第八十四話 おっさんとリリアン 前編
おっさん戦士リカルドとリリアンの出会い。
物語はここからはじまります。
イーラーがリリアンのために用意してくれた盗賊と山犬よけのローブを着ている時は、いつもの猫のぬいぐるみをつけなくても良いので、リリアンは心地よい風や光を感じながら森の中を歩いていた。
イーラーの誕生日に彼女の大好きな野生のバライチゴで何か作ってやりたくて森を探すうち、ずいぶん奥へ入ってしまったようだった。
そろそろ引き返そうと思ったその時、何かがガサガサと枝を分けてこちらへ近づいて来るのに気がつき、リリアンはしゃがんで息を潜めた。
枝葉を分ける音がすぐそこまで近づいて来たかと思うと、足を怪我した騾馬を背中に背負った大きな黒い男が現れた。
傍には熊のように大きな黒い犬を連れている。
リリアンは最初、その男を馬泥棒かと思った。
男と犬はリリアンから二十メートルほどの距離まで近づいたが、ローブのせいでリリアンには気がついていない。
リリアンは身を固くして、男と犬が早く通り過ぎるように祈った。
これ以上近づいたら、少なくとも犬には気づかれてしまう。
男の顔は血だらけだった。
乾いた血がこびりついて、その上にまた血が流れて、だんだらの顔になっている。
目もはっきりと見えないようだ。
片方の足を引きずりながら、一歩、一歩、時間をかけて慎重に足を踏み出していたが、とうとう木の根につまづき膝をついてしまった。
騾馬が倒れないように必死に踏ん張るが、そのせいで傷口が開いて、血が吹き出した。
そっと騾馬をおろし、ぜいぜいと息をする。
血の混じった唾液が土の上に落ちる。
顔はおろか、全身が血に染まっていて、どこを怪我しているのかもわからない。
ここまで深傷を追っているのなら、このまま後ろを振り返らずに立ち去れば気配を気づかれたとしても追ってはこれまい、リリアンはそう思ったものの、その場を離れることができなかった。
騾馬や黒い犬が男に寄り添うように控えている姿を見て、男が見た目ほどの恐ろしい人間とは思えなかったのだ。
男は鞄から何かを取り出した。
どうやら、傷を治す軟膏のようだ。
てっきり自分に使うのかと思いきや、怪我をしている騾馬の足に塗った。
軟膏を塗られた患部の様子から察するに、イーラーの作るものと比べるとずいぶん粗悪なもののようだが、それでもないよりはましだろう。
黒い犬はしきりに男の顔を舐め、まるで顔の血を脱ぐってやろうとしているかのようだ。
「サーブ、いいから先に行ってイーラーを呼んでくるんだ。イーラーなら、ハマーを治してくれるから。良い子だから、言うことを聞いておくれ。」
しかし、犬はくうん、くうんと悲しそうに鼻を鳴らすだけで動こうとしない。
今、主人の元を離れたら、戻ったときには主人の命は尽きている事がわかっているのだろう。
男は今度は水筒を取り出して犬と騾馬にわけてやったが、自分は口もつけない。
「さあ、お願いだ。最後の薬の効能がきれる前に行っておくれ。」
リリアンはそっと男の方へ歩み寄り、とうとう犬に気づかれる距離まで近づいた。
真っ黒な犬に白い牙が一瞬覗いたが、イーラーの匂いを感じとったのか、くんくんとリリアンの側に鼻をよせると、ほどなく犬は飛ぶように走り去った。
「そうそう、良い子だ。後の事はイーラーがちゃんとしてくれるから。」
男は満足そうに犬を見送ったあと、土に横たわり、もともとろくに見えていなかったであろう目を閉じた。
騾馬は諸膝を折りうずくまってぴったりと男に寄り添っている。
男の命が消えようとしているのだとリリアンにもわかった。
「誰かいるのか?」
ふいに男が口を開いたので、リリアンは身を固くして動きを止めた。
「姉さん?迎えに来てくれたの?」
男は閉じていた目をふたたび開いたが、何も見えていないようだ。
「いや、違うな。俺が姉さんと同じところへ行けるわけがない。」
それなのに、男はまっすぐにリリアンの目を捉えた。
いや、きっとリリアンの気のせいに違いない。
ローブをつけているから、気配を感じることがあったとしても、目を合わせることはできないはずだ。
しかし、男はリリアンの目を見てこんな事を言った。
「やあ、こんなところにひとりで来ちゃいけないよ。盗賊や山犬がうろついているからね。」
リリアンはイーラーから持たされていた回復薬の入った水筒を恐る恐る男の口もとに持ってゆくが、男はうけつけず、そのまま顎へと伝ってこぼれてしまった。
「ありがとう。でも俺に触れてはいけない。この剣にさわるのは不吉だ。それより、もしもその薬を……少し余分に持っていたら、俺の騾馬にわけてくれるかな。怪我をしてるんだ。
ほんのちょっとだけでいいんだ。」
ほんの少しだけ、男はそう言うとまた黙り込んだ。
もうリリアンと目を合わせることもなく、焦点の合わない目はぼんやりと虚ろに空を見ている。
リリアンは回復薬を口に含んだ。
そして、両手で血だらけの男の顔を挟み、唇を重ねた。
柔らかくて暖かい唇が男の血まみれの荒れた唇にふれた。
死神だろうか。
死神は人の魂を吸うと聞いたことがある。
いや、違う。
唇から感じるそれは死とは対極にある、もっと生命にあふれた何かだ。
優しくて甘い、けれどもとても力強い、生命にあふれた何か。
こんなふうに俺に触れてくれる者は今まで、そう、誰一人としていなかったのに。
「きみは、誰なの?」
男の喉がごくん、と鳴った。
男はそのまま目を閉じた。




