第二十一話:回帰への雫、昇華への閃光
宿の部屋は、檜の香りと静かな寝息に満ちていた。
ベッドに横たわるサラの、穏やかな寝顔。
かつて王宮魔術師として尖らせていた肩の力は抜け、今はただの十七歳の少女として、安らかな闇に身を委ねている。
ファルはその枕元に立ち、窓から差し込む月光を浴びていた。
「……おやすみなさい、サラ。少し、散歩に行ってきます」
サラの前髪に軽く触れて呟いた声は、自身の耳にさえ届かないほどに低かった。
夜の帳が下りた大通りに、その男は突如として現れた。
黒衣を纏い、黄金の瞳を冷徹に輝かせたその存在は、潜める気配すら持ち合わせていない。
ただそこに在る。
ファルが通り過ぎるたびに、火を灯した街灯が、存在を忘れたかのように静かに消灯していく。
光が消え、深い闇が彼の背後に引き連れられていく。
道を行く人々は、何が起きたのかと足を止めた。
彼らに直接的な害が及ぶことはない。
ただ、その男の顔は酷く悲しげで、誰かとの別れをしてきたような、そんな顔。
なのに、そこに在るだけで、夜の賑わいは消え失せていく。
誰一人として声をかけることさえできないまま、沈黙が道を歩いていた。
ファルは王城へと続く門。
来るつもりはなかった。
なのに――。
怒りなんて、感じたのはどれ程ぶりだろうか。
ファルの視線の先に、何処にでもいるような兵士が立っている。
「止まれ!」
門を警備している兵士が槍を構えるが、ファルは平然と歩みを進める。
「通して頂けますか?」
丁寧な言葉。
だが、明らかに異様な雰囲気に、兵士の警戒は限界を越えていた。
「止まれといった!止まらないのなら怪我ではすまんぞ!」
門を守る兵士の常套句。
それが、ファルの感情を逆撫でした。
「ただ命令だからと、貴様らは…」
ファルが槍の切っ先に触れ、血の雫が一滴。
兵士の持つ槍が朽ちる。
塵になるでも、光に変わるでもなく、その天命を全うしたかのように。
「っ!」
一瞬にして、兵士の顔が恐怖に歪む。
「退け。貴様に用はない」
丁寧な言葉は成りを潜め、まるで王が命令したかのような威圧。
ファルが一歩踏み出すと、兵士は腰を抜かしたかのように座り込み、ただ呆然とファルの背中を眺めていた。
ファルはふと夜空を見上げた。
「ソフィア、俺は、忘れていなかったよ…」
誰が聞くこともない言葉を残して歩みを進める。
もう忘れてしまったと思っていた。
誰かを想い、誰かを見て、笑い、泣き、怒るなど。
サラの、事実を知った顔は凪いでいた。
それがどうしよもなく、ファルの心をかきむしる。
――門の先、アステリアが誇る、魔術師たちによる多重防護結界。
許可なくは通れず、触れる者すべてを拒絶するその結界は、絶えることのないはずのその光の壁。
それが、たった一人の男が触れ、音もなく砕け散る。
結界の崩壊で、王宮内に動揺と混乱が入り乱れる中、結界の外であった場所で、ファルは一人、自分の血のついた指と、黒くくすんだ掌をじっと見つめた。
「こんなにも、簡単に……。サラ、あまり時間はないのかもしれませんね」
その表情に嬉しさと寂しさを滲ませ、ファルはまた歩みだす。
ほんの僅かな時間差で、王城内から重装の騎士団と魔術師たちが雪崩れ込んできた。その先頭には、カイルの姿があった。
「止まれ! 貴様…何故ここにいる!」
カイルの叫びは、震えていた。
「お久しぶりですね」
ファルの顔は穏やかな笑みを称えている。
だが、カイルには、その笑みが何より恐ろしく、無に見えていた。
それは森で感じた絶望そのもの。
それでも、カイルは剣を抜き、震える手で魔力を練り上げた。
「……ふんっ!」
カイルの剣先から、小さな、火花のような光が生まれた。
直後、ファルがわざと触れるかのように手を伸ばす。
触れた瞬間、その光は霧散し、カイルは圧倒的な威圧感と力を再確認してしまう。
膝が笑い、いつ膝をつくか、自分でも分からなくなっていた。
数百の兵が囲む中を、悠然と、ファルはただ一人、王城の入り口へと進む。
槍を構えながらも腰を抜かしている者、後ずさる者。
何一つ、ファルは視界にすら入れないまま、入り口正面に立つカイルの前で歩みを止めた。
「……さて、貴方に…いや、魔術師団長にサラを殺せと命令を下した愚か者は、何処の誰か、教えて頂けますか?」
怒号も殺意もない。ただ、逃げ場のない冷気が王宮の門扉を凍りつかせる。
カイルは目の前に立つ存在に圧倒され、言葉が勝手に滑り出す。
「さ…宰相、のはずだ。それ以外…は……」
「そうですか。ありがとうございます」
ファルは笑みを浮かべるが、それは慈悲でも慈愛でもないことを、カイルの本能が理解していた。
――その頃。
宿のベッドで、サラは跳ねるように目を覚ました。
隣の温もりが、完全に冷え切っている。
「……ファル?」
窓に目を向けると、眼下の道だけが不自然なほどの闇に閉ざされていた。
空気が軋むような、あの懐かしくも恐ろしい気配。
「何?あれ…」
明らかに異様な光景。
こんな事ができるのは、一人しかいない。
「ファル…なんで……」
少しの間。
「一人は、ダメだよ」
理解した瞬間に、上着を掴んでいた。
部屋を飛び出そうとするが、扉は扉であることを忘れたかのように、固く道を閉ざしている。
「ファルの、ばか…」
サラは辺りを見回し、抜け出すための道を探す。
「窓なら…」
必死に叩いても、家具を投げつけても、硝子はそこに形をなしていた。
ファルが怒っている。
誰のために、何のために。
それを痛いほど理解しているからこそ、彼女は叫びたかった。
私を置いていくなと。
「……もう、どうなっても知らないよ」
サラの手に蒼い光が集まりだす。
サラは止まらない。
止まることなど、出来ない。
夜の賑わいを忘れた王都に、一筋の蒼い閃光と、激しい爆発音が駆け巡った。
闇を蒼く染めた閃光は、少しずつ闇に染められていく。
それを置き去りにして、一人の少女が、灯りの消えた闇の中へと駆け出していく。




