第二十二話:赤い雫は蒼銀の涙に染まる
宿の壁を蒼い魔力で強引にこじ開けた。
夜の街へ飛び出したサラを待っていたのは、見たこともないほど静まり返った王都だった。
物理的に壊された建物など一つもない。
なのに、いつもなら夜更けまで賑わうはずの大通りからは、生活の音が根こそぎ消え失せていた。
「……何、これ」
駆け出したサラの目に映るのは、生活の光を奪われた人々。
街灯の光が死に絶えた闇の中、彼らは見えない何かに魂を削り取られたかのように、虚空を見つめている。
ファルがここを通ったのだ。
それはサラも知らない、ファルの「存在そのもの」の重圧。
この街に暮らす人々の本能が、抗うことすら忘れて沈黙を選んでしまうほどに、ファルという存在は異質で、強大だった。
胸を締め付けるような焦燥感が、サラの足を急き立てる。
(ファルは……人間なんだよ!)
王城の門に辿り着いたサラは、そこで息を呑んだ。
アステリアの兵士が、まるでおもちゃのように地面に転がっている。怪我をしているわけではない。ただ、彼の手にある槍が、まる数十年放置されたかのように無惨に朽ち果てていた。
「ねえ、しっかりして! 彼は、ファルはどこへ行ったの!?」
座り込んでいた兵士の肩を掴み、必死に問いかける。
だが、兵士は焦点の合わない目でサラを振り返ると、血の気の引いた唇を戦慄かせた。
「化け物が……黒い、化け物が通ったんだ……。あんなもの、人間がどうにかできるわけがない……」
「化け物じゃない、彼は……!」
言い返そうとして、言葉が詰まる。兵士の目に宿る純粋な「恐怖」が、今のファルが世界からどう見えているかを残酷に突きつけていた。
サラは兵士を放り出し、死んだように冷え切った城内の回廊へと足を踏み入れた。
かつて自分が誇りを持って歩いた、見慣れた回廊。
しかし今は、すべての魔導具が沈黙し、氷のような冷気が床を這っている。
騎士や魔術師たちが、武器を手にしながらも石像のように固まっている。その群衆の先——。
見つけた。
静寂を支配する、圧倒的な漆黒の背中。
数千年の孤独をその身に纏い、たった一人で歴史に「災厄」を刻もうとしている。
「ファル――ッ!」
震える声を振り絞って叫び、サラは彼へと駆け寄った。
その声に呼応するように、王城を圧していた冷たい魔力が一瞬だけ揺らぐ。ファルの歩みが止まった。
ゆっくりと、彼が振り返る。
月明かりの下で露わになったその瞳は、昼間に自分へ紅茶を淹れてくれた青年のものではなかった。
すべてを無に帰すのではないかと思える程、冷酷な黄金の円環。人の感情など一切受け付けないような、深淵の色彩。
サラは一瞬、足を止めそうになった。
(そんな目は、しちゃだめだよ…)
けれど、彼女はその瞳を真っ向から見据え、さらに一歩踏み込む。
「ファル、だめだよ。…一人は、だめ」
その声には、純粋な想いが込められていた。
彼が再び数千年の孤独の中へ、自分すら手の届かない場所へ消えてしまうことへの恐怖。
そして、何よりも——。
「……っ」
黄金の瞳が、驚いたように見開かれる。
次の瞬間、王城を支配していた圧倒的なプレッシャーが、嘘のように霧散した。
ファルは、困ったように眉を下げた。
それは、親に内緒で悪戯をしているところを見つかってしまった子供のような、ひどく罰の悪そうな顔。
それでいてどこか安心したような笑顔だった。
「……見つかってしまいましたね。サラ、良く眠れましたか?」
独白のような、小さな呟き。
その声を聞いた瞬間、サラの膝から力が抜けそうになる。
サラの知っているファルだ。
化け物なんかじゃない、不器用で、優しくて、場違いで、サラだけが知っている「一人の男」のままだった。
「ばか……」
サラは彼の漆黒の袖をぎゅっと掴み、潤んだ瞳で、けれど毅然と彼を見上げた。
「少し、我慢ならなくて悪戯、してしまいました」
サラの頬に流れた雫を、ファルの指が優しく拭う。
その手には、先ほど自ら滴らせた、赤黒いファルの血がついていた。
「怪我……してる……?」
「怪我ぐらいしますよ」
当たり前のように微笑むファル。
サラは拭われたばかりの頬を、今度は自分の手で包み込む。
熱くて、残酷で、優しくて、儚い温もり。
ファルの手からは滴る赤い雫が、時を刻んでいた。




