部屋の配置まで見えるようになった。窓から差し込む街灯の光が、立体映像の青に負けて消えていく。部屋全体が、ダンジョンの内部に沈み込んだような錯覚に陥った。
そして——構造図の中央に、文字が浮かんだ。
明滅する光の文字。
鑑定ウィンドウではない。設計図そのものが発している文字だ。
『歓迎する、読み手よ(Welcome, Reader)』
部屋中を満たす青白い光の中で、一颯は息を止めた。
読み手。
ダンジョンが——俺を、呼んでいる。
俺の鑑定を。俺が「読む」ことを。
歓迎している。
凛が言った言葉が蘇る。「あなたの鑑定は、ダンジョンのソースコードを読んでいる」。ソースコードを読む人間のことを、プログラマーは——リーダー(Reader)と呼ぶ。
微かな振動音が部屋に響いていた。三枚の断片が共鳴し、文字が明滅を繰り返し、そして——静かに消えた。
暗闇に戻った部屋で、一颯は長い間、机の上の断片を見つめていた。
手が震えていた。恐怖ではない。
リストラされた夜、冷蔵庫の唸り声だけが聞こえる部屋で求人サイトをスクロールしていた。特技欄に書けるものは何もなかった。鑑定スキル——ハズレ。そう思い込んでいた。
だがこのスキルは、ダンジョンの設計者が「読み手」として歓迎するほどの——
自分が持っているものの本当の価値を、初めて垣間見た震えだった。




