猟兵、烏を追う
フツは左手で手綱を繰り、右手一本で構える刀の切っ先を、イゾーテ王へ向けていた。視界の隅には烏とマリコを乗せた馬の尻があり、出来れば彼らの無事を見届けたいところだが、あいにくと目の前の敵は、そんなことに気を割く余裕を与えてはくれなかった。
イゾーテ王は獣のように咆哮し、馬の腹を蹴ると瞬く間に間合いを詰め、激しく剣を振るってフツに襲い掛かった。フツは刀で攻撃をいなし、手綱を繰って反撃に移ろうとするが、王の馬は前脚を振り上げ、後ろ脚を軸に体躯をひねると、巨大な蹄でフツを蹴り飛ばそうとする。フツは転がり落ちるように鞍から飛び降り攻撃をかわすが、代わりに彼の馬は、自分よりも一回り大きな馬体に押しつぶされ横倒しになった。
フツは地面から素早く起き上がり、再び刀を構えた。さすがに手強い――と思う間もなく、王と彼の馬は人馬一体の攻撃を次々と繰り出し、異国の剣士を防戦一方に追い込む。
フツにとって幸いだったのは、他の兵たちが誰一人、主の加勢に入ろうとしないことだった。今はフツも、王の攻撃をしのぐのに手一杯で、とても雑兵の相手などしている余裕はない。おろおろと槍を構えて、その場にとどまる彼らの様子を、尻目に見て警戒するのが精一杯だ。しかし、兵たちの判断は、むしろ賢明と言える。うかつに王とフツの戦いに割り込もうものなら、おそらく彼らは竜巻に頭を突っ込むよりも、ひどい災難に巻き込まれていたことだろう。
その兵士たちの中から、わっと悲鳴があがった。ほどなく隊列の間から、完全武装の騎士が、兵士たちをなぎ倒しながら飛び出してくる。
「フツ殿!」騎士はサムライの窮地を見るなり叫び、左手に盾を掲げ、槍を投げ捨ててから右手を目一杯伸ばし、王とフツの間に割って入る。
王の剣が、騎士の盾を叩くのと、伸ばされた腕をフツが引っ掴んだのは、まったく同時だった。騎士を乗せた馬が王の前を駆け抜けた時には、その尻にフツを乗せていた。
「ダヴィード、助かったわ!」フツは叫んだ。騎士はうなずき、それから左手の盾を見てぶつぶつと何事かをつぶやく。フツが見ると、盾は真ん中あたりで断ち切られ、下半分が無くなっていた。
不意に、王の大音声が響いた。「全軍反転、マリコを追え!」
ダヴィードが思わずと言った様子で手綱を引き、馬を止めて敵陣を向くと、イゾーテ王が馬首を巡らせ、彼の突然の命令を飲み込めずに立つ尽くす兵をなぎ倒しながら、自陣の奥へと走り去って行くところだった。やや遅れて最前列の兵士たちもくるりと背を向け、六千の大部隊は悶える蛇のようにのたくりながら後退を始めた。
「馬鹿な」騎士は言って瞼甲を跳ね上げ、眉間に皺を寄せた。「追い付けるはずがない」
「そうね」フツは頷くが、彼はある意味で、ダヴィードの見込みが間違っていることに気付いていた。フツが退くタイミングを見計らって、その命令を発した理由が、王には確とあったからだ。
後退する敵に引かれるようにフ国勢も前進し、フツたちに合流した。フツが、さっそくザシャーリに見聞きしたことを報告すると、軍師は眉間に皺を寄せてつぶやいた。「厄介ですね」
「むしろ願ったりかなったりじゃないか」カッセン将軍は言った。「目の前に立ちふさがっていた六千が、自分から退いてくれたんだぞ?」
「私たちの目的が、マリコをこの戦場から逃がすことじゃなければ、その通りね」フツは言った。
「あの大部隊が、一騎駆けに追い付けると思ってるのか?」
フツは首を振った。「イゾーテ陛下は、単騎かわずかな共を連れてマリコを追っているはずよ」
「付け加えるなら」と、ザシャーリ。「それは当初から想定していた事態です。ただ、王がそれを邪魔されないために、六千の兵をトカゲの尻尾にするとは思いも及びませんでした」
将軍は片方の眉をぴくりと吊り上げた。「トカゲの尻尾ってやつは、普通なら食い付きやすく誘って来るものだろう。だが、やつらは全力で逃げている」
「それこそが問題なんです。彼らが、その場に踏みとどまってくれていれば、ダヴィードがやったようなことを私たちはもう一度、試すことが出来るでしょう。でも、全力で退く尻尾に対して我々が出来ることは、せいぜい端から一インチずつ叩き切って短くすることだけです」
「その間に陛下は、マリコ様に追い付こうと言う算段か」ダヴィードは言って、小さくうなった。
「結局、俺たちはどうすればいいんだ?」将軍はお手上げだと言わんばかりにたずねた。
「ひとつ手があります。しかし、後ろから千五百が迫っている今は、私たちも全力で前に進むしかありません。せめて前の連中の尻を嫌というほど突ついて、何とかこちらを向いてもらえるように仕向けてみましょう。王の命令がどうあれ、自分たちが危険だと分かれば、身を守るために私たちを返り討ちにしようと足を止めるはずです」
将軍は頷き、部隊に前進の命令を下した。そうして、大きなため息を一つ落とし、誰にともなく言う。「そら。合わせて一万を超える大部隊が、みんなで仲良く追いかけっこを始めたぞ。まったく、こんな馬鹿げた戦を、一体誰が考えたんだ?」
*
グライーム・グウィドル中尉と彼の十二人の部下は、弓による狙撃と騎射を得意とし、また山野をよく駆けた。それと言うのもグウィドル家は、山間の狭い地域に領地を置く男爵家で、娯楽ではなくもっぱら生活のために、頻繁に狩猟を行っていたからだ。その獲物を追い立て仕留める技術で、目覚ましい戦果を挙げるグライーム隊を目に留めた王は、彼らを『猟兵』と呼んで重用した。結果、グライームは小貴族ながら尉官を得るという、イ国においては異例の出世を遂げたのだった。
もちろん、今回も王から直々に出撃を拝命し、戦列に加わることになったわけだが、白状すれば、彼はこの戦の目的が、まったく気に食わなかった。王宮を逃げ出した愛妾をとらえるためだけに、六千もの兵を引っ張り出すとは、いかな王とて国軍を私物化しているとのそしりは免れ得ないだろう。例え、マリコ様の逃亡に、彼のザシャーリが一枚噛んでいたとしても、だ。
ところが、ふたを開けてみれば、そのザシャーリはどこからともなく三千のフ国兵を国内に引き入れ、それとともに進軍を始めたと言うではないか。原因はさておき、真っ当な戦の体をなして来た今を見て、グライームは王とザシャーリが、自分が及びもつかない高みで戦っているのだと思い知るのだった。
もちろん、そうとなれば、王が約束された勝利を放棄し、事実上の撤退を突然に命じて遁走したと言う部下の報告を耳にしても、彼はさほど驚かなかった。グライームはただちに部下たちを引き連れ、薄っぺらい隊列を縫って最後列へと向かった。そこには、下馬して取り巻きと談笑する軍師の姿があった。
「エイヴァーン卿」グライームは軍師に馬を寄せ、おざなりに敬礼を一つくれた。エイヴァーン・ローレンは色白のひょろりとした淡い金髪の男で、まだ年若く、確か三十路をいくらか過ぎたばかりだ。グライームの方が十歳ほど年上だが、彼はグウィドル家など吹けば飛ぶような大家の出身だけあって、その階級も大佐があてられていた。もっとも、階級や役職を身分に対する宝飾品と考える輩が一般的にそうであるように、彼も職責に見合うだけの能力はまるで持ち合わせていなかった。ザシャーリの後釜としては、まったくお粗末な凡人で、彼が重臣の地位に収まっているのは、ただ単に政治的な必要性から王がそうしているに過ぎない。
「なんだ、グライーム。用なら手短にしてくれ」会話を中断され、エイヴァーンは不機嫌そうに応じた。彼の取り巻きの、見目ばかりが愛らしい少年兵たちも、軽蔑を隠さぬ眼差しを向けて来る。しかしグライームは、その反応をさほど気に留めなかった。彼らは獲物を追う際に邪魔となる、やかましい音を立てがちな金属の鎧ではなく、簡素な革鎧を身に着けているせいで、他の兵士よりもみすぼらしく見えることを承知していたからだ。もちろん、一度でも前線に立ったことのある真っ当な兵士たちであれば、『猟兵』に対して、そのような無礼は思い付くことさえしないだろう。
「陛下が後退を命じられた」グライームは言われた通り、手短に用件を告げた。エイヴァーンはぽかんと口を開け、束の間を置いて言った。「馬鹿な」
グライームは肩をすくめた。本来の命令は「マリコを追え」だが、わざわざ教えてやる義理もない。用件を終えた彼は、さっさとその場を後にした。
「よろしいのですか、隊長?」部下の一人が馬を並べてたずねた。「大佐は、あなたの言葉を信じていない様子でしたが」
「放っとけ」グライームは鼻を鳴らして言った。「あの愚図も、じきに理解する」
直後に、背後からエイヴァーンの金切り声が上がった。肩越しに見れば、グライームたちと同じく王の命令を聞いて後退を始めた歩兵たちが押し寄せて、軍師と取り巻きをもみくちゃにしているところだった。グライームは馬の腹を蹴って、混乱する陣から駆け足で距離を取った。
「なるほど」部下は納得した様子で言った。
「陛下は街道沿いに行かれたのだな?」グライームはたずねた。
「はい、隊長」
グライームは顔をしかめた。彼らは今、街道の北側にある草原を駆けているから、街道へ乗るためにはしばらく南寄りに斜行しなければならず、そこからさらに王を追うとなると、相当な負担を馬に強いることになる。「中央に陣取ったのは失敗だったな。まさかフ国の連中が、馬鹿正直に街道を進んで来るとは思わなかった」
「おかげで、戦いそびれましたね」
部下の言葉に、グライームは頷く。もちろん、こうして結果を並べ立ててみれば、それもザシャーリの筋書であることは明白だった。おそらく彼は、まともに戦う気などはなから無く、ただマリコを戦場から逃すことを目的としていたに違いない。彼女を乗せた馬が、追っ手を振り切るために全力で駆けるには、グライームたちが駆けているような背の高い草が覆う草原よりも、平らにならされた街道を走る方が向いているからである。
街道へたどり着いたのは、夕刻も間近に迫った頃だった。彼らは速度を緩め、馬の体力が回復するのを待って再び駆けると言ったことを繰り返しながら、ついに日没を迎えた。薄闇の中で馬を駆けさせる危険を避け、下馬して歩いていると、ほどなく湖岸に灯るたき火を見付け、そちらへ足を向ける。
「遅かったな」たき火のそばに座る鎧の男は、グライームに背を向けたまま短く言った。
「申し訳ございません、陛下」
王は無言で少し離れた場所にある灌木の茂みを指差した。そこに王の馬がつながれているのを見て取り、グライームは遅れてやって来た部下に自分の馬の手綱を預けてから、たき火を挟んで王の前に腰を降ろした。「マリコ様は?」
王は薪を手に取り、それを真っ二つにへし折ってから、一つをたき火の中に放り込んだ。「まだ、尻も見えん。追跡を始めるのに、いささか手間取った」
グライームがいぶかしげに首を傾げると、王は炎に照らさせる顔をにやりとゆがめ、短くなった髭を撫でた。「貴様は、サムライと戦ったことがあるか?」
「ヤ国の剣士ですか。色々と噂は耳にしますが、実際にまみえたことはありません」
「手強いぞ。危うく首を失うところだった」
その代わりに、髭を失ったと言うわけか。グライームは束の間考え、口を開いた。「マリコ様は、お一人で逃げられたのですか?」
「いや」王は首を振った。「烏と言う盗っ人の少年と鞍を分けている。着の身着のままで、旅荷の一つも積んでいなかった。馬の負担を減らし、長距離を一気に駆ける算段だろう」
「そうなると、距離を縮めるのは、いささか骨が折れそうですね」二人乗りとは言え、騎手が女子供で荷も無いとなれば、馬にしてみれば羽毛を乗せているようなものだ。「しかも、街道はこの先で西と南に分かれます。そこまでに追い付けなければ、彼女を見失いかねません」
「その心配はない」
断言する王を、グライームは訝しげに見つめた。
「地図は持っているか?」王が言うと、すぐにグライームの部下が小さく折り畳んだ紙を持って来る。王はそれを受け取り、広げてグライームの言った分岐から、湖岸に沿って南へ向かう街道の線を、薪の先端でたどった。しかし、それは不意に街道を外れ、フ国との国境にほど近い西の山中を指して止まった。「彼らの目指す先はエランヴィルだ」
グライームは首を傾げた。「初めて耳にします」
「まあ、そうだろう」王は頷いた。「かつてはエルノー男爵の治める地だったが、彼の血統は私が生まれる少し前に途絶えている。経済的にも軍事的にも、さほど重要な場所ではなかったから、この五十年ほどの間に、みなからすっかり忘れ去れたのだ」
「しかし、なぜ陛下は、彼らがそこへ向かうとご存知なのですか?」
王はにやりと笑った。「私は王なのだぞ。王の目と耳は、どこにでもあるものだ」
グライームは、ただ頷くしか無かった。
「それで?」王はたずねた。
「正直に申し上げて、我々が馬でマリコ様に追い付くのは難しいと思います。険路であれば馬の良し悪しや乗り手の技量も問われますが、街道のようにならされた道では、それも大きく差し響きはしないからです」おそらくザシャーリは、それも鑑みた上でマリコに街道を行かせたのだ。
「私が聞きたい答えではない」王は剣呑な口調で言った。
「ごもっとも」グライームは言って、すぐに続けた。「そこで、我々は馬を捨てます」
王は訝しげに片方の眉を吊り上げて、グライームを見つめた。
「分岐から半日ほど南へ向かうと、湖にせり出した山が岬を作っています。街道は湖岸をたどっているので、真っ正直にそれを行けば、岬の反対側へ出るのに、さらに半日を要します。しかし、徒歩で山中を突っ切れば、おそらく先回りも望めましょう」
王は頷いた。「なるほど」
「ただし、ハイキングは部下たちに任せ、私と陛下はマリコ様が街道を引き返した場合に備えるために、このまま追跡を続けます」
「部下たちの指揮を執らなくてもよいのか?」
「彼らも獲物の追い方なら心得ています」グライームは肩をすくめた。「それよりも、陛下を供もなく一人で行かせるのは、いささか体裁が悪いように思えます」
「余計な世話だ」王はしかめっ面をして言った。「しかし、ここは貴様の手に乗るとしよう」
グライームは頭を下げた。
「ただし、烏を侮るなよ。あれは、そこらの獣よりもはるかに手強い」王は釘を刺した。
「我々、『猟兵』であっても、後れをとるとお考えですか?」
「いや、そうではない」王は言って、手の中にあった薪を炎に放り込んだ。そのはずみで積みあがった熾きが崩れ、がさりと音を立ててから、赤い火の粉を夜空に舞い上がらせた。「しかし忌々しいことに、やつは私の目の前から二度もマリコを連れ去ったのだ。毛筋の一本ほども油断などしてやるものか」
*
わずかな睡眠を終えて身を起こした烏は、隣で眠る少女に目を落とす。灌木の枝の隙間から差し込む、青白い夜明けの光に照らされた彼女の寝顔は、大抵の子供がそうであるように、どこか間が抜けていた。これを稀代の美少女と言ってありがたがる、みんなの態度は相変わらず理解できないが、少なくとも自分が彼女を好ましく思っているのは間違いなかった。ただし、それは義務的な好意であって、恋愛感情だとか、ましてや性的なものではない。大抵の子供は年長者の庇護と好意を必要としているから、彼はただそれを与えているに過ぎなかった。烏も、そうやって師に育てられたのだから、彼に倣うことは当然であり、なんと言ってもマリコをエランヴィルへ連れて行くことは、自身が請け負った仕事なのだ。好き嫌いを差し挟む余地など、はなからなかった。
烏は灌木の繁みを出て湖へ向かい、冷たい水で顔を洗ってから、弧を描く遠くの湖岸に、かすかなたき火の明かりを見て眉をひそめる。それはすでに昨晩も見つけていたもので、おそらく追っ手のものであろうと見当をつけていた。こっちは月明かりを頼りに深夜まで馬を走らせていたというのに、まもなく夜も明ける今になっても野営を解かないとは、ずいぶんとのんびりしたものだ――と、思わせる算段であろうことは、彼も見抜いている。まだ日は昇り切っていないが、馬を走らせるには十分な明かりがあるのだ。あの野営地の主はとっくに出発し、わざとたき火だけを残していったのだろう。
烏は足早にマリコの元へ戻り、彼女を揺り起こしてから、フツに借りた帯で寝ぼけ眼の少女の身体を背中に括り付けた。マリコはすぐに、すやすやと寝息を立て始める。自分も同じくぐっすり寝られたらいいのにと、少しばかり恨めしく思いながら馬の元へ向かい、短く声をかけてから背に跨がって街道へ戻る。
烏はしばらく常歩で進み、馬にさほどの疲労が見られないことがわかると、速歩に切り替えた。それからしばらく経って、街道は湖面にせり出す山の端に当たり、大きく左へ曲がる。そこから先は道幅が狭まり、荷馬車が二台すれ違うので、やっとと言う具合になった。しかも山に面した右手は法面が作られ、左手には石積みの護岸があって、湖面は七、八フィートほど下に見える。
烏は戦争の素人だが、この地形がザシャーリの作戦において、障害になるであろう事には、すぐに気が付いた。軍師は六千の部隊を出し抜き、その背後を取って援軍を待つと言っていたが、それは援軍の出所となるエランヴィルに近い場所である必要がある。しかし、岬をぐるりと回るこの道は、これまでの道行きと違って街道の外へ広がって歩くことは出来ない。三千の兵隊がここを通り抜けようとすれば、間違いなく大渋滞を引き起こす。団子になって進むも戻るも出来なくなった部隊は、追撃して来る連中にとって格好の餌食となるだろう。果たして、あのにやけ面の軍師は、その危険性に対処する方策を考えているのだろうか――そんなことをつらつら考えていると、マリコが身じろぎした。
「烏」と、少女が言った。
「なんだ?」
「おしっこ」
慌てて馬を止め、帯をほどいてマリコを降ろす。少女はきょろきょろと辺りを見回すが、生憎と身を隠せそうな繁みや岩陰は見当たらない。それと言うのも、ここは岬の突端に近く、あい路はいまだ続いていたからだ。それで何かを思いついたのか、マリコは道の端に立って湖面を見下ろし、烏に目を向けてくる。彼女の考えを読んだ烏は、笑い出しそうになるのをこらえ、生真面目な顔で言った。「いいんじゃないか?」
マリコは意を決したように頷いてから、湖を向いてスカートの裾をまくり上げた。烏は少し迷ってから、くるりと背を向ける。マリコが湖に落っこちないよう見守りたいところではあるが、少女が放尿する姿をじろじろ眺めるのは、あまりにも不行儀と言うものだ。
ほどなく、ちょろちょろと言う水音が立つ。それが止んで、一呼吸おいてから振り向くと、下着を上げようとするマリコの尻が見えた。彼女はスカートの裾を整えながら振り返り、すっきりした顔で言った。「気持ちよかった」
「そうか」
狭くて薄暗くて、臭いトイレに比べれば、広々とした湖に向かって放尿するのは、確かに心地よいことだろう。
「みんなには内緒ね?」
「わかった」烏はしかつめらしくうなずくが、とうとうこらえきれずに吹き出した。マリコはその様子をきょとんと見ていたが、そのうち彼女も一緒になって笑い出す。恐ろしい王様に追われていることは、マリコ自身も重々承知しているはずだが、それでもこんな悪戯を楽しむとは、カテリナが言うように、まったく肝の据わった娘である。
ひとしきり笑ってから、烏はマリコの隣に来て地面に座り込み、腰に下げた袋からビスケットとチーズを取り出した。「せっかく足を止めたんだ。ついでに朝飯にしよう」
マリコはうなずき、腰を降ろして自分の取り分を手にする。ワンの料理に比べると、粗末なことこの上ないメニューだが、少女は文句の一つもこぼさなかった。子供なら、もう少し好き嫌いの一つも言ってもよさそうなものであるが、どうやら彼女には食へのこだわりは無いようだ。ひょっとすると、そこらの虫でも差し出せば、平然と食べてしまうかもしれない。
手早く食事を終え、再び街道を進み始めた二人は、ほどなく岬の突端へたどり着いた。山の端は、そこで急角度に湖面へ落ち込み、その先には磯のような岩場が広がっている。遠くに船影が見え、マリコが「おーい」と言って手を振る。もちろん、その声が届くはずもないが、ひょっとすると見張りの誰かが気付いて手を振り返しているかもしれない。
突端を回り、岬の根元に目をこらせば、漁村と思しい小さな集落が見える。マリコを誘拐する直前に、カテリナから聞いた説明によれば、そこに河口を開く川に沿って西へ向かう枝道があり、それをたどって行き着いた山の麓に、エランヴィルへの登山口があるとのことだ。
ゴールは目前だったが、集落へ着いた時にはもう、夕暮れ時だった。ごちゃごちゃと建つ家は、おそらく二十軒かそこらで、通りにある人影は漁網を担いだ初老の男が一人。烏は下馬し、マリコも降ろして彼女にフードを被せてから、漁師の背中に声を掛けた。「失礼、旦那さん」
漁師は足を止め、黄色く日に焼けた目をぎょろりと烏に向ける。「なんだ?」
「ここらで宿をとりたいのですが、どこへ行けば?」
「あそこの夫婦なら、物置の一つも貸してくれるだろう」漁師は顎をしゃくり、一軒の家を示して言うと、烏に背を向け自分の仕事に戻った。
言われた家へ向かい、扉を叩くと中年の女が顔をのぞかせた。女はにこりともせず、烏をじろじろ眺めてから口を開いた。「なんの用事だい?」
「こんにちは、おかみさん。もし差し支えなければ今夜の宿に、どこか屋根のある場所を貸してはもらえないでしょうか」
女は右手を突き出した。烏はポケットをまさぐり、銅貨を三枚ほど掴み出して女の手の平に落とす。女は受け取った金を数えもせず、ちらちらと背後を警戒しながら、それをポケットに押し込んだ。そうして、烏から見て右手の方を指さす。「そっちに物置がある。鍵は掛かってないから勝手に使いな」
「ありがとうございます、おかみさん」
女は鼻を鳴らしてから、ばたんと扉を閉じた。彼女が指さした方を見ると、隣家との間に片屋根の小さな構造物があった。それは粗末な板張りで、赤く錆びた鉄輪の取っ手が付いた扉が設えられている。マリコは早速その前に立ち、取っ手に手を掛けた。しかし、彼女が押しても引いても扉はびくともしない。烏が手伝おうとしたとき、女が顔を出した方の扉の向こうから怒声が聞こえた。
「だから、あたしゃ一スーだって取っちゃいないって言ってるだろ」
「はっ!」あざ笑うような男の声が続く。「おまえみてえな業突く張りが、金もとらずにそんな親切をするわきゃねえや」
何かが投げ付けられてぶつかる音と、男の悲鳴が響く。
「ろくすっぽ漁にも出やしないで、ぐだぐだ言ってんじゃないよ。この、穀潰しが!」
烏は肩をすくめてから、マリコが格闘する扉に寄って、それを眺めた。蝶番が、すっかり錆びついていた。きっと、長らく使われていないのだろう。マリコに代わって取っ手を掴み、扉を持ち上げるようにして何度か揺すり、引く手に力を込めると、扉はきいきい不快な音を立てながら開いた。
物置の中は狭く、網などの漁具でいっぱいだった。どれも手入れがされた様子もなく、カビと腐った魚のにおいが鼻を突く。馬の鞍に下げていた水袋を担ぎ、取っ手の鉄輪に手綱をぞんざいに括り付けてから、マリコの手を引いて中へ踏み込む。マリコは鼻をつまみ、しかめっ面を烏に向けて無言で抗議した。
扉を閉めても、中はそれほど暗くはならなかった。板壁は隙間だらけで、外の光がそこから差し込んでいたからだ。烏は扉と反対側の壁に歩み寄り、母屋で響く夫婦喧嘩の騒音に合わせて床に近い部分を思い切り蹴りつけた。壁板は腐っていたのか、少し鈍い音を立ててあっさりと割れた。
「そんなことして、怒られない?」マリコが心配そうに言う。
「大丈夫だ」烏は答えながら、割れた場所に手を突っ込んで穴を広げ、外へ這い出す。そこは路地で、どうやらこの物置は、共用の通り道を勝手にふさいで建てたもののようだ。マリコも穴から出てきて、きょろきょろとあたりを見回す。何かを言おうとした少女の口を手でふさぎ、自分の唇に人差し指を当ててから、小さく首を振る。マリコは明らかに事態を飲み込めていない様子だったが、それでもこくりと頷いた。
烏はマリコの口に当てていた手を放し、声をひそめて言った。「見張られている」
マリコはぎょっと目を見開き、両手で自分の口をふさいだ。
「どうやったかは知らないが、追っ手に先回りされたらしい。たぶん、連中は」烏は言葉を切って、肩越しに親指で、物置を示した。「俺たちがこの中にいると思っているはずだ。馬も置いてあるから、しばらくはそれで騙せるだろう。その間に、この村を抜け出してエランヴィルへ向かう」
マリコは頷いた。
「日が落ちたら出発する。ひとまず腹ごしらえだ」
烏は地べたに座り込んで、食料の入った袋を取り出した。マリコも腰を降ろし、二人でぼそぼそしたビスケットと、少しばかり干からびたチーズを食べ、水を飲む。ほどなく辺りが薄暮に包まれ、烏はマリコをフツの帯で背中に括り付け、寄り添うように建つ家々の間をこそこそと駆けた。集落の端にたどり着くと、目の前にはエランヴィルへ続く街道からの枝道と、それを挟んだ向こう側に幅が五〇フィートほどの川がある。左手の下流方向には街道を渡す立派な石造りのアーチ橋が掛かり、そのすぐ先は湖に面する河口だった。右手には河岸を削って作られた池のような泊地が見える。
対岸へ渡りたいが、橋を通るのは避けるべきだろう。追っ手が全員、無人の物置を見張っているとは限らないのだ。烏は泊地に繋がれていた小舟を拝借し、川へと漕ぎ出した。
はじめは流れに逆らうことを覚悟していたが、舟はさほどの苦もなく上流へ向けて進み続けた。それでも川幅が狭くなってくると次第にオールが重くなり、烏はそれ以上進むのをあきらめ、村があった方と反対の岸に舟を寄せた。もちろん、船着き場などなかったから、川面に張り出したヤナギの枝を掴んで、五フィートほどの土手を這い上がるしかなかった。河岸に立ったときは、さしもの烏も肩で大きな息を吐いた。
「大丈夫?」マリコが心配そうにたずねた。
「問題ない」烏は言って、息を整えてから辺りをぐるりと見回す。幸いにも月は、満月ほどではないにせよ、じゅうぶん明るかった。おかげで川のこちら側に、道がないことははっきりしたし、行く手が烏の腰の高さほどもある草が生い茂った草原で、馬も無しに行くのは骨が折れそうだと言うこともわかった。しかし、泣き言を吐くつもりはなかった。そもそも、見張りや待ち伏せの可能性がある道を、真っ正直に歩くつもりは無い。
ところが、やかましい虫の音と草をかき分けながら一時間ほど歩いたところで、烏は小さく舌打ちした。しみのような影を一つ、対岸に捉えたからだ。それは野山に棲む獣のように用心深い動きで、草や川辺の立ち木の間に身を隠しながら、明らかに烏たちを追って来ている。
その追跡者が、もともと漁村で烏たちを見張っていた連中の一人だとすれば、烏は今の今までまったく気付かなかったことになる。一時間以上も彼に気取られず、尾行を続けていたのだとしたら、この追跡者はなかなかの手練れと見るべきだろう。しかし、烏はあえて追っ手の存在を無視した。川を挟んでいる限り、こちらからでは手が出せないし、それは相手も同じだったからだ。
しばらく進むと、川に流れ込む支流に突き当たった。川幅は二〇フィートほどもあり、まずもって飛び越えることは出来ない。合流する部分は深くなっているだろうから、歩いての渡河も無理だ。そうなると、残る手は泳ぐしかないわけだが、マリコを背負っていたのでは、いささか危険を伴う。仕方なく三十分ほど支流をさかのぼり、ようやく歩けそうな浅瀬を見付ける。流れに足を突っ込むと、それはひどく冷たかった。短気を起こして泳いで渡りでもしていたら、秋の夜風も加えてすっかり凍えてしまったに違いない。
支流を渡り終えた烏は、川筋をたどって本流へ戻る。道がない以上、エランヴィルの登山口を見付けるには、それに至る道が沿う、この川沿いを進むしかなかったからだ。しかし、対岸に目をやれば、やはり追跡者の影がちらちらと見える。支流が交わる場所より上流はぐっと水量が減り、ごろごろした石や岩が目立ちはじめていたから、いずれ渡河できる浅瀬に行き当たるのは間違いなかった。そこを渡ろうとするなら、このしつこい追っ手を、どうにかして出し抜かなければならない。そんなわけで、具合のよさそうな浅瀬を見付けても、彼はそれを渡らずあっさりと通り過ぎた。さらに身を隠し、しばらくその浅瀬を見張り続ける。
はたせるかな、獲物を見失った追っ手が、戸惑った様子で姿を現す。革鎧姿の兵士は河岸に立ち、束の間こちらの岸に視線を巡らせてから姿を消した。もし浅瀬を渡って来るようなら、不意をついて殺すつもりでいたが、あの油断のならない追跡者が、そんな間抜けであるはずもなかった。そして烏もまた、間抜けではない。追っ手が立ち去ったからと言って、浅瀬を渡るような真似はせず、そのまま川沿いに歩を進めた。
次第に足下の草丈は短くなり、代わりに背の高い木々が密度を増して行く。地面は緩やかな上り坂に変わり、川面はどんどん遠くなって、ちょっとした谷になった。さらに進むと木々は森になり、前方からどおどおと言う音が響き始める。
ほどなく眼下に、月光を浴びて青白い水しぶきを上げる滝が姿を現した。烏がいる場所から滝までは一〇フィートほど。滝壺までなら、おそらく三〇フィートはあるだろう。
「きれい」耳元でマリコがささやいた。
「寝てなかったのか?」
「音で目が覚めた」
「そうか、ついてたな。こんな景色、見逃すのはもったいない」
「うん」
歩き詰めでくたびれていた烏は束の間の休息を取り、マリコが再び寝息を立て始めたところで再び山の斜面を登り始めた。しばらく進むと谷壁の傾斜が緩やかになり、沢まで楽に降りられるようになった。向こう岸へ渡り、登山道を探し始めてもいい頃合いだった。水面から顔を出す岩を飛び石に使い、一〇フィートほどの沢を横断する。そうして山の斜面に沿って進み続けると、夜もすっかり開けた頃に、とうとうそれらしきものに行き当たった。
漁村を出てから、半日以上。ようやく本来の道へとたどり着いたわけだが、ことはそううまく運ばなかった。烏たちがいる場所から、少しばかり下ったところに、十人あまりの兵士の姿が見えた。一人が烏に気付き、目を見開いて剣を引き抜くなり叫んだ。
「いたぞ、後ろだ!」
烏は兵士たちに背を向け、山道を駆け上り始めた。それと同時に、背後からばらばらと抜剣の音が響く。なぜ、こんなところに――と言う疑問の答えは、ほとんど考える前に浮かんでいた。漁村の見張りも、川沿いの追跡者も、ここへ烏たちを追い込むための勢子だったのだ。追っ手の背後に回り込めたのは、ただの幸運でしかない。わずか高低差一〇フィートの幸運だが、一度つかんだそれを逃すつもりはなかった。
*
エイヴァーンは、下腹を濡らしたまま側で寝息を立てる、裸の少年兵を眺め、今ひとつ満たされぬ欲求を持て余していた。生憎と、寝ている相手とするのは、いささか彼の趣味とは合わないし、かと言って気持ちよく眠っている恋人を揺り起こすのも忍びない。しかし、真夜中近くまでフ国の軍勢から追撃を受け続け、その対応に忙殺されていた身としては、ようやく得られた暇を、睡眠などで埋めるのはどうにも惜しく思えた。
グライームが告げた王の命令は、単なる撤退ではなかった。もちろん、この戦争は、彼の愛妾を取り戻すために始められたものだから、王が彼女を捕らえるために全軍でもって追い掛けろと言う命令を下したとしても、何ら不思議ではない。ところが他の士官たちは、まずは部隊の足を止め、フ国の軍勢を殲滅するのが先だと、入れ替わり立ち替わり意見してきたのだ。その度にエイヴァーンは、王命が絶対であることを丁寧に説明し、王が不在の今は自分が最高指揮官なのだと、彼らに思い出させなければならなかった。
まったく、気疲ればかりがつのる一日だった。しかし、恋人との情熱的な交流は、石頭の士官たちの不遜な態度で傷ついた、彼の繊細な心を癒してくれた。そして、エイヴァーンにはまだ、彼らの『治療』が必要だった。
エイヴァーンは蝋燭を吹き消し、恋人が眠る天幕を抜け出した。他の天幕を覗けば、おそらく一人か二人、いまだ寝付けずにいる恋人を見付けることも出来るだろう。しかし、垂れ幕をくぐってすぐに、一人の少年兵がぽつりと立ち尽くしているのを見とめる。鎧は着ているが兜は被っておらず、冴え冴えとした月の青白い明かりの下に黒っぽく見えるその髪は、おそらく日の光の下では赤く輝いていたことだろう。
「眠れないのかね、可愛い子?」
エイヴァーンが呼び掛けると、少年兵は振り返り、少女のような笑みを浮かべて頷いた。エイヴァーンは渇きにも似た欲望に捕われ、少年兵に歩み寄った。金色のそばかすを散らしたあどけない顔を見て、それが快感にあられもなく歪む様子を想像し、夜着の下で自身が硬くなるのを覚えた。
赤毛の少年は抱擁を求めるように、エイヴァーンの顔に向かって両手を突き出して来る。もちろん、それに応えないわけには行かない。しかし、彼から漂うこの香りはなんだ。香水にしては、いささか金臭いような。
首筋に、何やら熱いもの触れ、ふと右目の視界が暗くなり、次いで右の側頭部に冷たい水が流れるような感覚を覚える。左目だけで見る視界が大きく傾ぎ、エイヴァーンは自分が地面に倒れたのだと気付いた。笑顔で見下ろす少年兵の右手には、赤黒い血に濡れたナイフがあって、エイヴァーンはようやく自分が彼に殺されたのだと理解した。