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第八十三話 ヤンセンの結婚式 後編


「あっ。」


 リリアンの足元でぴしゃっと音がした。


 見ると、誰かの吐瀉物を踏んでいた。


「あ……。」


 リリアンの大事な黒いすべすべの靴が汚れている。


 ほらね。


 物語のヒロインはこんなもの踏んだりしない。


 ましてや、ヒーローの目の前で。


 いつもと違うドレスを着て、本物の淑女みたいなつもりになっていたけど、やっぱり私は私。


 ただの冴えない、つまらないリリアンだ。


「ひにゃっ。やっちゃったあー。」


 肩をすくめて、いつものように、何でもないようなフリをして言った。


 と、リリアンの身体がふわりと宙に浮いた。


 リカルドがリリアンを抱きかかえたのだった。


「リ、リ、リカルド様!?」


「平気平気、すぐに洗えば汚れはつかないよ。」


 リカルドは大股で歩きながらリリアンを励ました。


 普段なら、リカルドだってこんな大胆なことができるはずがない。


 しかし、この靴をリリアンが大切にしているのを知っているので、早く何とかしてやりたかった。


 それに辺りは薄暗くなっているし、カルロスの護衛としての正装が、いつもの自分よりも少しだけ勇気を持たせてくれた。



 リカルド様……。


 リカルドの腕の中で、リリアンは身体を固くし、目をぎゅっと摘むった。


 大好き、大好き、大好き。


 こんなにぴったりくっついていたら、口にしなくてももしかしたら届くかもしれない。


 リリアンは心の中で何度も何度も繰り返した。



 リカルドは、荘園の外れの馬の水飲み場まで来ると、リリアンをベンチに座らせ、汚れた靴を脱がせた。


 愛読書、


『初級レベルでもこんなに使える!

実用まじない72例 日常生活編』


に載っていた、染み抜きのまじないで、リリアンの靴は元どおりのきれいなすべすべの靴になった。


「な?こう見えても洗濯はだいぶん上達したんだ。」


 リカルドはリリアンに笑いかけたが、リリアンはそれには応えずうつむいて身体を固くしている。


 ほんの数週間前のリカルドなら、リリアンがこんなふうに緊張しているのを見たら、自分に触られるのを嫌がっているのではないかと考えただろうが、今はもう少しだけリリアンのことをわかっているつもりだ。


 本当に、本心から俺が嫌なら、一緒に回転木馬に誘ったりはしない。


 もちろん、俺が考えているような気持ちではないだろう。


 でも、今この瞬間、彼女の前に跪ずけるのは他でもない、この俺だけが持つ特権だ。


 リカルドはリリアンの前に跪き、靴を履かせてやった。


「……ありがとうございます。」


 ベールの中から小さな声がした。


「ヘマばっかりで恥ずかしい。一人じゃ何にもできないんだもの。」


「靴なんか、俺に洗わせておけば良いじゃないか。前に言ったろ、淑女の願いを叶えることこそ、騎士の誉れだって。お姫様が何でもひとりでやってしまったら、騎士はおはらい箱になっちまうよ。」


「私はお姫様じゃないもん。それに、お姫様が騎士にお願いするのは、火山に棲む竜が持ってる指輪とか、妖精の国の七色に光るバラの花とかだもの。」


「よかったよ。リリアンがそんなわがままな子じゃなくて。どうせ、そのわがままなお姫は、騎士が死ぬような思いで指輪や花をかっぱらって来ても、その頃にはどっかの阿保な王子と結婚してるんだろ?」


「まあ、ふふっ。」


 リリアンは笑った。


 鈴が転がるような、優しくリカルドの心をくすぐる笑い声で。


「へへ。」


「ふふふ。」



 リリアン、すごくすごくきれいだよ。


 とってもきれいで、本物のお姫様みたいだ。


 俺にとっては、いつもまぶしくてきれいな、憧れの人だけど。


 何もできないだなんてとんでもない。


 いつだって君は、誰にもできない特別なことを俺にしてくれるじゃないか。




 ふと、皆の歓声が湧きおこったので、二人はそちらに顔を向けた。


 花嫁のヤンセンがブーケを投げたらしい。


「ひゃっ!!」


 リリアンか慌てて立ち上がった。


「しまった!出遅れてしまいました!ヤンセンお嬢さんに私に向かって投げてくれるようにお願いしておいたのに!!


リカルド様っ!」


 リリアンはリカルドを振り返った。


「へ?」


「ブーケ取って来てください!竜の指輪よりずっと簡単でしょう!?」


「えーっ!?」


 会場は女の子達の本気の勝負で恐ろしい気に満ちている。


 誰が仕掛けているのか、魔法やら、リカルドの銛『エイハブ船長』まで飛び交っていた。


 あんな火炎に飛び込んだらとても生きては還れまい。


 リリアンはリカルドを急かした。


「さ、早く早く!騎士の誉れはどうしたのですか!?」


「い、いや、俺、騎士じゃないし……。」




 ブーケ争奪戦に参加できなかったリリアンの落胆は、靴を汚した時のそれとは比べものにならなかった。


「リリアンさん、元気を出しなよ。」


 リカルドが気遣う。


「どうせ、リカルド様は、私が嫁がす後家になって、イーラーさんの介護をすれば良いと思っているんでしょう?」


 リリアンは恨めしそうに言う。


「うっ。い、いやそんなことは……。」


 実は少しだけ期待しているのだが、もちろんそんなことは口が裂けても言えない。


「あのブーケには、街いちばんの魔導士、ガードナー家の御当主がプライドをかけて施したものすごい魔法がかけられていて、あれをもらえた人は翌年必ず結婚できるんです。」


「そうなんだ。」


「噂によると、一昨年ブーケをもらったお嬢さんは、私なんかよりずーっと年下だったんですって。」


「へえ。」


「そのお嬢さんはブーケをもらった翌日、学校を辞めて居酒屋さんで働き始め、居酒屋さんで知り合った健康食品の行商をしている男の方と、ものすごい速さで結婚をしたんですって。ブーケの魔力は留まるところを知らず、その後、そのお嬢さんは二回も結婚したんですって。」


(それは呪いのブーケじゃないか……?)


 リカルドは密かに思ったが、もちろん口には出せなかった。



   ⁂


 その頃、遍堀付近の洞窟では、蛙の魔物であり小説家でもあるレンリーが、リリアンから『読者の作るページ』欄の『ミス・フランシスの恋のお悩み相談室』宛に送られて来た手紙の返事を書いていた。


 「『もちろんプロポーズです。嫁入り道具の準備はお早めに』っと。私のかけたプロポーズのおまじないはとーっても、強力なのよ。」


 レンリーはか細い声でふふふふふ、と笑った。

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