第二十五話:黒百合が舞う玉座
広間の奥に鎮座する、重厚な造りの二枚扉。
ファルが手を触れるまでもなく、その扉は内側から静かに、拒むように開かれた。
正面に広がるのは、この国の栄華の象徴、玉座の間である。
高い天窓から差し込む月光は、冷たく、そして無機質に床を照らしている。
そこには、床に膝をつき頭を垂れる騎士や魔術師たちが、壁際まで埋め尽くしていた。
さらにその奥。
宰相、そして国王までもが同じように頭を垂れていた。
本来であれば国を統べる者が座すべき高貴な椅子は、まるで座する主を失ったかのように、背後で空虚に佇んでいた。
「……古代大帝国オドアル元皇帝。世の理、ファルネーゼ・オドアルド様。よくぞ、参られました。臣ら、心よりの悦びを捧げます」
国王の声が、静まり返った広間に響く。
それは、ファルに対する最敬礼そのものであった。だが、その背中からは恭順の意など欠片も感じられない。
ただ、用意された配役を忠実に演じているかのような、薄ら寒い空気が漂っていた。
「…………」
サラは、その異様な光景に息を呑んだ。
一国の主たちが、一人の青年の前に平伏している。
それはあまりに滑稽で、毒々しい嘘に満ちていた。
沈黙を守っていたファルが、低く、刃のように冷たい声を発した。
「……下らぬ演技はよせ」
その一言で、玉座の間の温度が数度下がったかのように錯覚する。
何人もの騎士や魔術師が、目に見えて肩を震わせ、その呼吸を荒らげた。
ファルの黄金の瞳には、慈悲もなければ、怒りさえもない。
ただ、目の前の雑事を詰まらぬと眺めるような、透き通った拒絶だけがあった。
国王は見破られた焦りなど見せず、なおも空虚な言葉を続ける。
「我らが国の……いえ、世界の安寧は、ファルネーゼ様の恩恵の――」
その瞬間、ファルが一歩を踏み出した。
世界から音が切り離され、国王は言葉を飲み込む以外にできなくなった。
静寂が支配する中、ファルだけがまた一歩、確実な足取りで踏みしめる。
その二歩目が、再び世界に音を取り戻させた。
「貴様らが望むのは、神を永遠に失うことだろう。よくも、そんな演技ができたものだな」
跪いたまま、宰相がゆっくりと顔を上げた。
その口元には、隠しきれない歪な笑みが張り付いている。
「哀れですな。かつての英雄……いや、大罪人は。世界の理を、愛した女を救うため神を葬り、自ら理の外へ」
「……貴様、何が言いたい」
ファルの声に、僅かな動揺が混じる。
それを見透かしたように宰相は言葉を並べた。
「……結果、世界に弾かれ、神の執着に踊らされ、人形を愛でるだけ。所詮は神の皮を被った哀れな皇帝よ」
サラは、知らず知らずのうちに自らの胸元を強く掴んでいた。
宰相の言葉が、耳の奥から内臓を侵食していくような感覚に、吐き気さえ覚える。
国王が立ち上がり、その視線がサラを射貫く。
「サラ・アルヴェイン。お前は、『それ』と共にオードアルの遺跡で何を見たか覚えているか?」
蛇のような視線が、サラを射抜いた。
ファルは静かに一歩引き、その視線を遮る。
「死してなお、輝きを失わず、愛しき女を求めて蠢いていた、神の遺骸を。……あれは、『それ』に殺された神の、消えぬ未練の塊だ。それが何故、お前の前で消え失せたと思う?」
ファルの気配が冷たくなっていく。
「貴様たちは、どこまで――」
ファルの言葉を遮り、呪詛を吐くように、宰相が雄弁に語りだした。
「貴方が『それ』と合間見えれば、必ず神の遺骸に向かう。そんなことは、過去の『記録』が語っているでしょう」
ファルの肩が少しだけ震えた気がした。
「ファル?」
振り替えったファルの顔は、いつもの優しいファルではなく、明らかに動揺している顔だ。
それを面白がるように宰相の呪詛は続く。
「神の執着を見たのでしょう?…その愚かな神の執着で産み出され続ける哀れな人形。…サラ、お前がそれだ」
突如サラに向けられた宰相の言葉。
「何を、言って…」
サラの視界が歪む。
脳裏に、あの廃墟で見た、神の遺骸が蘇る。
「神の遺骸。あれは、ソフィアを再現しようとした愚かな神の残骸だ」
その国王の言葉は、サラの在り方を根底から覆そうとする言葉。
『再現』。
その意味を、サラは無自覚に理解し、呼吸が乱れる。
ファルが焦ったかのように前にでた。
「貴様ら、下らない戯れ言はそこまでにしろ」
ファルの声は、まるでその場を押し潰すのではないかと思えるほど、重く低い声。
その声が、余計にサラの心をかき乱す。
「その容姿も、声も、思考さえも、哀れな神が作り出した傑作よ」
宰相の声が、サラの思考にこびりつく。
「違う、私は……両親もいて…」
両親の顔が浮かぶ。
いつも土にまみれながらも、笑顔の父。
怒ったところなど見たことがない。
母の温かい声、温かい料理。
一番、安らげる場所だった。
サラは、震える自らの手を見つめた。
白く、透き通るような肌。
それは温かな血の通った人間の証ではないのか。
自分の心臓の音、体温が遠ざかるような感覚に恐ろしくなる。
「サラ、戯れ言だ。聞き流せ」
ファルの声。
丁寧な言葉ではない。
必死に何かを引き留めようとする、子どものような焦りだ。
その焦りを面白がるように、国王は言葉を紡ぐ。
「かつての神がそうであったように、『それ』がお前という人形を抱き寄せれば寄せるほど、『それ』はこの世界から排除できる異物になる。死んだ神のように、人の手でな」
「何を……言っているのか……分かりません」
自分が、作られた。
自分という存在そのものが、隣にいると決めた人を殺すための罠である。
意味が、分からない。
分かりたくない。
「ファル…どうして、そんな顔するの?」
国王と宰相の言葉を裏付けるように、見上げたファルの顔は苦悩に満ちていた。
そんな二人を楽しげに見る国王は、これ見よがしに両腕を広げた。
「神は傑作…それを前にして朽ちた。だからこそ……お前を守るのだよ。お前が死ねば、器は二度と同じ形にはならない」
「…やめろ」
ファルの声が震える。
「サラ、お前は所詮…神の玩具なのだよ。それを壊されそうになったから仕返しとは、滑稽なことをする」
国王の言葉、それは、ファルの心すらかき乱す。
「やめろと言った!」
ファルが、サラの前で見せた明らかな動揺、焦り、叫び。
肯定されたような言葉に、サラの中で何かが音を立てて割れたような気がした。
サラは、震える足で、ファルから一歩、距離を置こうとした。
「サラ!」
その肩を、焼けるような熱を持ったファルの手が、強く、引き寄せ、漆黒の衣で黒百合の花弁を優しく被せるように、サラを包み込む。
それは、花弁に包まれたような柔らかい暖かさの筈だった。
けれど、その温かささえもが、今は毒のように感じられた。
「離して……ファル……」
「……嫌です。離しません」
ファルは、恐怖に歪むサラの瞳だけを見つめている。
その指先が、彼女の髪を慈しむように撫でた。
少しだけ震えているファルの指が、どうしようもなくサラの不安を肯定していく。
「ファル…やめて」
ファルの瞳は、未来も、過去も、遠いどこかも見ていない。ただ目の前の彼女だけを映している。
知っているはず。
なのに――。
「ごめん、ファル……私、分からないよ。私のこの気持ちも……ファルが見ている私も…」
サラの呼吸が更に荒くなる。
ファルから離れようと腕に力が入れるが、何かが邪魔をする。
サラは、悲鳴を上げるように息を吐き、漸くファルの手を振り払った。
ファルの目に写るサラは、孤独と絶望に震える少女のように、自分の腕を抱きしめ、冷たい床を見つめたまま動かない。
ファルは手を伸ばしかけ、その手を見つめて目を閉じた。
その沈黙が、痛いほどに長く感じられた。
――長い沈黙。
それを破った低く、威厳を持つ声。
「神の玩具と神を名乗る愚者。全く、面白いものを見せてくれるものよ」
それは、二人の心を嘲笑う声。
それは、二人の想いを否定する声。
その王の声が、二人の間を、黒百合の花が舞うように通り抜ける。
サラは、突き放してしまった温もりの隙間を、必死に埋めようとしていた。
玉座に舞った黒百合の花弁。どんな意味を纏っていたのでしょう。
次話も、どうぞよろしくお願いします。




