第7話 決裁理由はプリンです
職員室の引き戸は、思った以上に重かった。
がらり、と音を立てて開いた扉の向こうには、放課後の静けさが広がっている。ちらほらと残っている先生たちの、キーボードを打つ音だけが響いていた。
私のターゲット――冴島京子先生は、一番奥の窓際の席で、頬杖をつきながら虚空を眺めていた。その背中から「面倒くさい」というオーラが湯気のように立ち上っているのが、ここまででもわかる。
(本当に、これを渡すの……?)
腕の中の二段重が、急に鉛のように重くなる。今ならまだ引き返せる。普通の報告書を、明日改めて持ってくる、と……。
いや、ダメだ。部室では、三人が期待に満ちた目で私の帰りを待っている。私がここで逃げ出せば、きっと明日には『第二回活動報告弁当』が、さらにパワーアップして作られてしまう。それだけは、絶対に避けなければ。
覚悟を決めて、私は先生の机へ向かった。
私の足音に気づいた先生が、気だるそうに顔を向ける。
「あ? なんだ、小日向か。まだ何か用か」
「せ、先生。お頼まれしていた、部活動報告書を、お持ちしました……」
私の声は、自分でも情けないほどに上ずっていた。
先生の机の上に、私はそっと、漆塗りの重箱を置いた。ドン、という鈍い音に、隣の席の数学教師がちらりとこちらを見た気がする。
冴島先生は、眉一つ動かさずに、目の前の異様な物体を見下ろした。
「……なんだ、これは」
「ほう、こくしょ、です」
「これが?」
不審感マックスの目で私を一瞥し、先生は面倒くさそうに、しかしゆっくりと重箱の蓋に手をかけた。
パカリ、と蓋が開く。
現れたのは、色とりどりのおかずと、邪神のラミネートカードがひしめき合う、カオスな光景。先生の眉間のシワが、ぐっと深くなった。
(終わった……。絶対に怒られる……!)
私がギュッと目をつぶった、その時だった。
先生の動きが、ピタリと止まった。その視線は、お弁当の中の一点――中央に鎮座する、カスタードプリンに釘付けになっている。
「……ほう」
さっきまでの「面倒くさい」オーラが嘘のように消え去り、代わりに、獲物を見つけた狩りのような、鋭い光がその目に宿った。
先生は、他の常軌を逸したおかずや、冒涜的なイラストには目もくれず、すっとプリンにスプーンを伸ばした。そして、一口。
長い、沈黙。
私の心臓が、早鐘のように鳴っている。
やがて、先生はゆっくりと顔を上げ、私を見て、一言だけ、告げた。
「……合格だ」
え?
「よ、よろしいのですか!? 中身とか、活動内容とか……!」
「問題ない。美味い」
先生はそれだけ言うと、机の引き出しから、例の白紙の報告書と、認め印を取り出した。そして、私が提出すべきだった用紙の隅に、ポン、と無造作にハンコを押した。
「ほらよ。これで受理完了だ。重箱は後で返しに行く」
差し出された一枚の紙。
そこには、『受理』の赤い文字だけが、くっきりと押されていた。
私は、その紙を受け取ったまま、しばらく動けなかった。
職員室を出て、自分の教室へ戻る廊下を、夢遊病者のようにふらふらと歩く。
(理由が……理由がプリン……?)
夏帆の思いつきも、澪の暴走も、ひまりの奇行も、私の苦悩も、すべてはどうでもよかったのだ。
ただ、一個の、固めのプリン。
それだけが、この世界の理だった。
(私たちの部の存続は、一個のプリンにかかっていた……)
夕暮れの校舎に、私の乾いた笑いが、小さく、小さく響き渡った。