マリコ、オヒサマを見る
烏は、なにかひどい冒涜を働いているような後ろめたさを感じながら、王宮の廊下を駆けていた。お宝を手に入れた後は、現場を速やかに立ち去るのが盗みの鉄則だ。しかし、だからと言って、全力疾走はいかがなものか。
そもそも今回の仕事は、始まりからして真っ当ではなかった。障害と考えていた警備の兵や、王宮で働く使用人たちは、すでに――少なくとも烏が忍び込んだ一角では――皆殺しにされていて、それに気付くまでに忍び足で進んだ手間は、まったくの無駄となった。さらに、彼の背に負われている「お宝」は、黄金や宝石ではなく、肌が透けるほどに薄い衣をまとった、十にも満たない幼い少女なのだ。物言わぬ宝物と違い、人間は暴れたり叫んだりするものだから、烏はこれまで誘拐に手を染めたことはなかったが、有り難いことに生きたお宝のマリコは、すやすやと平和な寝息を立てるばかりで、彼に面倒を掛けることはなかった。
烏は肩越しに、背後へ視線をくれた。穏やかな笑みを口元にたたえる男が、烏の後をぴたりと付いて来る。この面倒事を持ち込んだ張本人、ザシャーリだ。爵位はわからないが貴族様で、本人の弁によれば王の側に仕える重臣だった。王に気にいられたばかりに、窓もない部屋へ囚われた少女を不憫に思い、この救出劇を思い立ったとのことだが、烏は彼の絶えない笑顔の裏に、何かが隠されているように思えてならなかった。
彼らは、血臭漂う扉の前を駆け抜けた。この辺りにいた使用人や警備の兵は皆、その部屋の中に転がっている。もちろん彼らを殺したのは、烏ではない。おそらく、マリコを殺すために雇われた暗殺者たちの仕業だった。烏とザシャーリは彼らの雇い主を王妃と目している。王を夢中にさせる少女をやっかみ、その命を奪おうと企んだのだ。二人は、その凶刃を退けたものの、一味の一人を取り逃がしている。もし彼が職務に忠実であれば、おそらく態勢を立て直して再び襲ってくるに違いなかった。烏たちが泥棒の流儀に反し、どたばたと無様に駆けているのは、それを恐れての事だ。
それにしても、と烏は首を捻る。これは、いささか乱暴な仕事ぶりだった。対象以外を無闇に殺せば、多くの人たちにとって殺人は他人事でなくなる。そうなれば人たちの無用な警戒心をあおり、後々の仕事がやりにくくなるものだ。と、なれば、おそらく彼らは烏たちとは違い、王都の外からやってきた『職人』である可能性が高い。他人の仕事場であれば、荒れようが壊れようが知ったことではないからだ。
間もなく、烏たちは地下へと降る階段へたどり着いた。烏はその前で一旦立ち止まり、ザシャーリに目を向けた。「旦那」
「はい、なんでしょう?」
ここまで全力で駆けてきたと言うのに、ザシャーリは一つの息も乱していなかった。暗殺者を退けた剣の腕もさることながら、どうやら彼は普通の貴族様ではないようだ。
「あんた、暗がりは平気か?」
「ちょっと苦手ですね」ザシャーリは、相変わらずの笑顔で答えた。「寝る前は必ず長い蝋燭を一本、灯すことにしているんです。夜中にふと起きて、真っ暗だと恐いでしょう?」
「いや、好き嫌いの話じゃない。闇の中を動き回れるかって話だ」
「その手の訓練なら、一応受けています。戦場では、しばしば必要になる技能ですからね。でも、それが何か?」
「この下では、しばらく目が使えなくなるんだ」烏は階下に顎をしゃくって見せた。
「なるほど」
ザシャーリがうなずくのを見てから、烏は一気に階段を駆け下り、墨を流したような暗い廊下を走り出した。地下の廊下は照明と言うものが一切なかった。蝋燭がふんだんに灯された上階の明るさに慣れた目は、しばらくの間、暗闇では使い物にならなくなるから、素人は真っ直ぐ進むことすらままならないだろう。しかし、足音を聞く限り、ザシャーリは正確に烏の後を付いてきているようだった。
ほどなく、烏は足を止めた。階段を降りたところから歩数を数えていたので、それによれば、この辺りに例の地下室へ続く鉄扉があるはずだった。壁を探り、三フィートほど手前に金属の感触を得る。どうやら、少しばかり行きすぎてしまったようだ。
「テレンシャ、開けるぞ」呼びかけてから、扉をそっと開く。蝋燭の灯りが目を射た。すぐに光は反れ、眩んだ目が回復すると、右手にナイフ、左手に燭台を持ったテレンシャが、何やら奇妙な表情で立ち尽くしている。どうにも弛みそうになる顔を、懸命にこらえているかのような――
「その子が、例のお姫さま?」テレンシャは手品のようにナイフを消して、燭台の灯りをマリコに向けた。そして、ほおとため息をもらす。「かわいい」
「とりあえず、中へ入らせてくれ」
烏が言うと、テレンシャはちらちらと後ろを振り返りながら、階段を下りて道を開けた。
「この人、だれ?」マリコの声が耳元で聞こえた。どうやら目を覚ましたようだ。
「テレンシャだ」烏は相棒を短く紹介し、ザシャーリに目を向けた。今さらになって、彼がカテリナの宿を訪れた時と同じ、町民の服装をしていることに気付く。もちろん、これから王宮の外へ逃げ出そうと言うのだから、貴族様の格好をされていても困る。そしてザシャーリは、初めて彼女を見た時と同様、テレンシャをうっとりと見つめていた。「給仕姿も可憐でしたが、今の姿もまた愛らしい」
「ありがとう」テレンシャは、マリコを見つめながら上の空で答えた。
烏はいらいらし始めた。一体、彼女はどうしてしまったのだ?
「烏」マリコが言った。
「なんだ?」
「おしっこ」
烏は慌ててマリコを降ろし、部屋の片隅を指さした。「どこか、その辺で済ませろ」
「みんな見てるのに?」マリコはひどくショックを受けた様子で言った。
「時間がないんだ。急げ」
「大丈夫よ、お姫さま。私が見えないように隠してあげる」テレンシャは言って、覆い付きの燭台を掲げて見せた。「それに、灯りがあったほうがしやすいでしょ?」
「ありがとう、お姉さん」マリコは笑顔で言った。
テレンシャはびくりと身じろぎした。「お姉さん」彼女は反芻するように、マリコと同じ言葉を繰り返した。
「どうしたの?」マリコはきょっとんとした。
「なんでもないわ。ほら、こっちよ」テレンシャはマリコの手を引いて、壁際に積まれた木箱と木箱の間に彼女を連れて行った。マリコがしゃがみ込み、木箱の間に隠れて頭のてっぺん以外は見えなくなった。ザシャーリはくるりと後を向いて両手で耳をふさいだ。烏はため息をついて階段の上の鉄扉に取り付き、外の様子をうかがった。ちらりと見ると、テレンシャはマリコがしゃがみ込んだ辺りを燭台で照らしながら、彼女の様子をうっとりと眺めている。烏は首を傾げた。テレンシャは素人ではない。仕事中に、これほど注意散漫になるなど、ありえないことだった。それはそれとして、彼女は何が楽しくて、子供が放尿する様子を眺めているのだろう。
マリコが立ち上がった。寝間着の裾を持ち上げているので、白い尻があらわになっている。彼女は首を捻ってテレンシャに何ごとかを囁き、テレンシャはうなずいて懐から布きれを取り出すと、それを幼い少女に手渡した。マリコは再びしゃがみ込み、しばらく経って立ち上がってから、困った様子で手の中の布きれを眺めた。
「あたしが、あとで始末するわ」テレンシャは手を差し出した。マリコは気恥ずかしげに苦笑いを浮かべて布きれをテレンシャに返し、ぺたぺたと裸足の音を立てて烏に歩み寄った。その後ろでテレンシャは布きれを丁寧に畳み、大事そうに懐へしまい込んでいた。
「烏」マリコは両手を伸ばした。
彼女の部屋では高価な絹に気を取られて気付かなかったが、マリコの容姿はごく平凡だった。テレンシャは「かわいい」と熱心に評したが、幼い少女の愛らしさ以上のものはない。年の頃は、おそらく七、八歳と言ったところで、少々やせ気味に見える。少女嗜好の疑いがあるザシャーリはともかく、テレンシャまで夢中にさせるような魅力があるとは思えない。ただ、真っ黒な髪と瞳には、烏も惹かれるものがあった。彼女はどうやらヤ国の人間のようで、実を言えば烏の両親もヤ国の生まれなのだ。記憶にはないが、彼らと友人だったらしい師匠がそう言っていたのだから、おそらく間違いないだろう。実際、烏の髪と瞳はマリコと同じ漆黒で、彼の烏と言う名は、そこに由来する。
「烏」マリコはもう一度言った。「おんぶ」
烏はザシャーリに目を向けた。彼はまだ後ろを向いて耳を塞いでいた。烏は彼の肩を軽く叩いた。「終わったぞ」
ザシャーリは両手を耳から離し、烏に向き直って小さく咳払いした。
「ここから先は、あんたが彼女をおぶってくれ。王宮の中は殺し屋たちが露払いをしてくれたおかげで楽に進めたが、外も同じとは限らないからな」
するとザシャーリは、笑みを微かに曇らせ言った。「申し訳ありませんが、それは遠慮します」
烏はいぶかしげに片方の眉を吊り上げた。彼の嗜好を考えれば、喜んで引き受けてくれそうなものだが。
「あまり長く彼女に触れていると、どうにもおかしな気分になるんです」
烏は小さく首を振り、ため息を落とした。「あんたの趣味について、とやかく言うつもりはないが、今くらいは自重できないのか?」
「そう言うことではありません」ザシャーリの笑みが苦笑に変った。「ただ、彼女との距離が近ければ近いほど、自分がひどく汚らわしい人間に思えてくるんです」
「ザシャーリは汚くなんかないわ」マリコが口を挟んだ。「ちゃんと、お風呂に入ってる人のにおいがするもの。髪とかも、とってもきれいよ」
ザシャーリは優しい笑みをマリコに向け、うなずいた。「ありがとう、マリコ」
「どういたしまして」マリコは首を横に傾げて言った。
「さっき、この子の手を握った時、あたしも同じように思ったの」と、テレンシャ。「でも、あたしは自分がきれいな人間じゃないって認めてるし、たぶんマリコはそんな私でも受け入れてくれるって思えたから」テレンシャはマリコの前にひざまずき、その小さな身体を抱きしめ、彼女の頬にキスをした。「こう言うことをしても平気よ」
だったら、おまえがおぶってくれと言う前に、マリコが口を開く。
「お姉さんはきれいよ?」マリコはテレンシャの背中に手を回し、彼女の胸に顔をうずめて息を吸い込んだ。「それに、いいにおい」
テレンシャはマリコの頭を撫で、へらりと顔をゆるめた。「ああ、もう、ベッドの中で一晩中いたずらしてやりたい」
「おい」烏はぎょっとして言うと、おそるおそるザシャーリに目を向けた。しかし彼は、烏の時と違って穏やかな笑みを浮かべたままだ。烏はたずねた。「淫らな行いは許さないんじゃないのか?」
「少女同士の無邪気なじゃれ合いですよ。愛らしくはあっても、淫らなわけがありません」ザシャーリはきっぱりと言った。
烏は、もう何度目かも知れないため息を落とし、テレンシャからマリコを引っぺがすと彼女を背負い、横穴へ続く鉄扉へ大股に歩み寄った。
「あのね」マリコが言った。「烏も、いいにおいがする」
「ありがとよ」烏は鼻を鳴らして言った。しかし、彼女の返事はなく、代わりに寝息が聞こえてきた。のん気なものだとあきれ返りながら、彼は鉄扉を開け放ち、足早に出口へと向かった。
寝た子を背負ったまま梯子を昇るのは、少しばかり難儀した。縦穴から顔を出すと、がちゃがちゃと鎧の鳴る音や、怒声のような号令が外から聞こえてきた。それほど遠くない場所を、大勢の兵士たちが駆けまわっていることは明らかだ。マリコの捜索隊にしては、少々動きが早すぎるようにも思えるが、彼らの目的がなんであれ兵隊の厄介にはなりたくない。
烏は扉をわずかに開けて様子をうかがう。辺りに人影は見られない。もっとも、抜け穴が隠された物置小屋は貴族屋敷の中庭にあり、ここまで兵士が踏み込んでくることは考えにくかった。
「ひょっとして」ザシャーリも烏の横に並び、扉のすき間から外をうかがい、つぶやいた。「ここはアハル伯爵の別邸ですか?」
「知り合いか?」烏は扉を大きく開けて外へと出た。物置小屋の周囲は中庭になっており、そこはコの字型の本館と離れ家に四方を囲まれ、敷地の外から目が届かないようになっている。
「かつては陛下の側近の一人でしたが、陛下の戦争好きを諫めようとして以来、すっかり嫌われて、今は領地に引きこもっています。だから、王都に置かれたこのお屋敷も、今は空き家なのです」
「それには気付いてたよ」烏は首を傾げた。「けど、ちらりと見ただけで、よくわかったな?」
「ええ」ザシャーリはうなずいた。「彼に陛下への諫言を勧めたのは私ですし、そのために何度かここを訪れていましたので」
烏は眉をひそめた。「もちろん、そいつが失脚することもわかってたんだな?」
「はい」ザシャーリは、あっさりと認めた。「私の仕事は戦場で、陛下に戦略上の助言をすることなんです。アハル伯爵は領土拡張を狙う今の政策に反対の立場を取っていましたし、私としては陛下が戦争をやめてしまうと、職を失うことになりかねませんから、手を打つ必要があったと言うわけです」ザシャーリは首を傾げた。「いつの間にか、くだけた物言いになってますね?」
「ああ」烏は肩をすくめた。「あんたに畏まっているのが、ちょっと馬鹿らしく思えてきたんだ」
「ねえ、烏」テレンシャが口を挟んだ。すわ緊急事態かと身構えれば、彼女はこんなことを言い出した。「ちょっと冷えるわ。マリコを着替えさせた方がいいんじゃない?」
烏は、間抜けたことを言う相棒に悪態をぶつけようと、選りすぐりを三つほど頭の中に並べた。確かに今は秋の最中で、夜ともなればそれなりに冷えるし、マリコの薄い寝間着はまったく防寒の用をなさないだろう。しかし、一刻も早く王都を逃げ出さなければならないと言う時に、着替えをしている暇など無いことは、少し考えればわかるはずだ。しかも、街中には兵士があふれ、もたもたしていれば、ますます脱出が難しくなるだろう。
いや、待てよ――と、烏は考えを改めた。「悪くない。その手で行こう」
テレンシャは、はたと何かに気付き、顔つきがプロのそれに戻った。「そうね。何か、適当な服を盗んでくるわ」言うなりテレンシャは夜闇に姿を消した。
「俺は、馬車を調達してくる」
「馬車?」と、ザシャーリ。「どうして、そんなものを」
「後で説明する」烏は物置小屋の扉を開け、その中に眠っているマリコを横たわらせた。彼はザシャーリに目を向けた。「あんたも中で待っててくれ。すぐに戻る」
烏は中庭を横切って、本館と離れ家の間に向かった。抜け穴を下見に来たとき、そこへ帆布を掛けた荷馬車が放置されていたのを思い出したのだ。案の定、それはあった。手早く帆布を外し、さてと考える。馬を、どう調達するか。この屋敷が空き家だとするなら、厩舎に馬が繋がれているはずもない。しかし、別の屋敷であればどうか。
烏は柵を乗り越え、隣の屋敷の敷地に侵入した。この辺りは、領地を離れて王都で暮らす貴族たちの別邸が、いくつも建ち並んでいる。烏は、そのほとんどの屋敷で盗みを働いてきたから、勝手知ったるなんとやらだ。厩舎から馬車馬を一頭拝借し、門のある表へ回る。どうやら兵たちはすでに去ったようで、彼らが立てるやかましい音は、今はずいぶん遠くにあった。しかし、門へ近付くにつれ、人たちの話し合う声が聞こえてきた。烏はひとまず馬を柵へ繋ぎ、壁に身を寄せながら声のするほうへ向かった。建物の角からそっとうかがうと、屋敷の玄関の前に、使用人と思しい白髪まじりの男と、若い女中の姿がある。女中は燭台を右手に持ち、すがめた目で兵たちの喧騒が聞こえてくる方角を見つめていた。
「また、戦争でもあるんでしょうか?」女中は言った。
「わかりません」初老の男は、小さく首を振った。
女中はため息をついた。「旦那様は、戦争の賠償金で景気が良くなるって言ってましたけど、ちっともそんなことないですよね。お給金だって、もう何年も上げてくれないし」
「少なくとも兵隊の給料は上がってるようですよ。さもなければ、こんな夜更けに駆り出されて、熱心に働けるはずがありません」初老の男は言った。彼は束の間考え、再び口を開いた。「旦那様を起こす前に、王宮へ使いを立てて事情をうかがいましょう。手配をお願いできますか?」
「わかりました」
二人は屋敷へ引っ込み、扉は閉ざされた。烏は馬を引き、屋敷の門前の通りを抜けてアハル邸へ戻った。馬を荷馬車に繋いで物置小屋へ向かうと、扉の前にはザシャーリがぽつんと寂しげに立っている。
「二人は?」
烏がたずねると、ザシャーリは肩をすくめた。「中で着替えてます。じきに出て来るでしょう」
ザシャーリの予言通り、ほどなくして物置小屋の扉が開き、平凡な町娘の恰好をしたマリコとテレンシャが姿を現す。テレンシャは烏に目を向け、物置小屋の中へ顎をしゃくって見せた。「あんたの分も盗って来たわ」
「わかった」烏は物置小屋へ入り、手早く着替えをすませ外へ出る。マリコが眠そうに目を擦っているので抱き上げると、彼女はすぐに寝息を立てはじめた。烏は相棒と依頼人に顎をしゃくって馬車の方を示した。「こっちだ」
夜闇に覆われた通りを馬車は進んだ。もっとも、辻ごとに焚かれたかがり火のおかげで、まったくの暗闇と言うわけでもなく、御者台のカラスが手綱を繰るのに難儀することはなかった。時折、号令と思しい声が遠くに上がる。兵たちの任務は、まだ終わっていないようだ。
烏は荷台に目を向けた。マリコはテレンシャに膝枕をされて、気持ちよさそうに眠っている。その脇では帆布に包まったザシャーリが横たわっていた。
「なあ、旦那」と、烏はザシャーリに呼びかけた。
「はい」
「もうちょっと、しんどそうな顔をしてくれないか。役どころだと、あんたは病に伏せる父親ってことになってるんだ。そんな風に、にこにこ笑っていられたんじゃ、ちっとも病人らしく見えない」
「努力はしているんですが、これはもう性分なんです」
烏は束の間考え、テレンシャに言った。「マリコを起こしてくれ」
「でも」テレンシャは抗議しようと口を開き掛けた。
「やるんだ」烏は容赦なく言った。
テレンシャはしぶしぶマリコを揺り起こした。マリコは目を擦りながら周囲を見回し、ぱっと笑みを浮かべた。「馬車だ!」
「乗ったことないのか?」烏はたずねた。マリコはこくこくと何度もうなずいた。烏は言った。「それなら、起きてないともったいないな」
「そうだね」マリコは熱心に同意した。そして、彼女は空を見上げた。「それに、星がすごくきれい」
「どころで、ザシャーリが風邪をひいて、ひどく具合を悪くしているようなんだ。彼が元気になれるように手を握っててやってくれないか?」
「ちょっと、烏さん」ザシャーリはぎょっとして言った。烏はにやりと笑って見せた。
「大丈夫、ザシャーリ?」マリコは心配そうに、ザシャーリの手を取った。途端にザシャーリの笑顔は消え、ひどく情けない表情が浮かんだ。烏にはまったく理解できないことだったが、ザシャーリはマリコに触れると、自分が汚らわしい人間に思えるのだと言っていた。つまり彼は今、ひどい自己嫌悪にさいなまれているに違いない。
「そうだ、マリコ」烏は思い出した。「これからしばらく、みんなでちょっとしたお芝居をすることになっている。お前を捕まえに来る王様の目を誤魔化すために?」
マリコは真剣な表情になり、こくりと一つうなずいた。烏は、彼女への認識を少しばかり改めた。マリコは子供かも知れないが、物を考える頭をしっかり持っている。
「俺はお前の兄貴で、テレンシャは姉だ。ザシャーリの旦那は病気で働けなくなった父親で、俺たちは王都で暮らすのをあきらめて、田舎にいるじいさんとばあさんを頼ろうと旅に出るところだ。もし兵隊に何か聞かれても、お前は病気の父親が心配と言うこと以外、何もわからないふりをする。できるか?」
マリコは、もう一度うなずいた。
「何か質問はあるか?」
マリコは首を傾げ、束の間を置いて口を開いた。「お母さんは?」
「そうだな」烏は進行方向に目をやり、手綱を繰りながら考えた。「お前を生んで、すぐに死んだことにしよう」
マリコの返事がなかった。ふと振り向けば、彼女は泣きそうな顔になっていた。烏はたずねた。「どうした?」
「お母さんがいないって、悲しいよね?」
「そうだな」烏は肩をすくめた。「その代り、お前には面倒見のいい姉と、優しい父親がいることになっている。なかなか悪くない家族だと思うけどな?」
マリコは目をぱちくりさせてから、一人一人の顔を順繰りに眺め、それから首を傾げた。「烏は?」
「病気の父親に代わって一家を支えるしっかり者の兄」テレンシャが代わりに答えた。
マリコは納得した様子でうなずいた。
「がらじゃないな」烏はむずがゆさを覚え、頭をかいた。「まあ、やってみるさ」
「そんな兄に、禁じられた思いを抱く妹」テレンシャがつぶやく。
「余計な話を付け加えるな」烏はしかめっ面で相棒をたしなめてから、前へ向き直って息を飲んだ。手綱を引き馬車を止め、仲間たちに口をつぐむよう身振りで示す。
辻に置かれたかがり火の明かりを、ぎらりと反射するものがあった。鎧兜に身を固めた兵士が二人、槍を担いでそこを通り過ぎようとしている。明かりの下にいるせいで、暗い通りを見通せないのか、今のところ、こちらに気付いた様子はない。
「ちょっと行って来る」烏が命じる前にテレンシャは荷台を飛び降り、夜闇に姿を消した。烏は周囲を見渡し、ゆっくりと馬を進ませ近くの路地へ馬車を隠した。
「どうかしましたか?」と、ザシャーリ。
「先の辻に兵隊がいた。連中とおしゃべりを楽しむつもりはないから、できるならやり過ごそうと思う。ついでに、彼らの任務の内容をテレンシャに探らせている。もしやつらがマリコを探し回っているんだとしたら、このお芝居も大して役に立たないだろうからな」
兵隊たちの探し物が黒髪の女の子であれば、それを連れて歩いている烏たちを、彼らが見逃す道理はない。
「つまり、あなたは彼らが別のものを探し回っていると考えているんですね?」
烏はうなずいた。「たぶん、彼らの目的は、王妃様が寄越した暗殺者だろう。マリコの捜索隊だとしたら、初動が早すぎる」
「それが本当だとしたら、マリコへ向く目も少なくなるでしょうね」
烏は鼻を鳴らした。「今日のこの時を決めてくれた、王妃様に感謝だな」
ほどなく、テレンシャが戻ってきた。彼女は荷台によじ登りながら言った。「連中、東の方へ向かったわ」
「任務の内容は聞き出せたか?」
テレンシャはうなずいた。「彼らが捜しているのは王妃様よ」赤毛の少女は、ちらりとマリコを見て続けた。「彼女は王様のお気に入りのお姫さまを、誘拐したそうなの」
烏は片方の眉を吊り上げ、聞き直した。「暗殺未遂じゃなく?」
「兵隊たちは誘拐って言ってたわ。王様は、彼女を捕まえてお姫さまの居場所を聞き出すつもりみたい」
どうにも妙な話になってきた。しかし、マリコ誘拐の容疑が王妃に向かっているのだとしたら、彼らの逃走はずいぶん楽になる。
「上出来だ。先へ進もう」烏は手綱を揺らし、馬車を進めた。
一行は、街の北門へとやって来た。巨大な城壁が左右に伸び、人の背丈の倍はあろうかと言う重々しい扉が馬車を操る烏の目前にある。扉の前にはいくつものかがり火が焚かれ、鎧兜に身を固めた四、五人の兵が周囲に目を光らせているのが見えた。
「始めるぞ」
烏が言うと、荷台の三人は表情を引き締め、うなずいた。兵士たちは馬車を認めると、槍を交叉させてその進路を塞いだ。烏は馬車を止め、唇をぐっと引き締めた。
「何の用だ」兵士の一人が言った。
「はい、閣下。ペントウィンの村へ行こうと思っておりまして、どうか通していただけませんでしょうか」
「開門は夜明けだ。帰れ」兵士は取りつく島もなかった。
「けど、夜が明けてから出発したんじゃ、夜に森を通らなきゃ行けません。病人や小さな妹を連れて、そんなことをしたら、たちまち獣や魔物の餌食になってしまいます」烏は荷台の仲間たちを示してから、必死の体で申し入れた。もちろん、これは想定内のやりとりだ。あと少し問答を繰り返せば、次は賄賂の額についての交渉が始まるだろう。
「だが、決まりは決まりだ。気の毒だが――」兵士の目が、かいがいしくザシャーリに世話を焼くマリコの上で止まった。一介の兵士が王の宝であるマリコの顔を知っているとは思えないが、よもやと言う事もある。烏は袖の中から手裏剣を手の平に落とし、危急の事態に備えた。しかし、兵士は惚けたように、ただマリコを見つめるばかりだ。
「閣下?」烏はいぶかしげにたずねた。
「なんだ」兵士はマリコから目を離さず、上の空で答えた。
烏は奇妙に思い始めた。なんだって、誰も彼も彼女に見とれるんだ?
マリコが兵士の視線に気付き、ふと彼に目を向けた。彼女は言った。「兵隊さん」
兵士はびくりと身じろぎした。
「お兄ちゃんが言ってたの。おじいさんの家へ行けば、お父さんはきっと元気になるって」
「そうか」兵士はうなずいた。
「私、早くお父さんを元気にしてあげたいの。お願い、兵隊さん」マリコは懇願した。
兵士は他の兵士に目を向け、言った。「門を開けろ」
「少尉?」開門を命じられた兵士は驚いた様子で言った。
「彼らの馬車に、王妃殿下が隠れているように見えるか? それに、夜明けまではせいぜい二、三時間だ。つまらない規則より、我々は彼女の身の安全を気に掛けるべきだと思うのだ」
「しかし、我々は誰も城壁の外へ出すなと――」部下の兵士は言いかけ、マリコに目を向けたところではたと動きを止めた。束の間を置いて、彼は上官に敬礼した。「失礼しました。まったく仰る通りです」
少尉はうなずき、マリコに笑みを向けた。「お父さんを大事にするんだぞ?」
「ありがとう、兵隊さん」マリコは満面の笑みで礼を述べた。
少尉は穏やかな笑みを浮かべたまま、烏に目を向けた。「私にも、あれくらいの娘がいてな」
「きっと、可愛らしいお嬢さんなんでしょうね」烏はお世辞を言った。
「口の達者な、やかましいだけの娘さ」少尉は言って、ふと笑みを消した。「しかし、最近は任務にかまけてちっともかまってやれないでいる」
「兵隊さん」マリコが真剣な表情で言った。「その子、きっとお父さんに会えなくて寂しがってるわ」
「そう、思うか?」
マリコは力強くうなずいた。
「そうか」少尉はつぶやき、ふと空を見上げた。「少し休みをとって、彼女と過ごす時間を作ってみよう」
「きっと、娘さんも喜びますよ」と、烏。
少尉が、その言葉にうなずいてすぐ、門が大きく開かれた。彼は門の外を指差した。「さあ、行ってくれ」
「ありがとうございます、閣下」
烏は手綱を揺らし、馬車を進めた。束の間を置いて振り向くと、閉じ行く門の向こうに手を振る少尉の姿が見えた。マリコが応じて、笑顔で手を振り返している。
「ねえ」と、テレンシャ。「あたしの出番、なかったんだけど?」
「勝手に台本を書き換えた役者がいたからな」烏はマリコをじろりと睨んだ。
マリコは、しょんぼりとうなだれた。烏はマリコに、それ以上声を掛けることなく、前を見て馬車の操作に専念した。夜闇に白く舗装された街道が浮き上がり、それは北へと伸びている。一マイルかそこらを進んだところで道は上り坂になり、その先は小高い丘の頂上に消えていた。そのうち烏は、何もかもがマリコの機転のおかげでうまく行ったのだと気付いた。あの兵士たちは、誰も城壁外へ出さないよう命令を受けていたのだ。もちろん、それは王宮を逃げ出した王妃を、王都に閉じ込めるためだろう。と、なれば、賄賂を持ち掛けようが、夜明けまで待とうが、彼らは決して門を開けてはくれなかったはずだ。烏は言った。「だが、上出来だった」
肩越しに見ると、得意げな笑みを浮かべるマリコの顔があった。確かに、上出来だった。しかし、出来過ぎに思えた。王宮の地下室でテレンシャに起こったことが、あの兵士たちの身にも起きたのは間違いない。烏の目には、ごく当たり前の幼い少女にしか見えないマリコだが、やはり他の人たちの目にはまったく違って映るようだ。あるいは、本当は誰もがうっとりするような美少女なのに、烏だけがその魅力を知らずにいるのか。
つらつらと考えていると道を違えそうになり、烏は慌てて馬車を止めた。馬車はいつの間にか丘を越え、そのふもとにあった。彼はテレンシャに目を向けた。「お前は、ここまでだ」
「わかった」テレンシャはうなずき、それから不意にマリコを抱きしめた。「本当は一緒に行きたいんだけど、仕事があるの。これで、お別れよ」
マリコは目を見開いた。「さよなら?」
「そうね」
「ずっと一緒だと思ってた」
「私もです」帆布から出てきたザシャーリも言った。「もっと、あなたを愛でていたかった」
「見るだけ?」テレンシャはにやりと笑った。
「あー、いや……」ザシャーリは言葉を濁し、笑顔を苦笑に変えた。
「でも、最初は烏とするって決めてるの。ごめんね?」
「彼を殺したいと思ったのは、これで二度目です」ザシャーリは笑顔で物騒な事を言った。
「だめよ」テレンシャはザシャーリの頬を軽く叩いた。「あなたは貴族様だけど、ずいぶん変わった貴族様みたいだから、あたしは気に入ってるの。二番目なら、してあげてもいいって思ってるくらいに。だから、あたしに殺されるようなことはしないでね?」
「気を付けます」ザシャーリは殊勝にうなずいた。
テレンシャは烏がいる御者台に歩み寄り、彼を抱きしめて耳元で囁いた。「何もかも、誰かの手の平の上で踊らされてる気分なの」
烏はうなずいた。王妃の暗殺者のおかげで、彼らはあっさりとマリコの奪取に成功し、今度はその王妃がマリコ誘拐の嫌疑を受け、烏たちの代わりに追われている。まるで彼女自身が、マリコの逃避に手を貸しているかのようだ。
「旦那さんに気を許しちゃだめよ」
二度も殺されかけたのだから、言われるまでもない。
「それと、マリコにも」
烏は首を傾げた。テレンシャは、彼女に夢中だったのでは?
「マリコを見ていると、荒事を考える気がまったく失せてしまうの。単に彼女がかわいいからだと思ってたけど、きっと別の何かがあるんだわ。例えば、魔法とか?」
「魔法?」烏は思わず聞き返した。
「例えばの話。とにかく気を付けてね。姉さまに何か伝言はある?」
烏は束の間考え、言った。「心配するな。そう伝えてくれ」
テレンシャはうなずき、烏の頬にキスをくれると彼から身を離し、馬車を飛び降りて走り去った。
「また、会えるでしょうか」ザシャーリは、少女が夜闇に溶けて消えた辺りを、じっと見つめながらつぶやいた。
「さあな」烏は肩をすくめた。「まあ、用事があれば向こうから会いに来るんじゃないか?」そう言って彼は、馬車を街道から東へ分岐する脇道へと乗り入れた。その先には微かに白む空を背に、尖った梢が並ぶ森の影が見える。さらに脇道を進んでいると、ついに夜が明け、森の梢の上に赤っぽい太陽が顔をのぞかせた。それを見たマリコは立ち上がり、御者台の烏の背に取り付いて、興奮した様子で叫んだ。「オヒサマだ!」
肩越しに見た彼女は、目と口を大きく開いた顔で、朝日を受け止めていた。烏の目には、やはり平凡でちっぽけな女の子にしか見えないが、それでも念願を叶えて喜ぶ彼女の笑顔はなるほど可愛らしく、これを見るためなら多少の苦労を背負うのも仕方がないと思えてしまう。ひょっとすると、テレンシャの言う魔法の正体とは、これのことではないか。もしそうなら、それはきっと何も不思議なものではなく、大抵の女の子が生まれながらに持ち合わせている、ごく当たり前の力だった。