本わさびの香りを食卓へ届けた挑戦 第1話:鮫肌と、涙の香り
作者のかつをです。
本日より、第八章「チューブの中の職人技」の連載を開始します。
今回の主役は、冷蔵庫の常連「チューブ入りわさび」。
その誕生の裏にあった、驚くべき技術と開発者たちの情熱の物語です。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
2025年、東京。
スーパーの鮮魚コーナーで買った週末のごちそう、マグロの刺身。
食卓には醤油の小皿と、そして冷蔵庫から取り出した緑色のチューブが並ぶ。
キャップをひねり指で軽く押し出すと、鮮やかな緑色のペーストがにゅるりと姿を現した。
ツーンと、鼻の奥を抜けていく爽やかで清涼感のある、あの香り。
私たちは蛇口をひねるように当たり前に、あの刺激的な風味を食卓に呼び出すことができる。
しかし、そのチューブの中に職人技ともいえる繊細な香りをいかにして閉じ込めたのか、その長く険しい道のりを知る者は少ない。
これは、日本の食卓に欠かせない名脇役「チューブ入り香辛料」を生み出した、名もなき開拓者たちの涙と執念の物語である。
物語は1960年代、日本の家庭の食卓がまだ少しだけ今よりも手間をかけていた時代に遡る。
刺身や寿司、ざるそば。
そこには必ず薬味としての「わさび」が添えられていた。
しかし、そのわさびはチューブから出てくるものではなかった。
当時、家庭で使われていたのは主に「粉わさび」。
西洋わさび(ホースラディッシュ)の粉末を水で練って作る、簡易的なものだ。
確かにツーンとした辛さはある。しかし、そこには本物のわさびが持つ、あの爽やかで甘みさえ感じる豊かな香りはほとんどなかった。
本物の味を求める家庭では、主婦が小さな鮫皮のおろし金でゴシゴシと緑色の根茎をすりおろしていた。
本わさびである。
きめ細かく、円を描くように優しくすりおろす。
すると、わさびの細胞が細かく破壊され、空気に触れた瞬間、あの独特の目が覚めるような香りが生まれるのだ。
しかし、その香りはあまりにも儚かった。
すりおろしてから、わずか数分。
あっという間にその命は失われ、ただの辛いだけの緑色の塊になってしまう。
そして何より、本わさびは非常に高価な贅沢品だった。
庶民が日常的に食卓で楽しめるようなものでは、決してなかったのだ。
このもどかしい現実に、心を痛めている男たちがいた。
S&B食品でカレー粉の開発を率いていた、あの山崎峯次郎の志を受け継ぐ若き研究者たちである。
「この、すりおろしたての、本物のわさびの香りを、もっと手軽に日本のすべての家庭に届けることはできないだろうか」
それは、カレー粉の国産化に勝るとも劣らない、途方もなく困難な挑戦の始まりだった。
彼らが戦うべき相手は、時間と共にあっけなく消え去ってしまう、あまりにも儚い「香り」という名の緑色の涙だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
第八章、第一話いかがでしたでしょうか。
わさびのあの独特の辛みと香りは、「アリルイソチオシアネート」という揮発性の成分によるものです。わさびの細胞が壊れることで初めて生成される、非常にデリケートな物質なのです。
さて、あまりにも儚い「わさびの香り」を、どうやって製品として安定させるのか。
次回、「香りを閉じ込める、という難題」。
開発チームの、前例のない挑戦が始まります。
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