184.
ふわりと良い香りが近付いて、柔らかく耳元に吐息が掛かる。頭の中いっぱいに広がる燐ちゃんの声。もう少し酔いしれていたかったと佐助は痛む脇腹を押さえながら顔を上げた。
「我が主。此れから話す事は月の世の出来事とお留め置きいただきたく」
佐助が畏まり告げると、源次郎は一つ頷く。佐助は燐から以前聞いた燐の世の歴史で、今後の情勢がどうなるかを話した。
「武田の滅亡、織田の滅亡…それが此方でも起こるとならば俺の胸に止めるだけでは済まぬな」
武田が居城を移したのは昨年。その翌年に武田、更には織田も滅亡するとなれば早急な対応が必要で、自分の所で月の姫の情報を止める訳には行かないと源次郎は顔を顰める。
「お館様には一報済ですが、其処の姫さんがってのは伏せてますよ」
酒を飲んでいた白雲斎は慌しく立ち上がった源次郎に声を掛けた。白雲斎を見た源次郎は、一瞬目を見開くも直ぐ柔らかい表情に戻る。
「そうであった。此処には優れた忍が集うておったのを失念していたな」
その場に座り直した源次郎は、ふぅと小さく息を吐く。そして再び燐、佐助、才蔵を見る。
「真田にとって有益となる話、誠有り難く。礼の代わりと存分に我が屋敷に居てくだされ」
これで屋敷に留まる言い訳がたったと源次郎は燐を見て笑う。この子若いのに凄いなぁと燐は目の前の若者に頭を下げた。
「改めまして、お世話になります。ええと、名前呼ぶのも呼ばれるのも駄目みたいなのですが、それって私も当て嵌ま…るんですね」
源次郎に改めて頭を下げた後で、その場の雰囲気にそうなんだと眉を下げた。
「あー、うん。俺等は慣れちゃったから。俺等だけの時は燐ちゃんって呼んでもいー?」
其処まで縛る必要は無いだろうと佐助は才蔵に目配せると、戸惑った様な安堵の色を浮かべる燐に才蔵も頷く。
「あ、うん。それでお願いします」
姫呼びに慣れなきゃと思いつつも、名呼びの方がほっとすると燐が笑みを浮かべると、佐助と才蔵も目元を和らげる。
「月の姫と鎌之助から聞いておった故、今後はそう呼ばれるであろうが…人払いが出来ておれば燐殿とお呼びいたそう」
源次郎は忍達と微笑み合う姿に同じく柔らかい表情で燐を見た。
「それでさ?燐ちゃん。我が主の屋敷に行く前に…燐ちゃんの荷を見せて欲しいんだよね」
何処か言い辛そうな雰囲気の佐助。燐は荷物?と首を傾げる。
「此処より人が居るからさ…その、部屋に入られる事もあるかも」
姫と呼ばれる立場になるとずっと部屋に1人で居れないんだと佐助の説明に燐は立ち上がる。
「何が見せちゃダメなものか分からないから、部屋見てもらって良いですか?」
どよめく室内に首を傾げる燐。佐助はやっぱりなぁと思うと燐を見上げた。
「あのさ、燐ちゃん。此処じゃ女の部屋にあんまり人を入れたりしないんだよね」
「あ、ここでもそうなんだ」
あっさり返す燐に佐助は、ん?と首を傾げる。
「や、普段は私だってほいほい人入れないけどさ。今は物確認するのに必要でしょ?持ってくるより行った方が効率的だし」
自分で借りてるアパートとかなら嫌だけど、今は間借りしてるのに図々しい事は言わないと燐は皆を促す。
「結論、押し入れでこっそり寝るって事でどうですかね?」
燐の部屋は源次郎達には未知過ぎた様で、ほぼ全て見られたらマズイと海野に言われた燐は押し入れでと提案した。
「押し入れっで寝るったってアンタ。それだってぇ世話女が来たら開けられっちまうだろうさね」
物珍し気に堂々と燐の寝袋に入ろうとするのを、佐助に阻止された鎌之助が燐を見る。
「寝てる所見たら、呪われるとか?そんな感じで回避出来ないですかね?」
鎌之助さんなら良いかと特に止めなかったが、佐助が持ってるのは何か嫌だと寝袋を受け取り畳みながら燐は答える。
「アンタ、そんな噂たてられて平気かい?」
「まぁ。けど睡眠大事ですから」
マットも毛布も。もっと寒くなったら湯たんぽだって使いたいと燐は鎌之助を見ながら答えた。
「何と…其れ程までに小さくなるとは」
女子の部屋に。と遠慮がちに居た源次郎だったが、燐が寝袋を畳むと配慮より好奇心が勝り部屋の中央へ進む。
「あ、これも小さくなりますよ?キャンプ、えっと…元々が移動した先で寝る用なので」
燐は鎌之助が寝転んでいるインフレータブルマットを指す。源次郎は屈んで手触りを確かめようと腕を伸ばした。
「旦那も寝てみりゃあ良いじゃないか」
鎌之助はマットからころりと横に転がり降りると、源次郎を見る。そわそわしている様子に燐はどうぞと苦笑しつつ声をかけた。
「…柔らかいな。うむ」
仰向けに寝てみると、床に背が着いていないかの様な感覚に思わず呟く。
「元は外で寝る様なので」
燐はマットの用途を説明する。実際少しの間寝てみた源次郎は、日常的にこれで寝ているのであれば他で寝ろと言われても無理だろうと起き上がった。
「出来る限りの人払いをいたそう」
流石に客人を物入れの中で寝せるのはと源次郎はなるべく取り計らうと燐に告げ、燐は就寝グッズの持ち込みを獲得した。