第八話:死の感触、生の体温
王国を捨て、二人は雪原へと踏み出しました。
喧騒が遠ざかり、訪れたのはあまりに深い静寂。
焚き火の温もりの中で、サラが触れるものとは…
王国の追撃、カイルの怒号、そして空を覆った黄金の奔流。
それらすべてが遠い夢だったのではないかと思えるほど、北の荒野は静まり返っていた。
関所を越えてから数時間。
ファルの不可視の加護により、サラの周囲だけは風が凪ぎ、春の陽だまりのような温かさが保たれている。
けれど、劇的な決別を遂げた精神は、泥のような疲労を呼び寄せていた。
「少し、休みましょうか。サラさん」
ファルの穏やかな声に、サラは力なく頷いた。
彼が手近な岩陰に手をかざすと、雪を払っただけの地面に、薪も火種もないはずの炎が爆ぜた。
それは煙を上げず、ただ心地よい熱だけを周囲に満たしていく。
岩肌に用意された毛布は、まるで陽光を吸い込んだかのように温かく、柔らかい。
「……ありがとう」
差し出された木皿には、湯気を立てる琥珀色のスープ。
一口飲むごとに、張り巡らせていた警戒心が、静かに溶かされていく。
サラは、焚き火の火加減を指先一つで操るファルをじっと見つめた。
数時間前、彼は聖教の最高位術式を当然のように書き換え、世界そのものに道を譲らせた。
「ねえ、ファル。……その力は、いったい何なの?」
更に続けては問いかけた。
「魔術なんて言葉じゃ、説明がつかない。あなたは『本当の魔術』と言ったけど……あんなこと、どんなに優れた術者だって、神話の中の英雄だって不可能なはずよ」
問いかけに対し、ファルは揺れる炎を見つめたまま、穏やかに微笑んだ。
「サラさん。魔術は理の中にあります。理解すれば消すのも書き換えるのも簡単です」
「……理解したって、空間が歪んだり、石が意思を持ったように退いたりするはずがないわ」
核心をついているようで煙に巻いたその答え。
全能に近い力を振るいながら、今はただこうして、隣でスープの温度を保つことにその力を使っている。
そのあまりに極端なギャップに、サラの唇から言葉が漏れた。
「……あなた、やっぱり、うそつきね」
それは、昨夜のような拒絶の言葉ではなかった。
圧倒的な力を持っていながら、それを当然のようにサラだけのために使い、ただ穏やかに隣にいる。
そんなファルに対する、戸惑いと少しの信頼が混じった呟き。
けれど。
その言葉を口にした瞬間、サラの視界が真っ赤に染まった。
(……え?)
焚き火の炎が爆ぜた瞬間、肉を貫く鈍い衝撃音へが聞こえた。
視界が激しく揺れ、喉の奥からせり上がる鉄の味。
下を向けば、腹部を無残に貫いた凶器と、そこから溢れ出し、白い服をどす黒く汚していく膨大な血が見えた。
(あつい……いた、い……。なに……これ)
指先が凍りつくように冷えていくのに、傷口だけが燃えるように熱い。
急速に闇に落ちていく視界の中、サラの震える指先が、何かを求めるように空をかいた。
――その時。
冷え切った身体を、誰かに力強く受け止められた。
彷徨わせていたその手を、大きな掌がぎゅっと掴み返す。
――知っている。
この温もりを、サラは知っている。
今、隣にいるファルが触れる時と同じ、魂の奥まで溶かされるような、痛いほどの慈しみ。
混濁する意識の中で、サラの唇が、自分のものではない「誰か」の最期の言葉を紡ぐ。
『ずっと一緒だと言ったのに……あなたを一人でなんて……』
愛しさと、申し訳なさと、引き裂かれるような未練。
すると、自分を抱きしめる「誰か」の声が、涙を堪えた震える響きで降ってきた。
『では……違う約束を、しよう』
その声さえ、サラは知っていた。
『……数百、数千の歳月が過ぎようとも。必ず見つけて守る……と』
それは、そこにいる「誰か」の願いで、この上なく純粋な祈りの誓い。
『私もあなたも、うそつき……ですね』
それは、そこにいる「誰か」を呪ってしまいそうなほど、悲しすぎる別れの言葉。
そう呟いた瞬間。
「――っ、ぁ、あああぁっ!!」
喉を切り裂くような悲鳴を上げ、サラは現実へと突き落とされた。
全身を激しい震えが襲い、止まらない涙がボロボロと溢れ出す。
今しがた感じた腹部の焼けるような痛み、溢れ出した鮮血の生々しい感触が、脳に、肌に、こびりついて離れない。
「はっ、はぁ、はぁ……っ!!」
過呼吸気味に肩を震わせ、サラは自分の腹部を狂ったように手繰り寄せた。
破れていない服、流れていない血。けれど、記憶の中の「死」があまりに鋭利すぎて、現実の感覚が壊れてしまいそうだった。
「サラさん、落ち着いて」
横から伸びてきたファルの手が、サラの肩を包み込む。
その瞬間、サラは跳ね上がるようにして彼を見上げた。
涙で霞む視界の先、焚き火の光を背負ったファルの姿が、先ほど自分を抱きしめて泣いていた「誰か」と完全に重なり合い、過去と現実の境界線が溶け落ちる。
「やだ……死にたく、ないよ……一緒に……っ」
払いのけるのではなく、サラは無意識のうちにファルへと身を投げ出していた。
彼の冷たい、けれど魂を焦がすほど温かいその身体にしがみつき、服を力任せに握りしめる。
「……いたいの、すごく、いたくて……ひとりに、したくなくて……っ」
サラは彼に縋りつき、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「大丈夫です。ずっと一緒にいます。必ず守ります」
ファルは震える彼女をそっと腕の中に閉じ込めた。
その声は、血まみれの自分に誓ったあの時と同じように、ひどく穏やかで、何者にも侵し難い決意を秘めていて、けれど涙を堪えるかのように震えていた。
そして、サラを抱きしめるファルの手は、あの死に際に自分の手を握り締めてくれた時と同じように優しく、けれど激しく震えていた。
それは、力をを振るう時には決して見せなかった、彼自身の剥き出しの怯えのようにも見えた。
パチリと、黄金の火が爆ぜる。
サラは彼の胸に顔を埋めたまま、ただその体温を離すまいとしがみついていた。
今の自分を襲った凄惨な光景は何なのか。
なぜ、この全能に見える男の手がこれほどまでに震えているのか。
問いかける言葉さえ涙に溶け、今はただ、目の前の彼がくれる絶対的な優しさが、恐ろしくて、寂しくて、けれどたまらなく愛おしい。
暗闇と黄金の火影が揺れる中、サラは答えの出ない混迷に身を委ね、涙が枯れるまでその腕の中で泣き続けた。
お読みいただきありがとうございました。
全能のような力を振るうファルが、サラを抱きしめる手だけは震えていた――。その矛盾が、ファルの過去に何があったのかを物語っているような気がします。
サラが見たあの血まみれの光景は、果たしていつの何なのか。
罪人二人の旅は何処に向かうのか。
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