醤油蔵の近代化戦争 第3話:優良菌の、純粋培養
作者のかつをです。
第十章の第3話をお届けします。
醤油造りのまさに根幹を揺るがす大革命。
今回は、「純粋培養」という科学のメスが、いかにして醤油の品質を飛躍的に向上させる道筋をつけたのかを描きました。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
研究者たちは、それぞれの蔵から最高の出来と謳われる「一番麹」をサンプリングした。
そして、その麹を顕微鏡の下で丹念に観察した。
レンズの向こうには、驚くべき世界が広がっていた。
そこは、多種多様な微生物たちが激しく生存競争を繰り広げる、ミクロの戦場だった。
彼らが探していた醤油麹菌。
その目的の菌だけでなく、醤油造りには不要な、時には有害でさえある様々なカビや細菌がうごめいていたのだ。
「……これか」
研究者たちは、長年の謎の答えを見つけた。
その年の醤油の出来が博打のようだった理由。
それは、この目に見えない戦場でどの菌が優勢になるかという、偶然に左右されていたからだ。
良い菌が勝てば良い醤油ができる。悪い菌が勝てば、味も香りも劣る質の悪い醤油になってしまう。
「ならば、答えは一つだ」
研究者たちの目標は、明確になった。
この混沌とした微生物の群れの中から、醤油造りにとって最も理想的な働きをする「エリート菌」だけを探し出す。
そして、そのエリート菌だけを研究室で人工的に大量に育てるのだ。
「純粋培養」である。
不確定な自然の力に頼るのではない。
人間が意図的に、最強の職人である「優良菌」だけを選び出し、戦場へと送り込むのだ。
そうすれば、もはや醤油の出来は博打ではなくなる。
いつでも安定して、最高品質の醤油を造ることができるはずだ。
それは、醤油造りの歴史数百年の中で、誰も考えつきもしなかった革命的な発想だった。
野田と、銚子。
二つの町の研究室で、熾烈なエリート菌の探索競争が始まった。
ある菌はうま味成分を作り出す力は強いが、香りが弱い。
ある菌は香りは良いが、繁殖力が弱い。
何百、何千という候補の中から、味、香り、繁殖力、そのすべてを高いレベルで兼ね備えた究極の醤油麹菌を探し出す。
それは、まさに宝探しにも似た気の遠くなるような作業だった。
そして、ついにそれぞれの研究所が自らの蔵の未来を託すにふさわしい、最高のエリート菌を発見する。
その小さな小さな菌が、それぞれの町の醤油の味の礎となり、そして百年以上にわたってその蔵の個性を守り続ける守護神となっていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
この「純粋培養」の技術は、醤油だけでなく味噌や清酒といった、日本のあらゆる発酵食品の近代化に絶大な影響を与えました。日本の醸造技術が世界トップレベルになった、その原点がここにあるのです。
さて、ついに最強の武器を手に入れた醤油蔵。
しかし、その武器を現場の職人たちに受け入れさせることは、また別の高い壁でした。
次回、「職人の勘 vs 科学のデータ」。
新旧の価値観が、激しくぶつかり合います。
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