第8話 クエストの香りは珈琲の香り
あの悪夢の『活動報告弁当』事件から数日。
私たちは、お馴染みの喫茶店「シーラカンス」で、ささやかな祝勝会を開いていた。もちろん、祝っているのは夏帆だけで、私はまだ、あの重箱の重みを両腕に感じているような気がしてならない。
「いやー、それにしても円の活躍、マジで神だったな! 冴島先生をプリン一つで黙らせるなんて!」
「あれは活躍じゃないわよ、ただの奇跡よ……」
レトロな木製のテーブルで、私はぐったりとアイスコーヒーのストローをかじる。店内には、豆を焙煎する香ばしい匂いと、静かなジャズが流れている。ここだけが、私の唯一の癒やしだ。
「しかし、私の計算外だった。プリンという変数が、あれほどの影響力を持つとは。今後のガジェット開発における、最優先課題に設定する」
「澪はもう何もしないで……」
「プリンは奥が深いですから。甘味、固さ、カラメルの苦味。その黄金比は、まさに科学であり、芸術ですわ」
澪とひまりが真剣な顔で語り合っている。この二人、ベクトルは違うが、探求者としての根っこは同じなのかもしれない。
と、その時。
「……お前たちか」
低い声と共に、私たちのテーブルに影が差した。見上げると、店のマスターが、無表情でこちらを見下ろしていた。年季の入ったベストと、綺麗に整えられた口髭がトレードマークの、渋い紳士だ。
「先日、冴島先生がえらく上機嫌でな。お前たちが面白いことをしたと聞いた」
「えへへ、まあ、ちょっとした作戦がハマりまして!」
夏帆が得意げに胸を張る。マスターはふん、と鼻を鳴らすと、一枚のメモをテーブルの上に置いた。
『依頼:第二階層・岩塩ゴーレムの暴走鎮圧』
「第二階層の岩塩ゴーレムが、最近妙に荒れていてな。ダンジョン内に自生する『洞窟ハーブ』を片っ端から集めて、巣に持ち帰っちまう。あれがないと、うちのサンドイッチが出せんのでな。なんとかしてこい」
「うおお! 面白そう!」
夏帆が依頼のメモをひったくるように手に取った。私の【リスク回避型】思考が、即座に最高レベルの警報を発する。
「ちょ、ちょっと待って! 第二階層よ!? ライセンスはあっても、私たちの装備じゃまだ早いわよ!」
「問題ない」
また、その言葉だ。澪は自分のタブレットをスワイプしながら、冷静に分析を始めた。
「ゴーレムは岩石生命体。その行動原理は単純な地質学的法則に支配されている。データによれば、特定の周波数の音波で結晶構造を乱し、一時的に無力化できるはずだ。この『地質共鳴音叉』さえあれば」
澪が取り出したのは、金属製の大きな音叉だった。キィン、と軽く弾くと、歯が浮くような、ひどく不快な音が鳴り響いた。
私の頭痛が再発したその隣で、ひまりが「まあ」と小さく手を口に当てた。
「岩塩のゴーレム……。それはつまり、ゴーレムそのものが、歩く最高級の調味料ということですわね?」
「え、そっち?」
「力で制圧するのは野蛮ですわ。ここは、対話で解決すべきです」
「対話?」
ひまりはどこからか、みずみずしい採れたてのきゅうりを取り出しながら、うっとりと語り始めた。
「まず、この新鮮なきゅうりをゴーレムさんに味わっていただくのです。そして、お好みの塩加減で、ご自身の体の一部を削って振りかけていただく……。なんと美しく、持続可能な相互理解でしょう」
「自分の体食べさせる気!? そんなの理解じゃなくてただの共食いじゃない!」
私は思わず叫んで、マスターの顔を見た。こんな常軌を逸した作戦会議を聞いて、呆れているに違いない。
しかし、マスターは腕を組んだまま、ただ静かに一言、こう言った。
「……美味いサンドイッチ、期待してるぞ」
そして、無表情のままカウンターへと戻っていく。
(なんで納得しちゃってるんですかマスター!?)
私の悲痛なツッコミは、香ばしい珈琲の香りの中に、虚しく溶けて消えていった。
どうやら、私の癒やしの時間は、もう終わってしまったらしい。