第54話 海底のテリーヌと、三分の奇跡
遠征初日。
時刻は朝。
場所は第四層の洞窟の入口。
私たちは、再び、あの『潮騒の洞窟』の、奥深く、静寂に包まれた、地底湖の前に、立っていた。
私たちの、あまりにも、壮大で、無謀な、遠征の第一歩。
「目標地点は、あの、水底の、さらに奥。光の届かない、海底洞窟だ」
澪が、潮だまりの、向こう側を、指差した。そこには、暗く、不気味な、横穴が、口を開けている。
「ここからは、潜水装備が、必要になる」
「む、無理よ! 私、泳げないって、言ってるじゃない!」
「問題ない」
澪は、自信満々に、小さな、カラフルな、包み紙を取り出した。
「この、『超小型、鰓呼吸誘発キャンディー』がある。これを、舐めれば、三十分間、水中で、皮膚呼吸が、可能になる。古代、人類が、持っていた、魚類の、遺伝子情報が、一時的に、覚醒するのだ」
「どんな、無茶苦茶な、理論よ……」
「すげー! 人魚になれるの!?」
夏帆は、目を輝かせ、レモンソーダ味の、キャンディーを、口に放り込んだ。
「まあ、わたくしは、ピーチ味をいただきますわ」
ひまりも、続く。
私は、半信半疑、というより、九割九分、疑いの目で、その、怪しげな、キャンディーを、口に入れた。舌の上で、甘酸っぱい、ブドウの味が、広がった。
そして、私たちは、水の中へと、飛び込んだ。
不思議なことに、息が、苦しくない。
私たちは、魚のように、水中を、進んでいく。
暗い、横穴を、抜けた、その先。
そこは、言葉を失うほど、美しい、光の、世界だった。
洞窟の、壁、一面に、青白い、『光苔』が、びっしりと、自生しているのだ。
その、苔が、放つ、淡い光が、水中を、照らし、洞窟全体が、まるで、星空の、ど真ん中に、いるかのような、幻想的な、空間を、作り出していた。
(きれい……)
私が、その、美しさに、넋を失っていた、その時だった。
急に、胸が、苦しくなった。
酸素が、足りない。息が、できない。
見ると、私の肌から、ぶくぶく、と、泡が、出ていた。澪の、キャンディーの、効果が、切れたのだ!
(うそ……! まだ、三分も、経ってないのに……!)
パニックに陥り、手足を、もがく、私。
その、私の、手を、ひまりが、そっと、掴んだ。
そして、彼女は、洞窟の壁に生えている、『光苔』を、指差した。そして、それを、食べるような、ジェスチャーをした。
(これを、食べる……!?)
私は、もう、藁にも、すがる思いで、その、光る苔を、むしり取り、口の中へと、放り込んだ。
口の中に、ミントのような、爽やかな、清涼感が、広がる。
そして、次の瞬間、すうっ、と、息が、できるようになったのだ。
どうやら、この苔自体に、水中で、酸素を、生み出す、成分が、含まれているらしい。
私たちは、大急ぎで、光苔を、防水袋に、詰め込むと、全速力で、元の、潮だまりへと、浮上した。
「はあっ、はあっ……! ぷはっ!」
水面から、顔を出し、私は、必死で、酸素を、求めた。
「(あの、キャンディー、全然、意味なかったじゃない!)」
「(ていうか、効果時間、三分も、なかったわよ! 普通に、死ぬところだったんですけど!?)」
私の、ツッコミは、しかし、荒い、呼吸の、音に、かき消された。
澪は、その隣で、「……ふむ。被験者の、代謝率の、個体差を、考慮に、入れていなかった。今後の、大きな、課題だ」と、真剣な顔で、反省していた。
反省するなら、もっと、まともな、ものを、開発してほしい。
心から、そう、思った。




