第三十話:嘘は青鈍色に染まる
潮風が全身を撫で、波の揺れが心地よい眠りを誘う。
けれど、サラは客室の寝台で縮こまっていた。
「気持ち悪い…なんとかして…」
「船酔いも経験のうちですよ」
人生の終わりのような顔をしているサラを横目に、ファルは気持ち良さそうに本を読んでいた。
まもなく日が沈むという時間、淡い琥珀色の光がファルを照らしている。
「…ファル…絶対自分だけ何かしてるでしょ…」
サラは疑うような目付きでファルを睨むが、ファルは気にした素振りも見せずに笑顔を称えた。
その笑顔は、どこか儚い。
「心外ですね。長旅していれば船にも乗りますから。…船酔いなんてしませんよ」
「そっか…そうだよね……」
ファルは一度立ち上がり、寝台で横になるサラの前で屈み、目線を合わせた。
「本当に苦しそうですね…」
「ぅん、もう嫌だ……早く降りたい」
軽く呻きながらサラが目を閉じると、ファルがサラの額に手を翳した。
するとら額に微かな冷たさを感じて、胃の奥から沸き上がる不快感が和らいでいく。
「…気持ちいい」
「少しだけ、眠れるようにしてあげますね」
「それ…凄い、贅沢な力の使い…か、た」
サラは不思議な程に深い眠り誘われていく。
ファルはそっと立ち上がり椅子に座り直す。
「贅沢、か。俺は、こんなものより…」
ファルの静かな独白が、眠りに落ちる直前のサラの意識の端に、波音とともに溶け込んだ。
深い寝息を立て始めたサラを確認すると、ファルは手元に置いていた本を閉じ、窓の外へ視線を向けた。
ファルは自嘲気味に呟き、傷の残る自身の指先を見つめる。
ファルは軽く掌を握り、星が輝き出した藍色の空を、窓から見上げた。
寝台に沈み込むような、底知れない安らぎ。
先ほどまでサラを苦しめていた胃の不快感や、平衡感覚を狂わせる波の揺れは、ファルの底知れない力で遠い記憶の彼方へと追いやられていく。
「サラ…おやすみ」
長めに息を吐き、まるで自分を抑え込むように目を閉じた。
――それからどれほどの時間が過ぎたのか。
ふとした揺れの衝撃に、サラの意識がゆっくりと覚醒の淵を浮上してきた。
「……ん……」
重かった瞼を押し上げると、視界に入ってきたのは客室の低い天井だった。
驚くほどに体が軽い。
あれほど喉元まで迫っていた不快感が消え、揺れも気にならなくなっていた。
「……ファル?」
掠れた声で名を呼ぶと、窓際に座っていた影が静かにこちらを振り向いた。
月明かりに揺れたその姿は、まるで溶けてなくなってしまいそうだ。
「目が覚めましたか」
椅子から立ち上がったファルが、音もなく寝台の傍らへ歩み寄ってくる。
サラは上体を起こし、自分の胸元に触れた。
「……嘘みたい。あんなに気持ち悪かったのに、全然平気」
「それは良かった。慣れてしまえば、嵐でも来なければ大丈夫ですよ」
そう言って微笑むファルの顔は、いつもの穏やかなファルだった。
けれど、眠りに落ちる直前に聞いた、あの押し殺したような声。
自分を抑え込むように閉じた瞳の残像が、サラの胸の奥に小さな棘となって刺さっていた。
「ねえ、ファル。…私はさ、ありのままだよ?」
「急にどうしたんですか?」
サラは赤茶色に染まっている瞳で、ファルを逃がさないように見つめた。
「ずっと、うそついてる」
ファルはほんの一瞬だけ視線を泳がせ、それから困ったような、いつもの笑顔を浮かべた。
「……そう、かもしれませんね」
サラの視線から逃げるようにうつむき、床に視線を落とす。
それは、何かを迷うような、行き場がないような表情。
「もう、やめようよ。そんなうそ」
サラはそっとファルに近づき、ファルの顔を覗き込んだ。
責めるでもなく、哀れむでもない。
真剣な表情。
サラの小さな掌が、ファルの大きな掌を包む。
ファルは怯えるように、サラに視線を合わせた。
サラの掌に力がこもる。
「こんな力より欲しいもの、いっぱいあるよね」
ファルの金の円環が大きく揺らぐ。
拒絶か、それとも容認か。
迷いを見せたその瞳を、サラは怯えることなく見据えた。
「こんな力より大切にしたかったもの、いっぱいあったよね」
サラの赤茶色に染まっていた瞳が、蒼を取り戻していく。
ファルは目を反らせず、サラの瞳に写る自分を見ていた。
「ファル…お願い……一人にならないで」
ファルの瞳が激しく揺れた。
それを隠すように瞼を閉じると、月明かりに照らされた鉛色の雫がファルの頬を伝う。
伝った雫はサラの手の甲に、小さな温もりをかんじさせ、青く光る。
「サラは…俺よりずるいな」
絞り出すようなその声に、サラは少しだけ驚き、やがて無垢な笑顔を浮かべて、自身の瞳からも雫を溢れさせた。
二つの雫は混ざり合い、青鈍色に煌めいてた。




