10.薄緑
おやすみなさい。そう言って燐と名乗った天女らしからぬ言動をする天女は、それでもやはり天女なのか不可思議な音をさせ入り口の布を縫い留める様に合わせ出て行った。
頭を上げた才蔵は、手に持った不可思議な筒を暫く観察した。燐を思いだし見真似て開けると、臭いを嗅ぎ、少し手の甲に垂らし舐める。
「長」
薄緑色の液体を舐めた後、暫く待つ。自分に特に症状が出ないと分かった才蔵は、奥に転がされている男に向かって短く言葉を投げた。
「...」
暫く待つとゆっくりとこちらに体を向ける様子に側に寄るとグイと体を引き起こし口元まで筒の先を近付けた。
「…此れ」
口に入って来た水分を無意識に飲んでいた佐助は、意識がはっきりしてくると口に注ぎ続ける手を止めさせ自力で座った。
「先ず飲め」
座れるならば自分で飲めと才蔵は距離を取り不可思議な筒を差し出した。
「…俺等が口にして良いもんじゃないだろ」
取り敢えず飲めと再度言われた佐助は、溜息を吐いて上等な茶の様な味のする液体を飲み干した。
「己にも分らぬ。探るべき事多かれば、先ずは其れを」
替えをと差し出す才蔵に顔を顰めると手で制す。
「それはお前のだろ。って、動けんの?」
驚く佐助の素の表情に才蔵は頷くと、佐助が気を失っていたであろう時に起こった事を簡単に説明した。
「で、神隠しの先の世、ねぇ」
確かに説明のつかない物ばかりが目に入れば認めざる終えないのかと顔を顰めた佐助は、同じく顰め面で飲み干した筒の先を回し観察している才蔵を見た。
「よもやと思うも他に見付からぬ。此れとてついぞ目にした事なぞなくば」
分析に長けたこの男が戸惑いの色を隠せず報告した姿からも信じるに足ると佐助は自分に掛けられていた薄い布を触った。
「正気?…って才蔵が戯口なんざ言う筈ねぇか。そんじゃ、まぁ俺等の本領発揮と行きましょうかね」
その場で背筋を伸ばした佐助は、感覚の戻って来た掌を握り開いて確かめながら自分よりも動けそうな才蔵を見た。
忍ならばこれからする事なぞ言わずともって事
頷いた才蔵は燐の言っていた『かんりとう』と周辺を調べるべく静かに筒を置く。
「長、那の御仁には恩義あらば、良いな」
斥候に色事を持ち込む事を厭わぬ処かその方が事が楽に進むと宣うこの男。天女と言わば興味を抱くだけと言い方を変え釘を刺せば、楽しそうに目を細め己を見る。
「へぇーアンタが肩入れするなんて珍しい」
才蔵は命を助けて貰った恩義を仇で返すようなこの男を燐の側に残して良いものだろうかと思うも、奇怪な状況が飲み込めるまでは安息出来ないと静かに両目を瞑った。
「恩義あらば当然であろう」
霧の様にぼやけて消えた才蔵が残して行った言葉に忍に恩義なんて変な奴と思えど、あれの忍落ちの経路を思えば成程と妙に納得して、思うように動かない自分の手足を無理やり動かした。
「全く情けねぇ」
戦の後始末中に同盟相手に寝返られ、囮となり最後まで術で凌いだが、退避後途中から記憶が無い。微かに思い出せるのは術を唱える才蔵を庇って負った腕の傷と、空腹と喉の渇き。
「花…」
記憶を追っていた佐助は最初に思い浮かんだ言葉を呟いた。気付けば一人、見覚えの無い山に転がっていた。
「才蔵の無事を確認し、木から落ちて...」
動かない体と重い瞼に死ぬ時はこんなもんかと目を閉じると、死の淵に仄かな灯りが点り感覚の無い腕が引き上げられる。
三途の川にゃ花が咲き乱れてるんだっけ。そう思わせる柔らかな花の匂いと温かさを感じながら闇に呑まれた。
「で、気が付きゃ上等な茶をこの奇怪なもんで飲んでた、と」
中身の無い透明な筒。何で出来てんのか随分と軽いし、竹筒より水漏れの心配も無さそう
ペットボトルを繁々と見ていた佐助は、そういや才蔵の言っていた御仁ってのは何処に居るんだろうと気配を探った。
「さぁて、恩だの義だの言ってるお堅いのが帰ってくる前にこっちはこっちで」
外に動く気配。何となく覚えのある気配に、才蔵を見付けた時に仕損じた女だと思えば、佐助は暫く目を閉じる。
「ってぇ無理か。仕方ねぇ」
才蔵があれ程動けるならば自分も術の一つも出来るだろと思っていた佐助は、闇に溶けない自分の体を見ると眉を下げ溜息交じりに呟いた。
先程より手足は動く。女ならば容易い。何時もの様に懐柔すれば良いだけだ
暗に手を出すなと言っていた才蔵が戻る前に、さっさと終わらせ正直寝たいと佐助は思うように動かない重い体を引き摺った。




