マリコ、ゴハンを楽しむ
柔らかい大きな布を手に、烏は宿の中庭にある井戸の側らに立っていた。彼の目の前には大きなたらいが置いてあり、その中には泡だらけのマリコがいる。冷たい水は嫌だとだだをこねていた彼女だが、今は両手にたっぷり石けんを付けたテレンシャに、執拗と言えるほど胸をなで回され、きゃっきゃと笑い声を上げている。
「テレンシャ、おっぱいばっかり洗いすぎ」
「でも、気持ちいいでしょう?」テレンシャは、なにやら邪な笑みを浮かべて言う。彼女がいかがわしい意味でたずねていることは明白だった。
「うん」マリコは認め、次いで余計なことを言い出した。「烏に触られた時も気持ちよかったよ」
テレンシャが素早く烏に目を向けて来た。「へえ?」
「単なる事故だよ。お前と違って、そっちに用はなかったんだ」烏は肩をすくめて言ってから、彼女にたずねるべきことを思い出した。「あの寝間着はどこへやった。上等な絹の?」
「どこかで売り払おうと思ったけど、こんなことになったわけだし、マリコの荷物に戻しておいたわ」テレンシャはマリコを洗う手を休めず言った。「あれ、欲しかったの?」
「あのね、烏はパンツとかが好きなんだって」と、マリコ。
「そうなの?」テレンシャは素っ頓狂な声を上げた。
「うん。ザシャーリが言ってた」
「興味があるのは、あれの値段だけだ」烏は急いで言った。「俺の見立てが正しければ、たぶん半年は遊んで暮らせるだけの金になるぞ」
「そんなにお高いものなの?」マリコは目を丸くしてたずねた。
烏は頷いた。
「そうだ」何かを思い付いた様子で、マリコは手を鳴らした。「お宿の人にあげたら、お湯使い放題にならないかな?」
「それどころか、このお宿を丸ごと譲ってもらえるかも知れないわよ」と、テレンシャ。「まあでも、今からお湯を沸かしてたんじゃ夜になっちゃうわ。今回はあきらめて」
マリコは不満げに唇を尖らせながらも頷いた。
「いい子ね」テレンシャは言うと、彼女の頭から冷たい井戸水を容赦なく浴びせ、全身の泡を洗い流した。水をしたたらせるマリコは、かちかち歯を鳴らしながら烏の側へ行き、烏は持っていた布で幼い少女を頭からすっぽり包んで、ごしごし拭いて水気を取ってやった。
「もう、くさくない?」布の間から顔を出したマリコが真剣な顔でたずねた。
「そうだな」烏は少女の頭に顔を近付け、においを嗅いだ。「いい匂いだ」
「よかった」マリコはにんまり笑った。
「さっさと中へ入ろう。日が落ちて冷えて来た」烏は言ってマリコに布を巻き付け、彼女の手を取って宿の建物に入った。
扉の先は食堂だった。カウンター席と、五、六台のテーブル席があり、そのうちの一台にカテリナたち仲間の姿があった。他の席は空っぽだが、今は日暮れ時だから、間もなく酒と食事を求める客でいっぱいになるだろう。
「冷えただろう?」
カウンターの向こうから、宿の主人がマリコに言った。強面で筋骨隆々の中年男だが、マリコを見つめる細い目は、ひどく優しげだった。
「部屋へ戻る前に、こいつを飲んで行け」そう言って主人は、湯気を立てるカップをカウンターへ置いた。烏がマリコを抱え、椅子へ座らせている間に、後からついて来たテレンシャが、それを覗き込んでつぶやく。「ミルク?」
主人はうなずいた。「知り合いに頼んで、さっき搾って来てもらったんだ。蜂蜜も入ってるぞ」
それを聞いて、マリコは早速カップに口を付けた。しかし、思いの外に熱かったのか、びくりと身じろぎして、カップをためつすがめつしてから念入りに息を吹きかけ始めた。じゅうぶん冷めたところで彼女は再び、恐る恐るカップの縁に口を付けた。
「おいしい」マリコは満面の笑みで言った。「ありがとう、おじさん」
「お代は負けてくれるんだろうな?」烏はにやりと笑って主人に言った。もちろん、わざわざ聞くまでもなかった。宿の主人は、最初にマリコを見た時から、多分に漏れずすっかり彼女の虜になっていたからだ。
「せせこましいことを言うんじゃねえよ。可愛い女の子への親切で、金なんかとるもんか」主人は渋い顔をして言った。
「あたしは?」テレンシャがずうずうしくたずねた。主人はにやりと笑い、カウンターの下から同じカップを出してテレンシャの前に置いた。
「大好き」テレンシャは主人の襟元を掴んで彼を引き寄せると、音を立てて頬にキスをくれてから、椅子に座って甘いミルクを楽しんだ。
「お前さんは有料だ」主人は烏に言って、頼んでもいないのに、やはりホットミルクをカウンターに置く。烏は苦笑を浮かべてマリコの隣りに座り、主人に言われた額を素直に支払ってから、カップを手に仲間たちがいるテーブルの方へ向いた。
先ほど宿の前で会った騎士と禿頭の料理人がテーブルの片側に並んで座り、向かい合って座るザシャーリやフツと談笑していた。四人の手元には陶器のジョッキがあって、どうやら彼らは、烏たちがマリコを洗っている間に、酒を酌み交わす程度には親しくなったようだ。
もう一人、テーブルの端に座るカテリナと、角を挟んで何やら話し込む男がいた。彼はカテリナの友人で、名をジルと言う。都会風の小洒落た服装をした若者で、平たい縁無しの帽子を、小粋に傾げて被っている。銀行やら仲買やらを手広くやっている商人とのことで、マリコの救出計画において、逃亡の資金を工面するために、カテリナがこの宿へあらかじめ呼びつけていたらしい。
「なんだって?」不意に、ジルが素っ頓狂な声を上げた。彼はあ然とした顔でしばらくカテリナを見つめた後、食堂中に響き渡るような声で続けた。「王様を暗殺し損ねて、逃げて来た?」
烏は思わず口の中のものを吹き出しそうになった。懸命にこらえてミルクを飲み下すが、その拍子に激しくむせ返る。彼は咳き込みながら、ポケットから硬貨を一枚取り出してカウンターへ叩き付けるように置いた。金貨だった。主人は目を丸くしてから、それを引っ掴み、「閉店」と書かれたぶら下げ看板を手にして、宿の玄関口へと向かった。ところが、彼が扉の前に立つなりそれは開かれ、労働者風の男が入ってきた。
「悪いな、ビル。今日は店じまいなんだ」主人は看板を掲げて男に見せた。
「おいおい、日が暮れたばっかりだぜ?」彼はテーブルに着く一行をちらりと見た。「それに、他の客だっている」
「わかってるさ」主人はため息をついた。「けどな、彼らにビールを出したあと、うっかり樽の蓋を閉め忘れちまって、そこへネズミが飛び込みやがったんだ。こうなりゃあ、もう客には出せねえし、俺も新しい樽を仕入れに行かなきゃならねえから、今夜は早々に店じまいするしかねえってわけさ」
「お前さんが、そんな正直者だとは思わなかったな」ビルはにやりと笑った。「黙ってりゃネズミ味のビールで、みんなご機嫌だったかも知れねえんだぜ?」
「親切な誰かが、俺に一杯勧めてきたらどうする」主人は渋い顔をした。「俺がタダ酒を断れないことくらい、みんな知ってるから、遠慮しますなんて言おうものなら何かあると勘ぐられるだろう?」
「ちげえねえや」そう言ってビルはげらげら笑うと、短く暇を告げて立ち去った。
主人は外に看板を掛け、閂錠で戸締りをしてから、烏の側へ戻って言った。「二階の泊まり客にも、食堂が使えないことを伝えて来る。ついでに、出入りは他の戸口を使うように言っておこう」
「助かる」どうにか落ち着いた烏は、それだけ言って大きく息を吐いた。
「なあに、一晩の売り上げに釣りが出るほどもらったんだ。それくらいのサービスはするさ」主人はにやりと笑みを残して二階へ上がって行った。
烏はテーブルの方へ目を向けた。「さあ、これで後ろめたいことも大声で話せるぞ」
「すまなったね」ジルは申し訳なさそうに謝り、次いでカテリナに目を向けた。「けど、カテリナ。それだと君は王都での仕事は受けられないってことになるだろ。いくら友人でも、返済のあてもない人間に金は貸せないよ」
「あなたに預けたお金があるでしょ。それを担保にできない?」と、カテリナ。
しかし、ジルは首を振った。「それでも、君が借り入れようとしてる金額の半分にもならない」
「あら」カテリナは目をぱちくりさせた。「そんなに減ってた?」
「明細が欲しいなら出すよ」ジルは苦笑を浮かべた。「けど自分の資産なら、もっとしっかり管理した方がいいんじゃないかね?」
「姉さまは、ちょっとどんぶり勘定なところがあるから」テレンシャが口を挟んで、ふふと笑った。
「ほっといてよ」カテリナは鼻を鳴らして言ってから、ふとため息を落とした。「でも、困ったわね。この先はまだ二週間ほどかかるし、この大所帯だとまったく旅費が足りないわ」
「各々で出し合えば、いくらか足しになるだろう」禿頭の料理人が言った。確か、マリコは彼をワンと呼んでいた。彼は隣に座るハンサムな騎士を親指で指した。「ダヴィードの分は俺が持つ。彼は旅支度をする暇もなかったから、路銀も大して持っていないようなんだ」
「かたじけない」騎士は頭を下げた。
「よくそれでマリコを追い掛けようなんて思ったな?」烏はあきれて言った。
ダヴィードは渋い顔でうなずいた。「いささか、冷静さを欠いていたようだ」
「ねえ、烏」マリコが烏の袖を引いた。烏が目を向けると、少女は首を傾げながらたずねてきた。「担保ってなに?」
「金を借りる時に、交換で渡す価値のある品物だ。借りた金を返せば、それも返してもらえるが、約束を破れば取り上げられる」
マリコは束の間考え、不意に椅子を飛び降りるなり、二階へと駆け上がった。しばらく経って戻ってきた少女は、例の寝間着を手にしていた。彼女は真っ直ぐにジルの元へ駆け寄り、彼に寝間着を差し出し言った。「担保」
きょとんとするジルは寝間着を受け取り、それを広げるなり目を丸くした。「これは、君のものかい?」
マリコはうなずいてから、心配そうにたずねた。「足りる?」
「足りるどころか、こっちが保証金を払わなきゃいけないだろうね」ジルは渋い顔をした。
「いいの?」カテリナは申し訳なさそうに、少女にたずねた。マリコはこくりと頷いた。
ジルは、しばらくマリコを見つめてから、口を開いた。「いくら親しい人のためでもね、これほど価値のあるものをほいほい差し出すのは感心しないよ?」
「でもカテリナは、私とザシャーリを王様から逃がそうとしてくれてるの。それなら、これは自分のためだわ」マリコは言い張った。
ジルは目をぱちくりさせてから、カテリナに目を向けた。
「その子の言う通りよ」カテリナはうなずいて言った。「マリコは半年も窓の無い部屋に閉じ込められて、陛下の着せ替え人形にされてたの。王妃様とザシャーリは、そんな彼女を陛下から解放しようと、私にそれを依頼して来たってわけ。ただ二人とも、それぞれ違う手段を選んだんだけど」
ジルは首を傾げた。
「ザシャーリはマリコの誘拐、王妃様は陛下の暗殺」
「なるほど」ジルは、得心した様子で頷いた。「妃殿下の計画が失敗し、今はザシャーリさんの計画に乗っかってるわけだね」
「そう言うこと」カテリナはうなずいた。「もちろん、大人だけの旅なら野宿でもなんでもして節約できるんだけど、それだと野盗や魔物や獣なんかに襲われる心配があるし、小さな子供をそんな危険にさらすわけには行かないでしょ?」
「あら」フツが言った。「それなら私たち男性陣だけ、余所にしてもいいんじゃない。二週間程度の野宿で音を上げるような人なんて、ここにはいないでしょ?」
「俺はそれでも構わないぞ。食材探しに、何日も森の中を歩き回ったこともあるが、別に苦にはならなかったしな」と、ワン。
「我々兵士は新兵の頃に、敵地での隠密行動を想定した訓練を必ず受けるのだ」ダヴィードが言った。「人の手が入っていない山の中に放り込まれ、補給も無しにそこで一ヶ月ほど過ごす。食べられるものならヘビでもネズミでも捕らえて食べ、渇けば泥水もすすった。それに比べれば、街道沿いの旅はずいぶんと楽なものだろう」
「私もダヴィード卿と同じ訓練を受けています」ザシャーリは頷いて言った。
「あんた、軍師だろ?」ワンがいぶかしげにたずねた。「てっきり、天幕の中で地図とにらめっこするのが仕事だと思ってたんだが、普通の兵隊と同じこともやるのか」
「常在戦場の陛下が始終一緒だと、机仕事だけにかまけてはいられませんからね」ザシャーリは、ふふと笑った。
「ちょっと待って」カテリナは盛り上がる男たちを止めた。「あなたたちには出来る限り、マリコの近くにいて欲しいの。もし王様の追っ手に襲われたら、あたしや烏やテレンシャだけで、手に負えないことだってあるかも知れないもの」
烏はうなずいた。実際、彼とテレンシャは、イゾーテ王にまるで歯が立たなかった。もちろん、あのような怪物がそうそういるとは思えないが、それに近しい力量の持ち主や、あるいは数の上で勝る兵が襲って来るとすれば、もっと武技に長けた人たちの助力が必要になることは目に見えている。そして、ザシャーリとフツはいずれも剣のみならず、用兵にも通じているし、王国の兵士だったダヴィードもきっと同様だろう。ワンも、背後にいた烏の気配を読んだ手並みや身のこなしを見れば、ただの料理人でないことは明らかだ。
「もちろん、移動中はそうするつもりよ。それともまさか、街中で襲われるかも知れないってこと?」フツは言って、眉をひそめた。
「いえ、あり得る話です」ザシャーリが言った。「あるいは陛下なら、街を丸ごと包囲するかも知れません」
カテリナは頷いた。「その時になって、あなたたちが側にいないと、ひどく困ったことになるの。だから、別行動はなしよ」
「それなら、一つ提案があるんだけど」ジルが言った。「君たちの旅に、私も同行すると言うのはどうかな? 私なら先々で掛かる宿代や食費や要り物の代金を、大抵はツケ払いで済ますことが出来るから、わざわざ現金を用立てる必要も無い。旅が終わったところで一切合切を清算し、その時点で支払いが難しいようなら借り入れと言う形にして、マリコちゃんの絹を改めて担保に預からせてもらう」
烏は束の間考え、ひとつ頷いた。悪い話ではないようだ。「ついでに、あんたは系列の店で多少の利益を上げられるんだから、一石二鳥と言うわけか」
「そりゃあ、確かにそうだけど」ジルは認め、次いでマリコに笑みを向けた。「この可愛らしい素敵な女の子と一緒にいられること以上に、大きな利益は無いんじゃないかね?」
可愛いと言われたマリコは、にへらと顔を緩めた。烏は、こっそりため息をついた。ひょっとすると彼もまた、他の仲間と同様、マリコのために身を持ち崩すことになるのではないか。
「あたしは、それで構わないわ。もちろん、最初にお願いした借入額を、下回るようにしてくれるなら、だけど?」と、カテリナ。
「もちろん、そこは私の腕の見せ所さ」ジルは請け合った。彼は他の仲間たちを見回すが、異論は出なかった。
「マリコはどう思う?」カテリナは少女にたずねた。
「私?」マリコはきょとんとして聞き返した。
「だって、あなたの宝物を担保にするんだもの。あなたが彼や、彼の話を気に入らないって思うなら、断っても構わないわ」
マリコは首を振った。「私、ジルは好きよ」
「嬉しいこと言ってくれるね」ジルは笑顔で右手を差し出した。「これからよろしく、マリコちゃん」
誰もがぎょっとして、それを止めようと口を開きかけるが、手遅れだった。マリコが触れた途端、ジルは笑顔を消し、まるで焼けた火搔き棒に触れでもしたかのように、差し出した手を引っ込めた。
マリコはきょとんとしてジルを見つめた。「どうしたの?」
「いやあ」ジルは苦笑を浮かべた。「この間、馬から落っこちて地面にぶつけた肩が、急に痛んだもんでね。もう一週間も経つって言うのに、どうにもしつこい傷で困ったもんだよ」
「大丈夫?」マリコは心配そうにたずねた。
「そうだねえ」ジルは束の間考えてから、口を開いた。「ちょっと右肩をさすってくれると嬉しいんだけど?」
マリコは頷き、ジルの肩を真剣な顔でさすった。ジルは笑顔でされるがままになり、しばらく経ってから言った。「やあ、ありがとう。ずいぶん楽になったよ」
マリコは笑顔で頷いた。烏は彼女の側に歩み寄り、肩を叩いて言った。「いい加減、服を着た方がいいんじゃないか。いくら屋根の下でも、布切れ一枚じゃ寒いだろ?」
マリコは思い出したようにくしゃみをした。烏は苦笑し、テレンシャに目を向けた。「頼む」
「ええ、わかったわ」テレンシャは椅子を降り、頷いて手を差し出した。「行こう、マリコ?」
マリコは赤毛の少女に歩み寄り、手を取って二人で二階へと上がった。二人の少女が姿を消すと、ジルは途端にテーブルへ突っ伏した。
「あんた、なかなか根性あるな?」ワンが笑って言った。
「今のは、何だい?」ジルは顔を歪めてたずねた。
「どうやら彼女には、触れた者にひどい自己嫌悪を与える魔法が掛かってるようなんだ」ワンが答え、顎をしゃくって烏を指した。「この坊主と、赤毛のお嬢さんは例外みたいだがな」
「いや」烏は首を振った。「テレンシャも、あんたらと同じだ。あいつは、それを感じても平気だって言ってたけどな」
「君は、なんで平然としていられるんだい?」ジルは眉間に皺を寄せて尋ねた。
「俺は何も感じないんだ。たぶん、人によって程度があるんだろう」烏は言って、ふとザシャーリに目を向けた。「早めに適当な魔法使いを捕まえて、調べてもらった方がいいんじゃないか? 今は本人もよくわかってないようだが、誰も自分に触れたがらない理由に気付いたら、あいつもいい気分にはならないだろう。解けるものなら、さっさとその魔法を解いてしまった方がいい」
「調べることには賛成ですが、私は彼女の魔法が悪いことばかりではないと考えているんです。あの陛下が半年間、眺めるだけで彼女に手出しをしなかったのは、ひとえにその魔法のおかげでしょうからね」と、ザシャーリ。
「俺も軍師の旦那と同じ意見だ」ワンが言った。「マリコのような女の子を見て、邪な考えを持つ輩は陛下に限らんからな」
「もちろん、私の目が届く限り、彼女にそのような輩を近付けるつもりもない」ダヴィードはきっぱりと言った。「それでも、マリコ様に自身を守る力があることは、決して悪いことではないだろう」
烏の目には、ごく当たり前の娘にしか映らないマリコだが、周囲はそうとらえていない。と、なれば、彼らの考えも杞憂ではないのだろう。もっとも烏は、仲間たちの考えに賛成しかねるところがあった。
「なあ、あいつは子供なんだぞ。エランヴィルへ行って生活が落ち着いたら、遊び友だちだってできるかも知れない。その時になって、手の一つも繋げないんじゃ可哀想じゃないか?」
烏が持ち上げた問題を聞いて、魔法肯定派の三人は難しい顔で黙りこくってしまった。もちろんザシャーリは笑顔だが、その眉間には皺が刻まれていた。
「それに」烏は続けた。「マリコがもう少し大きくなって、好きな男の子でも出来てみろ。キスした途端、相手がうめきだしたら、相当傷付くぞ?」
「その心配はない」ダヴィードが断言した。
「えらく自信満々だな」烏はいぶかしく思い、片方の眉を吊り上げた。「何か根拠はあるのか?」
「ある。しかし、貴殿に教えるつもりはない」
「なんだそりゃ?」
フツが笑い出した。「大人げないわね」
ダヴィードは肩をすくめた。
「まあ、でも、私は烏に賛成よ」フツは言った。「マリコは本当に綺麗で可愛らしいから、そう言った連中の気を引くのは間違いないでしょうし、私も娘がいるから、みんなが心配になるのもわかるわ。けど、親しい人たちと抱き合ったり触れ合ったりするのって、とても大切な事だと思うの」
「新参者に投票権があるのかは知れないけど、私も賛成に乗っかろうかな」と、ジル。「考えてもごらんよ。もしマリコちゃんと手を繋いで買い物が出来たら最高じゃないか。そうして私は、彼女にねだられたものを、片っ端から買ってあげるんだ」
ワンは束の間考え、自分の頭をつるりと撫でてから口を開いた。「そう言えば、マリコは俺の頭をやたらと触りたがっててな。常々、その望みを叶えてやりたいと思ってたんだ」
「寝返りですか?」と、ザシャーリ。
「悪いな」ワンはにやりと笑った。
ザシャーリはダヴィードに目を向けた。
「マリコ様の手にキスをくれて、私の敬意を伝えられれば良いのに、と考えなかったわけではない」ダヴィードはすまして言った。
「そして汝もか、ダヴィード」ザシャーリは呟き、両手を上げた。「まあ、かく言う私も、彼女に勉強を教えていて難しい問題を解けた時は、頭を撫でてやりたいと何度も思ってましたからね」
「議長としては採決する場面だけど、満場一致みたいだから、そのままで構わないわね」カテリナがくすりと笑って言った。「でも、魔法使い探しはエランヴィルに着いてからにしましょう。ひとまずの追っ手はダヴィードとワンがやっつけてくれたそうだけど、マリコはあの容姿だから追い掛けるのはきっと簡単なはずよ。そこらの人に『うっとりするくらい奇麗な女の子を見なかったか?』ってたずねるだけでいいんだもの。陛下が次の追っ手を送り出す前に、できるだけ距離を稼いでおきたいわ。それと」カテリナは一旦、言葉を切って一同を見回した。「まずは腹ごしらえよ。そろそろ夕食の時間だわ」
烏はうなずいた。「マリコとテレンシャを呼んでくる。それと主人に言って、何か作ってもらおう」
「彼の手を煩わせることもない」ワンが立ち上がって言った。「ちょいと厨房を覗いて、俺に何が出来るか調べてみよう」
「そんな、勝手なことをしていいのかね?」ジルが眉をひそめて言った。
「俺が大枚はたいて借り上げたんだから、構わないだろう」カラスは肩をすくめて言ってから、二階へと足を向けた。
階段を昇り、テレンシャの部屋の前に立つと、中から話し声が聞こえてきた。
「無理よ。穴よりおじさんのが太いんだから、入るわけないじゃない」テレンシャの声が言った。
「なあに。こう言うのは思い切りよくやれば、どうにかなるもんさ」と、宿の主人。
「あ、だめ」マリコ。「乱暴にしたら壊れちゃう!」
烏は扉をノックした。
「どうぞ」テレンシャが応じる。
扉を開けると、テレンシャと向かい合ってベッドに座る宿の主人が、両手の指先に輪になった紐をぶら下げて苦笑いを浮かべていた。「失敗だ」
「だから言ったのに」ごく普通の街娘の格好をしたマリコが、頬を膨らませる。
「何をやってるんだ?」烏はたずねた。
「二人に、あやとりを教えてたの」マリコが答えた。
「俺もテレンシャの嬢ちゃんも、やったことがなくてな。ガキの頃に、女の子たちがやってるのは見たことあるんだが、なかなか難しいもんだ」主人は小さく首を振ってから、マリコに紐を返した。「晩飯の催促か?」
「いや」烏は首を振った。「仲間に料理人がいて、勝手に厨房を借りてるんだ。構わないか?」
「おいおい」主人は慌てて立ち上がった。「宮廷で働いてたって人だろ? こりゃあ、手並みを見せてもらわにゃならん」
ばたばたと部屋を飛び出して行く主人の背を見送って、烏はテレンシャに肩をすくめてみせた。「勉強熱心なおっさんだな?」
「あやとりも、料理もね」テレンシャはベッドを降りると、一人であやとりをしていたマリコに手を差し出した。マリコはあやとりを止めて彼女の手を取り、烏に目を向ける。烏も反対側の手を取り、三人は部屋を出た。
降る階段の手前で、テレンシャと一緒になってマリコの身体を宙へ引っ張り上げると、マリコは期待に目を輝かせて階下を見おろした。烏はテレンシャに目を向け、赤毛の少女はにっと笑い返す。二人は息を合わせ、階段を駆け降りた。
「楽しかった」マリコは一階の床に、両足をそろえて着地するなり言った。仲間たちが笑顔でこちらを見つめていた。
烏は近くのテーブルから椅子を三脚拝借し、仲間たちが着くテーブルに置いて自分たちの席を確保してから一つにマリコを座らせ、自分も席に着いた。間もなく厨房からワンと宿の主人が姿を現し、テーブルの上に次々と料理を並べる。
「とりあえず始めてくれ」と、ワン。「まだ、どんどん持ってくるからな」
烏はさっそく手を伸ばし、せっせとマリコに料理を取り分けた。マリコはローストされたウズラのもも肉にかぶりつき、しばらくもぐもぐやってから烏に目を向けた。「おいしい」
「よかったな」
「うん」マリコはテーブルに着く仲間たちをぐるりと見渡した。彼らは思い思いに酒と料理と会話を楽しんでいる。その様子を見て、マリコはぽつりと言った。「にぎやかだね」
「そうだな」烏はうなずき、自分も料理に口を付けた。なるほど、確かに美味だ。さすが宮廷料理人と言うところか。そして、彼はふと気付く。「王宮でも、ワンの料理を食べてたんだろう?」
マリコはうなずいた。「でも、こっちの方が美味しい」
食材の質から言えば、王宮の料理の方がはるかに上等のはずだが、と首を捻ってから、その理由に思い当る。「ひょっとして、こんな風にみんなで食べたことはなかったのか?」
「小さい頃は、お父さんやお母さんや、ハルはまだミルクだったから別だけど、みんなでゴハン食べてたよ。でも、こっちに来てからはずっと一人だった」
「そうか」
「うん」
わずかに沈黙を置いて、烏は言った。「おしゃべりしながら食べると、うまいよな?」
「うん」マリコな満面の笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「マリコ、これ」テレンシャが大きなソーセージをマリコの前に突き出した。きょとんとするマリコがそれを咥えると、赤毛の少女はいやらしい笑みを浮かべた。きっとまた、何やら卑猥なことを考えているに違いない。烏は苦笑いを浮かべ、自分の取り分をやっつけに掛かった。