第二話:昨日の終わり
理不尽な処刑の間際、「ファル」によって救い出されたサラ。
二人の静かな夜の対話が始まります。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
風を切る音と、自分を抱きしめる腕の熱、そして絶望的なまでに静かな夜の匂いだけが、サラの意識を繋ぎ止めていた。
不意に視界が開け、サラの体は柔らかな感触の上に横たえられた。
そこは、先ほどまでの原生林の喧騒が嘘のように静まり返った、古い遺跡の影だった。
「……ここ、は」
「私の結界の中です。もう追っ手の羽音は聞こえません。安心してください」
視界に飛び込んできたのは、夜の闇よりも深い黒。
ファルが、サラの顔を覗き込んでいた。その瞳には、先ほどまでの鋭さはなく、ただ凪いだ湖のような穏やかさだけがある。
ふと、サラの視線がファルの瞳に釘付けになった。
深い闇色の虹彩の中に、細く、しかし鮮明に浮かび上がる「金の円環」。
それは魔力の残滓などではなく、まるでこの世のあらゆる美を凝縮したかのような、完璧な光の輪だった。
まだ火も灯っていない暗闇の中で、その輪だけが自ら微かな光を放っているかのように見る。
底知れない神秘と、永遠を覗き込むような眩暈をサラに与える。
(……綺麗……)
一瞬、自分が処刑されかけたことも、目の前の男が「禁忌」であることも忘れ、サラはその瞳に見惚れてしまった。
恐ろしいはずの存在なのに、その金の環を見つめていると、心の奥底が静かに共鳴し、震えるような感覚に陥る。
ハッと我に返ったサラは、慌てて視線を逸らした。
「安心……? 何を、言っているのですか……」
サラは震える腕で自分の体を抱き、逃げるように身を縮めた。
王国のために全てを捧げ、師と仰いだ団長のために剣となり杖となってきた。
その帰結が、あの空を焼き尽くす白銀の劫火だったのだ。
「私は、捨てられた……。団長は、私に死ねと言った。私が……何をしたの……」
唇を噛み締め、溢れそうになる涙を必死に堪える。
王宮魔術師団第一席としての矜持が、かろうじてサラを正気へと繋ぎ止めていた。
しかし、目の前にいるファルへの警戒を解いたわけではない。
「……あなたも、同じはずです。私を助けたのは、王宮の機密を知る私を利用するためでしょう? それとも、私を人質に王国と交渉でもするつもり?」
「サラさん」
ファルの声は、どこまでも真っ直ぐに彼女の心に響いた。
「今の貴女に必要なのは、陰謀論でもなければ、過ぎ去った裏切りの反芻でもありません」
ファルが指先を僅かに動かす。
その瞬間、冷え切った遺跡の床に豪奢な敷物と赤々と燃える焚き火が湧き上がるように現れ、空間は春のような暖かさに包まれた。
さらに彼が空いた手を差し出すと、何もない空間から陽炎が揺らめくように、湯気を立てた木製の器が音もなく現れた。
――あり得ない。
王宮魔術師として頂点を極めたサラの知識が、その光景を全力で拒絶した。
魔術とは、世界の理を解き明かし、その流れに従って現象を導き出す精緻な学問だ。
しかし、目の前で起きたことは、その「理」の系譜のどこにも繋がっていない。そこには魔力の脈動も、事象を構築するための術式も介在していなかった。
それは、ただの驚きを通り越して、自分が知る世界そのものが根底からすり替えられてしまった。
薄ら寒い空恐ろしさだった。
積み上げてきた知識も、信じてきた世界の仕組みも、この男の指先一つで無意味なガラクタに変えられた。
――その事実が、サラの魂に得体の知れない戦慄を刻みつける。
生理的な恐怖が背筋を走り、サラの指先が小刻みに震える。
目の前の存在は、人智の及ばぬ、分類不可能な「何か」だ。
「……っ、あ……」
呼吸の仕方を忘れたかのように、サラの胸が激しく上下する。
――逃げ出したい。
けれど、腰が抜けたように動けない。
理解できない恐怖が最大値に達し、サラの意識が真っ白に塗りつぶされそうになった、その時だった。
「お腹が空いているでしょう。まずは、温まってください」
あまりにも穏やかで、温度を持った声。
ファルが静かに差し出した器から、ふわりと湯気が立ち上る。
その瞬間、鼻腔を突いたのは、恐怖や驚愕をすべて過去に追いやるほどに、懐かしく、優しい香りだった。
「…………え?」
極限まで張り詰めていたサラの心に、その香りが一滴の不純物のように混じり、波紋を広げていく。
自分を拒絶し、殺そうとした「冷たい理」の世界。
そして今、目の前で理さえも無視して現れた、異質の怪異。
けれど、差し出されたスープの器から伝わる熱だけは、あまりにも生々しく、今の彼女が最も求めていた「生」そのものの温もりだった。
恐怖で強張っていた指先の力が、ふっと抜ける。
あれほど激しかった動悸が、香りを吸い込むたびに、静かな疼きへと変わっていく。
魔術師としての矜持が崩れ去った跡地に、ただ、一人の疲れ切った娘としての「安らぎたい」という本能が、泥のように染み出してきた。
「食べられませんか? 毒が心配なら、私が先に毒見をしても構いませんが」
「……いえ。毒があるなら、さっきの光の中で私を放り出せば済む話ですから」
震える声で、ようやくそれだけを絞り出す。
サラは磁石に吸い寄せられるように、その器へと手を伸ばした。
恐怖が消えたわけではない。ただ、目の前の男が与えてくれるこの異質な「安らぎ」に、今は縋り付かなければ、心が砕けてしまう。
おそるおそるスープを一口、口に含む。
「っ……」
舌の上に広がるのは、滋味深い野菜の甘みと、微かな塩気。
それは、サラがかつて故郷で、魔術師になるために家を出るよりずっと前。
――まだ誰にも裏切られず、ただ愛されていた頃に母が作ってくれたスープの味と、あまりにも似ていた。
「……ぁ……っ」
温かな液体が喉を通った瞬間、耐えがたい「痛み」が胸の奥を突き上げた。
あまりに優しすぎるその味が、たった今まで自分が信じていた世界が、どれほど冷酷に自分を切り捨てたかを残酷に際立たせる。
「……どうして、……あんなに、頑張ったのに……っ」
器を握りしめる指が白く震え、大粒の涙がスープの中へと落ちる。
一度溢れ出した感情は、もう堰き止めることができなかった。
喉の奥から、嗚咽というよりも悲鳴に近い、掠れた声が漏れ出す。
「私は……ただ、みんなを守りたくて……役に立ちたくて……それだけだったのに……っ。どうして私が、こんな……私は何もしてない!」
顔を覆う余裕もなく、サラは子供のように顔を歪めて泣きじゃくった。
王宮魔術師としての誇りも、第一席としての仮面も、今のサラには残っていない。
ただ一人、夜の森に放り出され、すべてを奪われた一人の少女としての、生々しく悲痛な慟哭が遺跡に響き渡る。
ファルは何も言わず、ただ静かに焚き火を見つめていた。
慰めの言葉をかけるでもなく、その無様な泣き顔を憐れむでもない。
ただ、サラの絶望が夜の闇に溶け切るのを待つように、静寂だけを供えていた。
やがて、激しい呼吸が少しずつ落ち着き、サラが力なく顔を上げる。
涙を拭い、掠れた声で問いかけた。
「……あなたは、誰なの。どうして、私の名前をそんな風に呼ぶんですか。まるで、私を知っていたみたいに…」
ファルはゆっくりと視線を彼女に戻した。
その瞳の奥の「金の円環」が、今は慈しむように微かな光を放っている。
「サラさんが『ただのサラさん』であるように、私もただのファルと言う人物に過ぎません。ですが――」
ファルはゆっくりと、壊れ物を扱うような手つきで、サラの頬を伝う涙のひとしずくを指先で拭った。
「私には、ただ見えるのです。世界が貴女をどう呼ぼうとも、貴女がそこに居て、その命が温かく灯っている。それだけで、この世界はとても美しく、価値のあるものに見えるのですよ」
一文字ずつ、穏やかに奏でられる言葉。
それは重い約束というよりも、そよ風が花を揺らすような、自然で柔らかな響きを孕んでいた。
「きっと今と言う時間に理由はないのでしょう。花が咲き、星が瞬くように、私が貴女の傍らにあることも、きっとそれと同じくらい、ごく自然なことなのかもしれません」
彼はただ、微笑むようにそこにあることを肯定した。
けれど、その眼差しは、サラ自身さえ気づいていない「サラ自身の輝き」を何より大切に、愛おしく見つめているようで、心臓の奥がトクンと跳ねるような不思議な感覚を覚える。
サラがスープをのみ終えるのを見計らい、優しく声をかける。
「さあ、今日はもう休みましょう。次に目を覚ます時、貴女を縛る『昨日』はもう存在しません」
その言葉に嘘は感じられなかった。
けれど、それが余計に恐ろしく、けれど、どこかホッとする。
自分さえ知らない自分の「愛おしさ」を、この男はあまりにも穏やかに、当然のこととして受け入れている。
抗いがたい安心感という名の甘い泥濘に引きずり込まれるように、サラの意識は深い疲労と共に沈んでいった。
第二話をお読みいただき、ありがとうございます。
一人の傷ついた少女サラ。彼女の「私は何もしてない!」という叫びは、報われなかったすべての献身に対する、悲痛な魂の慟哭でした。
次回、第三話。
束の間の休息は終わりです。




