Kの罪科
紫藤片喰は恋に恋する16歳である。
彼女の行動原理は運命的な恋をすること。そのための努力は惜しまない。
今日も白馬の王子様に出会うため最寄り駅までのありとあらゆる見通しの悪い曲がり角を飛び出したが、結果は自転車のおじさんに怒られただけだった。
それでも彼女が挫けることはない。恋が彼女の生きる意味で、存在理由なのだ。
春の陽気に反して、朝の駅のホームは鬱屈としている。片喰はそれに呑まれまいとほっぺをぐにぐに揉みほぐし、背筋を伸ばした。長髪を纏めるヘアピンを差し直し、電車に乗り込もうとした彼女の耳に呻き声が届いた。
声の主は点字ブロックの傍らで蹲っていた。ぴちっとスーツを着込んだ女性が顔を覆っている。
群衆が電車に乗り込んでいく中、片喰は女性のもとへ駆け寄り、しゃがんで声をかけた。
「あの〜、大丈夫ですか?」
「…だ…」
「え?」
「失敗した、また、また駄目だ……」
「し、失敗?」
ボソボソ声で、なんと言っているのかうまく聞き取ることができない。
「今日も飛び込めなかった」
片喰は驚いて、まくし立てた。
「だ、だめですよお姉さん!お父さんとお母さんからもらった命をみすみす捨てるなんて!このご時世ここまで生き残ってきたんですから!今日はいったん休みましょ!ね!」
「…おかあさん…いのち?」
女性は言葉を覚えたての幼児のようにこっちを見た。顔は涙でグショグショだ。
「はい、命を大切に…」
「うわあああああああああああ」
女性は突然喚きながら頭をぐしゃぐしゃに掻きむしった。
「えええええええ!?」
驚愕する片喰をよそに彼女は肩に爪を立て無理やりスーツを破く。剥き出しになったのは裸体…ではなく、骨だった。人間が持つはずの皮膚も内蔵も存在しなかった。
「そう…そうよ…私は怪人なんだから…怪人らしく、全部壊せばいいのよ、人間のもの」
突如として女性は巨大化しその正体を露わにする。髪は抜け落ち、顔の眼球や皮膚と同じようなどろりとした液体となった。鉛色の液体はぼとぼと落ちて、骨以外の全てを地に流してしまった。駅を見下ろすほどの大きな骸骨が顕現した。
古来、人はそれを餓者髑髏と呼んだ。
「おい、バケモンだ!化け物が出たぞ!」
非常警報が鳴り響いて、通勤ラッシュのホームに動揺が広がる。にわかに周囲の人たちが駅構内へ逃げていく。片喰は腰が抜けてしまって動けない。
髑髏は天を仰いで咆哮し、机の物を全て落とすように周囲を薙ぎ払った。電線が切れ、火花が散る。悲鳴と瓦礫の音が聴こえた。
そして髑髏は片喰に向き直った。
「あなた、親に愛されてるのね。私はあなたみたいに恵まれてる人間が心底憎らしい」
人に擬態していた化物は顎の骨をカタカタ鳴らす。
「出来るだけ人間に迷惑をかけて死ぬわ。まずはあなたから、殺すわね」
朝日を受けて鈍く光る指の骨が片喰に迫る。
片喰の力ではどうにもなりそうにない。
「や…やだ…」
声が掠れる。片喰の身体は震えて止まらない。
誰か。誰でもいい。
「たすけて…」
絞り出した声は、逃げる人々の慌ただしい足音に掻き消された。
「か……はっ」
骸骨に強く握りしめられ、ぶらりと片喰の身体が持ち上がる。息ができない。視界が暗く、狭くなっていく。
パァン!
銃声が響いた。
気が付くと、片喰は誰かに抱えられていた。
「生きてるか?」
くせっ毛の黒髪を後ろにまとめた女性が片喰の顔を覗き込んでいる。頷くと、少し離れたところに片喰をゆっくりと降ろした。
彼女はレミントンm700を持っている。もう、化け物のほうを向いていた。
「髑髏でも、脳天ぶち抜いたら死ぬか?」
強大な化物を前にして、彼女は堂々としている。
「私は今あたらしく生まれ変わったの。脳天ぶち砕かれるのはあなた」
化物は拳を振り下ろす。コンクリートに衝撃が走った。が、彼女はもうそこにはいなかった。
砂礫の舞うなか、俊敏に瓦礫の道を走り、飛び上がって屋根へ移った。餓者髑髏の背中をとっている。
そのまま三回発砲した。
「下手くそなのね。頭は狙わないの?」
化物はゆっくりと振り返る。弾は全て頭蓋骨を外れていた。
「せっかちだな」
突然、音を立てて化物の頭が崩れ堕ちる。化物は頭蓋骨の重みで自分の骨を滅茶苦茶に砕いてしまった。破片が辺りに散らばる。
「な、どう、して……」
地に伏した髑髏は哀れに洩らす。
「頸椎の軟骨を撃った。」
散らばる白骨のもとで、片喰は思考する。
脊椎の軟骨。軟骨は擦り減っても気づかれにくいといわれてる。確かにそこを撃てば、相手に気づかれないまま頭を落とすことができるかもしれない。さらに、頭を落として他の骨も砕くことができれば、大きなダメージを与えられる。
この一瞬で「脳天」というブラフを張って、相手を戦闘不能にした。この人、ただ者じゃない。
「さあ、脳天を貫かれる用意はいいか」
彼女は銃をリロードした。
「ま、待って!」
片喰は走って駆け寄る。
「トドメまで刺さなくても……もう、力は残ってませんし」
髑髏は疲弊したのか、命が尽きようとしているのか何も言わない。銃を持った彼女は真暗な瞳で片喰を視る。スカートをぎゅっと握りしめていたが、片喰の手は震えていた。
「殺されかけたのに、変わってるな」
彼女は銃を背中に背負い、さっと踵を返した。
「……あ!待ってください、まだお礼が……」
彼女は片喰を気にも留めない。
「せめて、名前だけでも」
階段を登っていた彼女は、ふと振り返る。
「お人好しもそこそこにな」
立ち尽くす片喰を春の陽光が照らしていた。やがて静寂が止み、片隅に縮こまっていた人々が動き出した。
「へえ、君が羅漢せんぱ……羅漢さんを止めてくれたのか」
片喰は後から来た日本帝国政府神祇庁直属の軍人に事情を話していた。まだ仕官したての初々しさを感じさせる気弱そうな男性だった。男性は松嶋と名乗った。
「らかんさん……それが、髑髏を倒した人ですか」
「そう。銃創を見ればすぐわかる。薬莢もあの人のだ」
松嶋は規制テープの奥の白骨を振り返った。その眼差しには憧れが見て取れた。もうピクリともしない骨を、袈裟を着た人々が少しずつ回収している。
「僕もね、君みたいに羅漢さんに助けられたんだ。にしたって、よくあの人を止められたね。僕には出来なかったことだ」
松嶋はすこしはにかんだ。
怪人、もとい化け物はしばしば人間に擬態し、人間のコミュニティに紛れ込む。怪人には妖怪の血がごく薄いながらも流れており、尻尾や角など身体に妖怪の名残がある。感情が昂ると完全に化け物へと変身する。そして、破壊衝動のままに暴れまわる。駆除された化け物は帝国政府の研究機関に回収される。後学のためできるだけ生け捕りにするのが“模範的”とされている。
怪人は超常的な力を使うことができるかわりに、寿命が短い。人間の器に妖怪の力は手に余るのだ。また完全に変身するともとの姿には二度と戻ることはできない。怪人にとって変身とは自爆特攻に等しい。
「羅漢さんは政府のひとじゃないんですか?」
「彼女は民間だからね。こうして僕らより早く駆けつけては化け物を処理してしまう」
手柄を横取りされた割に、松嶋は口の端を歪めている。
「あの、私、羅漢さんにお礼を言いたいんです、連絡先、教えてくれませんか」
松嶋はもちろんさ、と懐からペンを取り出し、メモを手渡した。
「本当に、怪我はないんだね?」
「はい!ありがとうございました!」
そのままの足で片喰は羅漢のいるという事務所へ向かった。
それは駅にほど近く、古びたコンクリートの物件だった。
化け物に襲われた人がそのまま駆け込めるように、ガラス戸のカウンターには呼び鈴のスイッチが設置されている。カウンターの奥は丈の短いカーテンで隠されている。
片喰は一度スイッチを押し、すみませんと問いかけた。しかし反応はない。
「こんにちは!!今日羅漢さんに助けていただいた紫藤片喰という者なんですけども!!!」
「うるせぇ!」
すぐにガラス戸とカーテンが開き、隈をこしらえたくせっ毛のお姉さんが出てきた。羅漢さんだ。
「羅漢さん!私と結婚してください!」
「は?」
「……いったん、状況を整理させてくれ」
「はいっ」
「おれは化け物に襲われていたお前を助けた」
「はいっ!カッコよすぎでした!」
「それで事務所に帰ったら、お前が即訪ねてきた。そして婚約を申し込まれた」
「はい!惚れました!」
「なんでだよ。大体、お前ガッチリ化け物に握りしめられてただろ。なんでけろっとしてんだ」
「えっ、心配してくださってるんですか!なんて優しい……」
「お前の異常性を問いただしてんだよ」
「私は頑丈なのが取り柄です。それに、恋に理由は必要ありません!」
片喰はどんと胸をはる。
「えぇ……」
「ねぇ、結婚」
「断る」
「なんで!!」
「なんでもだ」
片喰は事務所からつまみ出された。
「また明日伺いますからね!!!あとこれお礼の菓子折りです置いときますからね!」
「え、菓子折り?」
羅漢がドアを開けた。真っ黒な瞳が心なしか輝いて見える。
「……好きなんですか?お菓子」
きょとんとしている片喰に羅漢は大いに赤面した。
「そうだよ」
「え、かわいい」
片喰は思わず心の声を漏らす。
「うるせぇ」
「じゃあ、放課後毎日お菓子持っていきますね!」
「やめてくれ、頼むから」
「こんにちは!」
また別の日。事務所のカウンターで片喰は満面の笑みを浮かべる。
「おい……おいおい」
羅漢は頭を抱える。仮眠していたようで寝ぐせのついたまま無地のスウェットを着ていた。
「今まで溜まってた化け物退治の始末書、松嶋さんに頼まれて渡しにきました!」
「松嶋の野郎……」
こうして二人は放課後、数週間を共にした。
放課後、いつものように事務所を訪ねた片喰だったが、閉まっていた。松嶋にメールを送ると、羅漢に書類を渡すように頼まれ、家の住所まで送られてきた。翌日、片喰は松嶋と落ち合い書類を受け取った。
「君はせんぱ……羅漢さんに毎日会いに行ってるんだってね。羅漢さんは家族もいなくてひとりぼっちだから。もし君がいいのなら、仲良くしてあげてほしいな。僕には終ぞ心を開いてくれなかったんだよねえ」
松嶋は悲しい笑顔を見せた。
「…なんか、疲れてませんか?ちょっと心配です」
彼は少し頬がこけたようだった。
「ああ、平気さ。ちょっと忙しくてね」
「松嶋さんも羅漢さんみたいにゴロゴロするんですよ!それでは!」
「はい、さようなら」
微笑みながら松嶋は鞄のなかの注射器を撫でた。
羅漢は小さなアパートの一室に住んでいた。居間の低いテーブルに書類が山積している。散らかった壁掛け収納の中から朱肉と判子を取り出した。
「で、お前はなんでおれの部屋にあがりこんでいるんだ?」
「監視するように言われたので」
羅漢は諦めたのか何も言わずにそっぽを向いた。構わずに書類を捌いていく。
片喰はきょろきょろ部屋を見まわした後、羅漢の近くに座った。書類には『羅漢 空夜』とあった。しばらく彼女の横顔を微笑みながら眺めた。
「空夜って素敵な名前ですね。どこへでも自由に行けちゃいそうです」
「どういう意味だ」
「漢字は違いますけど、空也ってお坊さんがいるんですよ。全国を回って歩いてたんです」
手を少し止め、へぇ、と羅漢は呟いた。
「ねえ、空夜って呼んでもいいですか」
「やめろ」
こちらには即答する。片喰は唇を尖らせた。
「羅漢さんは彼氏さんいますか」
「いるいる」
羅漢は適当に返事をする。
「うそ。」
片喰も即答する。
「何だっていいだろそんなの……」
「よくないです、結婚するんですから」
片喰はじっと羅漢を覗き込む。
「はじめてだったんですからね、守ってもらったの。責任取ってください」
「守ってもらったから、好きなのか」
「そういうわけじゃ……」
初めて羅漢は片喰の顔を見た。
「お前が欲しいのは、彼女じゃなくて親なんじゃないのか」
「確かに、両親はいませんけど……」
「お前は誰かに守ってもらって安心したいだけなんだ。あの日偶然お前を助けたのがおれだっただけで……松嶋なんかが先に来ていたらそっちを好きになるんだろう」
「違います、私は羅漢さんだから」
「おれもだよ」
「……え?」
「おれも両親がいなくてひとりぼっちで寂しかった。なんとなくわかるんだよ、そういう奴は。一度優しくしてもらった人に依存するんだよな」
「そんな、違います」
片喰はずいと羅漢に顔を寄せる。
「好きなんです。羅漢さんの全部。どうしようもなく。親には、こんな気持ちにはなりません」
羅漢の顎をそっと包み込んだ。
「目、閉じてください」
片喰は目を瞑りゆっくりと唇を近づける。
「んむ!?」
肉のあいだを強引に分け入ってきたのは羅漢の指だった。そのまま人さし指と中指で舌を撫でつけられる。
「ふっ、ん、ふぁ、くるひい」
必死に言葉を発しても彼女の手は止まらない。片喰は頭がピリピリして何も考えられない。ぐにぐにとその触感を試されている。
堪らず片喰は目を開けた。
そこには氷のように冷たい視線を向ける羅漢がいた。瞳は深淵より深く真黒だった。
「自分がやってること、分かってるのか?狙いは金か?」
「ひ、ちが」
やっと手を離す。彼女は自分の手からだらりと垂れる唾液にあからさまに辟易した。
少しは、好いてくれていると思ってた。馬鹿みたいだ。
「曲がりなりにもおれは25の軍人だ。誰かを守るために、人間のかたちをしていた奴等を殺している」
しってる。
「お前はただの高校生だ」
……。
「出ていけ。二度と来るな」
悔しかった。あの時羅漢の瞳の深さを怖れてしまった自分が。鞄を持って、立ち上がる。
「何も知らねえくせに…」
出掛けに、そう聞こえた気がした。
片喰に家族はいない。帰宅したら、いつものように両親の写真にただいまを言う。そういえば、羅漢の部屋には妙な写真が複数飾られていた。すべて半分ほど破かれているのだ。ツーショットだったであろう写真には長髪の制服を着た少女だけが残されていた。あれが彼女の家族だったのだろうか。
片喰はそのうち何も考えたくなくなって、制服のままベッドに飛び込んだ。
片喰と松嶋は街の喫茶店に訪れていた。
「喧嘩?先輩と?」
松嶋は目を見開いた。
「はい、喧嘩というか、突き離されちゃって。……ところで、羅漢さんって松嶋さんの先輩なんですか?」
「ああ、そうだった。つい昔のクセでね。同じ日本帝国政府の軍人だったんだ」
「長い付き合いなんですね」
片喰はアイスティーに入れられた氷の窪みをスプーン型のストローで抉った。
「うん。だから先輩が声を荒げたり感情をむき出しにしたりしたってのは、信じがたいな」
「そうなんですか……」
片喰は俯いた。
「私、怖くなっちゃったんです。羅漢さんのこと」
松嶋は少し考え込んだ。
「先輩が何に怒ったのかは分からないけど、君のことを想ってだと思うよ」
「そう……なんですかね」
「先輩は不器用で寂しがりのくせして、人を近づけたがらないんだよ」
今度は片喰が目を見開いた。
「先輩と仕事をしていた時、こう言われたんだ。『お前は愚図だから前線なんて立たずに民間で事務でもやってろ』ってね。最初に聞いた時はショックだったよ」
松嶋は珈琲に口をつけた。
「まあ、実際に弱かったんだけどね。僕は結局前線から少し離れて、衛生兵になった。先輩は民間に入った。丁度それくらいに軍部からきな臭い噂が聴こえてくるようになったんだ。身寄りの無い者に人体実験をしているとか」
氷が溶けてカラリと音が鳴った。
「そんな……」
「きっと、先輩は君のことを想って突き放すようなことを言ったんじゃないかなぁ」
松嶋は珈琲を飲み干して机に置いた。
「私、独り善がりでした。ちゃんと、焦らずに向き合ってみます」
松嶋は微笑み、頷いた。
片喰も笑って、礼を言おうとした、その時だった。
爆音と共に地面が振動した。
「また化け物!?関所はどうなってるんだっ」
窓を一瞥した松嶋は直ぐに店を飛び出した。
道路の真中に中肉中背の鬼がいた。全身に何か妙な膨らみがある。
外から狼狽える喫茶店の人々を見て松嶋はドアを開けて叫ぶ。
「皆さんは店の中に居てください!」
急ぎ彼は民間人の誘導に東奔西走する。既に羅漢は戦っていた。ヒット・アンド・アウェイを繰り返しながら人のいない場所へ誘導している。人が多く銃は近距離でしか使えていない。
片喰も外へ出ると、羅漢が負傷していることに気づいた。頭から血が流れ片目を瞑っている。
ふらついた羅漢に、化け物の右ストレートがクリーンヒットする。銃で受ける暇もなく、羅漢は後方にふっ飛ばされた。
「羅漢さん!」
「片喰!?」
片喰は羅漢のもとへ駆け寄った。ハンカチで血を拭おうとすると、手で払われる。
「馬鹿野郎、早く逃げろ」
「でも、でもこのままじゃ死んじゃいます、一緒に逃げましょう。松嶋さんが応援を呼んでいるはずです」
「舐めるな」
羅漢は深く息を吐いて、銃を構えた。銃弾は迫りくる化け物の両腕をふっ飛ばした。化け物が尻もちをつき、呻く。
「これで終わりだ」
引き金に指をかけた時だった。
化け物の全身の膨らみが一斉に開かれた。それは無数の目だった。
「百目鬼!?」
片喰が驚く間もなく、二人は無数の目に吸い込まれるようにして霊験に巻き込まれる。
二人は山の中にいた。虫が鳴き、人気の無い鬱蒼とした山だ。百目鬼の姿も、道路も、喫茶店も何もかも無くなっている。
「これ……何なんですか」
片喰は声を震わせ羅漢の袖を掴む。
「最悪だ」
え、と片喰が羅漢を見上げると彼女は両手で顔を覆っていた。
「これは幻だ。化け物の使う幻っつうのは須らく敵の心を折るものになってる」
「そんな、じゃあ早く元の世界に戻らなきゃ」
羅漢を案じる片喰を横目に彼女は銃を落とし、その場にどかっと座った。
「いいか、これは化け物の最後っ屁みたいなもんだ。何もしなけりゃそのうち敵の力が尽きて全部元に戻る」
言い終えるや否や、山は炎に包まれる。片喰は身体を震わせ羅漢に抱きつく。片喰は羅漢の体温を感じると、これはただの幻なんだ、と少し安心した。
そんな中、長い髪の少女が鉄パイプをもってこちらに走ってきて、背を向けた。気が付くと目の前には破壊された祠と巨大な狐の化け物がいた。
「見るな」
羅漢は片喰の目を覆った。鈍い音がして、片喰の頬に何かが付着した。手でぬぐって顔を臥せると、そこには赤黒い肉塊があった。
「いやあああああああああ」
片喰は必死で肉塊を振り払い、無茶苦茶に走った。
「おい、馬鹿」
走った先には、ペロリと赤黒い口の周りを舐める大狐がいた。長髪の少女はどこにもいなかった。
片喰は膝から崩れ落ちた。
その後、大狐は燃え盛る山の麓で多くの人を喰らった。
気が付くと、片喰は夕暮れの電車に座っていた。
「遅かったな」
既に座っていた羅漢が目も合わさずに言った。
「なんなんですか、これ……。こんなの、こんな……」
二人の目の前には泣きつくして眠ってしまったような短髪の少女がいた。片喰には見知った面影があった。この娘は。この顔は。
「羅漢さん、なんですか……」
「そうだな」
「私達、羅漢さんの過去を見ていたんですか」
「断片だけどな。酷いところだけ切り取って見せるって寸法さ」
事も無げに言う。
「辛く、ないんですか」
「もう慣れた。それに」
羅漢は片喰の目を見た。羅漢の瞳は心なしか煌めいていた。
「代わりに泣いてくれるやつがいる」
嗚咽が漏れた。羅漢は片喰を抱き寄せ、頭を撫でた。
夕暮れの電車のなかに、片喰の泣き声が響いた。
百目鬼退治から三週間が経った。しかし、一向に事務所が開かれることはなかった。あれから羅漢は病院に運ばれたが、もう退院しているはずだ。
羅漢が姿を消している間も化け物は何体か現れ、討伐された。あり得ない頻度だと松嶋が嘆いていた。
「今日もやってないか…」
一ヶ月経っても事務所は鍵が掛かったままだった。
片喰は菓子折りと少しの食糧を持って羅漢の家を訪ねた。
インターホンを押しても返答は無く、ドアを押してみると簡単に開いた。
「羅漢さん、防犯しないと危ないですよ〜」
羅漢は奥のベッドに寝ているようだ。
「お前が今から行くってメールしたんだろ」
少し掠れた声で返事をする。
「メール見てたんですか。今まで一度も返事しなかったのに」
片喰は口を尖らせる。
「悪かったよ……」
部屋は服と空のペットボトルで荒れていた。ベッドに近寄ると、紅潮し冷えピタを貼っている羅漢が起き上がった。
「風邪、こじらせた…」
「そんなこったろうと思いました。心配したんですからね」
片喰はテキパキと周辺を片付け、キッチンに立った。
「ご飯、何か食べました?」
「や…」
「じゃ、なにか作りますね」
小気味よい包丁の音に、羅漢はいつの間にか眠ってしまった。
片喰手製の温玉うどんが完成した。
「羅漢さん、食べて薬でものんでから寝て下さ〜い」
羅漢を覗き込むと、肩で息をしており辛そうだった。呼びかけに応じて薄く目を開ける。
「日向……行かないで」
そう言うと羅漢は片喰の手をとった。頬は紅潮し、とろんとした瞳は潤み、髪は乱れている。
片喰は羅漢の体温と艶っぽさに度肝を抜かれてしまって暫く化石した。
「あの、羅漢さん、私」
「ん?」
「日向さんじゃ…」
羅漢は暫くしてから、しまったという顔をした。そしてバツが悪そうにそっぽを向いた。
「お前も見ただろ、黒髪ロングの……」
「あ……」
「そいつが日向」
片喰は写真立ての方を見た。半分破られた写真には緑を背景にロングヘアーの少女が笑っている。
日向だった。
「ごちそうさま」
羅漢は礼を言って器を置いた。
「羅漢さんは、怪人が憎いですか」
「どうしてそう思う」
「あの狐…多分、本物の妖怪ですよね。大切な人を奪った妖怪の血を含む人間というのは、やっぱり……」
片喰は下を向き両手をもじもじさせる。
「まあ、化け物になるような怪人は嫌いだよ」
片喰は顔を上げる。
「でも、もうよく解らない」
「わからない?」
「命令で色んな怪人を殺してきた。化け物になった奴も、中途半端な奴も、そうでない奴も、この手で」
息を呑んだ。羅漢と触れ合った手が冷えてゆくような気がした。
「だから、もう解らない。」
事務所は営業を再開した。増えている化け物騒ぎに対応を追われているようだ。
そんな折、片喰から羅漢の元に依頼のメールが届いた。新月の夜だった。未だ工事中の駅のホームに怪人がいるという。
依頼内容が化け物ではなく怪人としか述べられていないこと、深夜であることに違和感を感じたが、危険性がある以上向かわざるを得なかった。急いで出たために、その後に羅漢の元に送られた一通のメールに気付くことはなかった。
「片喰!」
星空の下、片喰は工事現場の基礎のなかにいた。
「無事か?怪人はどこにいる」
片喰は羅漢に振り返った。
「さあ、どこでしょう」
『羅漢先輩、たすけて』
松嶋のメールは届かない。
「片喰……お前が怪人なのか」
片喰はくるりと一回転してみせた。
「どうです。完璧な擬態でしょう」
羅漢は背中の銃を構えた。
「……正体を明かす前に、関所を通過した方法を教えてくれないか」
片喰は嗤った。
「そんなの簡単ですよ。賄賂です。私達の身体って高く売れるじゃないですか。特に妖怪っぽいとこは。切断して売って、通行証でも戸籍でも家でも、なんでも買えちゃいます」
「片喰。お前はおれに殺されに来たのか。それほどの擬態が出来れば何も困んねえだろ」
「……何か、怒ってるんですか?単純ですよ。」
羅漢は肩に力が入っていたことに気づく。
「貴女に、ほんとの私を好きになってほしいから」
片喰は手を伸ばした。袖と腕の間から何らかの肉塊が顕れる。それは蛸の触手だった。
羅漢は目を見開いた。徐々に口元が歪み、泣き声のような笑い声が漏れた。
「な……どうして、なにか可笑しかったですか」
異様な様子に片喰の声は震える。
「あぁそうか、蛸か、お前は」
羅漢は深く息を吐き前髪をかき上げた。
「おれは五年前、お前の両親を殺したよ」
「…は?」
片喰は足元が崩れ落ちるような感覚に陥る。
「なんで、なんで両親の死んだ年が判るんですか」
「五年前、怪人街で帝国軍による掃討作戦が行われた。おれは上に命じられて最初に混乱を起こした。そう、最初は殺人犯が怪人街に逃げ込んだとかで、街の怪人を一堂に集めたんだ」
「やめ、やめて、聞きたくないっ」
片喰は耳を塞いでたじろぐ。
「おれは高い木に登って潜伏し、適当に怪人を撃った。そしたら簡単に激昂した化け物がいた。『俺の娘に当たったらどうしてくれるんだ!』ってね。一瞬で蛸の化け物に変身した」
「いや、いや、やめてっ」
片喰は頭を振って必死になる。
「的がデカくなったから簡単だった。頭を吹っ飛ばしてやった」
「うあああああああああ!」
片喰は両手を真っ直ぐ羅漢へ伸ばす。呼応して触手が羅漢の首元を締め上げた。
「そいつ…首を吹っ飛ばしたのにっ……触手だけ動いててさぁ、気持ち、悪いよな…おかげで大分時間を食った……っ」
「黙れ、黙れ、だまれっ!」
片喰は泣き叫ぶ。
そうだ。叫べ。泣け。そして変身しろ。理性のない化け物に。そうしたら、おれだって殺せちまう。ずっと待っていた。殺される瞬間を。畢竟、今しかない。死ぬまで生きた。これでおれのために死んだ奴らも納得するだろう。さあ、片喰。蛸の化け物。おれを殺せ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
片喰は焼夷弾で焼け落ちた家の下にいた。人間である母親が生き埋めになっていた。片喰は両腕を蛸の触手に変化させることで、瓦礫をどかそうとした。片喰の母はそれを止めた。
「そんなことしたら、二度と怪人街から出られなくなるよ。あなたの夢はお嫁さんになることでしょう?逃げて、どこかでお婿さんを見つけるの。私は置いてって」
片喰は泣きながら逃げた。母を見殺しにして。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「どうして、どうしてっ……」
片喰は叫ぶ気力も失ってただ泣いた。触手が緩み、二人とも膝から崩れ落ちた。
昏倒寸前だった羅漢は膝をついて透明な液体を吐いている。ひとしきり吐いて、地面に頭を着けたまま片喰を睨みつけた。そして、全身に汗を流しながら声を絞り出す。
「おい…どうして変身しない。なぜ殺さない」
「だって……だって、私がはじめて選んだひとだから……守ってくれたひとだからあ……」
片喰は小さな子どものように声をあげてわんわん泣いた。
「んだよそれ……バカみてぇ……畜生が……」
羅漢は顔を伏せ、血が滲むほど拳を握った。
突如、羅漢は打ち捨てられていた銃を掠め取った。
緊張が走る。
「だめえええええ!!」
澄んだ夜の空気に銃声が響いた。
間一髪だった。銃弾は羅漢の頭を逸れた。触手が銃口を引っ張っていた。
羅漢は頭に銃口を向け自害しようとしていた。硝煙が星空に靡く。呆然としたままへたり込んでいる。
ツカツカと片喰は羅漢の元へ歩いた。
「これ以上、馬鹿なことしないでください……」
膝を突き、羅漢の血の滲んだ手を握りしめた。
「もう、誰も殺さないで」
羅漢の目から一筋の涙が頬を伝った。それ以上誰も何も言わなかった。無音で耳が痛かった。
暫時の後、靴の音により静寂が破られた。
「先輩、ここにいたんですか」
松嶋が階段を降りている。しかしどこかふらついている。
「銃の音がしたから……探したんですよ。化け物がいますね。手伝います」
「松嶋さん……?」
羅漢は俯いたままで、片喰だけがその異様さに恐怖した。松嶋は首に注射器を打った。液体は真紅だった。
松嶋は巨大で醜悪な肉塊へと巨大化した。それは怪人の変身の様であったが、感情によるものではない、何か作為的なものを片喰は感じた。
「せっ、『s』パイの矢クに『立ち』まㇲ」
肉塊は腕らしき部分を大雑把に振るった。規則正しく組まれていた工事現場の基礎がズタズタにされ、二人共々瓦礫の餌食になった。
「無事ですか!」
片喰は触手を盾にして直ぐに立ち上がる。羅漢を探すが、答えがない。
「ここだ、右腕をやられた」
瓦礫の隙間から這い出てきた。片喰は巧みに触手を使って羅漢を救い出す。右腕がおかしな方向に曲がっていた。それだけで片喰は泣きそうになって唇を噛んだ。
「二撃目が来る」
羅漢は片喰に抱えられた。
「ど、どうしてそんなに冷静なんですか!何が、どうなって、こんなっ、松嶋さんは」
片喰は"松嶋だったもの"の攻撃を躱しつつ羅漢を抱えて走る。
「今は機を伺うしかない。片喰、リロードの仕方は判るか」
「散々見たので覚えましたけど!撃つんですかっ!」
「それしかない。まず右腕に二発。いいな」
「よかないですよ、もうっ」
片喰は攻撃の間隙を縫い、立ち止まる。羅漢を下ろし、彼女の右腕の代わりに触手を貸した。
「撃て」
二発の銃弾が肉塊に命中した。肉塊の三割ほどが地面にぼとりと落ちた。
「セんぱい、羽なれて、ぁ武ナ『イ』」
肉塊は体勢を崩しもう動けないようだった。目のような部分から体液が流れる。
「おれはもう平気だよ……」
「語め、ぁさい、弱くテ」
そのまま肉塊は動かなくなった。
「片喰、すまなかった」
また一つの命が尽きた。
「いえ……」
羅漢は自分を肉塊のもとまで運ぶよう頼んだ。
松嶋は怪人の血の成分を定期的に摂取していたようだった。人間でもそれを摂取することで一時的に強力な肉体を得る。しかし怪人さえも制御できない力をただの人間が操ることはできない。
連日の化け物騒ぎでそれを摂取しすぎた松嶋はついに自我の崩壊に至った。ひとかけらの理性が羅漢にメールを送らせた。結果的に、意味は無かったわけだが。
「お前は強くならなくたってよかったんだよ……いや、おれのせいか。」
羅漢は松嶋の墓に花を供えた。
「すまなかった」
片喰も花を供え礼を言い、祈りを捧げた。
「どうしてまた触手を切り取ったんだ」
「これは松嶋さんのためです。もう人間の街には来ませんよ」
片喰の頬にじっとりと汗が滲んだ。
「これからどうするんですか」
「義手の目途がたった。帝国軍に入りなおして、内部から変えていく。誰も殺さずに」
「できるんですか。破滅願望持ちの貴女に」
羅漢はしゃがんだまま片喰を見上げた。その瞳は初夏の光を含んでいた。
「変わるよ」
片喰はそっけなくそうですか、と返した。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
羅漢は頷く。
「あの時、私が触手を広げて見せた時、なんで殺さなかったんですか」
「そうだな」
一陣の風が吹いた。
「好きだった」
お読みいただきありがとうございました。前作「あの娘は狐憑き」は本作の前日譚となっております。