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烏、侍に救われる

 テレンシャの許しがたい裏切りに気付いたのは、森に入って間もなくのことだ。しかし烏は今、ザシャーリとマリコを王の目から隠し、二人が安穏と暮らせる土地を目指す最中にあり、もはや彼女を追い掛けるために引き返すこともできない。烏ができることは、ただ御者台の上で、ここにはいない不実な相棒に向けて、何度も悪態を吐くほかはなかった。

「烏さん」荷台に座るザシャーリが言った。「そう言う言葉遣いは控えてもらえませんか。マリコが覚えたら、どうするんですか」

 しかし、烏は聞く耳を持たなかった。マリコも、この先の長い人生の中で、きっと悪態の一つも吐きたくなることがあるだろう。その時に備えて、語彙を増やしておくのは悪いことではない。それに――

「クソッタレ、ウンコタレ」マリコは言って、けらけらと笑った。

 この通り、もはや手遅れだった。ザシャーリは、マリコに向かってくどくどと説教を始めた。その中には石鹸で口を洗うと言う脅し文句も入っていたが、年端も行かぬ少女にただならぬ愛情を寄せる嗜好の持ち主に、そのようなことができるとは思えなかった。

「そもそも」と、マリコへの説教を終えたザシャーリが、烏に目を戻す。「何をそんなに腹を立てているんですか?」

「テレンシャだ」烏は言って、悪態を一つ付け加えた。「彼女は、マリコの寝間着を盗んで行ったんだ」

 ザシャーリはしばらく烏を見つめていたが、ふと首を傾げた。「そんなに、あの寝間着が欲しかったんですか?」

「当たり前だろ」マリコの寝間着は、肌が透けるほどに薄い絹で作られていた。大陸の西の端にあるイ国では、東方のナ国やヤ国で作られる絹製品は貴重で、恐ろしく値が張るものなのだ。

「なるほど」ザシャーリは腕組みしてうなずいた。「確かに、下着などの肌に着けるものを、専らに好む方もいますからね」

「下着?」マリコはスカートの裾を持ち上げ、自分のドロワーズと烏の顔を交互に見つめた。「烏はパンツが好きなの?」

「マリコ、はしたないですよ」

 ザシャーリに叱られ、マリコは慌ててスカートの裾を元に戻した。

「ちょっと待て、俺は――」烏は誤解を解こうと口を開き掛けるが、遠鳴のような音を耳にして、それを中断した。

 ザシャーリも異変に気付いたのか、元来た道を振り返る。「追っ手ですね」

 烏はうなずいた。それは、馬蹄が地面を踏む音だった。しかも、その数は一頭や二頭ではない。行く足を急ぐため、痕跡を消さずに来たことを後悔するが、それにしても手が回るのが早すぎる。

「ザシャーリ?」マリコが不安げな表情を見せた。

「大丈夫、烏がなんとかしてくれます」ザシャーリは笑顔で言った。

 マリコは期待に満ちた目を烏に向けた。烏は彼女にうなずいて見せると、馬に掛け声をくれて足を速めさせた。しかし、ただ急ぐ以外に彼が打てる手はなかった。森を抜ける道は一本しかなく、追っ手をまくための迂廻路も無い。馬車では道を外れることも出来ず、かと言って徒歩で森へ逃げ込んだところで、身を隠すことも難しかった。ここは管理された人工の森で、下生えは刈られ、丁寧に間伐も行われているから、かなり遠くまで木々のすき間を見通すことができるのだ。

 間もなく追っ手の姿が烏たちの視界に入った。しかし、彼らは素直に道をたどってきたわけではなかった。馬影は左右の木々の間を、馬車と並ぶように疾走している。なるほど、木々の間隔が十分にあるこの森であれば、道のない場所であっても騎馬が走るに難は少ない。対して車輪のある馬車は、踏み固められた路上以外を走る事ができない。と、なれば、追っ手の狙いは一つだ。

「旦那、マリコを守れ!」烏は叫んだ。

 ザシャーリは一瞬ためらい、それでも歯を食いしばってマリコを胸にかき抱いた。直後、馬車の進路上に一騎の騎馬が飛び出した。烏は速度を緩めることなく馬を走らせ、その横っ腹に馬車を突っ込ませた。軍馬は馬車馬ともつれ合うようにひっくり返り、騎手を下敷きにした。しかし、それに乗り上げた馬車は横転し、三人は馬車から投げ出された。

 烏は着地の瞬間に地面を転がり、落下の勢いを殺してから素早く起き上がった。束の間辺りを見回し、ひっくり返った馬車から七フィートほど離れた場所に、マリコを抱えて横たわるザシャーリを見付け、すぐさま駆け寄る。見たところ、二人に大きな怪我はなかった。烏はマリコを背に負い、ザシャーリが立ち上がるのを待って走り出した。

「どきどきした」マリコが言った。

「私もです」烏の横を駆けながら、ザシャーリが言う。「よくも、あんな無茶をしてくれましたね。マリコが怪我をしたらどうするんですか」

「旦那が守ってたんだ。怪我したって、せいぜい擦り傷がいいところだろう?」

 烏は比較的、木立が密集する場所を目指して走った。避けなければならない木立が増えれば、それだけ馬の速度は落ちるはずだ。うまく行けば、追っ手をまく機会もあるだろう。

「私、小さい頃に転んで、膝をすごく擦りむいた事があるの」と、マリコ。

「泣いたか?」烏はたずねた。

 マリコは首を振った。「がまんした」

「痛い時は思いっきり泣くか、悪態を吐く方が痛みは弱くなるんだ。がまんはしない方がいい」

「知らなかった」マリコは感心した様子で言った。「じゃあ、今度怪我したら、クソッタレって言ってみるわ」

 ザシャーリが、やれやれとつぶやくのを聞きながら、烏は棒手裏剣を抜いて、やにわにそれを打った。手裏剣は弧を描いて飛び、彼らの前に回り込もうとしていた騎馬の騎手の顔面に突き刺さった。兵士はぎゃっと悲鳴を上げて落馬し、騎手を失った馬は驚いてどこかへ走り去った。

「クソッタレって言うといいよ」悶絶する兵士の脇を通り抜けるとき、マリコは親切にも助言をくれた。兵士は顔を押さえてのたうち回るばかりで、何も答えなかった。しかし、烏たちの逃走は長く続かなかった。追っ手は次々と現れ、もはや一本や二本、手裏剣を投げつけても間に合いそうにない。烏はひときわ太い木立を見付けると、それに駆け寄り幹と背中の間にマリコを置いて彼女をかばった。彼らが王の命令で烏たちを追って来たのであれば、マリコを傷つけるような事はしないだろうが、こうすれば少なくとも横合いから強引にかっさらわれる心配はない。ザシャーリも烏の意図に気付いたのか、彼と肩を接し、マリコの姿を兵士たちの目からすっかり隠した。

「全員倒すには、少々骨が折れそうですね」ザシャーリは相変わらずの笑顔で剣の柄に手を掛け、包囲する騎兵たちを細めた目で見回した。

 騎兵は重装軽装取り混ぜて、全部で七騎。一戦交えるとすれば、骨が折れるではすまないだろう。しかし、騎兵たちは槍の穂先を向けるばかりで、彼らを捕らえようとしない。その様子を烏がいぶかっていると、ほどなくどすどすと重たい音がして、包囲の輪にもう一騎の騎兵が加わった。馬も騎手も、その体躯は他の騎兵より一回り大きく、どちらも金箔や宝石でごてごてと飾り付けられた鋼をまとっている。騎兵の顔は面貌のある兜で隠され、その容貌は知れない。

「陛下」と、ザシャーリはお辞儀をした。騎兵は鼻を鳴らしただけで、ザシャーリの挨拶には応じず、代わりに鞍の前へぶら下げていたものを烏たちの足下に放り出した。烏の後ろで、マリコが小さく悲鳴を上げた。それは目を丸く見開いた、化粧の厚い女の生首だった。

 ザシャーリは小さく舌打ちし、つぶやいた。「王妃殿下」

「すべて、お前の差し金なのだろう。ザシャーリ?」騎手は持っていた槍を鐙に突っ込んでから兜を脱ぎ、にやにや笑いを浮かべる顔を見せた。金色の太い眉の下にぎょろりと大きな青い目があり、頬から角ばった顎にかけて針金のような髭が生えている。金髪を短く刈り込んでいるのは、おそらく兜をかぶる際の邪魔にならないようにするためで、彼が頻繁に戦場にいたことの証だった。

 王はさらに続けた。「マリコを殺すよう我が妻をそそのかし、暗殺騒ぎに紛れマリコを奪う。その一方で誘拐の嫌疑を彼女に押し付け、自身はゆうゆうと逃げ去る、か。なかなかに面白い仕掛けではあったが、いささか詰めが甘かったようだな」

 烏は素早くザシャーリを見た。ここまで何もかも都合良く事が運んだのは、全て彼の計略だったと言うことか。しかし、笑みを浮かべるザシャーリは烏の無言の問いに答えようとせず、王に向かってたずねた。「どうして、これほど早く我々を見付けられたのですか。私は、我々の行き先を誰かに漏らした覚えはありませんよ」ザシャーリは肩をすくめた。「そもそも私は、それを知らされていないんです」

 秘密を守る一番の方法は、秘密を知らないことだ。ザシャーリがそれと知らず、自分とマリコが身を隠す場所を漏らすような事があれば、何もかもが台無しになってしまう。だから、カテリナはあえて彼にそれを教えなかった。烏が道程を知らされたのも、王宮へ潜入する直前だ。と、なれば、答えは一つしかない。

「陛下に、この道を教えたのはあたしよ」声がして、王の側らに一頭の騎馬が並んだ。馬の背にいるのは、ゆるく波打つ蜂蜜色の髪を揺らす若い女だ。

「カテリナさん」烏はすがめた目で『呼び屋』の女を睨んだ。

「そんなに怖い顔をしないで、烏」カテリナは、ほくろのある口元に、とろりとした笑みを浮かべて言った。「実を言うと陛下は、ザシャーリ様があまりにもマリコ様と仲が良すぎるから、いずれ間違いをおかすんじゃないかって、とても心配していらしたの。だから、その前に手を打とうと、うちへご依頼くださったってわけ」

「王様の依頼なんだから、報酬も相当なものなんでしょうね?」烏は言って、小さく鼻を鳴らした。

「もちろん」カテリナは地面に転がる王妃の首にちらりと目を落とした。「それに、どうしたって陛下には、新しい王妃が必要になるんだもの。お互いに、まったく損のない取引だったわ」

 烏はあ然として、涼しい顔をするカテリナを見つめた。

「ねえ、烏。あなたは、あたしの小姓にしてあげてもいいわよ。陛下にはマリコ様がいるから妻をかまう暇なんてないでしょうし、そうなるとあたしは、ずいぶん寂しくなると思うの」

「せっかくですが、遠慮します」烏は肩をすくめ、側らのザシャーリにたずねた。「そもそも平民が、王の妻になんてなれるのか?」

「無理ですね」ザシャーリはあっさりと言った。「貴族も王族も、大抵は自分の系譜に卑しい血が紛れ込むことを嫌うものです。たとえ当事者同士が好きあっていたとしても、周囲は決してそれを許しません。まあ、妾くらいなら別ですが?」

「何を言ってるの」カテリナの目に不信の色が浮かぶ。「陛下が直々に約束してくださったのよ。うまく行けば、私を王妃にしてやるって?」彼女は王に目を向けた。王は何も答えず、それどころかカテリナに目もくれなかった。カテリナはぽかんと口を開けて、しばらく王を見つめたあと、怒りの形相になり鐙に立って王に飛び掛かった。「だましたのね!」

 王は、不実な男の顔を引っ掻こうと闇雲に手を振り回すカテリナの胸ぐらを掴み、彼女を軽々と片腕で持ち上げた。王の膂力りょりょくにカテリナはあ然として、王はそんな彼女へ馬鹿にするような視線をくれたあと、ぱっと手を開いて女が地面へ落ちるに任せた。

 カテリナはどすんと尻餅をつき、その拍子に彼女の馬は驚いて、主を置き去りに森の中へ走り去った。王は小脇に抱えていた兜を投げ捨てると、鐙から槍を引き抜き、その穂先をカテリナに向けた。烏は手中の手裏剣を、王の顔めがけて打ち放った。王は左手を素早く振り、金属の籠手で飛び来る凶器をあっさりと弾き返してから、じろりと烏をねめつけた。烏も二本目の手裏剣を構え、負けじと王を睨み返す。

 不意に王の頭上の枝が揺れ、錆色の装束をまとったテレンシャが王の馬の尻に降り立ち、ぎらりと光るナイフを彼の首筋目がけて振り降ろした。しかし、その刃が皮膚に届く寸前、王は槍を持つ手を捻り、石突で襲撃者の鳩尾をついた。テレンシャの身体は七フィートあまりも宙を飛び、地面に落下した。しかし、くるりと受け身を取って立ちあがったところを見れば、さほど痛手を受けた様子はない。おそらく自ら飛んで、槍の打突を受け流したのだろう。

 王は馬首を巡らせテレンシャに追撃をはかるが、不意に鞍がずれ、派手に地面へ落下した。ナイフを持ったカテリナが、してやったりと言う顔で烏たちの側に駆け寄ってくる。「腹帯の紐を切ってやったの」

「芝居がすぎますよ、カテリナさん」烏はため息をついた。「本気で裏切ったのかと思いました」

「そうこなくっちゃ」カテリナはにこりと笑った。「でも、カーテンコールにはまだ早いわよ?」

 カテリナの言う通り、事態は未だ動き続けていた。テレンシャは地面を蹴って、落馬した王を仕留めようと彼に襲い掛かった。しかし、すぐさま全身を鋼で覆った騎兵が間に割って入り、素早く槍を払った。テレンシャはトンボを切って、その攻撃をかわすが、胸当てと脛甲だけを着けた軽装の騎兵が二騎、低く構えた槍で彼女に突きかかる。烏は一騎をめがけて手裏剣を打ち、鋭い鉄の棒はそのうなじに突き立った。騎手は地面に転がり、操り手を失った馬は闇雲に方向を変え、もう一騎の騎馬に身体をぶつけ騎手を落馬させた。テレンシャは起き上がろうともがく、その騎手の首を切り裂いてから、短く駆けて烏たちに合流する。

「仕留め損なった」テレンシャが口惜しげにつぶやく。彼女が見つめる先では、下馬した二人の兵士が倒れた王を助け起こそうとしている。王は腕を振って彼らを払いのけ、鎧の重みを感じさせない動きで立ち上がり、腰に帯びた剣を鞘から引き抜いた。

「ごめんなさい、姉さま」テレンシャはナイフを水平に構え、敵の様子をうかがいなが謝った。

「いいえ。これは、あたしのミスよ」カテリナは眉間に皺を寄せて言った。「王様が、あんなに手強いとは思わなかった」

「反省会はあとにしましょう」と、ザシャーリ。「少しばかり数は減りましたが、状況は何も変わっていません」

 兵たちは態勢を整え、今や王の号令を待つばかりだった。敵の数は六。単純にこちらの数を上回っているだけでなく、騎馬の存在も厄介だ。うまく隙をついて逃げ出せたとしても、徒歩(かち)ではたちまち追いつかれてしまう。

「それで」と、王が言った。「私は、誰の首から刎ねればよいのだ?」

 烏の後ろで、マリコが「首?」とつぶやいた。

「お待たせして申し訳ございません、陛下」と、ザシャーリ。「生憎と、こちらでは決めかねておりまして」

「かまわんさ」王は鼻を鳴らして言った。「私とお前の仲だ。大目に見よう」

「ご厚情、痛み入ります」ザシャーリは言って、鞘から剣を引き抜いた。「では、せめて退屈しのぎに、お手向かいいたしましょうか」

 すると王は、身を震わせ大声で笑い出した。彼はひとしきり笑うと笑顔を消し、剣を構えてかつての側近を睨み付けた。「素直にマリコを渡せ。そうすれば、他の者たちは見逃してやろう。そして、お前の首を刎ねる時は斧ではなく、よく研いだ剣を使ってやる」

 不意にマリコが、烏とザシャーリを押し退けて前に飛び出した。彼女の姿を見たカテリナが「まあ」と声を上げ、その目はすっかり少女に釘付けになった。烏は、マリコが普通の少女に見える自分の目を、いよいよ本気で疑い始めた。

 マリコは両手を大きく広げ、王に向かって叫んだ。「だめ!」

「引っ込んでろ、マリコ」烏は手を伸ばして少女の肩を掴むが、マリコはその手を振り払い、もう一度言った。「だめ。ザシャーリの首を切ったりしないで」

「仕方がないのだ、マリコ」少女を見つめる王は、言い訳するように言った。「ザシャーリは、私からお前を盗んだ悪い男なのだ。悪人は首を刎ねなければならん」

「それは私がオヒサマを見たいってお願いしたからよ。それに」マリコは王妃の首をちらりと見た。「王妃様も悪人なんかじゃなかったわ。すごく優しかったもの」

「何を言う」王は眉間に皺を寄せた。「あの女は、お前を殺そうとしたのだぞ」

「王妃様が、そんなことするわけない」マリコは言い張った。「きっと、何かの間違いよ」

「お前がそう思っているのなら、そう言う事にしておこう」王は小さく首を振って、ため息を落とした。「しかし、あれは私とお前の楽しみを邪魔したのだ。首を刎ねる理由があるとすれば、それで十分だ。なんと言っても、昨夜はお前のために、ル国の踊り子の服を用意していたのだ。それなのに、あの女は私を騙して王宮を留守にさせおった。知っているか? ル国は大きな砂漠がある国で、恐ろしく暑いのだ。そのせいか、彼らの着る服はとても薄く――」

 王は異国の服の特徴について熱心に語り出した。烏はテレンシャに目を向け、言った。「ザシャーリと一緒に、やつらから馬を二頭、盗んで来てくれ。そいつに旦那とマリコとカテリナさんを乗せて、ここから逃がすんだ」

「そんなこと、出来るわけないわ」テレンシャは眉をひそめて言った。

「王様の目に付かなければ大丈夫だ」烏は、うっとりとマリコを見つめるカテリナを指差した。「他の兵隊たちは、みんな彼女と同じになってる」

 テレンシャは疑わしげに兵隊たちへ目を向けた。彼らは武器を構える事も忘れ、カテリナと同様、マリコに見とれている。テレンシャは烏に目を戻した。「どう言う事?」

「マリコの魔法だろう」烏は肩をすくめた。「お前も、王宮の地下室でああなってた」

 テレンシャは目をぱちくりさせた。「あたしが?」

 烏はうなずいた。「しかし、あれがいつ覚めるかはわからない。さっさと取り掛かってくれ」

「あんたはどうするの?」

「カテリナさんを正気に戻せるかやってみる」烏は言って、ザシャーリに目を向けた。「話は聞いてたな?」

「依頼人までこき使うなんて、ずいぶんと人使いが荒いですね」

「もっと大事にして欲しけりゃ、追加料金を払ってくれ。もちろん、失業したてのあんたじゃ、無理な相談だろうけどな?」

「世知辛いですね」ザシャーリは言って、テレンシャに目を向けた。「でも、あなたと一緒に働けるのは、それほど悪い気はしません」

「そう?」テレンシャは、ふふと笑った。「がんばったら、ご褒美にキスしてあげる」

「精一杯、勤めさせていただきます」ザシャーリはお辞儀をした。

「それじゃあ、ついてきて」

 二人はマリコに語り続ける王の目を盗み、惚けた兵隊たちの背後へと向かった。彼らの目当ては、主を烏とテレンシャに殺され、今は鞍が空っぽの馬だ。烏はカテリナの正面に立ち、彼女の肩をつかんで揺すった。「カテリナさん」

 カテリナは視界を遮る烏を押しやり、なおもマリコへ視線を注いだ。烏は舌打ちをして、今度は強い口調で呼びかけた。「カテリナ」

 カテリナは、はっと息を飲んでから、烏を見て二、三度目をしばたかせた。「なに?」

 烏が作戦を説明し、カテリナは表情を引き締めうなずいた。烏は改めて状況を見渡した。兵士たちの視線は相変わらずマリコに釘付けで、周囲には無関心な様子だった。王もまた、マリコのために用意した数々の服が、どれほど素晴らしいかを語るのに夢中だ。マリコはうんざりした表情で、肩越しにちらりと烏を見る。

「王様の話を聞いてるふりをしろ。なるべく嬉しそうに」烏が小声で言うと、マリコは王を向いて何度も相槌を打ち始めた。

 間もなく、馬を連れてテレンシャとザシャーリが戻ってくる。ただし彼らは、用心深く王の視界から外れた場所で足を止める。烏はカテリナに合図を送り、女は馬へ向かって駆け出した。烏はマリコに駆け寄ると、彼女を抱き上げてカテリナの後を追った。

「貴様、何を!」

 ぎょっとする王の声が追いかけてくるが、烏はいちいちそちらを見るようなことはしなかった。代わりにマリコが烏の腕の中で、あかんべえを王に送った。

 馬の側へたどり着くと、ザシャーリとカテリナはすでに馬上にあった。烏は腕を伸ばすカテリナにマリコを押し付けたところで、少女が他人に及ぼすもう一つの作用について思い出した。しかし、どう言うわけかカテリナは、マリコに触れても平然としている。

「殺せ」王が剣の切っ先で、こちらを指し示しながら命じた。「マリコを奪い返すのだ!」

 しかし、彼の命令を聞くものは一人もいなかった。兵士たちは、ぼんやりとマリコの姿を目で追うばかりだ。王はいらいらと歯噛みして、側らで惚ける兵士の一人を殴り倒した。兵士はマリコに見惚れるのをやめたが、代わりにすっかり気を失ってしまった。

 烏はカテリナの馬の尻を引っ叩いた。彼女の馬は走り出し、すぐにザシャーリを乗せた馬もあとを追った。烏はチュニックの襟元に手を突っ込んで、鞘に収められた短剣を取り出す。

「いつから知ってた?」烏は相棒にたずねた。

「あんたたちと別れた後で、王様の部隊のあとをついてく姉さまに会ったの。その時よ」

「なんだって彼女は、王様の暗殺なんて依頼を引き受けたんだ。しかも、誰から?」烏は、部下たちを正気付かせようと大声で喚き立てる王を見て言った。

「そんなの知らないわ」テレンシャは肩をすくめた。「でも、彼を殺すなら、もうちょっと別な方法を考えないと」

 王の叱咤に、兵士たちはどうにか正気を取り戻した。しかし、その時にはもう、カテリナたちは大きく距離を開けていた。しめしめと烏がほくそえんでいると、王は落馬した時に取り落とした自分の槍を拾い上げ、身体を大きく仰け反らせてから、それを放り投げた。槍は弧を描き、木々の枝の間を抜けて飛び、カテリナが操る馬の尻に深々と突き立った。馬は苦痛にいななき、地面に倒れてカテリナとマリコを背中から放り出した。

「畜生!」烏は悪態をついた。ザシャーリが手綱を引いて馬を止め、鞍から飛び降りてカテリナたちに駆け寄るのが見えた。

「追え!」王が命じると、たちまち騎兵が駆けだした。王の側にいた気絶していない方の兵士も自分の馬に飛び乗り、わずかに遅れて後へ続く。彼らの背を見送ってから、王は烏たちに目を向けた。「それで?」

 烏は肩をすくめ、テレンシャに目を向けた。「まあ、こうなったら、もう一つの依頼も片付けるしかないか」

 テレンシャはナイフを構えながらうなずいた。

「つまらんことは考えるな」王は剣を構え、にやりと笑って言った。「大人しくしていれば、二人そろって王宮で飼ってやっても構わんのだぞ?」

「へえ」烏は短剣の鞘を抜き放った。微かに反りのある刃が、枝のすき間を抜けた朝日を受けて、ぎらりと輝く。「ちなみに、仕事の内容をうかがっても構いませんか?」

とこで私を喜ばせるだけの簡単なものだ。お前たちは、なかなかに見目が良いからな」

 烏は顔をしかめた。「勘弁してくれ」

「あたしも遠慮しておくわ」テレンシャが言った。「こんなに大きい人のは入りそうにないもの」

 王は小さく首を振った。「どいつもこいつも、私の温情をむげにする」

 殴りつけるような殺気を受け、烏は半ば反射的に後方へ跳んだ。銀色のしみのようなものが目の前を過り、着地したところで、ようやくそれが王のふるった剣であることに気付く。王から烏がいた場所までは、二〇フィートあまりも離れていた。重い鎧を着ながら、その間合いを一気に詰めた王の脚力に烏は驚愕するが、あ然として好機を見逃すほど素人ではなかった。彼は振り降ろされた剣の柄に飛び乗って、王の喉元目がけて短剣を突き出した。仕留めたかと思った瞬間、王はあっさりと剣を手放し、それを足場にしていた烏は大きくバランスを崩した。王は短剣を持った烏の手首を引っ掴み、次いで自身の身体をぐるりと回転させてから少年を放り投げた。烏が投げ飛ばされた先には、まさに王へ襲い掛かろうとするテレンシャがいて、二人はもつれ合いながら地面を転がった。

 くらくらする頭を振りながら、烏は素早く立ち上がり、テレンシャに手を貸して彼女を引き起こした。

「でたらめだわ」テレンシャがつぶやいた。烏もまったく同意見だった。王は剣を拾い上げ、悠然と二人に向かい歩み寄ってくる。歯が立たないとは、まさにこの事だ。それでも二人はそれぞれの武器を構え、わずかでも勝機を見逃すまいと王の一挙手一投足に目を配った。

「子供相手に、ずいぶんと大人げないことをするわね」

 不意に、二人の背後から声が上がった。明らかに成人男子の声だが、口調は完ぺきに女のものだった。しかし、それよりも烏は、声の主の気配をまったく感じなかったことに驚いていた。

 振り向けば、奇妙ないでたちの男がいた。烏やテレンシャの仕事着にも似た、襟が胸元で交差する煤竹色の上着と、裾がスカートのように広がった丈の長いズボン。左の腰には反りのある鞘に収められた長短二本の剣を布のベルトに差し、真っ黒な髪は頭の上で束にしていた。見たところ、ザシャーリとさほど変わりない齢のようだが、無精ひげのせいで少しばかり老けて見える。

「あなたさえよければ、私が相手をしてあげてもいいのよ?」男は表情の無い顔で烏たちの前に進み出ると、おもむろに剣の柄へ手を置いた。

 王の目が、途端に用心深くなった。剣を正眼に構え、切っ先を真っ直ぐに乱入者へ向ける。そして、王はたずねた。「ヤ国の剣士が、このようなところで何をしている?」

「旅の途中なの」名も知れぬ男は短く答え、剣を抜いてやはり正眼に構えた。

()()はあるのか?」

「いいえ」

「ならば、私に仕えよ。その腕、斬って捨てるには惜しい」

「遠慮するわ」ヤ国の剣士は、あっさり断った。「あなたが誰かは知らないけど、子供に剣を向けるような男の元で働く気はさらさらないの」

 蹄の音が響いた。見ればザシャーリとカテリナが、こちらへ向けて馬を駆って来る。ザシャーリは血まみれで、ひどい格好をしているが、自身に大きな怪我を負った様子はなかった。どうやら、一人で追っ手を全て始末したようだ。

「旦那さん、がんばったみたいね」と、テレンシャ。

「俺からもキスを送りたい気分だよ」烏はため息を漏らして言った。

「案外、喜んだりして」

 烏はコメントを控えた。

 王は舌打ちすると、剣を構えたままじりじりと自身の騎馬に歩み寄り、鞍も鐙も使わずその背に飛び乗った。烏は軽業師のような王の跳躍を見て、実は彼の鎧は見かけよりもずっと軽いのではないかと疑い始めた。そして王は馬の腹を蹴り、あっさりと背を見せ逃げ去った。

「助かったよ」烏は剣士に礼を言った。

「気にしないで」ヤ国の剣士は剣を鞘に収め、ふと笑みを浮かべテレンシャに顔を向けた。「可愛らしいお嬢さんを助けるのは、男の義務でしょう?」

 烏はすぐに察した。おそらく彼は、ザシャーリと同類だ。

「お侍さんだ!」カテリナの鞍の前から、マリコが無邪気に言った。

 オサムライサン? 烏は首を傾げた。またもや、聞き覚えのない単語だ。もちろん、オサムライサンと呼ばれた男はマリコを目にした途端、うっとりと彼女に見入ってしまった。先ほど王と対峙した時とは打って変わり、間抜けに見えるほど隙だらけだ。今なら心臓を突いても気付かれないかもしれない。

「彼は?」ザシャーリが、マリコに見惚れる剣士をいぶかしげに見つめてたずねた。

「王様を追っ払って、俺たちを助けてくれたんだ。ヤ国の人間らしいが、名前はまだ聞いていない」烏は答え、惚けた男の肩を掴んで揺すった。「おい、ミスター・オサムライサン。ひとまず正気に戻ってくれ」

 異国の剣士は我に返り、大きく見開いた目を烏に向けてたずねた。「あの愛らしい少女は、何者でござるか」

「なんだって?」烏は、剣士の言葉をまったく理解できなかった。

「私、マリコよ」マリコが答えた。これまた烏の知らない言葉だが、辛うじて名前の部分は聞き取れた。

「ヤ国の言葉です」ザシャーリが馬を降り、戸惑う烏に教えた。

「お侍さん、お名前は?」マリコは、イ国の言葉でたずねた。

「拙者は――」サムライはヤ国語で答え掛け、言い直した。「私はフツよ。よろしくね、マリコ」

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