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老僧、奔走する

 空中から唐突に人間が現れると言う、不可思議な現象に出くわした衝撃から、老僧が立ち直るのを待って、烏は彼に城での顛末を伝えた。もちろん、村人を脅えさせた怪異の真の目的は伏せ、全ては紳士然とした、この魔法使いの()()によるものだと説明する。

「事情はわかりました」ゼルは頷いてから、子供たちに目を向けた。「マリコさんが、悪い人に狙われていると言うことは話しましたね。それなのに、あなたたちは行き先も言わず、マリコさんを遠くへ連れて行って、烏さんに大変な心配を掛けてしまいました」

 神妙に頷き、目を向けてくる子供たちに、烏は急いで言った。

「それについて、謝罪を受けるつもりはないぞ。たぶん、うちの姫さんも共犯だろうからな」

 マリコに目を向けると、彼女は小さく舌を出した。烏は苦笑をくれてから、ゼルに向き直った。

「ゼル様には子供たちへのお小言よりも、ケイと村人たちの間をとりなして欲しいんです」

「ええ、それはもちろん、喜んで引き受けましょう」老僧は、にこりと笑みを浮かべて快諾した。「ただ、今は多くの村人がカテリナの援軍に出ていますので、その席を作るのは、彼らが戻ってからになります。それまでは、ケイさん自身が街中へ出て、人たちと交わってはいかがでしょう」

 烏は眉をひそめた。「そんなことをして、袋叩きにあったりはしませんか?」

「まさか」ゼルは大笑いした。「私たちは、それほど血に飢えてはおりませんよ。もちろん、彼の素性を知れば驚かれることもあるとは思いますが、少なくともお城の魔法使いに、牙や角が生えているわけではないと、わかってもらえるはずです」

 それからゼルは束の間考え込み、ぽんと手を打ち鳴らした。「近くに公衆浴場があるんです。村人の社交場になっていますから、そちらへ行ってみてはいかがですか?」

「お風呂?」マリコが食いついた。

「はい」ゼルは頷く。「離れたところにお湯の湧き出す泉があって、そこから街の中までお湯を引いています」

「温泉!」マリコは胸の前で手を組んで、宙を見上げた。彼女は素早く烏に目を向けた。「温泉玉子、売ってるかな?」

「なんだそりゃ?」

「温泉のお湯で、ゆでた玉子」

「あいにくと」ゼルは申し訳なさそうに言った。「源泉はともかく、ここまで来たお湯は、玉子をゆでられるほど熱くはないのです」

「そっか」マリコは言って、不満げに唇を尖らせた。

「ゼル様」と、チェリ。「私たちも一緒に行っていい?」

 ゼルは烏とケイを交互に見て首を傾げた。「ここを留守にするわけにはいきませんので、お願いしてもよろしいですか?」

「俺は構いません」烏は請け合った。隣のケイに目をやると、彼も頷き、肩の上の猫は何やら満足げな顔で、自分の手の平を舐めはじめた。

 烏たちは寺院を出て、浴場へと向かう。先導するのは、「みんなでお風呂」とはしゃぐ子供たちだ。すでに日は西の峰に差し掛かり、辺りは薄暮に包まれている。そのために人の顔立ちも判然とせず、おかげで通りすがる人たちが、マリコに見惚れてぼーっとならないのは有り難かった。

 とは言え、烏は他の心配事を抱えていた。入浴は身分の上下を問わず、人気の娯楽であり、ちょっとした街であれば公衆浴場は必ずあった。もちろん王都も例外ではなかったが、大抵は一夜の相手を探す男女の出会いの場となっており、娼婦や男娼が出入りする、いかがわしい場所でもあった。

「なあ、まさかとは思うが――」

 烏が懸念を伝えると、ケイは束の間考えてから、子供たちを指さして言った。「そうであれば、ゼル殿が許すとは思えない」

「それもそうか」

 ほどなく一行は浴場へたどり着いた。それは木造の大きな建物で、隣に並ぶ住宅の、四、五軒分の間口があった。その入り口の前には若い女がいて、夜に備えて三本足のかがり火台を用意している。

 女――とは言っても、彼女は男物の服を着ており、烏よりも頭一つ分は背が高く、がっしりとした体付きをしていた。それでも烏が男と見誤らなかったのは、彼女の胸に大きなふくらみがあったからだ。

 女は足元に置いてあった火のついた松明を、かがり火台の鉄籠に放り込んでから、烏たち一行に目を向け、にっと笑みを浮かべた。カテリナとは別の部類だが、なかなかの美人だ。

「おや、珍しいね。ちびちゃんたち」女は言った。

「こんばんは、ジャンヌさん」チェリが言った。ユタとフェリも声をそろえて挨拶を告げ、マリコもそれにならったところで女は目を丸く見開き、微動だにしなくなった。いつものことなので、烏は女に歩み寄り、その肩を叩いた。無意識に女性らしい柔らかさを予想していた烏は、そこが硬い筋肉で覆われていることに気付いて思わずぎょっとした。

 ジャンヌは我に返り、目を丸くして烏にたずねた。「一体、どこのお姫様だい?」

「マリコです」

 烏は言って、女に耳を貸すよう身振りで示した。ジャンヌは怪訝そうにしながらも、素直に身を屈めた。目の前に女のうなじが見え、どきりと心臓が跳ねる。何やら良い香りもするが、烏はそれを努めて無視し、彼女の耳元に囁いた。

「この見た目なので、彼女には、妙な考えを起こした輩から身を護るための、魔法が掛けられています。特別な魔除けもなしに触ると、ひどい苦痛を受けることになるので、うかつに触れないように気を付けてください」

 ジャンヌは、ぎょっとしてマリコを見つめてから、烏に目を戻し苦笑を浮かべた。「教えてくれて助かったよ。もうちょっとで、抱き上げてキスするところだった」

「本人は、自分に誰かを痛めつける力があることを知りません。内緒にしてやってもらえると、助かります」

「わかった」ジャンヌは片目を閉じて見せた。「それで、あんたは?」

「俺は烏です」

「マリコちゃんの兄貴かい?」

 烏は肩をすくめた。「いえ。でも、まあ似たようなものです」

 ジャンヌはケイに目を向けた。「こっちの紳士と、美人の猫さんは?」

 美人と言われた黒猫は、まんざらでもない顔をした。

「人間の方はケイ、猫はエヌ」烏は、束の間考えてから付け加えた。「どっちも城の住人です」

 ジャンヌは表情を強張らせた。

「ゼル様のすすめでお邪魔したんですが、やはり連れてこない方がよかったですか?」

「いや」ジャンヌは首を振った。「村に住んでる人間なら、誰だって自由に使って構わないさ。もちろん、中で雷なんか出してもらっちゃあ困るけどね。客がみんな逃げちまう」

「わかった」ケイは頷き、約束した。

「それで、エヌも一緒に入れるつもりかい?」

 ケイは肩の上の猫に、ちらりと目をくれた。「どうする?」

 黒猫はぎょっと目を見開き、ケイの肩から飛び降りると、どことも知れぬ方へ走り去った。それを見送ってから、ケイはジャンヌに目を戻し、肩をすくめた。

「まっぴらごめんだ、と言っていた」

「あんた、猫の言葉がわかるの?」ジャンヌは目を丸くして言った。

 ケイは肩をすくめた。「エヌだけだ」

「へえ。使い魔みたいなもんかね」

 ケイは束の間考え、口を開いた。「むしろ、使われているのは、私だ」

「猫って生き物は、みんなそう言うところがあるからね」ジャンヌはくすりと笑って言うと、ついてくるように身振りで示した。

 狭い通路を歩き、ほどなく広々とした部屋に出る。壁際には椅子がいくつも置かれ、それぞれが袖壁のようなもので仕切られていた。いくつかの椅子の下には籠があって、それには衣服が収められていたから、すぐにここが脱衣所なのだとわかった。加えて、今まさに服を脱ぎ始めた男もいて、彼の足元には空の籠が置かれている。

 しかし、それは、泥棒の烏の目に、ひどく不用心に見えた。金目の物があれば、好きに持って行けと言っているようなものだ。もちろん、エランヴィルの人たちの不評を、あえて買うほどの儲けは期待できそうにはないから、ここで「仕事」をするつもりはない。

「あれ、見かけない顔だね?」

 大きな籠をいくつも抱えた金髪の娘が、烏たちのそばへやって来る。脱衣所の照明は壁に掛けられた何本かの燭台だけなので、いささか薄暗かったが、近くまでくると、テレンシャとさして変わりない年頃の少女だとわかった。

「彼女はセシ。ここの番をしてるんだ。何かわからないことがあったら、彼女に聞くといいよ」ジャンヌは言って、セシに目を向けた。「あたしは持ち場に戻る。あとは頼んだよ」

 立ち去るジャンヌを見送ってから、セシは口元に白い歯を見せた。

「よろしく、お客さんたち。あたしにお小遣いをはずんでくれたら、盗人が荷物を荒らさないように、しっかり見張ってあげるからね」

「もし払いを渋ったら、どうするんだ?」烏はたずねた。

「盗人から分け前をもらって穴埋めする」

「なるほど」烏は頷いた。「公平な取引だ」

「兄さん、話がわかるじゃないか」セシはけらけら笑って言った。「まあでも、場合によっちゃあタダでもぜんぜん構わないんだけど」

「プロがタダ働きなんて、ちょいとおかしくないか?」

「いやいや、ところがそうじゃないんだ」セシはふふんと鼻を鳴らした。「いい男、いい女の裸を、誰にも咎められることなく拝めるんだよ? 差し引きすれば、タダじゃないか」

「なるほどな」烏はくすりと笑った。「つまり、あんたにとって、これは天職ってわけか」

「そう、それ!」セシは烏に人差し指を突きつけた。「ちなみに、あんたもタダでいいからね」

「そりゃあ、ありがたいが、金を払えば着替えをじろじろ見るのはやめてくれるのか?」

「そんなわけないじゃない」セシはきっぱり言った。

「そうか」

 と、なれば、払うだけ無駄だった。

「でも、入浴料別だよ」

「わかっている」

 烏が全員分の入浴料を支払うと、セシは持っていた籠を、一人ずつ手渡していく。そして案の定、マリコの番になったところで、彼女はぽかんと口を開けたまま動かなくなった。烏が肩をゆすって正気付かせると、セシは興奮した様子で言った。

「なに、これ、可愛い!」

「落ち着け」

「お、おう」セシは頷いてから、一度深呼吸し、にへらと弛んだ顔をマリコに向けた。「始めまして、可愛いお嬢ちゃん」

「マリコです。初めまして」

 マリコは丁寧に挨拶をするが、その顔は少しばかり強張っていた。そしてマリコは、烏に耳を貸すよう手招きする。

「テレンシャと同じ感じがする」

 こそこそと耳元でささやく声に、烏は頷いて同意を示した。

 ともかく脱衣籠がいきわたると、みな服を脱ぎ始めた。セシはマリコに張り付き、今にもよだれをたらしそうな目つきで彼女を眺めている。手を出さないだけ、テレンシャよりましだが、マリコは少々、落ち着かない様子だった。

 裸になって奥へ向かうと、そこは石畳が敷かれた狭い部屋で、壁際に石組みの井筒を半分に切ったようなものがあった。中は湯で満たされており、かたわらには木桶がいくつか積んであって、ついて来たセシがここで身体の汚れを落とせと言う。

 言われた通り、烏は桶に汲んだ湯を、頭からざぶりとかぶり、次いで子供たちにもたっぷり掛けた。四人は温かい湯をかぶり、きゃっきゃと大騒ぎする。

 ふと横に目をやると、烏にならってお湯をかぶるケイがいる。筋骨隆々とまではいかないが、頭脳労働が主たる魔法使いに似つかわしくない、引き締まった体付きをしている。

「そこの扉が浴場だよ。楽しんできて」

 セシは言って、脱衣所の方へ引っ込む。

 浴場は天井がなく、周囲を背の高い壁で目隠しされているが、上を仰げば星空が見えた。床は石張りで、大きな四角い浴槽があり、そこかしに松明が焚かれている。浴槽では老若男女が湯につかり、それぞれ小さなグループになって会話を楽しんでいた。

 子供たちは浴槽へ駆け寄り、つま先や手を突っ込んで湯の熱さに怯んでいたが、マリコが先陣を切ると、他の三人も後に続いた。烏は、他の客の迷惑にならないようにと、子供たちに釘を刺してから自身も湯に浸かった。隣にケイもやって来るが、特に何を話すでもなく、湯の中で腕組みをしてじっと目を閉じている。

「よお。あんたら、どこの地区から来たんだい?」

 近くで一人、湯に浸かっていた男が陽気な声で話しかけてきた。ドゥーガルドのように肌は浅黒く、髪も髭も、もつれた麻糸のように、もじゃもじゃと癖が掛かっている。

「俺はヒックってもんだ。北の方で羊飼いをやっている」

 湯の上で突き出された右手を、烏は握り返した。

「俺は烏だ。今日からゼル様のところで世話になっている」

「するってえと、村の外から来たのか。で、そっちの旦那は?」

「ケイだ」と、魔法使いは答えた。「城に住んでいる」

「おお。それじゃあ、あんたが例の魔法使いか」

 ヒックは目を丸くするが、怯えるそぶりは見せなかった。もっと驚かれるかと思っていた烏が理由をたずねると、ヒックはにっと笑って見せた。

「雷なんて、慣れちまえばどうってこともねえからな。羊どもも最初は怖がって餌の食いも悪かったが、最近はむしろ、よく肥えている」

 烏は城から下った場所が、牧草地になっていることを思い出した。

「草がよかったんだろう」

 ヒックは頷いた。「どう言うわけか、今年の牧草は質もいいし、よく育っている。ただ、羊が食いきれずに、伸びすぎるのが困りもんだな。羊は丈の高い草を食えねえんだ」

「なるほど」ケイは言って、何やら考えこんてからつぶやいた。「無闇に雷を起こせば、良いと言うわけでもないのか」

「そこで、どうして雷が出てくるんだ?」

 ケイが植物に及ぼす雷の影響について説明すると、ヒックは感心した様子で頷いた。

「へえ、そいつはおもしれえな。いっそ、()()()みたいに、畑に撒けたら便利なんだけど」

「雷をか?」ケイは訝しげにたずねた。

「そうそう。できねえもんかね?」

 ケイは腕を組んで考え込み、しばらく経ってふと笑みを浮かべた。「おもしろい」

 二人は雷を肥料にすると言う話題に熱中し、烏のことはすっかり忘れてしまった様子だ。とは言え、ドゥーガルドが言うように、頭ごなしに魔法使いを拒絶する村人ばかりでないことがわかったのは、大きな収穫だった。

 ふと子供たちに目をやると、女の子三人はお湯に浸かってぺちゃくちゃおしゃべりを楽しんでいる。ユタは会話に加わらず、浴槽の縁に腰を降ろし、彼女たちを眺めるばかりだ。もちろん烏は、それが仲間外れにされているわけでないことを、理解していた。女子の会話に割り込むのは、なかなかに難しいことで、むしろ彼のように、黙って耳を傾けている方が、何かと利が多いのだ。

「――でね、前にここへ来たときに、面白いことを見つけたの」チェリがマリコに言う。

「面白いこと?」

「うん、見てて」

 チェリはフェリに目配せした。フェリは頷き、二人並んで浴槽の縁に手を掛けると、お尻を水面にぷかりと浮かべた。

「おー、浮いてる!」

 大いに感心したマリコも、彼女たちとお尻を並べてみせる。

 おかげで烏の位置からは、女の子たちのあらぬ場所が丸見えになって、いささか居心地の悪い思いをする羽目になった。

 ユタを見ると、少年はぎょっと目を見開いて、浮かんだお尻を見つめていたかと思うと、いきなりお湯に飛び込み、ほとんど泳ぐようにして烏のそばまでやって来た。

「どうした?」

 ユタは肩越しに女の子たちをちらりと見て、またもやぎょっとしてから、烏に目を戻し、真っ赤な顔で首を振った。烏は察して何も語らず、ただ一つ頷いてみせた。


 風呂から上がり、セシの視線をたっぷり浴びながら着替えを終えた烏たちは、浴場を後にした。すぐにエヌが合流してケイの肩に飛び乗り、彼らはすっかり暗くなった道を歩いて寺院へと戻った。

 子供たちに手を引かれて食堂へ向かうと、ゼルが食事を用意して待っていた。質素で、ワンの料理とは比べるべくもないが、じゅうぶん美味だった。

 食事が終わると、ゼルはカテリナたちが到着するまで、ここに泊るようすすめて来た。特に宿のあてもなかった烏は、ありがたく厚意に甘えることにし、それを聞いた子供たちは大いに喜んだ。女の子たちは、みんな同じベッドで一緒に寝ると言って大はしゃぎし、ユタは丁重に彼女たちの誘いを断った。少年はちらりと烏を見て苦笑いを浮かべ、烏は片目を閉じて見せた。

 子供たちは「おやすみなさい」を合唱して二階へ上がり、食堂に残った三人は今後のことについて話し合った。もちろん、それはカテリナたちが、無事にエランヴィルへたどり着けたらと言う前提のものだが、それ以外の可能性について論じても、意味はなかった。

「もちろん、みなさんは村に腰を落ち着けるのでしょう?」と、ゼル。

「そうなると思います」烏は頷く。

 あるいは、カッセン将軍の部隊と一緒に、フ国へ逃れると言う選択肢もあったが、あてもない外国へ行くより、カテリナに縁のあるこの地に止まる方が、何かと都合が良いだろう。

「では、住む場所を用意しなければいけませんね。それと、働き口も」

 さすがに、泥棒で食べていくわけにはいかなかった。この狭い村では、『呼び屋』に依頼が来るとは思えないし、もしあったとしても、仕事をすれば誰の仕業かすぐにわかってしまう。

「城に住めばいい」ケイが言った。

「いいのか?」

「部屋なら、いくらでもある」

 ひとまず、これで住居の心配は片付いた。

「そうなると、ますます彼の誤解を解く必要がありますね」と、ゼル。

「それについては、少し楽観できるようになりました。早速、風呂屋で友人ができたようです」

「ほお?」

 ゼルとエヌが、ほとんど同時に目を見開いた。どうにも彼女は、猫のくせに人間臭いところがある。やはり、魔法使いの猫は特別なのだろうか。

「ヒックと言う羊飼いだ」ケイが言った。「面白い発想をする男で、私の実験に興味があるらしい」

「北のほうに住んでいると言っていました。ケイの雷のおかげで、今年は牧草がよく育ったそうです」烏は付け加えた。

「なるほど」ゼルは頷き、考え考え呟いた。「実際に、魔法の恩恵を受けている人たちがいるのであれば、話もまとめやすそうですね。そうとなれば、各地区の長に、あらかじめ事情を説明しておくのも良いかもしれません。とは言え、カテリナたちが戻ってくるまで、さほどの時間もない事ですし――」

 ぶつぶつ言うゼルは、これまでの穏やかな老僧とは、まるで別人のように見えた。対局を控えた棋士か、あるいは何事かを企む時のザシャーリにも似ている。

 ゼルは顔を上げて烏を見た。「明日は出掛けるので、留守番を頼めますか。子供たちの相手と、来客があった時に言伝を受けていただきたいのです」

 おそらく、ケイの件について、村の有力者たちに根回しを図るつもりなのだろう。一万人ほどの村でも、政治とは無縁ではないと言うことか。

 烏は承諾し、その日はあてがわれた寝室へ向かうことにした。ケイは、翌朝にまた来ると約束し、魔法で城に戻った。「雷を肥しにする」と言うヒックのアイディアについて、調べたいことがあるのだと言う。

 そうして夜が明け、ゼルは朝食を食べながら、烏にその日のやるべきことを指示し、それが終えるなり、ラバに乗って寺院を出発した。烏は老僧に頼まれたとおり、少し遅れて現れたケイと協力して、仕事に取り掛かった。

 さほど難しいことではない。子供たちに勉強を教え、遊び相手になり、食事を用意する。勘定の仕方や文字の読み書きを教えるのは、烏の仕事になった。知識量で言えば、魔法使いであるケイの方が適任に思えたが、残念なことに彼は、誰かへ自身の知識を伝える技術が、致命的なまでに欠けていた。

 そんなわけで、勉強時間が終わると、ケイとエヌが子供たちの遊び相手を買って出た。子供たちのお気に入りの遊びはボール蹴りで、立派な紳士が猫や子供にまじり、真剣な顔でボールを追い回す様子は、なかなかに興味深かった。

 烏は、と言うと、地べたに座り込み、寺院の壁に背を預けて一休みを決め込む。つい前日まで、兵士に追い回されていたことが、まるで嘘のようにのどかな一日だ。

 ふと、遊びの輪を離れたフェリが、烏の隣に腰を降ろす。

「遊ばないのか?」

 烏がたずねると、フェリは頷いた。もちろん、子供だからと言って、始終遊びまわっていなければならない謂われはない。疲れるだろうし、飽きもするだろう。

 とは言え、烏は彼女たちのように、夢中で遊びに興じた記憶がない。幼いころから師匠のもとで、盗みのあれこれを学び、技術を磨いてきた彼に、そんな暇などなかったからだ。そもそも、彼の周りにいた子供たちも、とっくに何かしらの職を持って働いていたから、子供同士が寄り集まって遊ぶものだと知ったのは、ずいぶん後になってからだった。

「烏、さん」フェリが話しかけて来た。

「なんだ?」

「下着、好きなの?」

 烏はしかめっ面になり、猫からボールを奪おうと奮闘するマリコを睨みつけた。遊びに夢中の彼女は、もちろん烏の視線に気付くことはない。烏はため息を落とし、フェリに目を戻した。

「それは誤解なんだ」

 フェリは頷き、スカートの裾に手を掛けた。「見る?」

「だから、誤解だって言ってるだろ?」

 フェリは不満げに唇を尖らせた。ひょっとして、見せたかったのだろうか。ともかく烏は、おかしな風評が付く前に、あの絹の寝間着について、事情をかいつまんで説明した。

「王様の、贈り物」フェリは目を丸くして言った。「マリコは、お姫様?」

「そうじゃない。あいつはごく普通の家の生まれで――」

 礼堂でルクスに見せられた光景を思い出し、烏はふと言葉を切る。あれは、「ごく普通」などではない。だが、それを説明したところで、フェリには理解できないだろう。

「ともかく、マリコは貴族でも王族でもないんだ。ただ、あの見た目で王様をすっかり夢中にさせてしまったと言うわけでな」

 烏には、ごくあたりまえの女の子にしか見えないが、多くの人たちの目には、マリコが稀有な美少女と映るらしい。それはフェリも、例外ではないだろう。

「そうしたら」フェリは考え考え続けた。「マリコは、王様に、お父さん、お母さん、から、盗まれた?」

「親父は病気か何かで死んで、母親は行方知れずらしい。あいつは、独りぼっちでいるところを、王様に拾われたんだ」

「私、たちと、一緒」

「お前も、親がいないのか?」

 フェリは頷いた。「チェリと、ユタも、そう。私、たち、お父さん、お母さん、が、戦争に行って、死んだ。ヨウヘイ? って、言ってた」

 戦争には金がかかる。そして、戦費の多くは兵士への報奨に充てられるから、傭兵となって戦争に加われば、そこそこの金を得られると言うことだ。その金は銀行を通じて兵士たちの故郷へ送られ、かくして特段に産業のない寒村も、それなりに潤うと言う仕組みになっている。

 おそらく、エランヴィルも例外ではないのであろう。そして、村の入口でイ国の兵士を倒した手並みを見れば、むしろ傭兵こそが、この村の主要産業とも考えられる。

「私、たち、ゼル様が、引き取って、くれた。王様も、同じ?」と、フェリ。

 烏は首を振った。「お前たちは、こうやって好きに外で遊べるだろう? だがマリコは、窓もない部屋に閉じ込められて、長いこと王様の着せ替え人形にされてたんだ。あいつが、それにうんざりして、外へ出たいと言うから、俺たちが王宮から連れ出してやった」

 フェリは束の間、何やら考えてから口を開いた。「マリコを、狙う、悪い人は、王様?」

「そうだ」烏は頷いた。「俺たちは、王様に追われてここへ逃げてきた」

 フェリは、笑顔で駆けまわるマリコをじっと見つめた。「怖く、ない、のかな?」

「わからない」烏は素直に答えた。「我慢しているだけなのか、それとも――」

 またもや、マリコの過去を覗き見たことを思い出す。あの時、彼女に恐怖はなかった。自分を見捨てた母親に対する怒りもなく、あったのは弟を気遣う思いと、彼を守ろうと言う責任感、それを果たせなかった後悔。そして彼女は、あの理不尽な状況を、真っ向から受け止めていた。ただし、それは諦観ではなく、平坦な心緒で、まだどこかに希望があることを、ぎりぎりまで信じていたのだ。

 ふいにフェリが立ち上がり、烏の頭を撫でた。何事かと思って少女を見ると、彼女は袖を引っ張って伸ばし、それで烏の目元を拭った。

「すまん」

 フェリは首を振って、烏の頭を胸に抱いた。束の間があって、胸元に衝撃があった。見ると、胸にしがみつくマリコが、何やらふくれっ面を向けてくる。次いでユタが、そして「私も!」と言ってチェリも抱き着いてきた。

「一体、なんだって言うんだ?」

 子供たちにぎゅうぎゅうと抱きしめられ、烏は誰ともなくたずねた。ケイは、エヌと顔を見合わせてから、「さっぱりわからない」とでも言う風に、肩をすくめて見せただけで、何も言わなかった。

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