第2話 ダンジョンは安全、私たち以外は
結局、私の必死の抵抗は三人の「面白そう!」「合理的だ!」「美味しそうですわ!」という圧倒的物量の前に押し流された。
私たちは今、海沿いを走る「みはまシーサイドライン」に揺られている。窓の外には、きらめく夏の海。普通の女子高生なら、このまま江の島にでも行って、お洒落なカフェでパンケーキでも食べるのだろう。
(なんで私は、これからスライムを捕まえにダンジョンへ……)
隣では、夏帆が「七里ヶ浜ダンジョン、めっちゃ久しぶり!」と遠足気分のまま。その向かいでは、澪が「この路線の揺れはダンジョンの地盤に影響を及ぼさないか」などとブツブツ計算しており、ひまりは「潮風は食材の風味を引き立てますわ」と、優雅に微笑んでいる。
……もう、家に帰りたい。
「着いたー!」
目的の駅は、ダンジョンの入り口に直結していた。
目の前に広がるのは、洞窟というよりは、近代的な市民体育館のようなエントランスだった。自動ドアが開き、中からは涼しい空調の風が吹き出してくる。受付カウンターには暇そうな職員さん、壁には『今週のイベント:第一階層で黄金スライムを探せ!』という、楽しげなポスターまで貼ってある。
「ほら円、言ったでしょ! 公社管理だから安全なんだって!」
「安全なのはダンジョンだけでしょ! このメンバーが一番安全じゃないのよ!」
私のツッコミも虚しく、夏帆はライセンスカードを改札機にタッチして、意気揚々と中へ進んでいく。私たちもそれに続いた。
通路は蛍光灯でこうこうと照らされ、床は滑り止め加工済み。五メートルおきに設置された監視カメラが、無機質に私たちを見下ろしている。
「ふむ。このダンジョンの空気は、外気と比較して湿度が三パーセント低い。モンスターの乾燥肌対策だろうか」
「澪、その分析に何の意味があるのよ……」
澪が自作の温湿度計を片手に真剣な顔で呟く。その時、前方を歩いていた夏帆が足を止めた。
「あ、スライム!」
通路の脇に、青くて半透明なスライムが一体、ぷるぷると震えていた。ゲームで見るような、最弱モンスターの代表格だ。
いよいよ出番とばかりに、澪がスッと前に出る。
「交渉の好機だ。任せろ」
彼女は懐から『モンスター語翻訳機バージョン三・一』を取り出し、スライムに向けた。そして、厳かに尋ねる。
「君に敵意はない。この先にいるであろう、ゴールデンスライムの情報を求む」
機械は数秒の沈黙の後、スピーカーから高らかに音声を発した。
『ニャ、ニャーン!』
「……『知るか、そんなもの。我に構うな』。そう言っている。かなりのインテリ個体だ」
「どう聞いたらそうなるの!? ただの猫の鳴き声じゃない!」
私の隣で、ひまりが「まあ」と小さく息を呑んだ。まさか、ひまりまでこの茶番を信じるつもりじゃ……。
「青くて涼しげ……。食感を楽しむなら、やはりところてんでしょうか。黒蜜ときな粉でいただきたいですわね」
「あんたもそっちなの!?」
もうダメだ。この部活、マトモな会話が成立しない。
私が頭を抱えていると、不意に目の前がパッと明るくなった。通路の先、少し開けたホールのような場所に、ひときงามわ輝く存在がいた。
体長約三十センチ。文字通り、溶かした黄金のような色合いのゲル状ボディ。頭頂部には、申し訳程度に天使の輪のようなものが光っている。あれが、ゴールデンスライム……!
「うおおお! いた!」
「データ通りの輝度だ。間違いない」
夏帆と澪が色めき立つ中、ひまりが一歩、静かに前に出た。その手には、いつの間にかマイ醤油差しではなく、小さなガラスの器が握られている。
「まあ、なんて瑞々しくて、気高いお姿……」
ひまりはうっとりとした表情で、ゆっくりとゴールデンスライムに近づいていく。
「無理強いはいけませんわ。最高の状態で、自らこの器の上へといらしていただかないと。さあ、美味しいお醤油と本わさびが、あなたを待っていますよ……」
その姿は、モンスターに挑む探索者というより、最高級食材を前にした美食家そのものだった。ひまりの謎の説得に、ゴールデンスライムはきょとんとした様子で、ぷるぷると震えている。
カオス。あまりにもカオスな光景に、私の精神が限界を迎えようとした、その時だった。
「――あ、お客様、申し訳ございません」
背後から、気の抜けた声がした。
振り返ると、公社のロゴが入ったポロシャツを着た、アルバイトらしき若い男性スタッフが、困ったように笑っていた。
「そのゴールデンスライム、イベント用なので捕獲はご遠慮いただいておりまして」
「え?」
「それを見つけて受付に報告していただくと、そこの売店で使える『特製カスタードプリン無料引換券』をプレゼント、ということになってるんですよ」
……ぷりん、むりょうひきかえけん?
スタッフの言葉に、私、夏帆、澪、ひまりの四人は、完全に時が止まった。
夏帆は口をあんぐりと開け、澪は「非、合理的……」と眼鏡を押し上げ、ひまりは「プリン……ですの?」とガラスの器を持ったまま固まっている。
つまり、澪の言っていた「プリンと成分が九十八・七パーセント一致する」という与太話は、結果的に、目的だけは合っていた……?
(結局プリンなんじゃない! ていうか、私たちのこの冒険と情熱と胃痛の結晶が、ただのクーポン券だったっていうの!?)
私の心の叫びは、しかし、声にはならなかった。
ただ、夏のダンジョンに吹く、やけに涼しい空調の風が、私たちの間を虚しく通り過ぎていくだけだった。