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私の猫

幻視猫と箭子の物語です。

(1)


箭子は動けずにいた。痛みはもう無く、痺れと寒気、それからくすぐったさも感じていた。

不潔に傷んだ畳に血が拡がる。開け放たれた雑草だらけの裏庭側の窓から花火の光と音と振動が伝わる。

窓の側に置かれた、ひび割れた豚の陶器の線香置きから蚊取り線香の煙が立ち上っていた。獣臭い屋内の臭気もいくらか中和していた。

藤柄の浴衣の腹に果物ナイフが刺さっていた。頭部からも出血がある。花火大会から伝わる色とりどりの光の振動が傷口とナイフに響く。

くすぐったさの要因の一つはそれだった。

もう一つは、頭部から流れた血をぴちゃぴちゃと仔猫が舐めている為だった。

その紫の瞳の黒い仔猫は、姿が少し透けていた。

直接、頭の傷を舐められているワケではなかったが、くすぐったい。

仰向けのまま天井しか見れないが、その仔猫を確かに感じることができた。その全てを、あるいはそれ以上を。

また別の音もした。遠ざかる音。


ズズズ、ズズズ・・


とでも言うべき音が玄関の方へ離れてゆく。両足の踵の辺りを引き摺られているんだろう、とわかった。わかるのだ。引き摺る者の顔も、その胸の内も。

それがいよいよ屋外に遠ざかり、玄関の割れたガラス戸が閉められた。

一筋涙を溢すと、頭から流れた血を舐め続ける少し透けた黒い仔猫は、少し透けたまま見る間に成長し大人の黒猫になって血を舐めるをやめた。

座り直し、満足気に毛繕い等を始める。


『美味しかった? 大きくなったね』


口が動かず、声も出ないので心で問い掛けた。


『お前が磨り減れば、俺様が大きくなる。当たり前だろ?』


心で応えられ、薄く笑ってしまうと、猫は毛繕いをやめ、一度目を閉じると、赤と青に別れた、宝石のようなオッドアイを見開いた。


『程度の低い自虐はよせ。それから残念だがお前は助かるぞ? わかっているだろうが、俺様にはわかりきったことなのだ』


『私が死ぬとお前も消えるもんね』


『お前ではない、これからは俺様のことをミマタ、と呼べ』


『ミマタ?』


『お前の少ない猫に纏わる知識が、俺様をそう名付けた』


『ミマタは私のことをお前と呼ぶの? 公平じゃない』


『公平等どこにも無いさ。だが心配するな、全ての謎は俺様が解く。お前は一先ず眠れ、俺様が出血を抑え、臓器も保護してやろう。ここは少々不衛生過ぎるがな』


激しい眠気が襲ってきた。合わせて予定調和のように、花火の音に混じって救急車のサイレンが聴こえてくる。


「・・助かりたくないなぁ」


箭子は自分の口でそう呟き、深い眠りに落ちた。影のような、赤と青の瞳の猫の気配を感じながら。



(2)


今年、私は17歳になる。S県のとある市の遠縁の家で厄介になっている。

この家でダメなら、次は本当に会ったことも無い広島の親戚の家で暮らすことになるらしい。

だけど私は風来坊のような気持ちがあるから、それ程心配はしてなかった。風のように東へ西へ、移り行くだけだ。

私と違う、近くの私立女子高の制服を着た同年代の女子高生2人組と擦れ違った。土曜の気楽な午後。

次のテストの動向と、古文の先生の悪口を話していた。すぐわかる。2人とも予想した範囲を外している。

古文の先生の悪口をしているが、実はそれぞれが嫌っていてハブろうとしている別のクラスメートの悪口にどうすれば話を持ってゆけるか? 腹の探り合いをしていた。

さらに2人は実は・・・いけない、今日は検診の日。アイツが出てくると面倒だし、深入りはよそう。

あんまり楽しそうな2人じゃなかったし。

私は切り替えて、前方の交差点を目指して歩いてゆく。街路樹に桜が植えてあったけど、葉桜になりかかっていた。これもいい。変化がある。それはいい。

右手側を見ると、マラサダ屋の隣に小さな不動産屋があった。これもいい。甘い香りがしたし、不動産屋は引っ越しを想起させ、引っ越しには明日のイメージがある。

楽しい気分になってきた。今日は1日、アイツを押さえ込めそう。

私は交差点まで来た。私の隣にはショッピングカートを引いてる涼しそうな帽子を被ったお婆さん。可愛い。私が社交的なら「こんにちは」と挨拶したい。

信号か変わった。同時に、遠くでパトカーのサイレンが鳴りだした。嫌な音。

私は少し残念な気持ちになりながらも横断歩道に歩みだした。気配でお婆さんが遅れて歩きだしたのもわかった。

するとパトカーの音が急速に近付いてくる。バイクの走行音も。まだ半分も渡ってない。走った方がいい? でもお婆さんは?


『止まれ。婆さんに注意。原付は助からない』


頭の中に声が響き、頭の上に少しの重みと柔らかさと温かさを感じた。

少し透けた猫が、乗ってる。


「そのまま」


私は後ろから来るお婆さんに手を差し出して言い、ギョッとさせて立ち止まらせた。

次の瞬間、異常なスピードで右折してきたバイクが対向する原付と激しく激突した。

バイクの運転手とバイクのパーツの一部は私とお婆さんの間を縫うように吹っ飛び、原付の車体は私の目の前を吹っ飛んでいった。私の顔に生温かい物が張り付く。

バイクの車体の大部分は交差点の中央のあちこちに散乱し、壊れた操り人形にようになった原付の運転手は私の右手側に転がって激しく痙攣していた。

服が裂けて、見えた脇腹から骨が飛び出ていた。私の顔に付いた血はここからか。

他の車両も激突しないまでも大混乱になり、パトカーも2台追い付いてきた。


『原付運転手は死ぬまでに4日は掛かる。バイクの男は2週間後に退院する』


私の頭に乗った赤と青の、オッドアイの黒猫は淡々と告げる。


「痛ぇっ! 親父を呼んでくれっ、親父を呼んでくれっ」


ライダースーツを着たバイクの男はヘルメットを取り、足を押さえて喚きだした。


『お前はこの男をニュースで見たことがある。半年前の集団暴行事件の主犯。大物市議の息子。今回はさすがに不起訴にできないが、大した罪にはならない。どこにでもあるクソみたいな話さ』


透けた黒猫は嘲笑しながら言った。


「・・大丈夫ですか?」


私は猫を無視して、腰が抜けてしまったらしいお婆さんに改めて手を差し伸べた。震えてる嗄れた手を取ろうとした。私は社交的じゃないが、不親切じゃない。


『よせ』


「ひぃっ!」


お婆さんは怪物でも見た顔で私の手を振り払った。返り血か? 事前に止めたのが気味悪かったのか? 事故や、原付の人の痙攣がショッキング過ぎたのか? どっちにしろ、ちょっと傷付くリアクションだなぁ。


『言ったろ? お前はこの俺様の言う通りにしときゃいいんだよ』


『ミマタ、ちょっと黙って。警察が来る』


私は黒猫、ミマタを頭の上から消した。私にしか見えないが、会話に入ってこられるとややこしくなる。

パトカーから降りた警官達が慌ててこちらに駆け寄ってきた。



(3)


趣味いい香りの付いた加湿器の置かれたカウンセリング室で、私は八社鶴子先生から検診を受けていた。

看護師だかアシスタントだか知らないけどタニヤマさんという人が、近くに控えていた。


「そう、今日も大変だったね」


「今日、も。って」


「貴女、よくあるじゃない」


「皆がやり過ごしたことが、私の所に来ちゃうんですよ? たぶん」


私は八社先生が用意してくれたおはぎを割り箸でモリモリと食べていた。ミマタが力を使ったから、脳が、糖分を求めている。

顔は警察署で洗ったけど、制服には少しまだ血が付いていた。染み抜きが大変そう。


「探偵がいるから事件が起きる、ってよく言うけど、事件を解決できる人が探偵と呼ばれることになる、というのがホントだと私は思うわ」


八社先生は膝丈のスカートを足を大胆に組み直した。そろそろ、来る。ミマタに頼らずともそれくらいわかる。

たまたま擦れ違った女子高生2人組のイジメの相談よりわかり易い。


「皆、解決できないことに慣れっこで、麻痺してしまっているのよ。・・タニヤマさん、ちょっとコンビニか商店街でお茶菓子を買ってきてくれる? 明日の分もっ」


タニヤマさんは、微妙な顔をした。コンビニも商店街も、クリニックから少し遠く、戻ってくるのに20分以上掛かった。


「どうしたの? この後も3件入っているし、今国府さんが4人前もペロリと食べちゃったから。お願いよ」


「・・わかりました」


「別会計で私達の分のお茶菓子もね」


「御馳走になります」


タニヤマさんは椅子に掛けていたカーディガンを羽織り、机にしまっていたトートバックを取り出し、一礼して診察室から出ていった。

途端、八社先生は銀縁眼鏡をケースにしまって、プラチックの簡単で軽そうな眼鏡に掛け換え、垂らしていた髪をシュシュで雑に纏めるとキャスター付きの椅子でグッと私に近付いてきた。

八社先生は細身で背が高いので、名前の通りに大きな鶴が迫って来たような圧がある。


「で? どうなの? 出したの猫ちゃん?」


口調も変わる。


「ええ、まぁ。分離してるんで」


「なるほどねぇっ! 詳しく聞かせてっ」


熱心にタブレットでメモる八社先生。私はタニヤマさんがいる前ではミマタのことは話していない。

かい摘まんで今日の事故でのミマタの助言等を話した。


「・・私のこと、研究して発表しても八社先生が頭おかしくなった、って思われるだけじゃないですか?」


「元々学会に居場所なんてないからっ! 私はね、ごく一部の精神疾患患者には、その先の適性があると思うんだよっ」


「サヴァン症候群みたいな?」


私はあんまりストイックじゃないけど。


「う~ん・・ちょっと違うかも? ただ貴女にはほんの少し脳の欠損と、それを補う変形が見られるから、より複合的な物だと思う。なんにしても、貴女みたいな稀なケースを集めれば、必ず成果が出るはずだよっ! 人類に取っても有益っ」


「人類、ですか・・」


どんどん迫ってくる八社先生から、私の椅子にもキャスターが付いているので少し距離を取りつつ、正直うんざりした。

2人しかいない私の猫の秘密を知る1人だったけど、色々面倒な人ではある。


『コイツは高学歴なアホだが、アホは容赦しない。気を付けろ』


また頭の上に重みを感じた。ミマタだ。しまった、困惑し過ぎて隙が出た。


「っ! いるね。来たねっ、今っ! 今国府さん、貴女とはもう長い付き合いだから大体わかるよっ。来てるのねっ、白猫ちゃんっ!」


「はぁ、まぁ・・」


黒猫だとは教えていない。他にも色々。

変わり者でもプロのカウンセラーなので教え過ぎると私達の中に入り過ぎるかもしれない。


「見たいわぁっ、触りたいっ、抱き締めたいっ!! ここにいるんでしょっ?!」


私の頭の上をスカスカと、掴もうとするがミマタに触れない八社先生。ミマタも相当嫌がったが、私もゾワゾワした。頭が痛くなりそう。


「もう100回以上言ってますけど、猫に触ろうとするのやめてくださいねっ」


「ハイハイごめんねっ。よーしっ、取り敢えず、そろそろタニヤマさんも戻ってくるし、普通の方のっ! 診断書書いて、薬の処方しなきゃだねっ。タニヤマさん、私の家の本家のスパイだからねぇっ」


「はぁ・・」


『この女がトンデモ論文と陽性転移で何度もやらかしてるのは業界じゃ有名。本家が病院経営で鳴らしてなきゃ今頃、自分が患者になってるぜ?』


『でも、何人も診てもらったけど、私達のことを少しでも話せたのはこの先生だけだよ?』


『シンパシーだろ? 出来損ない同士のなっ』


『言い過ぎっ、ミマタっ!』


「過眠症の方は?」


ムッとしていたら、不意にまともな話を振られて虚を突かれた。


「・・はい。ここ1年くらいは、今日みたいなことがない限りミマタの力は控えているので」


「そう・・取り敢えず、引き続きナルコレプシー傾向、って書いとくねっ! バイクや原付免許いらないでしょっ?! 今日、グロかったろうしっ」


「カウンセラーがそんなこと言いますか?」


『コイツを一般化するな』


「危険がデンジャーだよっ?! アハハっ!!! 猫ちゃんもねっ」


八社先生は機嫌好く笑っていた。



(4)


クリニックの帰り道、夕暮れの街を歩きながら、私はうつらうつらとし始めていた。眠い眠過ぎる。

糖分をたっぷり取ったが、私の脳は休息を求めているようだった。


『オイっ、八社に余裕ぶって早々落ちかけてるぞっ?! 一旦立ち止まれっ』


今日はもう3回目、頭の上に重さを感じさせて、ミマタが現れた。


「あ~、はいはい」


思わず声に出して返事をしてしまい、通り掛かった営業帰り風のサラリーマンを戸惑わせてしまった。

くっそぉ。カジュアルにメンヘラだと自覚させられちまうよっ。

取り敢えず通行人の邪魔にならないように道の端に寄ってスマホをイジるフリを始めた。便利だよね、スマホ。


『このままバスに乗るのも寝過ごす危険がある。お前が眠ると俺は体外のことを上手く対処するのが難しい。カフェかファーストフード店にでも行って少し仮眠を取れ』


『直ぐ近くに公園あるよ? タダだよ? 公園。今日、暖かいし』


キリンの滑り台がある、ファンシーな公園が1本入った通りに確かあった。


『自分がなんちゃって制服を着ていることを忘れるなっ。通報されるか痴漢される。荷物を盗まれるリスクも高い。日本の治安を過信するな』


『なんちゃってじゃないよっ。通信取ってるし、成績いいし』


『通信等くだらんっ。俺様の力を使えば高卒認定くらいすぐに取れるだろっ?! バイトもせずにブラブラする言い訳にはなっていないぞっ?!』


『情報が多いと疲れるんだよっ!』


『脆弱っ!』


『繊細と言ってっ!』


ズレてきた話で、心の声で口論していると、


「今国府さん」


涼しい声がした。振り向くと、ジャージ姿にスポーツバックを持った甘根光晴くんがいた。

茶色っぽく見える髪がホワホワしている。スッとした立ち姿。今日まで彼をスカウトしない芸能スカウトの人達はたぶんフシアナなんだと思う。


「甘根くん? どうしたの?」


「フットサルサークルの試合があってさ。定時制の学校の人達とだったんだけど、すんごい昔風のヤンキー学校でっ、ちょっと大変だったよ」


苦笑する甘根くん。甘根くんは通信高校の同級生。通信といっても週数回登校日があって、サークルもあった。


「昔風のヤンキーの人達もフットサルするんだね」


「彼らも人の子だからね」


「ホントにねっ!」


「ハハハっ」


「ウフフっ」


「じゃあ、僕、仲間と合流するから」


「うん。また学校でねっ」


「うんっ!」


甘根くんは軽く手を振って、爽やかに走り去っていった。


『そんなにいい話してなかったからな?』


『そんなことないよ』


『嘘臭い野郎だぜっ』


『そんなことないよ』


『俺様でも上手く見通せない程にペラペラに透明なヤツだ。あんなヤツ、実在するのか?』


『するよ』


『お前の妄想だろ?』


『お前が言うなっ!』


『オイっ! お前っ、オイっ!! 俺様をお前と呼ぶなっ。ミマタと呼べっ! 何度言えばわかるっ?!』


『この名前のやり取りの件っ、もう嫌っ!! バカ猫っ』


『何をっ?!』


私達がまた内なる不毛な口論を始めていると、今度は私達の前の車道に、古い型の国産セダン車が停まった。

見覚え、あり。


『次から次に面倒臭ぇなっ!』


歩道側の助手席の窓が下がり、小柄で褐色の肌をしたショートカットの女がヌッと顔を出してきた。

ノータイで着崩した感じのレディーススーツを着ているが何しろ小柄だった。たぶん150センチ台前半。


「今国府箭子っ! 遠いっ。寄れっ」


大声で言ってくる。他の通行人が何事かと見てくる。


「恥ずかしいヤツっ」


『舐められてんだよっ、お前はっ!』


私は赤面してセダンに近付いた。なんだかんだで眠気も吹き飛んでいた。


「何? マリさん」


マリさん、こと葛井マリーネさんは刑事だ。たぶんフィリピンハーフかクォーター。

今日は特別だったけど、なんだかんだで定期的に地元の警察署に私は行っていて、もう一年近くこの小柄なマリさんと運転席の無精髭の男が私の担当だった。


「パンをやろう。餡パンかメロンパン。どっち?」


マリさんはいい匂いのするパンの入った紙袋を窓に掲げてきた。


『餌付けするつもりだぞ? チビのクセに生意気だな。こんな物喰えるかっ! と袋ごと食道まで押し込んでやれっ』


『するワケないだろ?』


「メロンパンください」


「よしっ、パック苺牛乳を付けてやろうっ! 無果汁だがなっ。ふふっ」


マリさんはビニール袋に入ったメロンパンと苺牛乳をくれた。


「あざーすっ」


「うむ。大卒キャリア組であるこのマリにっ! 今の内から媚を売っておくといいっ」


『食道に押し込めっ!』


『黙ってミマタっ』


「うッス」


「今国府」


黙っていた運転席の無精髭が話し掛けてきた。


「なんッスか井佐原さん」


「子分口調やめろ」


『コイツも苦手っ』


『黙ってっ』


「なんですか?」


井佐原は白目の多い目で夕暮れの暗い車内から見てきた。恐っ。


「今日もやらかしたらしいな。署で噂になっていた。お前の感の良さ、と間の悪さ、俺は特異な物だと思っている」


『気を付けろ』


『わかってる』


「たまたまですよ」


「今国府、お前はそのたまたまが多過ぎる。凄惨な現場に遭っても平然としている」


「メンヘラなんで」


井佐原はマリさん越しにじっと私を見詰め、やがて小さく溜め息を吐いた。


「まぁいい。鶴子の診断はアテにならないから、話半分にしておけよ?」


「井佐原さんの紹介なんですよね?」


『たらい回しされていたから、元カノの所に紹介しただけだろ?』


『ちょっと黙ってて』


「鶴子は守秘義務は守る。それに話し易くはあるだろう? アイツはああいう仕事より、研究職か作家でもやったらいいんだがな」


井佐原は一瞬、弱ったような顔を見せた。パリっ! ミマタが毛を逆立てて少し放電する。


『よせっ!』


『あ、ごめん』


私は意図せず力を使わせかけたミマタの放電を止めた。


『興味本位で身近な人物の心は読まない。そういうルールにしたはずだぞ? くだらんことに俺様を利用するなっ』


『ちょっと気になっただけだよ』


『お前は甘根なんちゃら相手にフニャフニャしておけ。図に乗るな』


『うっさいなぁ』


「・・お前が普通の小娘なら、異常なことを異常と認識できることが正常だ、とか言ってやるところだが。お前の感覚はどちらかと言えば俺達に近い」


「先輩」


気配を消して黙っていたマリさんが少し避難するような口調で言った。


「異常が日常であったとしても、本懐という物がある。俺はそう考えて行動している。お前のそれがなんなのかは知らないが、見失うべきじゃない」


「・・はい」


「話はそれだけだ。葛井」


「了解ッス。じゃあな、今国府箭子!」


マリさんは窓を閉め、井佐原さんは車を出して去っていった。


『アイツは物谷より危険だ』


「名前を出さないで」


私は口に出して警告した。



(5)


私は結局、バーガーショップの目立たない席で、盗まれないように鞄を抱え、解いた髪で顔が隠れるようにして、ワイヤレスヘッドフォンで音楽を聴いているフリをして、30分程仮眠を取ってからバスに乗った。

帰って、世話になっている親戚に今日の事故について簡単に説明し、お風呂に入った。濁らないタイプの入浴剤を入れ、ぼんやりする。



平然としている


異常が日常であったとしても



井佐原さんにはそう言われた。


「まぁ、そう見られるし、そうだよねぇ」


耳を押さえて、目を閉じて、お湯の中に自分を沈めてみる。温かい。掌を介して湯が揺蕩う音や、自分の血流の音が聴こえる。

母親の胎内もこんな感じだろうか? 私は産まれてきて、何かの手違いで、綱を渡るようにして、生きている。

ゆっくり目を開け、腹の傷痕を見る。子宮は傷付かなかった。私もまた、綱を渡るような、次の、命の、直接的な、可能性があった。

でも今日、あの原付の人はなんの意味もなく殺された。お婆さんは助かったけど。


「・・・」


私は浮上して顔を出した。決めた。


『オイっ! よせっ。バカかっ?! 真に受けるなっ。負荷が大きい。キリが無いことなんだっ。世界中でっ! どれだけの罪の無い人々が殺され続けていることかっ? 殺された上に唾を吐き付けられ続けていることかっ? キリが無いことなんだっ!! 箭子っ』


私が濡れていたからミマタもずぶ濡れの姿で私の頭の上に現れた。

警察署で、あの原付の人のことは色々話に聞いた。想像、できる。


「ミマタ、出して。少し話がしたい」


『最悪だっ!!』


ミマタは結局、私に逆らえない。赤と青のオッドアイを怪しく光らせ、全身の濡れた毛を、アンテナのように逆立てた。

バリっ! 音を立て、お風呂場のマットの上に、壊れた人形のようにされた原付の人が現れた。


「こんばんは」


「こっ、こここ、こんばんは」


原付の人は壊れたまま話しだした。


「お仕事はファミレスでしたよね?」


「は、はは、ハイ。早番でした。ち、父の介護があるあるあるっ、ので、早く、かか、帰ろうとして」


「出身は三重県でしたね」


「はい、い、伊勢です。だ、だだ大学は、神奈川で、うう、海が好きで、つ、釣りを・・」


私は負荷からくる眠気の限界と、長湯を親戚に不審がられる限界まで、壊れた原付の人と取り留めもなく、話し続けた。

これで何が変わるワケではなかったし所詮私の妄想なんだけれど、私は私の半端な力と、死への鈍感を、この罪無い人に糾弾してほしかったのかもしれない。



(6)


昼間、今国府箭子が遭遇した事故現場の交差点の横断歩道前に、一人の毛皮のコートを着た女が来ていた。

少し離れた所にスモーク張りのワンボックスカーがエンジンの掛かったまま停められている。

現場は嘘のように綺麗に片付いていたが、削られたアスファルトや横断歩道の塗装。パーツがぶつかった一部曲がったガードレールはそのままだった。

人気の無い深夜の交差点の前で、女は煙草を吸っていた。


「お姐さんっ! 路上喫煙はダメだよぉっ!!」


「そうだっ! 言ってやれぇっ」


ヨタヨタ歩いてきた初老の酔っ払い男2人組が毛皮の女に言ってきた。

女が振り返ると酔っ払い2人は目を丸くした。信じ難い美人だった。骨格の作りも、肌の質感も、顔のパーツの作り込みも、一般人とはまるでレベルが違った。

化粧の乗せ方も完璧で、暴力的な美貌であった。


「ふっわぁああ~~~っ」


声を揃えて愕然とする酔っ払い2人。


「あら、ごめんなさい。ここで昼間友達が事故に遭った、ったみたいで、ボーっとしちゃった」


毛皮の女は案外愛想好く応えて、ブランドの携帯灰皿で煙草を消した。


「ああ、そうなんですかぁっ。消して頂ければ、なぁっ?」


「お、おうよっ。事故って、被害に遭ったファミレスの料理人?」


「フロアチーフじゃなかったっけ?」


「どっちだっていいんだよっ」


「フフフ、いいえ。偶然、ね。バイクも加害者も被害者も破片も避けられて高校生の知り合いなんですよ」


「ああ、なんか学生がいたらしいなぁ」


「運がいい子だなぁ」


「ホントにね。それじゃ」


「ああ、はい」


「ご、ごきげんようっ」


毛皮の女は香水の匂いを残して酔っ払い2人を搔き分けるようにしてワンボックスカーの方へ歩いていった。

酔っ払い2人は青になった横断歩道も渡らずにデレデレと毛皮の女を見送っていた。

女は自動開閉式のワンボックスカーの後部席に乗ると、煙草を点け直した。

運転席には身長2メートルはある大男が窮屈そうに乗っていた。


「もういいから。出して」


「鬱陶しいヤツらですね。片付けましょうか?」


酔っ払いはまだワンボックスカーを見ていた。


「交差点の信号にカメラがある。別にどうでもいい。早く、出して」


「はい」


大男はワンボックスカーを発車させた。


「箭子は、段々派手なことをしてる。猫が育ってるんだよ」


「・・その内、破綻します」


毛皮の女は鋭く大男の後頭部を見た。


「言ってみな」


「夜の商売で、たまに異様に感のいい女がいます。さっさと足を洗えればいいんですが、そういう女が長く残っていると、必ずパンクします。無事で済んだそういう女を、俺は知りません」


毛皮の女は深く吸った煙草の煙を吐いた。


「そうなんだろうな。だが、箭子は、きっとそんなもんじゃ済まない」


大男はまだ何か言いたげだったが、毛皮の女が車窓の外を見て感傷に浸りだしたように見えたので、黙ることにした。

ワンボックスカーは、夜の車道を切り裂くように走り去っていった。

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