とんこつラーメン、偶然の誕生秘話 第2話:母に任せたスープの番
作者のかつをです。
第二十一章の第2話をお届けします。
運命のいたずら。
今回は歴史が動くその引き金となった、ささやかな、しかし決定的な「ミス」の瞬間を描きました。
偉大な発明は時にこんな日常のうっかりから生まれるのですね。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
屋台「三九」の営業は多忙を極めた。
杉野勝見は昼間は市場で食材を仕入れ、午後から延々とスープの仕込みをし、夕方から深夜まで客の前に立ち続けるという生活を送っていた。
睡眠時間を削り、身を粉にして働く毎日だった。
そんなある日の午後、彼はどうしても抜けなければならない急な所用ができてしまった。
しかし厨房の寸胴鍋には翌日のためのスープが静かに煮込まれており、この火の番だけは絶対に絶やすわけにはいかない。
彼は店を手伝ってくれていた母親に声をかけた。
「母ちゃん、すまんがちょっと出かけてくる。このスープの火の番ば頼めんやろうか」
母親はにこやかに頷いた。
「なんの、任せときんしゃい」
杉野は念には念を入れて、母親に釘を刺した。
「火加減は絶対にこの弱火のままで頼む。アクが出たらこまめにすくってくれ。そして何があっても絶対にスープを煮立たせたらいかんぞ。にごってしまうけん」
にごりは職人の恥。
その言葉は彼の信条だった。
母親も「分かっとるよ」と安請け合いをした。
まさかこのささやかな親子の会話が、ラーメンの歴史を変えることになるとは夢にも思わずに。
杉野が屋台を後にしてしばらく経った頃だった。
母親は他の片付け仕事に気を取られ、火の番をしていることをうっかりと忘れてしまっていた。
薪をくべたかまどの火力は、いつの間にか強まっていた。
寸胴鍋の中では、それまで静かに揺蕩っていたスープがぐらぐらと激しく沸騰を始めていた。
鍋の底では豚の骨がぶつかり合い、その表面からは灰汁と共に白い脂が次々と浮き上がってくる。
しかしその異変に誰も気づく者はいなかった。
数時間後、所用を終えた杉野が屋台へと戻ってきた。
彼は屋台に近づくにつれて眉をひそめた。
いつもと匂いが違う。
醤油の香ばしい匂いではなく、どこかむせ返るような独特の獣臭が鼻をついたのだ。
「……なんや、この匂いは」
嫌な予感が胸をよぎる。
彼は駆け足で屋台の厨房へと飛び込んだ。
そこに立っていたのは、鍋の前でうろたえる母親の姿だった。
そして彼の目に飛び込んできたのは、かまどからメラメラと立ち上る強すぎる炎。
「母ちゃん! 火が!」
彼は慌てて火力を弱めた。
そして恐る恐る寸胴鍋の蓋に手をかける。
じわりと熱い蒸気が手に伝わってくる。
彼の心臓は早鐘のように鳴っていた。
頼む、無事でいてくれ。
彼の命ともいえる黄金色のスープ。
その祈りは、しかし無情にも裏切られることになる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
この「母親がうっかり火を強くしてしまった」というエピソードは、とんこつラーメンの誕生秘話として今も久留米で語り継がれている有名な伝説です。
さて、変わり果てたスープを前に絶望する杉野。
彼はこの「失敗作」をどうするのでしょうか。
次回、「失敗から生まれた白濁スープ」。
物語はいよいよ核心に迫ります。
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