フツ、マリコを守ると誓う
王が残した兜を拾い上げ、烏はその重さにたじろいだ。では、甲冑全ての重さは、一体どれほどであろうか。それらをまとって軽々と六フィートあまりを跳躍し、馬の背に跨って見せた王が、いかに人間離れしているかを、彼は改めて思い知らされた。
「烏さん」ザシャーリが馬上から呼び掛けた。「そろそろ行きましょう」
「ああ、わかった」烏は兜を小脇に抱えて、ザシャーリの馬に歩み寄った。彼の鞍の前には、テレンシャが腰を落ち着けている。彼女が言うには、がんばったザシャーリへの「ご褒美」らしい。もちろん、ザシャーリもまんざらでもない顔をしている――ように見える。始終、にこにこと笑みを浮かべている彼は、どうにも表情が読みにくい。
「それ、どうするの?」テレンシャが兜を見てたずねた。
「どこかで売っ払う」烏は兜をテレンシャに差し出した。「持っててくれ」
兜を受け取ったテレンシャは、重さに負けて鞍上でよろめき、ザシャーリがその身体を慌てて支えた。
「びっくりした」テレンシャは、ほっとため息をついた。「これ、いくらくらいするの?」
「たぶん、そこそこの値がつきますよ」と、ザシャーリ。「陛下はあの鎧のために、相当な金貨をつぎ込みましたからね」
「お気に入りの姫さまと自慢の兜を盗まれて、王様も今頃は口惜しがっているだろうな」烏はほくそ笑み、その姫に目を向けた。マリコはカテリナの前の鞍に収まり、馬首を並べて立つフツと、異国の言葉で談笑している。彼女によればフツはサムライと言う戦士で、奇妙な髪形はチョンマゲ、腰に差した二本の剣はカタナとそれぞれ呼ぶらしい。ザシャーリもサムライの存在は知っていたが、イ国とヤ国には正式な国交はなく、実際に目にするのは初めてだと言う。
マリコはさらに、サムライは鉄の塊すら真っ二つにできるとも言ったが、「さすがにそれは無理よ」とサムライ本人は笑いながら否定した。ともあれ、彼が同行を申し出てくれたのは、非常にありがたかった。王はフツの腕を恐れ、一合も剣を交えず撤退を選んだ。もし彼が気を変えて再び戻って来たとしても、フツがいれば撃退も可能だろう。
三人に出発だと呼び掛けようとして、烏はマリコの様子がおかしいことに気付いた。故国の言葉で会話できることが嬉しいのか、彼女はずいぶんと楽しげな様子だったが、時折あくびをし、何度も目をこすっている。昨夜は、ほとんど寝る間もなかったから、おそらく今になって眠気が来たのだろう。
「マリコ」烏はカテリナの馬に駆け寄り、言った。「鞍で寝ると落っこちるぞ」
「あたしが、ちゃんと押さえておくから大丈夫よ?」と、カテリナ。しかし、少女は烏に向かって両手を伸ばし、言った。「おんぶ」
「そっちの方がいいみたいね」カテリナは苦笑した。
烏はマリコを鞍からおろし、背に負った。マリコはたちまち寝息を立てはじめた。フツは、それを馬上から微笑ましげに眺めていた。彼の馬の元の主は、王に殴られて気を失っており、今は縄で木の幹に括りつけてある。
「どうかしたか?」烏はフツの視線に気付いてたずねた。
「なんでもないわ」フツは微笑みながら首を振った。「でも、それだと馬に乗れないでしょ。道へ戻る途中で、あなたの馬を調達するって言ってなかった?」
ザシャーリが殺した兵士の馬が、少し離れた場所に何頭かたむろしていた。烏の乗馬は、それをあてにしていたのだが、マリコを背負っていたのでは手綱を使えない。もちろん軍馬なので、騎手が馬上で武器を振るうために、手綱なしでも操れるよう訓練されているのだろうが、あいにくと烏の方がそれを受けていなかった。
「まあ、歩きでも平気だろう」烏は肩をすくめた。マリコがむにゃむにゃと寝言をつぶやいた。
「そうもいかないわよ」フツは馬を降り、カタナを鞘ごと引き抜くと、それを地面に置いて、腰に巻いた布のベルトを外し始めた。それは驚くほど長く、フツの身の丈の倍にも余る。「後ろを向いててくれる?」
烏が言われた通り背中を向けると、フツは手際よくマリコの身体を烏に括りつけた。「本当は、赤ん坊を背負う時にするものなんだけど、これなら両手が空くから便利よ」
「ありがとう」カラスが言って振り向くと、フツは戸惑った表情で異国の言葉をつぶやいた。「面妖な」
意味を理解できなかった烏は首を傾げた。「なんだって?」
「その子に触れると、なんだか自分がひどくいけないことをしている気分になったの」フツは寝息を立てるマリコを見つめて言った。「そりゃあ、女の子の身体にべたべた触るものじゃないのは確かだけど……」
「俺は平気だが、ザシャーリは自己嫌悪で悶えるし、テレンシャも同じような気分になると言っていたな」烏はカテリナに目を向けた。
「あたしなんかが触れたら、もったいないって気分にはなったわね」カテリナは肩をすくめた。「もちろん、役得って割り切っていられる程度だけど」
烏は首を傾げる。彼の背中ですやすやと眠るマリコは、ちっぽけでどこにでもいる普通の少女だ。少なくとも烏の目にはそう映るし、それを宝石や美術品のようにありがたがるのはいかがなものか。
「どうかしましたか?」ザシャーリが馬を寄せてたずねてくる。
「マリコ様が寝ちゃったの」カテリナが答えた。
「急に走って行くから、何事かと思いました」ザシャーリは烏に目を向け、くすりと笑った。「馬は使えますか?」
烏は自分とマリコを縛る布のベルトを親指で示した。「サムライが手を打ってくれたから大丈夫だ」
ザシャーリはうなずいた。「では、先へ進みましょう」
一行は予定通り烏の馬を手に入れ、森の道へと戻って来た。それをたどりながら、烏は並んで馬を進めるカテリナに目を向けた。ひとまず危機を脱した今であれば、状況を整理する時間もある。「一体、何を考えて、王様を殺そうなんて思い付いたんですか?」
「それは、私も聞きたいですね」二人の後ろにいたザシャーリが言った。彼は馬の足を速め、烏の横にならんだ。
「そんなに、ややこしい話じゃないの」カテリナは肩をすくめた。「ただ、マリコ様に関わる依頼が王宮から三つも来て、その一番最初が陛下の暗殺だったってことよ」
烏には十分ややこしい話に思えた。
「依頼主を聞いても?」ザシャーリはたずねた。
「王妃様よ。彼女は父と古い友人だったし、あたしとも親しくしてくださってたから、この件の始末には、あたしを頼るのが一番だとお考えになったそうなの」
「あなたが王宮の事情に詳しい理由がわかりました」
「だからこそ、『呼び屋』としてのあたしの名前が、旦那さんの耳にも届いたんじゃないかしら」カテリナはにこりと微笑んだ。「父が死んでから、仕事の数はめっきり減ったけど、それでも王宮のみなさんは上得意なの」
「なるほど」ザシャーリはうなずいた。「しかし、なぜ殿下はそのようなことを?」
「あの方も旦那さんと同じようにマリコ様を不憫に思っていて、彼女を自由にするには陛下を殺す以外にないとお考えになったの。もちろん、戦と年端も行かない女の子に熱を上げる王様の代わりに、もうちょっとましな王様を玉座に座らせるつもりもあったのかも知れないけど」
「殿下はマリコを嫌っていたように記憶しているのですが?」ザシャーリは首を捻った。
「そうでもなかったみたいよ。王妃様は時々、陛下が寝入るのを見計らって、マリコ様を部屋からこっそり連れ出してたそうなの。自分の部屋でお裁縫や、たまに厨房へ行ってお菓子作りを教えるために。娘がいたらやりたいと思ってたことを全部できたって、嬉しそうにおっしゃってたわ」
「マリコは、そんなこと一言も話してくれませんでした」ザシャーリは烏の背中で寝息を立てるマリコを見て、消えない笑みを寂しげに曇らせた。
「女の子同士の秘密ってやつよ」カテリナはふふんと鼻を鳴らした。「でも、旦那さんもそれは同じでしょ?」
ザシャーリはうなずいた。「陛下に妙な勘ぐりをされないよう、私と親しくしていることを口止めしていました」
「ちょと待て」烏はザシャーリを睨んだ。「王妃様がマリコを好いていたんだとしたら、いくらあんたがそそのかしたからって、彼女を殺そうなんて思うわけがないよな」
「そうですね」
「すると、あの暗殺者は、あんたが自分で差し向けたんだな?」
「はい」ザシャーリはあっさり認めた。「もちろん、王妃殿下の依頼と言う形でですが」
しかし、少女嗜好のこの男がマリコを殺そうなどと考えるはずもなく、烏が思いつく理由は一つしかなかった。「脱出の邪魔になりそうな連中を、皆殺しにするためにか?」
「まさか」ザシャーリは肩をすくめた。「一番の目的は、王妃殿下が暗殺未遂の濡れ衣を恐れて、王宮から逃げ出すように仕向けるためです」
「王妃様がマリコ様の暗殺を企んでるなんて噂を流したのは、そのための布石ね?」と、カテリナ。「まともに取り合おうとする人は、ほとんどいなかったみたいだけど、少なくとも王妃様は、それを気に病んでいらしたわ」
ザシャーリはうなずいた。「そして、私は暗殺者の一人をわざと逃しました。彼は、自分たちがしくじったことを依頼人に報告するでしょうから、殿下は自分がはめられたのだと、すぐに察したはずです」
「まったく、間抜けな話だわ」カテリナは苦笑を浮かべた。「お互いを味方だと知らずに、相手を利用しようと考えてたなんて」
「あなたの策だと、私はどんな役回りだったのですか?」
カテリナはその質問に答えず、にやりと笑ってから口を開いた。「王妃様の依頼を片付けるには、解決しなきゃいけない問題があったの。もし陛下を宮中で殺したりしたら、犯人は身内の誰かってことになるでしょ。その嫌疑が誰に向かうにせよ、たぶん国がひっくり返るような騒ぎになるから、王妃様もそれは避けたいっておっしゃってたの。だから、あたしはなんとかして、陛下を王宮から引っ張り出す必要があった」
「王様だって、外出することもあるんじゃないですか?」烏は指摘した。
「それじゃあ、だめ」テレンシャが口を挟む。「この国の中で彼が死ねば、やっぱり犯人はこの国の誰かってことになるから。もちろん、外国から送り込まれた暗殺者の仕業に見せかけることもできるけど、それだとみんなが納得できるような証拠を残せない」
「そこで、私の出番と言うわけですね」ザシャーリが納得した様子でうなずいた。
「どう言うことだ?」烏には理解できない論法だった。
「要するに、明白な動機を持つ犯人を仕立て、陛下の死をみんなに当然だと思わせればいいんです。例えば私が、陛下を怒らせて逃げる途中、追い掛けてきた彼を返り討ちにするとか?」
カテリナはうなずいた。「あたしたちにとって、旦那さんの依頼は渡りに船だったの。あたしはすぐに王妃様と連絡を取り合って、次の日には旦那さんの依頼のことを王様に密告した」
「まさか、洗いざらい王様にぶちまけたんですか?」烏は眉をひそめた。
「そんなこと、するわけないでしょ」カテリナは笑った。「あたしが教えたのは、旦那さんから依頼を受けて、適当な『職人』を紹介したってことだけよ。もちろん陛下は、計画の委細を探れとあたしに命じて、あたしは当日まで知らんぷりを決め込んでたってわけ」
「あの王様なら、そんな話を聞いたら、即刻旦那の首を刎ねそうなもんですけどね」烏は首を傾げて言った。
「そう簡単でもないのよ」カテリナは首を振った。「旦那さんは陛下の側近中の側近だから、顔が利く貴族も多いの。首を刎ねるにしたって、ちゃんとした口実がないと、陛下は大勢の政敵を作ることになるわ。その点、マリコ様誘拐の現行犯で捕らえれば、誰も文句は言わないでしょ?」
あの怪物が、そんなことを気にするだろうかと思うところもあったが、結局のところ剣一本で脅かすことができるのは、せいぜい数人でしかないことも烏は理解していた。国を動かすほどの人たちに言うことを聞かせるには、そう言った政治の力が必要なのだろう。
「しかし、陛下はなぜ十騎たらずの手勢で私たちを追い掛けてきたのでしょう」と、ザシャーリ。「もう少し数が多ければ危ないところでした」
「どこかの軍師様が余計な事をしなければ、もっと楽だったんだけど?」カテリナはザシャーリをじろりと睨んだ。
「申し訳ありません」ザシャーリは笑顔で謝った。
「まあ、いいわ」カテリナは肩をすくめた。「陛下が、王妃様に騙されたって言ってたのを覚えてる? 彼女は、どこだかの公爵の奥さんが、外国の珍しい服を献上するつもりでいるってでまかせを、陛下に教えたの。王妃様の読み通り、陛下は自分で取りに行くと言って、わずかな護衛を連れて王宮を飛び出して行ったわ。あとは、あたしが王都の手前で待ち伏せして、戻ってきた陛下に旦那さんがとうとう事に及んだと伝え、陛下は取るものもとりあえず旦那さんを追い掛けるって手筈だった」
「陛下が、たくさんの軍勢で俺たちを取り囲む作戦を思い付くとは、考えなかったんですか?」烏はたずねた。
カテリナは首を振った。「マリコ様に関わることとなると、彼は少し冷静さを欠くようなの。少なくとも王妃様はそう考えてたし、実際その通りになったでしょ?」彼女は少し間を置いて続けた。「でも、王妃様がマリコ様を連れて逃げたなんてニュースが持ち上がったものだから、あたしたちは計画を変更するしかなかった。王妃様は陛下に捕らえられ、これが全て旦那さんの計略で、自分は陛下に無駄足を踏ませるために利用されたのだと彼に教えた。そして、今頃はどこかの納屋に連れ込まれたマリコ様は、疵物にされているに違いないと言って、ざまあみろと高笑いをして見せたの。陛下はかんかんに怒って王妃様の首を刎ね、それであたしは元の作戦通り、この森の道を陛下に教えることができた。もちろん、頭に血が上った陛下は、その場にいた兵だけを連れて王都を飛び出して行ったわ。そのあとは、みんなも知っての通りよ」
すると、何やら考え込んでいたテレンシャが口を開いた。「姉さま」
「なに?」
「ひょっとして、あたしが姉さまを見付けるのも、計算のうちだったの?」
カテリナはうなずいた。「専門家のあなたがいなくっちゃ、陛下の暗殺なんてできっこないでしょ? 色々と予定外のことが起こって厳しいタイミングだったけど、間に合ってよかったわ」
テレンシャはしかめっ面をした。「でも、しくじった」
「だから、それはあたしが陛下の力を見誤ったからよ。あなたのせいじゃないわ」カテリナは少女を慰めた。
「そんな綱渡りをするくらいなら、烏さんやテレンシャさんに、最初から計画を伝えておいてもよかったんではありませんか?」と、ザシャーリ。
「二人がどれだけ優秀だとしても、あなたが彼らの態度から、何かしら気付いてしまうかも知れないでしょ。状況によっては、あなたにも死んでもらわなきゃいけないわけだし、あたしとしては秘密がばれる可能性を、できる限り排除したかったの」
「なぜ、私を?」
「あなたが陛下に代わって、マリコ様を独り占めするためにこの依頼を持ち込んだんだとしたら、あたしは王妃様の依頼を果たすために迷わずそうしたでしょうね」
烏はうなずき、ザシャーリに目を向けて言った。「師匠が言ってたんだ」
ザシャーリはいぶかしげに、片方の眉を吊り上げた。
「盗みは手段で、目的はお宝だと言うことを忘れるなってね。それは殺しにも通じることだし、この場合のお宝はマリコの自由であって、そこに旦那の命はほとんど関わりないんだ」
「なるほど」ザシャーリは納得した様子でうなずいた。
「もちろん、俺たちはまだ、その依頼を果たしていない。王様があれで、すっかりマリコをあきらめたんなら話は別だが?」
「ありえないわね」カテリナはため息をついた。「ともかく、あたしたちがやるべきことは、彼の追っ手をかわしてゴールへたどり着くことよ」
「それは、どこにあるんですか?」ザシャーリがたずねた。
カテリナは用心深く周囲を見回してから口を開く。「あたしたちが向かってるのは、エランヴィルよ。フ国との境にある小さな村で、昔は男爵様が治めてたようだけど、今は誰の領地でもないし、地図にも乗っていないから、あなたとマリコ様が隠れ住むにはうってつけの場所だと思うわ。それに、ちょっと東へ行けばフ国へ抜けられるから、万が一追っ手が来たとしても逃げ道には困らない」
ザシャーリは、しばらく考え込んでから口を開いた。「確かに、聞いたこともない村ですね」
「人通りが少ない今のうちに、道行きを説明するわ。そうすれば途中ではぐれても、最後にはたどり着けるもの」
間もなく森が切れ、道は灌木と丈の短い草が茂る、なだらかな丘陵地帯へと出た。太陽はずいぶん高いところにあり、すでに正午近くであることがわかる。そろそろマリコを起こしてやらないと、彼女の昼夜がひっくり返ってしまいそうだが、烏は結局、そのまま寝かせておくことにした。旅は始まったばかりだし、追っ手のことも考えれば、眠れる内に寝ておく方が良い。
ザシャーリとカテリナは、いつの間にか過去に王宮で持ち上がった陰謀の数々について、話に花を咲かせていた。テレンシャは興味深げに耳を傾けているが、烏には退屈きわまりない話題だった。
どれほどつまらなく思えても、他人の話は聞き逃すなと烏の師匠は言っていた。道具と異なり、知識には持てる量に際限はなく、それは有用な道具と同じくらい仕事に役立つからだ。しかし、烏はあえてその教えを破り、馬の足を緩めて列の一番最後にいるフツに並んだ。
「あら、どうしたの?」フツはたずねた。異国の剣士は鞍の上に置いた二本の刀を左手で押さえ、右手一つで器用に手綱を操っている。
「話し相手が必要なんじゃないかと思ったんだ」烏は肩をすくめて言った。
「思いやり深いわね」フツはにこりと笑った。「でも私は、会話よりも食べ物に飢えてるところよ。あなた、何か持ってない?」
言われて烏は、自分も昨日の晩から何も食べていないことを思い出した。彼は馬を止めてから、チュニックの襟に手を突っ込み、鞘に入った短剣と麻布の袋を引っぱり出し、袋からビスケットを二つ取り出して、一つをフツに渡した。「そのまま齧るなよ。歯が折れるぞ」
フツはビスケットをしげしげと眺めてから、短い方の剣の柄でビスケットを粉々にして、その欠片を口の中へ放り込んだ。
「なんで食べ方を知ってるんだ?」烏も自分の短剣でビスケットを砕き、同じように口へ運んだ。ただし噛み砕かず、唾液でふやかしてから飲み下す。
「私の国に、これと同じものがあるの。カタヤキって言う、シノビの食べ物よ」
「シノビ?」
「こっちの言葉で言うと、密偵かしら。暗殺や諜報、破壊工作なんかを専門に扱う人たちね」
烏は束の間考え、口を開いた。「俺の両親はヤ国の人間なんだ。俺に盗みの技を教えてくれた師匠は金髪碧眼だが、両親とは友人だったらしいから、何かしら関係があるのかも知れないな。もちろん、このビスケットの作り方も師匠に教わったもんだ」
ふと、マリコが身じろぎした。すぐに彼女は烏の耳元で言った。「ずるい」
「なにがだ?」烏は言って、ビスケットの欠片を口に放り込んだ。
「二人だけで何か食べてる」
烏は苦笑し、食べ方を教えてから、ビスケットの欠片をつまんで肩越しに差し出した。ふと指先に湿った温かい感触を覚える。
「甘い!」と、マリコ。
「なかなか、いけるだろう?」
「うん。もう一個ちょうだい!」
「がっつくなよ」烏は言いながら、もう一つの欠片を差し出した。再びマリコの唇の感触を指先に覚える。雛に餌を与える親鳥の気分だ。
フツが笑い声を上げた。言葉遣いとは裏腹に、なんとも男らしい笑い方だった。彼はひとしきり笑ってから言った。「あなたたち、兄妹みたいに仲がいいわね?」
「そうか?」烏は首を傾げた。マリコと出会って、まだ半日かそこらだ。自分としては、それほど馴れ馴れしく接しているつもりはないのだが。
「烏はお兄ちゃん?」マリコが言った。
「いや、他人だろ」
「お兄ちゃんがいい」
烏はため息をついた。「好きにしろ」
「うん」と言う、マリコの声はなんとも嬉しそうだ。「私、弟しかいないからお兄ちゃんが出来て嬉しい」
「弟がいるのか?」烏は首を傾げた。あの部屋にはマリコしかいなかったはずだ。
「うん。ハルって言うんだけど、私がこっちに来るときにはもう死んでた」マリコは悲しむ風でもなく、まるでよくある出来事であるかのように言った。ザシャーリは、戦の最中にマリコを拾ったと言っていたから、おそらく彼女の弟は、戦火に巻き込まれて死んでしまったのだろう。なんと声を掛けていいのか迷っているところへ、フツが話題を変えてくれた。「ねえ。ちゃんと起きたんなら、鞍に座ったらどうかしら?」
烏はフツの手を借りながら自分とマリコを縛る布のベルトをほどき、彼女を鞍の前に置いた。フツは腰にベルトを巻き直し、そこへ二本の剣をしっかりと差し込んだ。マリコは首をひねって振り返り、烏に笑みを向ける。「お兄ちゃん」
「はいはい」烏はぞんざいに返事をしてから再び馬を進め、フツに目を向けた。「あんた、どこまで付いてくるつもりでいるんだ?」
「邪魔かしら?」フツは首を傾げた。
「いや」烏は肩をすくめた。「正体も目的も不明で、うさんくさいやつだとは思ってるけど、同行してくれるのは心強い」
「正直ね」フツは苦笑した。
「だから、急にいなくなられても困る」
「そうねえ」フツは正面を向き、景色を眺めながらのんびりと言った。「今のところ、あなたたちを放ったからして行くほどの用事もないわ」
「お侍さん、ずっと一緒にいてくれるの?」マリコは目を輝かせた。
「それも悪くないわね」フツは笑顔でうなずいてから、烏に目を向けた。「私の正体なんて、そんなに大したものじゃないわよ?」
烏は肩をすくめた。「聞いてみないことには、なんとも言えないな」
「今は、ただの素浪人よ」フツは苦笑いを浮かべた。「ちょっと前までは、ある領主の家の婿養子だったんだけど、娘を猫可愛がりする私を妻がやっかんで、彼女が父親にあることないことを吹き込んだの。おかげで私は離縁させられ、家臣としてもお払い箱になったわ。私は新しい仕官の口を探したけど、ヤ国は長らく続いていた戦が終わって、戦働きしか能のない私のような侍は、もう必要とされなくなっていたの。だから私は、まだ戦のある国を求めて海を渡り、ここへたどり着いたってわけ」
烏は、この不運な異国の剣士に同情した。「あんたは知らなかったんだろうけど」
フツは首を傾げた。
「あんたが追っ払ったあの男は、この国の王様なんだ」
「彼が?」フツは目をぱちくりさせた。「イゾーテ陛下?」
烏はうなずいた。
「すると私は、自分で仕官の口をふいにしたってこと?」フツは戸惑った様子でつぶやいた。
烏はもう一度うなずいた。
フツは大きなため息を落とした。しかし、彼はふと思い直した様子で顔を上げ、マリコに笑みを向けた。「まあ、あんなむさ苦しい親父より、こっちの可愛らしいお嬢さんについたほうが十倍ましよね」
可愛いと言われたマリコは、少し照れた様子でうつむいた。
「けど、そうだとしたら、あんたはなんだって、こんな森の中をうろついてたんだ。兵隊として雇ってもらうつもりなら、どこか砦なり駐屯地なりに近い街へ行くべきだろう?」
フツはばつの悪い顔になった。「もちろん、私もそのつもりだったわ。でも、たぶん最後に立ち寄った街で、王都までの距離を聞き誤ったのね。途中で食料が尽きて、この森で何か食べられそうなものがないか探してたら、すっかり道を見失ってしまったの。丸一日さまよって、人の声がした方へ向かってみれば、あなたたちがいたってわけ」
剣の達人でも、存外に間抜けな点もあるようだ。
「もう一つ、聞いてもいいか?」
「ええ、どうぞ」
「その言葉遣いは、どこで覚えた?」
「やっぱり、おかしいわよね」フツは笑った。「こっちへ来るまで、私はイ国の言葉をまったく話せなかったの。そんな私の面倒を見てくれた親切な宿の女将がいて、彼女の言葉を真似てるうちに、こうなってしまったってわけ」
「ニホンゴだとカッコいいのにね」マリコが口を挟む。「セッシャとか、すごくお侍さんらしいもの」
「ニホンゴ?」烏は首を傾げた。マリコも首を傾げた。どうやら、説明の仕方を考えあぐねているようだ。
「たぶん、ヤ国語って意味なんでしょうけど、私も知らない言葉よ」と、フツ。彼はふと表情を引き締めた。「それよりも、ちょっとおかしいと思わない?」
烏はすぐに察しがついた。「追っ手のことか?」
フツはうなずいた。「イゾーテ陛下があの場を退いたのは、私とザシャーリ殿を一人でいっぺんに相手したくなかったからよ。もし目的があって、あなたたちを殺そうとしてたのなら、きっと手下を引き連れて戻って来るはずだわ」
「俺もそう思う」烏はうなずいた。「王様は、マリコを独り占めにしたいと考えてるんだ。こいつは王様に捕まってから、窓のない部屋に半年も閉じ込められて、それを不憫に思ったザシャーリの旦那が、彼女の救出を俺たちに依頼したってわけさ」
「ひどい話ね」フツは眉をひそめた。
「それに、王様は夜になると、たくさんの服を持って、それを私に着ろって言うの。きれいな服は好きだけど、着替えてるところをじろじろ見るのよ?」マリコは膨れっ面をした。「私、王様きらい。なんだか、嫌なにおいがするし」
「けしからんやつめ」フツは憤慨してヤ国語で言った。「そのような外道、あの場で斬り捨てておくべきであった」
烏はマリコの肩を叩いた。「なんて言ってるんだ?」
マリコは通訳した。それを聞いて、烏は肩をすくめた。「そうしてくれれば、後腐れなくて助かったんだがな」
「ごめんなさい」フツは苦笑いを浮かべた。「でも正直なところ、彼と剣を合わせて勝てるのかって聞かれると、わからないとしか答えられないわね」
「あいつが、でたらめに強いのはわかる」烏は顔をしかめて言った。できるなら、二度と会いたくない相手だ。
「イゾーテ陛下がマリコを取り戻そうと考えてるなら、必ず追っ手を差し向けるはずよね。でも、ここまで殿を守ってたけど、そんな気配は一つもなかったわ」
烏はしばらく考え込み、口を開いた。「あんた、兵隊を扱ったことはあるか?」
フツはうなずいた。
「王様が王都で兵隊を集めるのに、どれだけ時間が掛かると思う?」
「部隊の規模にもよるけど一、二時間ってところかしら」フツは首をひねりながら答えた。
「俺たちが王様とやり合った場所から、王都までは急げば一時間だ。多く見積もっても、俺たちの利は三時間足らずだろう」
「ねえ」フツが情けない顔をした。「私は王都まで目と鼻の先に来ておいて、一日中森をさまよってたってこと?」
「そうなるな」烏は肩をすくめた。「ともかく、ちょっと足の速い連中なら、そろそろ追い付いてもよさそうな頃だ」
「そうね」フツは気を取り直して言った。「もし私がイゾーテ陛下なら、足の速い兵を斥候に送って私たちの道行きを調べさせるはずよ。その上で、マリコを奪還するための部隊を別の道で先回りさせるか、よそから連れてくる」
マリコが肩越しに、怯えた目を烏に向けた。「王様、追い掛けて来るの?」
「まあな」嘘をついても仕方がないので、烏は正直に言った。
「大丈夫よ、マリコ」フツが笑顔で言った。「私、決めたわ。あなたが安心して過ごせるようになるまで、私はあなたを王様から守ってあげる」
「フツ」マリコは笑顔を侍に向けた。「ありがとう」
「どういたしまして」フツはうなずき、決意に満ちた顔を天に向けた。「異国で名を上げて、私を捨てた人たちを見返してやろうなんて思ってたけど、そんなのどうでもいいことに思えて来たわ」
「それはそれで、大事だと思うけどな」烏は肩をすくめて言った。
フツは、烏に目を向けた。「可愛らしいお姫様の笑顔以上に、大事なものなんてある?」
烏は、侍の晴れやかな笑顔を見て、彼が目隠しをしたまま崖っぷちを歩いているような危惧を覚えた。しかし、それを言えば他の人たちもそうだ。王は妻に暗殺されそうになり、王妃は首を刎ねられ、ザシャーリは王の側近と言う立場を、カテリナは『呼び屋』の職を失った。しかし、彼らは揃って自分の身の上に起こった不運を当然のように、あるいは全く気付かずに受け入れている。そして、その発端は全て、烏と鞍を分けるちっぽけな少女だった。あるいは自分もまた、それと気付かぬまま何かしらの不運に見舞われているのだろうか。いや――と、彼は首を振った。テレンシャはどうなる? 彼女はいつもの彼女だ。もしマリコが疫病神であるなら、彼女に関わった人たちには、すべからく不運が振りかかるはずである。例外があるのなら、やはりマリコは当たり前の幼い少女なのだ。
マリコが再び肩越しに、烏を見た。「可愛いって言われた」その顔はだらしなく緩んでいた。「二回も」
「そうか、良かったな」
「烏はどう思う?」マリコは目をきらきら輝かせてたずねた。
「まあ、普通じゃないか?」
マリコは膨れっ面をして、ぷいと正面を向いた。フツが愉快そうに笑い出した。彼はひとしきり笑って言った。「ねえ、烏」
「なんだ?」
「女の子はね、三歳を過ぎると女になるの」フツはふふと笑った。「きちんと接してあげないと、痛い目見るわよ?」
烏はため息をついた。三歳云々はよく分からないが、痛い目と言うのは確かなようだ。なぜかマリコは、後頭部で烏の胸元を頭突きし始めた。