第二十話:染まるのは蒼か黒か
宿の二階、角部屋。
大通りの喧騒がわずかに聞こえるその部屋にも、夕刻の斜光が細長く差し込み、浮遊する塵を金色に染めていた。
ファルは窓辺に立ち、逆光の中でその輪郭を漆黒に沈ませている。
偽りの姿を解いた彼の背中は、数千年の月日を独りで背負ってきた男の、ひどく頑なで、どこか寂しげな広さを持っていた。
「……ファルの力を見てしまったから、じゃないの?」
サラの問いに、ファルは静かに首を振った。
「もしそうなら、サラがカイルと呼んだ青年や、何も知らない騎士団、魔術師団の人たちは皆殺されていますよ」
「あ、そっか……じゃあなんで?」
サラは椅子に深く腰掛け、ファルの返答を待った。
ファルは一度だけ、遠くに見える王城へと視線を投げ、それから静かに口を開いた。
「アステリアが、この国があの日、あの場所にサラを送り込んだ……それは、私を誘き出すための『餌』だったんですよ」
「……餌?」
「ええ。……まあ、餌も何も、私はサラが目的でアステリアに来ていたんですけど」
申し訳なさそうな笑みを浮かべたと思ったすぐ後、ファルの声には、微かな、けれど氷のように冷たい怒りが混じっていた。
「記録は、髪色以外のソフィアの面影もしっかりと記しています。だから彼らは、サラがソフィアに瓜二つることに気付いていたんです」
サラの指先が、ぴたりと止まった。
自分が王宮魔術師として積み上げてきた努力。あの日、命を懸けて任務に挑んだ誇り。
それらすべては、上層部にとって「餌をより魅力的に見せるための飾り」に過ぎなかったのだ。
「……じゃあ、あの時すぐに私を殺そうとしたのは、禁忌に触れたからでも、ファルの力を見たからでもなかったの?」
「はい。…簡単に言ってしまえば、聖女…ソフィアの再臨と神など、邪魔でしかないんですよ」
ファルがゆっくりと振り返る。金色の円環が、暗がりで鋭く光った。
「それは、どういう…」
「…理由は二つ。一つは彼らの歴史で、ソフィアの魂は既に存在してはならない。二つ、同じく、神はこの世界にはいないからです」
サラは息を呑んだ。
「神に捧げて…神は殺されたから、か。じゃあ、あそこでファルに会わなくても、てことだよね」
「はい。何れは…」
少しだけ目を伏せるファルは、悲しさも、寂しさも飲み込んでいるようだった。
「…そっか」
サラは、自分の心が思った以上に凪いでいる事に気付き、自嘲の笑みをファルに見せた。
ファルは立ち上がり、何処からともなく茶器を出して、紅茶をいれ始める。
何度か見た光景。
ふとサラの中に、棘を刺されたかのような痛みが走った。
「何回…見て、きたの?」
気付いたら口にしてしまっていた。
ほんの一瞬、ファルの動きが止まった。
「もう、忘れてしまいました」
ファルは何気なく答えたように見せた。
だが、茶器が震える音だけは、誤魔化せていない。
残酷な疑問が口から滑り出してしまったことに、激しい後悔が襲う。
暫しの沈黙が部屋を支配した。
ファルが入れた紅茶を渡しながら、沈黙を破った。
「やはり、私はうそつきですね」
自嘲と言うよりは、自分を隠そうとしている顔だ。
「どうかな…」
サラはゆっくりと立ち上がった。足取りは覚束ないが、視線だけは逸らさなかった。
彼女は窓辺に立つファルの前まで歩み寄ると、その広い胸板に、こつんと額を預けた。
「……サラ?」
「ねえ、ファル。…あの時、私が死んでいたら、ファルはどうした?」
「……」
「…ほら、嘘、つけないじゃん」
サラには、本当の答えが分かっていた。
きっとファルは「また、繰り返すだけ」と受け入れてしまうのだと。
そして、サラの事など忘れてしまうのだと。
だからサラは、ファルから貰った言葉に、自分の言葉を重ねて返す。
「大丈夫。一緒にいるから。…忘れないで」
その声は、かつての王宮魔術師の峻烈な響きではなく、ただの十七歳の少女の、甘えるような、それでいて祈るような響き。
ファルは、何も言わなかった。ただ、胸に伝わる彼女の微かな震えを、無言で受け入れている。
「……ファル。私、餌でも、聖女なんかでもないよ。ソフィアの代わりでもない。それに…神様に愛されたいなんて、思わないよ」
「分かっています。サラはサラです。私は…一人の人として、サラを見ていますよ」
その言葉だけで、十分だった。
誰かの身代わりでも、造られた餌でもなく、神に愛される女性でもない。
今ここにいる自分の名前を呼んでくれる。
その温もりだけが、今のサラにとっての唯一の真実だった。
サラはファルの漆黒の袖をぎゅっと掴み、より深くその胸に顔を埋めた。
サラの耳には、確かな歩みを刻む心臓の音が、心地よく響いてた。
王都は夜の賑わいが始まろうとしている。




