醤油蔵の近代化戦争 第6話:世界を旅する、黒いダイヤ(終)
作者のかつをです。
第十章の最終話です。
蔵の中で始まった静かなる革命が、いかにして世界を舞台にした大きな物語へと繋がっていったのか。
この物語全体のテーマに立ち返りながら、醤油の物語を締めくくりました。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
職人の勘と科学のデータ。
その二つの翼を手に入れた日本の醤油は、大きく羽ばたいた。
純粋培養された優良な麹菌と、徹底した品質管理によって醤油の品質は劇的に安定し、向上した。
かつて博打のようだった醤油造りは、もはや過去のものとなっていた。
野田と銚子。
二つの町が生み出す高品質な醤油は、日本中の食卓を席巻した。
そして、その黒く輝く液体は、やがて海を越え世界へと旅立っていく。
最初は、海外に移住した日本人たちのためのささやかな輸出だった。
しかし、その唯一無二の複雑なうま味と芳醇な香りは、少しずつ世界の人々の舌を魅了していった。
“SOY SAUCE”
その東洋の神秘的な黒いソースは、フランス料理の隠し味となり、イタリアンのアクセントとなり、アメリカのバーベキューソースと出会った。
もしあの時、日本の醤油が職人の勘だけに頼る不安定な品質のままだったら、今日のこの光景は決してなかっただろう。
科学の力によってその品質を極限まで高め、安定させたからこそ日本の醤油は世界中のどんな料理とも渡り合える、「普遍的な調味料」へと昇華することができたのだ。
……2025年、東京。
物語の冒頭に登場した、あの食卓。
一人の女性が、買ってきたばかりのアボカドの刺身に醤油を一差し垂らしている。
彼女は、知らない。
今、自分が当たり前のように使っているその黒い一滴の中に、かつて蔵の薄暗がりで目に見えない微生物と対話し続けた、職人たちの何百年もの知恵が凝縮されているということを。
そして、その神秘のベールを科学の光で解き明かそうと奮闘した、白衣の開拓者たちの静かなる情熱が溶け込んでいるということを。
歴史は、遠い町の古い蔵の中だけにあるのではない。
私たちの、このささやかな食卓の小皿の中に、確かに息づいているのだ。
女性は、その黒いダイヤのように輝く一滴をまとったアボカドを口に運ぶ。
舌の上に広がる芳醇なうま味が、今日のささやかな疲れを優しく癒していく。
その味こそが、伝統と革新が見事に融合した、日本のものづくりの魂の味そのものだった。
(第十章:醤油蔵の近代化戦争 ~野田vs銚子、麹菌を巡る知られざる戦い~ 了)
第十章「醤油蔵の近代化戦争」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
キッコーマンやヤマサ醤油は、今や世界中に工場を持ち、その土地の水や原料を使いながら日本と変わらぬ品質の醤油を世界中に届けています。まさに、日本の味が世界に羽ばたいた象徴と言えるでしょう。
さて、第一部「食卓の革命編」は、この章で一区切りとなります。
次なる物語は、戦いの舞台を家庭のキッチンから、「外食」の世界へと移します。
次回から、第二部が始まります。
**第十一章:ベルトコンベアの上の江戸前寿司 ~回転寿司を発明した男の夢~**
職人の世界だった高価な寿司を、誰もが家族で楽しめる一大エンターテイメントへと変えた男がいました。
彼の、奇想天外な発明の物語が始まります。
引き続き、この壮大な食文化創世記の旅にお付き合いいただけると嬉しいです。
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それでは、また新たな物語でお会いしましょう。
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