ブラック・バード(R)
冷泉通りには、闇が浅く降り積もり、赤や黄の枯れ葉がモザイクのように散りばめられていた。真夜中が近づいて人や車が少なくなったため、道路は少しずつ膨らみを取り戻している。日中は監視の目を光らせる信号機たちもすっかり手持ち無沙汰そうに通りを眺めていた。彼らの視線の先に、タジリ少年は立っている。
グレーのパーカーと黒のスウェットを着た、一五・六歳ほどの少年は持っていた長い板をやにわに手放した。そして、ガコリ、という乾いた音と同時に細長い板、スケートボードのデッキに左足を乗せた。信号機が緑色から黄色になり、赤色に変わる。タジリは右足で地面を蹴飛ばした。ゴー、とホイールが滑らかなアスファルトを走る音を聞きつつ地面を、ガッ、ガッ、と蹴って更に加速する。重心を少し落とし、平安神宮を通り過ぎる直前に、飛び上がりながらデッキの下部であるテールを力強く踏んづけた。するとその反動でテール側のホイールを軸にデッキの上部であるノーズが持ち上がったが、ノーズは彼のつま先にぶつかって地面へはじかれた。ガッ、コン、とスケボーがアスファルトを叩いた後に、キューーキュールル、と土台を失ったホイールが前に進むこともできずに冷泉通りをこする音だけが響いた。
また失敗か、とタジリ少年はため息をつきながらスケボーを拾い上げた。そのスケボーのデッキは黒く、中央に青いバラがプリントされており、テールの隅に「bird house」というステッカーが貼ってある。その見た目とバードハウスのデッキであることとアスファルトをこする時の音が鳥の鳴き声のようであることから、そのスケボーは彼や彼のスケボー仲間から「ブラック・バード」と呼ばれていた。
ここ数ヶ月間、タジリはオーリーというスケボーに乗りながらジャンプするトリックの練習をしているのだが、着地するときに足の下にスケボーが残っていたことはなく、未だに成功したことはない。11度目のオーリーをしようとしていたところ、冷泉通りに車が入ってきたため、少年は脇にスケボーを抱えて歩道に戻った。
車のライトを見送って練習を再開しようとしていた時、岡崎公園の向こうから楽しそうに会話する声が暗闇越しに彼の耳を突く。その声は次第に近づいていたため、タジリは渋い顔をして電柱にもたれなおし、彼らが通り過ぎるのを待つことにした。
しばらくスマホで新着のメッセージを確認していると、人影は少しずつ冷泉通りに近づいてきたのだが、スマホのライトに目が慣れていたせいで公園の電灯に照らされるまでは黒い靄が談笑しているようにしか見えなかった。
どうやらそれは男女四人のグループのようである。皆一様に長く薄いコートを羽織り、髪を暗い茶色に染め、いかにも大学生然とした四人組だ。彼らは公園を抜け、タジリ少年には目もくれずに横断歩道の信号が変わるのを待っていた。彼らとの距離は二メートルほどしかなく、冷たい風がアルコールの臭いをのせて少年の鼻に届く。
少年は鼻を鳴らして目をそらした。ふん、どうせ飲み会かなんかをしていたんだろ。しょうもない。ワックスとか香水とかデオドラント剤とかの臭いを臆面もなくまき散らしながら街を歩いて、鶏の唐揚げだとかキムチ鍋だとかの臭いがこびりついた汚い部屋で下品に笑いながらアルコールの入ったまずい液体を馬みたいに飲んで、男子は性欲がましい目つきで女子を品定めして、女子もいかに巧くたかるかだけ考えて、酒臭い口を恥じることなくぺちゃくちゃ喋って我が物顔で道を闊歩しながら帰路につく。本当に馬鹿らしい。とことん無意味で生産性のかけらもないじゃないか。
車両用信号が黄色に変わった。そもそも酒なんて寿命を縮めるだけだし、居酒屋なんかで出されるものにしたって塩辛いだけで食べるだけ害だろ。
黄色が赤色へスライドし、歩行者信号に青が灯ると同時に四人の男女は歩き出した。彼らは相変わらず単位がどうだとかバイトがどうだとか話しながら時折笑っている。何がそれほどまでに面白いのか、少年には最後までわからなかった。結論も出さずにだらだらと話しやがって。どうせ、おまえらの人生も似たようなもんなんだろ。だらだらと、結論も出せずに、鼻から尻尾まで蛇足なんだ。無意味な飲み会と空虚なアルコール。それがおまえらの人生の全容だ。遠ざかる背中をにらみつけながら、タジリは電柱から背を離した。
冷泉通りには再び静寂が降りていた。無意味な存在は沈黙によってその痕跡を上書きされ、少年に何度目かのアピール・タイムがやってくる。少年が手を開き、ブラック・バード号が四つの足でアスファルトを踏みしめた。左足をデッキに乗せて待つ。青い光が黄色い光に変わる。カウントダウンだ。赤い光が顔を照らすと同時に右足で地面を蹴る。勢いよく飛び出したスケボーを乗りこなしながら重心を落とし、もう一度地面を蹴る。更にもう一度地面を蹴るとスケボーはそれに応えて加速した。その場にとどまって休息をとっている冷たい粒子たちが顔にぶつかる感覚が心地よい。右足で最後の加速をする。ベストなタイミングで平安神宮の前だ。ため込んだ力を解放するように思い切り飛び上がる。その瞬間に少年の右足がテールを真下へ突く。左足を引き上げ、浮かび上がるノーズを添えるように受け止める。少年の両足は地を離れた。
闇夜へうたうブラック・バード 生まれ落ちたるその日から
地を蹴り放ち飛び上がる この時だけを待ちわびた
空に放たれ駆け抜ける この時だけを待ちわびた
おまえはこの時だけを待ちわびていた
少年の足はピタリとデッキに吸い付き、ブラック・バードは空を飛んだ。しかし、空中で体勢を崩し、次の瞬間には背中から地面に向かってゆく。そして彼が何も考えられないでいるうちに、乾いた音と背中から全身への鈍い痛みが一緒にやってきた。ブラック・バードはアスファルトをこすらずに、無言で冬の粒子を巻き込みながら空転するだけだった。