冷凍パン生地が起こしたパン屋革命 第5話:職人の、プライド
作者のかつをです。
第十九章の第5話をお届けします。
新しい技術は古い技術を駆逐するだけではない。
時にはその価値を再発見させるきっかけにもなる。
今回は、冷凍パン生地がもたらした光と影、そしてその先の新しい共存の形を描きました。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
ベイクオフシステムの普及は、日本のパン文化を飛躍的に豊かにした。
焼きたての美味しいパンがいつでもどこでも手に入るようになった。
しかし、その輝かしい光の陰で一つの静かなる問いが生まれていた。
「果たして、これは本当に『パン屋』と呼べるのだろうか」
その問いを最も深刻に受け止めていたのは、誰よりもパンを愛する昔ながらのパン職人たちだった。
彼らにとってパン作りとは、生き物である酵母と対話しその日の気候を読み、自らの長年の経験と勘を総動員して一つの作品を生み出す創造的な営みだった。
しかし、ベイクオフシステムはその最も創造的で最も奥深い生地作りの工程を、職人の手から奪い去ってしまった。
残された仕事は、冷凍された生地をマニュアル通りに解凍しオーブンに入れるだけ。
そこにはもはや職人の個性が入り込む余地はない。
「こんなものはパン作りではない。ただの作業だ」
「わしらはパン職人ではない。ただのオーブン番だ」
あるベテランの職人は、そう自嘲気味に呟いたという。
効率化と標準化。
その大きな波の中で、職人としてのプライドと仕事のやりがいが失われていく。
そのジレンマに、多くの職人たちが苦しんだ。
しかし、時代は彼らに新しい役割を与えることにもなった。
ベイクオフシステムが普及したことで、人々は焼きたてのパンの美味しさを知った。
人々の舌は肥え、パンに対する要求はより高くより多様になっていった。
その成熟した市場の中で再び脚光を浴びたのが、熟練の職人がゼロからすべてを手作りする「アルチザン(職人)」のパン屋だった。
天然酵母を自家培養し、国産の希少な小麦を使い、何日もかけてじっくりと低温で長時間発酵させる。
その手間暇を惜しまないパン作りは、冷凍パン生地では決して表現できない唯一無二の深い味わいと香りを生み出した。
皮肉なことだった。
冷凍パン生地という職人不要のシステムがパンの大衆化を推し進めた。
その大衆化が逆に、人々に本物の「職人技」の価値を再認識させるきっかけとなったのだ。
効率を追求するチェーンのパン屋。
そして、個性を追求する職人のパン屋。
冷凍パン生地革命は日本のパン市場に、「多様性」という新しい豊かさをもたらした。
それは決してどちらが優れているかという単純な話ではなかった。
二つの異なる価値観が共存し、互いに高め合う新しい時代の始まりだったのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
このチェーン店と個人店の二極化と共存は、パン業界だけでなくコーヒーショップなど現代のあらゆる食の分野で見られる現象ですね。効率と個性。その両方が、私たち消費者の選択肢を豊かにしてくれています。
さて、日本のパン文化に大きな革命をもたらした冷凍パン生地。
その氷の魔法は、現代の私たちに何をもたらしたのでしょうか。
次回、「焼きたての、その先へ(終)」。
第十九章、感動の最終話です。
物語は佳境です。ぜひ最後までお付き合いください。
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