マリコ、芝居を打つ
フツの帯を巻いて背に負ったマリコの身体は、羽根のように軽かった。そんなわけで、蛇のようにうねる傾斜のきつい山道を駆けながらも、烏はそれをまったく苦に思わなかった。ただ、少しばかり心配にはなる。マリコは好き嫌いも無く、朝晩の食事もしっかり摂っていたが、思い返して見れば幼いころの自分は始終腹を空かしていた。ひょっとすると、それはマリコも同様で、この体重からして実は日々の食事がまったく足りていないのかも知れない。
「いたぞ!」
不意に声が上がり、前方に革鎧をまとった軽装の兵士が飛び出す。烏は足を緩めず、剣を突き出す兵士の脇を駆け抜けるかのように見せかけて背後に回り込み、そのうなじに短剣を突き立ててから、彼が倒れるに任せて再びひたすらに駆けた。ほどなく山道の両脇は烏の背丈の倍ほどもある土手が壁のように立ち、さらに進むと不意に周囲が開け、半円形の敷地に出た。その先には瀝青を塗った丸太で作られた、高さが二〇フィートほどもある大きな門が立ちはだかる。
「頼もう!」烏は門に取り付き叫んだ。「俺は、カテリナさんの使いの者だ。ここを開けてくれ」
束の間を置いて、門の上から声があがった。「今、カテリナと言ったな?」
「ああ、言った」
「呼び屋のダリウスの娘か。金髪の?」
「父親は死んで、今は彼女が呼び屋だ。俺はその下で働いている」
沈黙があって、再び声が上がった。「少し待て。追っ手を片付ける」
ふと振り向くと、十人ばかりの兵士がぞろぞろ駆けて来るのが見えた。彼らは揃って軽装で、先ほど烏が殺した兵士とまったく同じ格好をしている。不意に先頭の兵士が数人ばたばたと倒れ、後続の兵たちは驚いた様子で足を止めた。倒れた兵士の顔からは、いつのまにやら矢柄が飛び出していた。どこから射掛けたのかと烏は門を見上げるが、そこに射手の姿はない。しかし、束の間を置いて門前の敷地を取り囲む土手の上からそれは現れた。射手は若者もいれば老人もおり、男も女もいたが、みながみな当たり前の平民の服装をしている。射手たちは号令の一つもないまま、それでも統制のとれた動きで一斉に弓を引き絞り、立ち尽くす兵たちに雨のような矢を放った。兵たちは腕を掲げて降り注ぐ矢を避けながら後退を始めるが、土手に挟まれた山道は狭く、我先に逃げようとする仲間同士で押し合いへし合いとなり、結局はそこを射られて全員が地面に伏した。それで烏は、ようやく周囲の土手が自然のものではなく、苔むした石垣であることに気付いた。
「門を開ける」
先ほどの声がするので門の上を見上げると、そこには浅黒い肌をした中年の男の顔があった。彼は一つ手を振って続けた。「少しさがれ」
言われた通り後退すると、巨大な門扉は内側から押し開かれた。門をくぐる烏と入れ違いに、ばらばらと数人の男女が出て行く。彼らは手際よく倒れた兵士を調べ、まだ息のあるものにはとどめを刺し、鎧やら武器やらをはぎ取り始めた。
門の内側は外と同じく石垣に囲まれた半円形の敷地で、細い丸太を組んで作られた台がずらりと並び、剣や槍や弓と言った武具が立て掛けられていた。門の向こう側とは異なり、敷地から外へ出る道は広く、それは三方に伸びている。
「なんだってイ国の兵隊に追われてたんだ?」
足を止めて周囲を眺めていると、背後から声があった。その主は門の上から烏を見おろしていた、浅黒い肌の男だった。
「王が、この子にご執心なんだ。俺たちから彼女を取り返そうと躍起になっている」烏は背に負ったマリコを指さした。少女はすうすうと寝息を立てている。今は昼間で眠くなるような時間でもないはずだが、どうやら彼女は烏に負われると寝てしまう癖があるらしい。ふと見ると、浅黒い肌の男はぽかんと口を開け、すっかりマリコに見入ってしまっている。烏はため息を落とし、片手で男の肩を掴んで何度か揺さぶった。「おい、目を覚ませ」
「なに?」むにゃむにゃとマリコが眠そうな声で言った。
「お前じゃない、こっちの旦那に言ったんだ」
束の間があって、マリコが口を開いた。「こんにちは、おじさん」
男ははっと息を飲み、それから目尻を下げた。「ああ。こんにちは、お嬢さん」
「ここ、どこ?」と、マリコ。
「エランヴィルだ」烏が答える。
束の間の沈黙があって、不意にマリコが叫んだ。「みんなが大変なの。助けて、おじさん!」
「わかった、任せろ」男は拳で胸を叩いて言った。しかし、彼はふと首を傾げる。もちろん、そうだろうと烏は再びため息をついた。何をどう助けて欲しいのか、まだ何の説明もしていないのだから。
「ひとまず、あんたのボスに会わせてくれ。詳しいことは、そこで話す」烏はフツに借りた帯を解き、マリコを降ろしながら言った。浅黒い肌の男は頷き、三方に伸びる道のうち、特に広い真ん中へと足を向けた。道は森の中を通っているが、しっかりした石畳が敷かれており、傾斜も緩やかだった。しばらく歩くと森は途切れ、視界が開けた。そこには、ごく当たり前の農村の風景が広がっていた。
エランヴィルは東西を山稜に挟まれた、南北に延びる細長い傾斜地にあった。烏たちが出てきた森は南に位置し、反対の北の端は東西の山稜が合流して三角の頂を作っている。その中腹あたりには城があり、その足元は断崖となっていた。崖にはつづら折りの道が付けられ、それは崖下に広がる牧草地と、収穫を終えた麦畑や集落の間を抜け、烏が歩く道へと繋がっている。
案内の男はその道を進み、家屋が建ち並ぶ通りへと入った。マリコの手を引きながら周囲を見回し、烏はのどかな農村と言うエランヴィルの印象を訂正した。いくつかの店があり、買い物をする人や立ち止まって談笑する女たちがいる。のんびりと牛を牽く男もいる。しかし、通り過ぎた鍛冶屋には鋤や鍬などの農具に混じって剣や槍があったし、炉の前で鎚をふるう男が打っているのは小さな矢じりだった。
ほどなく彼らは村の中心と思しい広場へとやってきた。ほとんどの建物が木造の中、広場に面して建つ石造りの建物が一軒だけあった。鐘楼を備えているところを見ると、どうやら寺院の類らしい。扉の前には灰色の簡素なローブを着た禿頭の老人と、マリコと同じ年頃と思しい三人の子供たちがいて、革を縫い合わせたボールを蹴って楽しげに遊んでいる。
「おや、ドゥーガルドさん。何かありましたか?」ローブ姿の老人が、烏たちに気付いて言った。彼は爪先でボールを器用に蹴り上げ、片手で受け止めてから、それを少年に手渡す。
「客人です、ゼル様」浅黒い肌の男が言った。「彼が言うにはカテリナの使いで、どうやら我々の助けが必要なようです」男は烏に目を向けた。「この方は、この寺院を預かるお坊様で、村長も務めてくださっているんだ」
「烏と申します、尊師」と、烏は頭を下げた。
「そんな大層な者ではありませんよ」僧侶は柔らかな笑顔で言った。「大抵のことは村人たちが自分で決めて、うまく動いてますからね。私はちょっとした調整役をしているにすぎません。それにしても、カテリナは元気で――」
僧侶の目が、ふとマリコの上で止まった。彼もまた例にもれず、すっかり少女に見惚れてしまっている。それは、ゼルと遊んでいた幼子たちも同様で、彼らもまた目を丸くしてマリコを見つめていた。
マリコは烏から手を放し、子供たちに駆け寄った。彼女は束の間を置いてから大きく息を吸い込み、少し上ずった声で言った。「私、マリコ。あなたたちは?」
「僕は、ユタ」黒髪の男の子が、目をぱちくりさせて自己紹介した。
「私はチェリよ」赤毛の少女が言った。彼女はさらに、砂色の髪の少女を指す。「それで、こっちがフェリ」
フェリはにこりと微笑み、少し照れた様子で右手を差し出した。烏が警告を発する前に、マリコはその手を握り返した。フェリはぎょっとした様子で目を見開くが、手を振り払うようなことはしなかった。彼女は二人の友人に目を向け、言った。「なんか、へん」
「何が?」と、ユタ。
「もやもや、するの」
ユタとチェリは顔を見合わせ、二人でマリコの左手を握った。彼らもまた、フェリと同様に目を見開いてから、声をそろえて言った。「もやもやする!」
「不思議」チェリは言ってくすくす笑った。「ねえ、ゼル様」彼女は惚けている僧侶のローブを引っ張った。ゼルは我に返り、首を傾げて少女を見た。
「マリコと遊んできてもいい?」と、チェリ。
「構いませんよ」ゼルは微笑んで言って、次いで烏に目を向けた。「よろしいですか?」
烏はぐるりと辺りを見回した。村の門前でイ国の兵士たちを容赦なく片付けたところを見ると、ここに王の手が入っていることは考えにくい。それでも確認はしておいた方がいいだろう。「マリコはイ国の王に付け狙われています。村の中は安全でしょうか」
ゼルは片方の眉をぴくりと吊り上げた。「そうなった経緯は後で詳しく聞くとして、ここにイ国の手が届くことはありません。それでも、そのような事情があるならご心配でしょう」僧侶は束の間考えてから、チェリに目を向け指を一本立ててから言った。「どうやらマリコさんは、悪い人に狙われているようなのです。決して遠くへは行かず、必ず大人の目が届く場所で遊ぶようにしてください。いいですね」
チェリとユタとフェリは、声をそろえて「はい、ゼル様」と元気に応じ、目を輝かせてマリコを見つめた。しかし、マリコは唇を噛んで首を振る。「私、大事なお仕事があるから」
「お仕事?」ユタは首を傾げてたずねた。
マリコは少年に頷いて見せた。「ここの一番偉い人に、みんなを助けてってお願いするの」
「そのお仕事なら、もう終わってますよ」ゼルは、にっこり微笑んで言った。「たぶん、あなたの言う一番偉い人とは私のことでしょうし、私はあなたのお願いを聞き入れるつもりです。だから、もう何の心配もないので、あなたは新しいお友だちと遊んでくるといいでしょう」
マリコは烏をじっと見つめた。烏はこくりと一つ、頷いて見せた。「エランヴィルの人たちには、これから大変なことを頼むんだ。彼らとは仲良くしておいて損はない。違うか?」
マリコは天啓を得たかのように目を見開き、すぐに満面の笑みを新しい友人たちに向けた。「なにする?」
ああだこうだと相談を始めた子供たちを見て、烏はほっと安堵のため息を漏らす。彼女に掛かっている奇妙な魔法のせいで、友だちと手も繋げないのではないかと言う彼の心配は杞憂となった。もちろん、子供たちの様子を見る限り、まったく影響がないと言うわけでもなさそうではあるが。
「それで」と、ゼル。「我々は何をすればよろしいのですか?」
烏は頷き、彼とマリコが仲間たちに先行して、エランヴィルへやって来たわけを話し始めた。
*
「ザシャーリ、このペテン師め!」
瞼甲を跳ね上げ、虎のような顔いっぱいに笑みを浮かべながら、完全武装の騎士は言った。烏はふと思い出し、マリコの背中に下がっていたフードを引っ張り上げて、彼女の頭に被せる。この騎士が例にもれず、少女を見て惚けてしまっては、進む話も進まない。マリコがいぶかしげに見上げてくるので、烏は人差し指を口に当て、ひとまず黙っているように合図した。
「閣下」ザシャーリは騎士にお辞儀をしてから、仲間たちに向き直った。「紹介します。フ国の将軍、カッセン中将閣下です」
烏は自分の耳を疑った。軍の最上位階級は大将で、それは王が務めるものだから、この虎のようないかめしい顔の男は、実質的なフ国軍のトップだ。それが、なぜこんな場所にいる?
がちゃがちゃと鎧を鳴らしながら、ダヴィードが将軍に完ぺきな敬礼を送った。中将も馬上から敬礼を返し、無言でダヴィードを見つめた。
「ダヴィード・バレッタ軍曹です、閣下」騎士は言ってから、はっと息を飲み訂正した。「元軍曹です」
「兵隊じゃあないのなら、そんなにしゃちほこばらなくてもいいだろう」将軍は愉快そうに笑って言った。彼は一同をぐるりと見回し、その視線がカタリナに止まる。「やることがいろいろあって、今はあんたらの自己紹介をゆっくり聞いている暇もないんだが、そこの美しい女性の名前だけでも知りたいものだ」
「カテリナと申します、閣下」カテリナは丁寧にお辞儀をした。「でも、卑しい身の上ですから、閣下の関心をいただくほどの者ではございませんわ」
「カルロスだ、お嬢さん。一応、公爵なんて称号も持ってはいるが、あんたの前じゃそれも霞む」
カテリナは艶然と微笑み、黙ってお世辞を受けた。
「兵たちを休ませてくる」将軍はザシャーリに向き直った。「後で人を寄越すから、ここで待っててくれ。朝食をとりながら、俺をひっかけた目的について聞かせてもらおう」
「わかりました」ザシャーリはうなずいた。
将軍は馬首を巡らせ、整列を始めた配下の兵たちに向かい駆け出した。その背を見送るザシャーリを、烏はじろりと睨んだ。「それで?」
「そんなに怖い顔をしないでください」ザシャーリは相変わらずの笑顔で言った。「陛下が軍を使って我々の行く手を遮ったとして、今のところ自由にできる兵を持たない私には、どうしても助力が必要だったんです。その点、カッセン将軍は私のやり口をよく知っているので、必ず駆け付けてくれるとわかっていました」
どうにも理解できない論法に、烏は首をひねった。「騙されるとわかっているのに、どうしてあの将軍さんは、わざわざあんたを助けてくれるんだ?」
「彼はもう、何度も私の策に引っ掛かっていますからね。しかし、釣り針には大抵、うまい餌が付いているもので、彼はその餌だけをかすめ取ることに長けているんです」
「今回の餌は、なんだったんだ?」
「前に寄った宿場町で、彼に宛てた手紙を書いたんです。イゾーテ王は私を捕らえるのに躍起になって、この辺りの守りを疎かにしている、と」
「それに乗って国境の砦を一つか二つ落とせれば、フ国にとってうまい話ではある」と、ダヴィード。「しかし、ザシャーリ殿。やはり、あなたは陛下が守備をないがしろにして、この先に待ち伏せの部隊を置いていると、とっくに見抜いていたと言うわけか。さもなければ中将に、このような提案をできるはずもない」
「それほど格好の良い物ではありません」ザシャーリは肩をすくめた。「実を言えば、事態は私の思惑を少々超えてしまっています。私としてはイゾーテ王に、マリコを追い掛けている状況ではないとメッセージを送れれば、それでじゅうぶんだったんです。もちろん国境に急があれば、待ち伏せの部隊も王の命令を待たず、我々のことはひとまず放っておいて、そちらへ向かうだろうと期待するところもありました。しかし将軍はあっさり砦を落としてしまったので、あなたたちが見つけた部隊は、おそらく今いる場所を動かず、そこで将軍を迎え撃とうとするでしょう。今から砦を取り返そうと行軍を始めれば、横っ腹を突かれる格好になりますからね」
間もなく一人の兵士が駆けてきて、会談の準備が整ったことを告げた。一行は兵士の案内で、いつのまにやら設営された立派な天幕に通された。天幕の真ん中には料理が並んだ大きなテーブルがあり、折り畳みの椅子が人数分用意されてあった。そのうちの一つに兜と籠手だけを外したカッセン将軍が座っており、彼は一行の顔を見るなり言った。「さっさと始めようか。いい加減、腹が減った」
「驚いたな」ワンはテーブルの角を挟んで将軍の隣りに座り、頭をつるりと撫でてつぶやいた。「閣下がお仲間だったとは」
「兜のせいだ。あれの重みやらなにやらで、髪も擦り切れてしまったんだろう」同じく将軍も、自分の禿頭を撫でた。
「俺は料理人だから、皿に髪の毛が入らないように剃ってたんだが、そのうちまったく生えなくなった」
「お互い、仕事に殉じたと言うわけか。友よ?」
「俺はワンだ」料理人は右手を差し出した。
「カルロスだ」
将軍とワンは固く握手を交わした。
「誰かと誰かの友情が芽生える瞬間に立ち会えるなんて、まったく素晴らしい経験ですね」ザシャーリは小さく拍手をした。
「茶化すな、ザシャーリ」将軍は鼻を鳴らし、手を伸ばしてパンを取りながら言った。「お前の手紙には無人の砦を落とし放題だと書いてあったが、しっかり守備兵が残っていたぞ。これは、どう言うことだ」
「まさか私の言うことを、鵜呑みにしたわけでもないでしょうに」ザシャーリは悪びれる様子も無く、自分の皿に置かれていた厚切りのベーコンを、ナイフで切って口に運んだ。
「どうせ、そんなことだろうと思って、歩兵と騎兵を合わせて三千ばかり連れてきたんだ」将軍はにやりと笑い、パンを噛みちぎった。「もっとも、奪った砦の守備にいくらか置いて来たから、今は多少目減りしているがな」
ザシャーリは、ぴくりと片方の眉を吊り上げた。「ずいぶん、大盤振る舞いですね。正直、フ国にそこまでの余力があるようには思えませんが?」
「うちの王様は前々からツ国とセ国に働きかけて、対イ国の同盟を結ぶ手はずを整えてたんだ。それがようやく実を結んだと言うわけさ。おかげで国内兵力の大半を、対イ国へ回せるようになったし、ついでにツ国の傭兵を格安で雇えるようにもなった」
「うちの王様も、いよいよ年貢の納め時と言うわけか」ワンは言って、豆の煮物らしき料理を頬ばった。「うむ、兵の糧食にしては悪くないな」
「そうでもないんだ、友だち」将軍は首を振った。「イ国はすでに大陸の三分の一を支配下に置いているし、海の向こう側とは言えル国と言う大国とも友好関係にある。単純な国力だけを見れば、イ国は俺たちの同盟を上回っているだろう。おそらく向こう一〇年は小競り合いを続け、互いに戦争に飽きたところで講和を結ぶ流れになる。そして、イゾーテ陛下を皇帝とした帝国を建て、三国はより良い条件でその一員に加わると言う寸法だ」
「つまり、今やっていることは、上手な負け方をするための下準備ってところね」と、フツ。
「まさしく、その通りだ」カッセン将軍は大きく頷いてから、いぶかしげにフツを見つめた。「妙な言葉遣いだな、サムライ?」
「フツよ」異国の剣士は苦笑を浮かべた。「ヤ国から渡った後、こっちの言葉を覚えようと聞き耳を立てた相手が、女性だったってだけなの。気にしないで」
「直すつもりはないのか?」
「彼女は恩人なんだもの。このまま大事にするわ」
将軍は頷き、ジルに目を向けた。
「ジル・クランと申します、閣下」ジルは立ち上がって優雅にお辞儀をして見せた。
「クラン商会に所縁があるのか?」将軍は首を傾げた。
「ええ、まあ」ジルは腰を降ろし鼻の頭をかいた。「一応、私がその代表を務めておりまして」
将軍は目をぱちくりさせた。「大会社のボスが、ここで何をしている」
「金銭感覚に乏しい友人に代わって、この小さな集まりの会計係を引き受けたんです」ジルはカテリナに目をやった。カテリナはぷいとそっぽを向き、ジルはくすくす笑いながら将軍に向き直った。「最初は融資を頼まれたんですが、放っておくと貸倒れてしまいそうなんで、私が面倒を見ていると言うわけです。それに、こんな冒険旅行なんて、そうそうできるものじゃありませんからね。見逃す手はありません」
「まあ、そうだな」カッセン将軍は笑って言ってから、その笑顔のままテレンシャに目を向けた。「こちらのお嬢さんも、なかなかの美人だな。しかも」将軍は烏に鋭い視線を向けた。「そこの坊主とあわせて、まったく油断ならない。武器を捨てろとは言わんが、使う機会をうかがうような真似は止めてもらいたいもんだ」
「申し訳ありません、閣下」烏は神妙に頭を下げた。意図したわけではないが、敵国の軍隊のど真ん中にいることを思えば、どうしても気が張ってしまう。そして、それを気取られるとは修行不足もいいところだ。
「職業病みたいなものなんです」テレンシャは悪びれずに言って、たっぷり蜂蜜を塗ったパンにかぶり付いた。
「少年の方は烏、赤毛の娘はテレンシャと申します」カテリナが紹介した。「二人とも、私が雇っている職人なんですの」
「優秀な人材を抱えているんだな、お嬢さん」
「はい」カテリナはふふと笑って見せた。
「ところで」将軍はマリコを見て首を傾げた。マリコはバターと蜂蜜にまみれたパンを口へ押し込むのに忙しく、その視線に気付いていなかった。「その子供は、なぜ顔を隠しているんだ?」
「イゾーテ王が追っているのは、私と言うより彼女だからです」と、ザシャーリ。「道行く人に告げ口でもされたら、かないませんから」
将軍は訝るようにザシャーリを見つめた。「まさか、どこぞの姫君をさらってきたんじゃないだろうな?」
「当たらずとも遠からず、と言うところですね」ザシャーリは言って、これまでの経緯をかいつまんで説明した。彼が話し終えると、カッセン将軍は眉間を摘まんで小さく首を振った。
「もちろん、イゾーテ陛下のやりようは間違っている。こんな幼子を、おもちゃ箱の中の人形のように扱うなど、真っ当な男のやることじゃあない。しかし、だからと言って暗殺や誘拐は、いささかやり過ぎじゃないか?」
「そうでもしないと、彼を止められそうになかったんです」ザシャーリは肩をすくめた。
「一体、陛下は彼女の何に夢中になっているんだ?」将軍はしかめっ面で言ってから、はっと息を飲んでマリコを見つめた。「まさか」
「いえ。とある事情で、そう言ったことは起こらなかったようです」
「そうか」将軍はほっとため息をついた。
「ねえ、旦那」テレンシャが口を挟んだ。「実際に見てもらった方が早いと思うわ」
ザシャーリはカテリナに目を向けた。女は一つ頷いてから、烏に目配せした。あまり気は進まなかったが、テレンシャの言うことももっともだったから、烏はマリコのフードをそっと外して背中へ落ちるに任せた。
カッセン将軍は息を飲み、マリコを凝視したまま身じろぎひとつしなくなった。口の周りをバターと蜂蜜で汚し、きょとんとした表情を浮かべる彼女は、烏の目にごく当たり前の少女に見えたが、やはり将軍は異なる印象を持ったようだ。
ワンが新しい友人の肩に手を掛け何度か揺さぶると、将軍はずぶぬれの犬のように頭を振ってから口を開いた。「これは――なるほど、イゾーテ陛下が狂うのも理解できる」
「彼は躍起になって、彼女を取り戻そうとしています」と、ザシャーリ。「国境の守備を割いてまで、我々の行く手に待ち伏せの部隊を置くほどです」
「待ち伏せ?」
「私とフツと、烏の三人でそれを見て来ました」ダヴィードが言った。「部隊の規模は五百ほどで、騎兵はわずかです。彼らはセバン湖の湖岸から北の国境まで、小隊ごとにばらけて周辺を監視するような動きをしています」
カッセン将軍は腕を組んで考え込んだ。相当な間を置いて、彼は口を開いた。「ごくあたりまえの戦場なら、それは単なる見張りで、後方にはもっと大きな部隊が控えているところだ。しかし、女の子一人を捕まえるにしては、ちょいとばかり大げさすぎる作戦だな」
「陛下はザシャーリ殿を強く警戒していました」と、ダヴィード。「あるいは彼一人で千人の兵に値すると目していても、さほどおかしくはありません」
ザシャーリは小さくため息を落とした。「過大評価もいいところです」
「自業自得だ」ダヴィードはくすりと笑って言った。「これまで、いくつもの戦場で多くの敵を殺してきたあなたの策が、自分に向けられるとなれば陛下も心穏やかではいられないだろうからな」
「お前の意見はどうなんだ、ザシャーリ?」将軍はたずねるが、すぐに首を振った。「聞くまでもないな。俺がここにいるってことは、こうなるのを見越していたからだろう」
「それはそうですが、閣下が三千もの兵を引っ張ってくるとは計算外でした。私の筋書きでは、あなたがもう少し国境でもたついて、待ち伏せの部隊を引き付けてくれるだろうと期待したのですが」
「もたつくも何も、砦の連中は俺たちを見るなり門を開けて、一斉に逃げ出したんだ。矢の一本も射ずにな」
「すると、ある意味で、私が送った手紙の内容通りだったわけですね」相変わらずの笑みを浮かべるザシャーリだが、その眉間には皺が寄っていた。「閣下、すぐに東へ偵察を出してください」
将軍は返事もせずに天幕を飛び出し、ほどなく戻って渋い顔をザシャーリに向けた。「言うとおりにしたぞ。ひょっとして、挟撃でもあるのか?」
「はい」ザシャーリは断言した。
「根拠は?」
「閣下は、制圧していない砦を背後に残したまま進軍できますか。大方、無人だとわかっていても?」
「無理だな」将軍は肩をすくめた。
「砦を逃げ出した兵たちは、それを見越して我々が野営していた砦跡へと逃げて来たんです。あそこなら、城壁はなくとも多少の攻撃には耐えられますし、それは我々が実証してみせました」
「籠城か」将軍は腕を組んでうなった。「つまり、彼らに援軍のあてがあったと言うことだな」彼は束の間考えてから、にやりと笑みを浮かべた。「しかし、そこには先客があって、彼らは挟撃に合う格好になってしまったわけか」
「まさに、その通りです」ザシャーリはうなずいた。「しかし、笑い事ではありません。今度は我々が東西から挟み撃ちにされるのです」
「にやにや笑いながら言われても説得力がないぞ」
「これはもう幼いころからの癖なので、どうしようもないんです」ザシャーリは笑顔で肩をすくめた。
「それで?」将軍はたずねた。「お前の筋書きだと俺はどう動く」
「東の部隊に追いつかれる前に国境の砦へ戻り、そこを拠点に一帯を攻撃します。国内で大きな兵員の移動があったと言う情報がない現在、おそらく東から来る部隊も、西の待ち伏せ部隊と同様、この辺りの国境の守備を割いて編成したに違いないでしょうから、うまくすればセバン湖北岸を占領できるかもしれませんよ」
将軍は鼻を鳴らした。「要するに、東西の部隊に横っ腹をさらし、尻尾を巻いて逃げる振りをしろと言うことか。連中は可哀想な女の子を追い回すより、国土を荒らす外国の兵隊を追っ払う方を優先するだろうから、お前の心配は西に潜む本隊だけになると言う寸法だ」
「ご名答」ザシャーリはふふと笑った。「それに、東からの追っ手さえなんとか出来れば、我々は来た道を戻り、船を手に入れられるかも知れません。それがなれば、西で待ち伏せする部隊をかわすこともできるでしょう。おそらくは、これが誰も損をしない最良の一手です」
烏は首を傾げた。イゾーテ王が、果たして国境線ごときのために、マリコをあきらめたりするだろうか。ザシャーリの策略は、おそらく真っ当な指揮官に対しては有効だろう。しかし、狂人に対してはどうか。
烏は素早くマリコに耳打ちした。少女は生真面目な顔で頷き、一度大きく息を吸い込んでから、まつ毛をぱちぱちさせながら、鼻にかかった甘え声で将軍に訴えた。「将軍様。私、怖い」
やりすぎだ――と、烏がはらはらしながら見守っていると、将軍はどんと胸を叩いて言った。「お嬢さん、心配は要らんぞ。なぜなら俺が必ず、お前さんを守るからだ」
「ありがとう、将軍様!」マリコは顎の下で両手を結び、ぱっと笑みを浮かべた。それからこっそりと烏を向いて小さく舌を出す。烏も誰にも気付かれないよう、親指を立てて応じた。
「俺のことは、カルロスおじさんと呼んでくれてもいいぞ。マリコ?」
「わかった」マリコは頷いた。「カルロスおじさん」
将軍はでれでれと鼻の下を伸ばした。
ザシャーリは小さく咳払いをして将軍の注意を引いた。「よろしいのですか、閣下?」
「どんな手柄を上げても、怯える女の子を見捨てた結果となれば、うちの王様は俺の首を刎ねてしまうだろうからな。フ国の男子は、どんな女性にも親切であらねばならんと言うのが、かねてからの陛下のお考えなのだ」
「賢明な王様ね」フツが笑みを浮かべて頷いた。
将軍は侍に向かって片目を閉じて見せてから、ザシャーリに向き直った。「行き先は西でいいんだな?」
「はい、閣下」ザシャーリは頷いた。
将軍は束の間考え込んでから口を開いた。「お前たちを守りつつ西へ進み、待ち伏せ部隊と背後にいる本隊を突破する。もたつけば、それこそ挟み撃ちを食らうから、相当な強行軍になるだろう。覚悟しておいてくれ」
一行は揃って頷いた。
「問題は」将軍はしかめっ面を作った。「俺たちの補給線や退路が完全に断たれてしまうことだ。いくら天使のような美少女のためでも、部下たちを見殺しにするわけにもいかん。何か策はないのか?」
「ご心配なく」カテリナが口を挟んだ。「私たちの目的地であるエランヴィルの村にはフ国へ抜ける道がございますから、それを退路にできますわ」
「名前は聞いたことがある」カッセン将軍は思い出すように宙を見つめて言った。「山越えの厳しい経路で、もはや奇襲に使うにしても利が薄いから、ずいぶん昔に見限られた場所だ」
「はい。人たちからすっかり忘れ去れた村だけに、独立独歩の意識が強くて、ある意味で言えば独立国のようなところなんです。じゅうぶんな戦備もありますから、閣下を追い掛けてきた兵隊を退けるくらいのことは、それほど難しくはありません。ただ……」カテリナは言葉を濁した。
「ただ?」
「村へ続く道は、細い山道しかありませんの。数千人の兵隊を移動させるとなると、どうがんばっても丸一日は掛かってしまいます。みなさんがハイキングを楽しんでいる間に敵兵が追いついて来れば、あまり愉快な状況にはならないでしょうね」
「そうそう、うまい話はないか」将軍はため息をつき、それから両手でぴしゃりと顔を叩いた。「ともかく、やるだけやってみよう。お前たちも準備を始めてくれ」彼は言って、片隅に打ち捨ててあった籠手と兜を脇に抱えてから、早足で天幕を出て行った。
「私たちも行きましょう」ザシャーリは言って立ち上がり、マリコに目を向けた。「あなたはじゅうぶんに可愛らしいのですから、余計なお芝居をしない方が、もっと効果があると思いますよ」
「そうなの?」マリコは目をぱちくりさせた。
「旦那の言う通りだ。正直、見ていて肝が冷えたぞ」烏は言って、マリコの頭をくしゃくしゃと撫でた。「しかし、上出来だった」
マリコは頭の上の烏の手に自分の手を重ね、得意げな笑みを浮かべた。それを見て、烏はふと危惧を覚えた。彼は、ちょっとまつ毛をぱちぱちさせるだけで、大抵の大人を言いなりにできるとマリコに教えてしまったのだ。彼女が調子に乗って小さな暴君となる前に、一つ釘を刺しておかなければなるまいと、烏は胸に誓うのだった。