第九話:嘘つきな二人
嵐のような一夜が明け、訪れたのは白銀の静寂でした。
昨夜の醜態を思い出し羞恥に揺れるサラと、いつも通り、けれどどこか変化の兆しを見せるファル。
「名前」を呼ぶ。それだけのことが、二人の距離を僅かに、けれど決定的に変えていきます。
意識が浮上するよりも先に、耳元で刻まれる一定の鼓動が届いた。
眩い白光がまぶたを透かす。
サラは自分が、夜通し誰かの腕の中にいたことを悟った。
(……あ。私、昨日の夜……)
昨夜の出来事が、血まみれの記憶と共に一気に脳内を駆け巡る。
腹部を貫かれた熱い痛みと絶望。
そして、ファルに「死にたくない、一緒にいたい」と縋り付いたこと。
羞恥で顔が熱くなり、そっと腕から抜け出そうと身じろぎする。
けれど、背中に回されたファルの腕は、それを許さなかった。
「……まだ、冷えますよ」
降ってきたのは、昨夜の激情など無かったかのような、静かな、けれど有無を言わせぬ響きの声だった。
サラが顔を上げると、朝日を背負ったファルが、美しく優しい眼差しでサラを見下ろしていた。
「ファル……離して。もう、大丈夫、だから」
震えるサラの声。
けれど、昨晩のような恐怖ではなく、羞恥による震えだと自覚してしまい、ファルから視線を反らしてしまう。
「いいえ。昨夜のあなたの震えは、まだ消えていません」
そう言って、彼はさらに深く彼女を抱き寄せたが、くすっと笑う声が聞こえた。
(分かってやってる……)
サラを抱き締めるその腕は、壊れ物を扱うような慎重さと、慈しみ愛でるような優しさを感じさせる。
サラは彼の胸に顔を押し当てられたまま、昨夜聞いた震える声。
――『数千の歳月が過ぎようとも、必ず見つけて守る』という誓いを反芻した。
(あの言葉は、誰が……? 私に言ったの……? それとも、あの血まみれの記憶の中にいた、誰かに?)
答えは出ない。
ただ分かるのは、あの瞬間におきた事を「理解してしまった」という事実だけだ。
「サラ」という自分が、別の「誰か」に飲み込まれてしまうような不安が込み上げる。
「……私って……何なんだろう」
思わず口をついた言葉。
サラの掠れた声に反応してか、背中に回された腕に、少しだけ力が入る。
「何でもない。サラさんは、サラさんです」
「……ぅん」
短い返事。
それ以上は、何も言えなかった。
ファルがようやく腕を解くと、名残惜しそうにサラの髪を一房だけ指先で整え、彼はそのまま立ち上がった。
ファルが軽く手をかざすと、足元にあった毛布や焚き火の痕跡は、風に溶けるようにして消えた。あとに残ったのは、何もなかったかのような平坦な雪原だけだ。
ファルはサラに向き直ると、静かに手を差し出した。
「行きましょうか。この先、足元は私が整えます。サラさんはただ、前だけを見ていてください」
差し出された手は、今はもう、ごく自然な温かさを持ってそこにある。
昨夜の醜態を、彼は責めることも、殊更に触れることもない。
その「いつも通り」の振る舞いが、今は何よりもありがたかった。
(……ファルは、やっぱり、うそつきだね)
サラは心の中で、小さく零した。
あんなに激しく動揺していたはずなのに、今は何事もなかったかのように穏やかに笑っている。
その変わり身の早さが、少しだけ可笑しくて、同時に彼なりの気遣いなのだと理解できた。
サラはその手を取り、立ち上がる。
二人は再び、北へと歩き出した。
荷物もなく、ただ重なり合う足音だけが静かに響く旅路。
「……ねえ、ファル」
「はい」
「なんでもない」
一瞬、ファルは不思議な顔をした後、嬉しそうに笑みを溢した。
「サラさん、昨日から普通に私を名前で呼ぶようになりましたね」
言われて初めて、サラは自分の口をついた言葉の響きを自覚した。
これまでは、どこか一線を引いた呼び方をしていたはずだった。
得体の知れない力を持つ彼に対し、無意識のうちに作っていた心の壁。
昼間最初に呼んだのは、決意があったから意識して名前を呼んだ。
けれど、昨夜のあの絶望的な闇の中、彼の体温に縋り付きながら、確かにそこに居るのだと確かめたくて、何度もその名を呼んで、返事を聞いていた気がする。
(……そんなの、今さら恥ずかしくて言えるわけないじゃない)
隣を歩く彼は、まるでおもちゃを貰った子供のように、隠しきれない喜びをその柔らかな目元に滲ませている。
そんなに嬉しいことなのだろうか。
ただ、名前を呼んだ。
それだけのことが。
サラは誤魔化すように、少しだけ歩を早めた。
「……別に、深い意味はないよ。短くて呼びやすいだけ」
「そうですか。それでも、私はとても光栄です」
「……大袈裟。少し調子に乗ってない?」
サラが少しだけ唇を尖らせると、ファルは心底意外そうに目を丸くした。
「私が、ですか?」
「そうだよ。さっきだって、わざと離さなかったでしょ? 私が気まずい思いをしてるのを知ってて」
「まさか。……いえ、否定はできませんね。あなたが私の名を呼んで頼ってくれるのが、あまりに嬉しかったので」
さらりと言ってのける厚顔無恥さに、サラは深く溜息をつく。
けれど、不思議と嫌な気はしなかった。
真っ直ぐに自分を肯定してくるその声が、今は少しだけむず痒い。
昨夜見た凄惨な「誰か」の記憶と、目の前で微笑むこの男。
その繋がりを問い質すのはまだ怖いけ。
けれど、名前で呼ぶことに違和感が消えたのは、彼が差し出した安らぎに、自分もまた甘えていたいと思っているからかもしれない。
「これからも、そう呼ぶ。……嫌?」
「いいえ。……いえ、一生、そう呼んでください」
大袈裟な返事に呆れて溜息を吐きながらも、サラの唇の端には、小さな、けれど確かな笑みが浮かんでいた。
しばらく無言のまま、雪を踏みしめる音が響く。
不意に、ファルがサラの顔を覗き込むようにして歩調を緩めた。
「お疲れではありませんか? 足場は固めていますが、どうしても慣れない環境でしょう」
「大丈夫だよ。昨日より体が軽いくらい」
「それは良かったです。……サラさんは、強いですね」
「……強くなんかない。昨夜、あんなに情けないところを見せたし」
自嘲気味に笑うサラの隣で、ファルはどこか遠くを見るような、優しい声音で言った。
「弱さをさらけ出し、それでも前を向こうとする。それを強さと呼ばずして、なんと呼ぶのですか。私は、そんなあなたの在り方が……以前からずっと、とても好ましく思っていましたし」
「……ずっと?」
会って数日で出てくる言葉ではないことにサラが足を止めると、ファルは「おっと」と言わんばかりに小さく微笑んで、先を促した。
「比喩ですよ。ずっと前から見守ってきたような、そんな気がしているという意味です」
「まあ、何となく分かる気がする」
出会って数日、これほどまで心を開いた自分も同じようなものかと、サラも納得して歩き出す。
昨夜、あの血の匂いの中で聞いた彼の言葉。
自分の中に芽生えた、誰のものかもわからない「最期の記憶」。
それらが何を意味するのか、今のサラにはまだ分からない。
けれど、このファルという男から伝わってくる確かな優しさだけは信じてもいいのだと、今はそう思えた。
朝日が照らす白銀の先、二人の足跡はどこまでも真っ直ぐに、北の果てへと伸びていった
第九話をお読みいただきありがとうございました。
「サラさんはサラさんです」
その力強い断定に、サラがどれほど救われたか。一方で、彼女を名前で呼ばれることに子供のように喜ぶファルの姿は何を意味するのか。
物理的な片付けさえ不要な、ファルの超越した力。
それゆえに際立つ、二人きりの濃密な時間。
二人の歩む先に何が待っているのか、引き続き見守っていただけると嬉しいです!
よろしければ、評価や感想をお待ちしております。




