漁師の嘆きが生んだ冷凍食品の夜明け 第3話:氷の結晶との戦い
作者のかつをです。
第五章の第3話をお届けします。
主人公がいかにして問題の核心にたどり着いたのか。
今回は彼の科学者としての思考のプロセスを、少し詳しく深掘りして描いてみました。
ミクロの世界での発見が、マクロな世界の革命に繋がっていきます。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
苫米地の研究所は静寂に包まれていた。
彼の世界は顕微鏡の接眼レンズの向こう側にある、ミクロの宇宙に凝縮されていた。
机の上には凍らせては解かし観察を終えた魚の組織標本が、無数に並んでいる。
周囲からどれだけ無謀だと言われようと、彼は信じていた。この小さなレンズの先に必ず答えはあると。
「なぜ、ドリップは出るのか?」
その問いは昼も夜もなく、彼の頭の中で反響し続けていた。
彼は従来の「緩慢冷凍」で凍らせたニシンの身を薄くスライスしプレパラートに乗せて、レンズの下に滑り込ませた。
ピントを合わせ、ゆっくりと焦点を絞っていく。
やがて彼の目に飛び込んできたのは、衝撃的な光景だった。
そこには無惨に破壊し尽くされた細胞の残骸が広がっていた。
魚の身を構成しているはずの一つ一つの筋繊維の細胞膜が、まるで鋭利な刃物でズタズタに切り裂かれたかのようにその形を失っていたのだ。
これではドリップが大量に出るのも当然だった。細胞という名の袋が、ことごとく破れてしまっているのだから。
「何が細胞を破壊したんだ……?」
彼はさらに倍率を上げた。
そして、ついに犯人の正体を突き止める。
細胞と細胞の隙間にまるでガラスの破片のように突き刺さっている、巨大な氷の塊。
それはギザギザと角張った、槍のように鋭い「氷の結晶」だった。
彼ははっと息を呑んだ。
水が凍るときその体積が増えることは知っていた。しかし、これほどまでに破壊的な形で細胞組織を傷つけうるとは想像もしていなかった。
彼は思考を巡らせた。なぜこれほどまでに大きく、鋭い氷の結晶が育ってしまうのか。
ゆっくりと時間をかけて冷やすことで、まず細胞の外側にある水分が凍り始める。
その小さな氷の核が磁石のように、周囲のまだ凍っていない水分を引き寄せ吸収していく。
細胞の内側からも水分が奪われていく。
そうして氷の結晶は雪だるま式に、どんどん大きく大きく成長していくのだ。
時間をかければかけるほど、その結晶は鋭利な刃物へと変貌を遂げる。
「これだ……!」
苫米地は思わず声を上げた。
長年の謎が一本の線で繋がった瞬間だった。
ドリップの正体は、この巨大な氷の結晶によって破壊された細胞から流れ出た旨味成分を含む体液そのものだったのだ。
原因が分かれば、解決策はその裏側にある。
彼の頭に、一つの大胆な仮説がひらめいた。
「ならば逆だ。氷の結晶が大きくなる『時間』を与えなければいい」
魚が凍るその瞬間を、極限まで短縮する。
細胞の内側も外側もすべての水分が、巨大な結晶に成長する暇もなく一斉にミクロ単位の小さな氷の粒になるように、一瞬で凍らせてしまう。
そうすれば細胞膜を破壊することなく、獲れたての組織構造をそのままの形で閉じ込めることができるはずだ。
「急速冷凍」という魔法の扉が、彼の目の前でゆっくりと開き始めていた。
敵の正体は突き止めた。
次の戦いは、いかにしてその敵を倒すか。
いかにして「時間」という概念そのものに打ち勝つかという、さらに壮大な挑戦の始まりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
食品が凍り始め完全に凍りきるまでの温度帯(約マイナス1度~マイナス5度)を「最大氷結晶生成帯」と呼びます。この温度帯をいかに速く通過させるかが、急速冷凍の技術的な鍵となります。苫米地は、まさにこの核心に気づいたのです。
さて、理論は完成した。しかし、それを実現する「装置」がこの世にはまだ存在しませんでした。
次回、「急速冷凍技術の確立」。
彼は常識外れの方法で、理想の冷凍技術をその手で生み出そうとします。
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